第3話 不思議な病院
次の日、俺は屋根にあたる雨音で目が覚めた。
きっと隣の家の物置だろう、そのトタン屋根へと流れ落ちる雨の滴が、何とも不規則な音を刻んでいる。
当然いつもより暗い部屋の中を、俺は手探りで目覚まし時計を探した。
(六時二十七分か、何だよ、いつもより三十分も早いじゃないか・・・)
時計の秒針を刻む音が、今日はやけに耳に響く。
(どうしたんだ、朝から割れるように頭が痛いぞ)
と同時に、俺は布団の中でもう一度静かに耳を澄ました。もしやあの声が聞こえては来ないかと思ったからだ。
ところが、不安とは裏腹に聞こえてきたのは母さんの声。
「拓斗、早くしないと学校遅れるわよー」
その声が階段を伝わって、束になって俺の布団を振動させる。
まったく人の身体の都合なんて、
「頭が痛いんだ、今日は休むよ」
これでも全身全霊込めて答えたつもりなのに、返ってくる言葉はいつも決まっている。
「馬鹿は風邪引かないって言うでしょ!」
(それでも親か・・・)
俺は渋々パジャマのまま一階へと降りて行った。
玄関の母さんは出掛ける間際。靴を履きながらテーブルの上を指さす。
「ご飯とおかずはラップしてあるから、ちゃんと食べてね。それから、テーブルの上に保健カードと三千円、ちゃんと病院行くのよ」
俺が返事をする間もなく、玄関のドアーが閉まる。
(母さん・・・)
その通り。うちは母子家庭で、母さんが唯一の
本当言うと、俺もそんな母さんには心配をかけたくない。しかし、今日のそれはいつもとは少し違うようだ。
俺は掌でおでこを触ってみた。どうやら熱はないみたいだ。でも頭の痛みは依然として治まる気配さえ無い。
それから俺は手短かに着替えを済ませると、ジーパンのポケットにカードとお金を鷲掴みに入れた。学校への連絡は後からすれば良い。
家を出た俺は、表通りへと続く路地を今日は左へと曲がった。
(確か、この近くに新しく病院ができたはずだけどなあ・・・)
俺は傘を少し斜めにして、一軒一軒確かめるようにと
「あった、ここだ。平松クリニック?」
独りごとを言いながら、俺はその病院へと入って行った。
(おっ、ラッキー。傘立てには一本も傘が無いじゃないか。と言うことは、俺が朝一番の患者というわけだな)
俺は受付横にある
記憶が正しければ、この病院は確か半年ぐらい前にできたはずだ。その前までは崩れかけそうな倉庫があったような気がするが、こちらの記憶はどうも曖昧である。
なるほどそう見ると、どこもかしこもが真新しい。
院内は天井も壁も木がふんだんに使われている。と言えば聞こえはよいが、病院と言うよりは、むしろ何処かの
それに、普通の病院には定番の大きな額縁に入った油絵がないのだ。
代わりに、古ぼけた掛け軸が三
おまけにその中のひとつには、苦々しい顔をして足を組んだ武将の姿のものもある。お世辞にも、それらが病院に似つかわしいとはとても思えない。
(あれ? でもこの絵、どっかで見たことがあったなあ・・・)
なんてしばらく眺めていると、受付から男性の声がした。
「芹沢さん、診察室へお入り下さい」
「はい」
その声に、俺は思わず返事をしながら振り返る。
はて、声はするけど受付の人の姿が見えない。
まあ、そんなことはどうでも良いのだが、この病院に来てから、俺はまだ誰とも会っていないのだ。
(俺の他に受診に来る人はいないのかよ?)
そんなことを考えていると、今度はまた例の、あの声が聞こえてきた。
(・・・を殺せ、その手で殺せ)
俺はとっさに自分の両耳を
「君?・・・」
(そうだ、その手で殿を殺すのだ・・・)
「大丈夫かい、君?」
耳を押さえてうずくまる俺に、診察室から男が声を掛けてきた。白衣を着ているところを見ると、どうやらこの病院の先生だろう。
「大丈夫かね? 顔が真っ青だが」
手を引かれて診察室へと向かう途中、思わず俺はあの言葉を口にした。
「かんながら たまちはえませ」
その男は一瞬立ち止まったようにも見えたが、また背中を丸めるようにと歩き出す。
(それにしても、随分と大柄な医者だな)
俺は、導かれるその男の背中の大きさに、少しの戸惑いを感じていた。それでも、診察室へと入る頃には、例のあの声はもう聞こえなくなっていた。
「何かのおまじないですか?」
やはり聞こえていたのだろう、それがこの医者の第一声であった。
そして、改めて見るその男の顔は、医者と言うよりもっと野性味豊かな気骨のある顔付きをしている。
落ち着いた雰囲気の中に、何かに対する野心のようなものが伺える。そのギョロリとした眼で見つめられると、何も抵抗できないような威圧感さえあるようだ。
医者がもう一度尋ねる。
「先程の言葉は、何かの呪文ですか?・・・」
「先生には、あの言葉の意味が分かるのですか?」
反対に聞き返す俺に、医者はそれまでにない優しい顔をつくる。
「さて、病気のことならば
そう言いながら、医者はカルテに俺の名前を書き込んだ。
「芹沢拓斗さん、16歳と言うことは高校1年生かな?」
「いえ、2年です」
ぶっきらぼうな答え方に、医者は一瞬ペンを止めた。再びカルテに何か書き込みながら尋ねる。
「それで、何処が悪いのかな?」
(何処が悪いのか?だって、それが分かれば苦労はしないよ。だいいち、それを診察するのがあんたの仕事だろう)
俺は心の中でそう思いつつも、こう答えた。
「今朝から、頭が割れるように痛いんです」
医者はゆっくりとこちらに向き直ると、俺の目をじっと見つめる。左胸にはその男のネームプレートが。『平松』と漢字で書かれている。
(なるほど、と言うことはこの病院、この人が医院長ってわけか)
それともうひとつ、そのポケットには
それはきっと竹製なのだろう、見えるところに薄っすらと節の跡が残っているのが分かる。
「確かに君の言うとおり、診察するのはこの私だな」
その言葉に、俺は背中に冷たい汗が出てくるのを感じた。
「なっ・・・」
「何故かって? そりゃ、君の目を見ればおおよそのことは分かるもんだよ」
俺は開いた口を締めるのも忘れて、ただじっとその医者を見詰める。
医者はその行為をどう受け止めたのか、ポケットからそれを取り出すと、俺の口の中に押しあてた。冷んやりとはしているが、確かに竹の感触が舌の上にと伝わる。
続いてそれに、少しだけ力を入れると、必然的に俺の口はそれまで以上に大きく開けられた。
「
「はあ」
『はい』と返事をしたいところだが、如何せん口を大きく開かれたままではそれも叶わない。
「ところで・・・」
医者は竹篦を俺の口から引き抜くと、
(本当かよ、あれ使い回しなの?)
瞬間、俺はすぐにその竹篦から視線を外した。またしても心の中を読みとられるんじゃないかと思ったからだ。
ところが案の定、医者は胸のそれをタオルで念入りに拭うと、今度は木製の箱に立て掛けた。
再び医者を見つめる俺に、彼は静かに口を開く。
「ところで近頃、変な声を聞くことはありませんか?」
その言葉に俺は、男に聞こえるくらい喉を鳴らした。そのくせ、口の中どころか食道の奥まで、もうカラカラに渇いている。
「なんで、そんなことを聞くんですか?」
俺は心の中で思ったことを、そのまま口にした。
どうせ、何かを隠そうったって、この先生にはすべて読まれてしまうのだ。ならばこちらも本音で向き合った方が利があるというものだ。
医者は、少しだけ表情を崩す。
「いやあ、実は最近そう言う患者さんが多くてね」
それだけ言うと、彼は話題を変えてきた。
「ところで芹沢君、君の特技は何かね?」
「さあ、別に特技なんてありませんよ」
即答する俺に、医者は顔を近付ける。
「そんなはずはありませんよ。君は選ばれた人間なのだから・・・」
「選ばれた?」
再び椅子によりかかると、医者はまたカルテに何やら書き加える。しかし、それっきり、彼は俺と話しを続けることはなかった。
帰り際、その医者は受付の窓口に立っていた。
手渡された紙には診察料が書いてある。薬代も含めると、なんと一万円。
(いくら初診だからといって、そんなに高いはずは無いだろう・・・)
おっと、また心で思ってしまった。
俺はポケットの中でくしゃくしゃになった三千円と、自分の財布から幾らかの小銭を掌に乗せると、それを彼にと見せる。
「すみません、残りは後で必ず持ってきますから・・・」
医者は顔色ひとつ変えることなく、そこから五円玉をひとつ
「ほお、これは面白い。これでけっこう」
「えっ?」
驚く俺に、彼は薬を手渡す。
「多少苦いが、これは効く」
手にした感触からすると、どうやら粉薬のようだ。
(うえー、俺粉薬って苦手なんだよなあ)
「良薬口に苦し、必ず飲むんですよ」
はいはい、すべてお見通しということですね。
帰り際、俺は傘立てからそれを抜くと、何気なくもう一度振り返る。しかし、そこにはもうあの医者の姿はなかった。
それどころか、結局俺はこの病院で他の患者はおろか、あの医者以外の人間についに合うことはなかったのである。
病院を出ると、外はもう雨がすっかり上がっていた。足早に通り過ぎた雲の向こうには、澄んだ青空が覗いている。
温められたアスファルトからは、水蒸気が立ちこめ、それが周りの景色をいっそう鈍らせる。
どこからか、微かに
そう、季節はもうすぐ夏を迎えようとしていた・・・
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