04「しあわせな日曜日」

「先生、マゼルは助かるんでしょうか!」


「君、赤ちゃんは元々基礎体温が高いんだ。今日はちょっと疲れたんじゃないかな。特に風邪を引いたわけでもないから安心なさい」


 俺は最後の秘密資金を使うと一番近場の三ツ森医院にマゼルを運び込んだ。


「お父さん、マゼルちゃんはホントに大丈夫なのっ? ホントにホント?」


「ちろる。本当にこの子は平気だから、少し落ち着きなさい」


 俺はこの年になるまで一度も風邪を引いたことのない超・健康優良児なので、病院関係のことに疎かった。


 また、凄く慌てていたのでスマホも上手く扱えず、ちょうどロインに着信のあった三ツ森に泣きついたところ、なんと彼女の実家は個人病院をやっていたので、これさいわいとばかりに駆け込んだのだった。


 三ツ森先生。三ツ森医院の院長で、三ツ森のご尊父である。五十年配であるこの男は、血相変えて呂律が回らない俺をたやすく御すると、マゼルを診察し、すぐに判断をくだしてくれた。


 先生、アンタ名医だぜ……!


「でも、藤原くん。マゼルちゃんが無事でホントによかったねぇ。あたしもドキドキだったよ」


「お、おう。ありがとな、三ツ森」


 なぜか安っぽいナース服に身を包んだ三ツ森は、ちょっと涙目になりながら目元を指先で拭っていた。


 しかし、この格好。どう見てもドキン・ホーテで売ってる安っぽいコスにしか見えないのだが、ここの経営は大丈夫なのだろうか。


「あ、これ? 通販で買ったんだ、えへへ。かわいいでしょお」


 三ツ森は帽子に赤十字のマークが入ったピンクナース服を指差すと、その場でくるりと回って見せた。


 太ももがばっちり見える超ミニなので、ややもすると危険なシークレットゾーンもちらりと見えそうで不謹慎であるが興奮してしまいます。


「ねえ、藤原くん。あたしのカッコ、変かなぁ?」


 俺が無言だったので、彼女は心配そうに腰を屈め上目遣いで聞いてくる。


「いや、すっごく似合っていると思うぞ。かわいいかわいい」


「えへへ、そっかぁ」


 きゃっきゃっうふふと笑いあっていると、三ツ森先生はカルテをドンと机の上に叩きつけ、親の仇を見るような壮絶極まりない目で睨んできた。


 あまりに強烈な濃い殺意の波動を受け、マゼルを抱いたまま椅子から腰を浮かしかけた。


「あー、で。ちろる。藤原くんはクラスメイトか。で、おまえとは一体どういった関係なんだ?」


「お父さん、そんな怖い顔しちゃダメでしょっ。藤原くん怖がっているよう」


「いや、私はだな。ただ、ちょっと気になっただけで――」


 ふたりがごちちゃごちゃいい合っている間に、俺はその場をそっと離れ、腕のなかですやすや寝息を立てているマゼルをジッと見つめた。


 診察の結果は特に問題ないとのことだった。そもそもマゼルはエロイーズが連れてきたので、母子健康手帳や保険証の話を聞かれてもどうにでもできない。


 あらかじめメールでそのあたりを三ツ森に上手く取り繕ってもらうよう頼んでおいたので、このどさくさに紛れてお暇することにした。


「あー、星が綺麗に見えるなぁ」


 夜空を見上げながら静まり返った住宅街のなかを歩く。資金は完全に尽き果てたので、帰宅は徒歩に頼らざるを得ない。


 とぼとぼと歩いていると、背後からとてとてと近づいてくる足音が聞こえてきた。


「待って、藤原くん、待ってっ」


「三ツ森? なんだ、そんな慌てて。俺、なんか忘れ物したっけか」


 彼女は診療室でしていたコスプレナース服のまま俺の背に追いつくと、息を荒げながら両手をびしっと左右に広げ「せーふっ」と元気よくいった。


「あたしも行きますっ」

「は?」


「やっぱりね、マゼルちゃんのことが心配なんだよ。だから、今日は藤原くんちでお泊りしてマゼルちゃんを看病しちゃいますっ」


 三ツ森は右手を帽子にくっつけ綺麗に敬礼すると、まん丸な瞳で俺を強く見つめた。


「え、いや。というか、そんなん親父さんが許さんだろう……」


「あはは、大丈夫だよう。お父さん、心配性なだけだし。それに、あたしマゼルちゃんのこと本当に心配なんだよう――だめ?」


 くりくりした瞳が潤みがちに俺を射抜いて来る。正直、かわいい子にここまでされて「否」といえる男がこの世にどれほどいようか。


 ここ数日に起きたことのせいで、俺の倫理規範は完全に一部破損していたのだろう。同級生の女の子を家に泊める。それに俺たちはもう子供じゃない。その意味も理解していなかったわけじゃなかったが、ダメだと強く突っぱねるほど聖人の域には達していなかった。


「えへへ、ここが藤原くんのおうちなんだね。お邪魔しまーす」


 三十分後。俺は三ツ森を自宅に招き入れていた。仕方なかろうが。


「あれ、藤原くんのお父さんお母さんはどこかな? ごあいさつをしたいのですけれど」


「ああ、両親なら北海道旅行で家にはいないよ」

「ええっ。あは、そうなんですかー」


 三ツ森はちょっとびっくりした様子を見せたが帰る素振りは微塵も見せなかった。


 なんとなく流れ的に自室に移動することになる。これで、俺の部屋に入ったことのある母以外の女子は三人目だぜ! 今年度の記録更新率の高さに若干胸が打ち震えた。


「ここが藤原くんのお部屋なんだね。あたし、男の子のお部屋に入るのはじめてだから、ちょっと緊張しちゃうなー」


「ずずいっとお入りなせぇ」


 俺の気のせいか三ツ森の頬が幾分赤らんでいるような気がする。


 それにしても、こうしてホイホイ女が引っかかるなんて、俺は人生最大のモテ期に突入しているような気がしてならないぜ。モテモテジゴロの神にでも憑依されたんかな。


「にゅ。ここどこ……?」

「わわっ、マゼルちゃん起きちゃったぁ」


 三ツ森があまりにも騒ぐのでマゼルは目をこしこししながら目覚めてしまった。


 マゼルは自分の顔があまり見慣れない格好の女に覗き込まれているのがわかると、怯えて俺の胸のなかに顔を埋めてきた。


「やん、ふられちったかなぁー」

「とーた、このひとだれ?」


 マゼルは子供にしてはかなり強い力で俺にしがみつきながら問うた。


「らーめん屋さんで会ったお姉さんだよ。三ツ森だ」


「み、みちゅもり?」


「マゼルちゃんマゼルちゃん、あたしはちろるでいいよっ。今日はお泊りに来たんだっ」


「ちろる……」

「そうそう、ちろる」


「三ツ森のことはちろるって呼んでやれ」

「みちゅもり……?」


「あーもおお、藤原くん。あたしのことはちろるって呼んでいいよっ。じゃないと、マゼルちゃんが混乱しちゃうじゃんっ。その代わりあたしもトータくんって呼ぶからさっ」


「あ、そ。じゃお許しが出たんで今後はちろるで統一しよう。マゼル、この女はちろるだ。おまえの世話がしたいとのこのこ俺の家についてきたのだ」


「なんかあたしバカっぽいっ?」

「うー、ちろるはわるいやつ……?」

「いいやつ、いいやつっ」


 ちろるは両手をばっと広げてかもーんとばかりに自分の善良性をアピールしていた。


「おねーさんがおまえのこと抱っこしたいって。行くか?」


 マゼルはちょっとだけ逡巡すると、のそのそとした動きでちろるの胸に移動してゆく。


「うーん。やっぱマゼルちゃんかわいいよう」

「うぎゅっ」

「おい、ちろる。ほどほどにな」


 マゼルは最初いやんいやんと首を振っていたが、そこはやはりまだ赤ちゃんだ。豊満な胸のやわらかさやあたたかみに安心したのかくすぐったそうに身を預け顔をこすりつけている。


 ちろるも念願のプリティエルフを抱っこできたよろこびか、母性本能を強烈に刺激され慈母のような微笑みを満面に湛えていた。


「とにかくちろるも適当に満足したらマゼルを寝かしつけてくれ。あまり興奮させないようにな」


「わかりましたーっ。さ、マゼルちゃん。お姉さんと絵本よもっか」


「絵本?」


「あたし絵本集めるの趣味なんだー。マゼルちゃんに読み聞かせさせたげようと思って、厳選したやつを持ってきましたっ」


「えほん……?」


 ちろるは敷きっぱなしの毛布の上に躊躇なく腹ばいになると、マゼルを隣に据えて持参した絵本を開いた。


 うむ。疑っていたわけではないが、彼女は本当に子供好きなんだなぁ。


 俺は、ごほんとわざとらしく咳払いするとベッドの上に移動して、ちらと視線を送った。


 そうだ。

 そうなのだ!


 ちろるは無防備に腹ばいになって後方を見せているので――見えてしまうのだ。


 魅惑のシークレットゾーン、ゲスにいうとパンチラだっ!


 同級生+ナース服+ショーツ+ニーハイ。なんというご都合主義な展開なんだ。


 神よ、感謝します。


 俺は、別段興味はないよーというふうに、スマホをいじるふりをしてちろるのミニスカの奥を鷹の目のようにすぐれた視力で凝視した。


 ちろるはマゼルに絵本を読んであげることに集中しているので俺にはまったく気が向いていない。


 おまけに、興が乗ってきたのか、うつ伏せのまま脚をぱたぱたやっているので、その効果は絶大的過ぎた。


 ありがとう、ありがとう。


 頼んでもいないのにナースコスしてくれた挙句、無防備におぱんちゅを開放してくれるなんて、彼氏彼女の関係であってもなかなかできないシチュなのに……!


 俺は小一時間ほど、ちらちら見えるちろるのショーツを目蓋の裏に焼きつけると、マゼルが我が家にやってきた幸運を深く噛みしめていた。


 そうやって楽しい時間を過ごしているうちに、夜はドンドン更けてゆく。


 ふと、スマホから顔を上げると、ちろるもマゼルもそろって落ちていた。


 はっきりいって無防備すぎる。泊まると宣言しておいて、こいつがやったことといえば、絵本を順番に読んで寝落ちしただけだ。


 振り返って考えてみると、俺は今日の昼までこいつのことをクラスメイトとして認識すらしていなかったのに、なぜ、こうも安易に男の家に一晩泊まると決断できるのだろうか。


「風邪引くぞ、ったく」


 見ればふたりは健やかな寝息を立て寄り添って眠りこけている。


 これでは少々叩いても起きたりはしないだろう。


 俺は毛布を引っ張り出すと、ふたりにそっとかけてやった。


 そういえばサキュバスさんはどこに行ったんですかねぇ。


 連絡すらきやしねぇ。


 万一に備えて空調にも配慮すると、灯りを落としてベッドに潜り込んだ。


 毛布には昨晩の名残であるエロイーズの香りがふわっとして、落ち着かない気分になる。


 明日は、晴れるといいな。






「おはよー、トータくんっ。朝ですよ!」

「うごっ」


 脳天に突き刺さるような元気な声で無理やり起こされた。


 目を開けるとそこには、淡い色合いのワンピースに着替えたちろるがマゼルを抱っこしてにこにこと微笑んでいた。


「え、あ。なに? もう、朝なの……」


「トータくんはねぼすけですねぇ。朝ごはんができたから呼びに来たんですよ。あとっ、勝手だけどシャワー借りちゃいました。ごめんねっ」


「それは、別に構わないけど」


 ふうわりと爽やかなシャンプーの香りが部屋のなかを漂っている。ちろるの顔を見ると、薄く化粧がしてあることに気づき、ぼやっとしていた脳が急激に覚醒してゆく。


 上半身を起こしかけた状態で頭をがりがりやっていると、抱っこされていたマゼルがちろるの腕のなからするすると器用に降りてベッドによじ登り、俺の頬をたしたしと叩いた。


「とーた、おっきするのっ! あさはごはんたべるっ」


「ああ、そだな。メシでも食うか」


 マゼルの髪に触れると、少しばかり湿り気が残っていた。ちろるを見ると、彼女はいたずらがばれた子供のようにぺろっと桜色の舌を出した。


「マゼルちゃんも元気そうだったからお風呂に入れてあげたんだけど。ダメ、でした?」


「俺としては助かる限りだよ、ありがとう」


「いーよいーよ、そんなのぜんぜんっ。あたしも楽しかったし……」


「ごはんーっ」

「ああ悪かった。すぐ移動しよう」


 マゼルを抱きかかえながら台所に向かう。


 ちろるはなにが楽しいのか、ふんふん鼻歌まで口ずさんでいる。


 なんというか、彼女はどうしてここまで親切にしてくれるのだろうか。


 俺は世間一般に見て、超絶プリンス的な美男子ではないし、そもそもちろるとは学校でも接点がなかったはず。


 こういう世話焼き系の女子から好意的に尽くされる男というものは、なにをおいてもイケメンかそれとも主人公体質的なものを持っていなければならないのに、俺は別段どちらとも当てはまらない。


 マゼルの顔を見る。彼女はなにがうれしいのか、俺の服をぎゅうぎゅう掴みながらひまわりのようにパッと天然自然配合100パーの笑顔を向けてくる。幼児の気持ちはよくわからん。


「こんな感じで朝ごはん用意してみたんだけど……。どうかな?」


「おおっ、こりゃありがたい」


 俺は食卓に並べられたメニューを見ると感動に打ち震えた。


 クラスメイト女子と一晩を過ごしたのちに出る愛情の籠った朝食。


 フレンチトーストに玉子スープ、野菜サラダにゆで玉子と冷たいミルク。


 ちょっと玉子がかぶってしまっているが、これほどつやつやしたフレッシュなものは乙女にしかなせない技、であろう。


「とーた、とってもおいししょうだねっ」


 マゼルが唇を突き出して両手を激しく上下に振った。


「うんうん、ちろるさんに感謝やでぇ。拝んどき」

「そんなぁ、大げさだよぅ」


 とはいえ、彼女も手放しで褒められて満更ではないご様子だ。


 俺たちはゴキゲンな朝食が食べられてしあわせ。ちろるは承認欲求を満たされてしあわせ。


 これぞ、ウィンウィンな関係といえよう。


 ――食うね。これは完食するね。たとえ、この料理が漫画やアニメでお決まりのメシマズ物質体であったとしても破顔しながらぺろりと平らげることができる自信がある。


「うまっ、うまうまっ」

「おいひーねっ」

「そんなふたりとも、がっつかなくてもいいのに」


 実際問題、味も完ぺきだった。溶き卵とバターでこんがりと衣を張られ、適量の糖衣を纏ったパンは、がぶりとやるたびに甘みと油の塩加減が混然一体となって舌の上で踊る。


 追っかけて冷たいミルクで口腔を洗い、しゃきっとしたレタスの爽やかさやスープのほどよい滋味も、俺の澱んだ体内の邪気を浄化するように上手かった。


 しかし、よく考えてみるとマゼルのやつ、すでにひとりでご飯食べられるようになっているんだよなぁ。すごい成長だぜっ。


「マゼルー。ちゃんとひとりでご飯食べられてるじゃんか。偉いねー」


 俺はスプーンとフォークを器用に使ってサラダを口に運ぶマゼルを賛美した。


「えへへ」


 彼女はドレッシングで口元を汚しながらも、照れたように頬をゆるませている。


 ふにゃっていう感じで、とてもかわいらしい。


「えっと、もしかして昨日まで食べさせてあげてたのっ? あたし知らなかったっ」


 まあまあ。別にできたんだからいいじゃん。俺は深く思い悩むことをすでにやめていた。





 

 朝食が終わるとちろるは皿まで綺麗に洗って名残惜しそうに帰って行った。申し訳ない。


 この一晩で、ちろるとマゼルにはかなり深い絆が生まれていたようだ。


 ふたりは抱き合って互いの頬にキスをかわすと、まるで本当の親子のように別れを悲しんだ。


「マゼルちゃん、ママ、また必ず遊びに来るからね。絶対だよ、約束しよ」


「うん。ちろるままのこと、まぜる、まってゆ……」


 マゼルは幼児のくせに、あまり泣き喚いたり愚図ったりしないが、このときばかりはえんえんと大口を開いて泣きまくった。とんだ愁嘆場だ。てか、ママじゃないだろ。


 ちろるはきらきらと輝く朝日のなか、手を振りながら、振り借り振り返りつつ徐々に我が家から遠ざかってゆく。


 さらば、ちろる。

 というか、月曜にはクラスで会うやな。


「ねえねえとーた。まぜる、またちろるままにあえるの?」


「そうだな、会えたらいいな」


 実際問題、なんともいえなかった。こいつを連れてきたエロイーズは音信不通であるし、明日には両親も帰ってくる。


 俺は普通に学生なので、平日は学校に行かなくてはならないし、今の今まで棚上げにしてきた問題に向き合わなければならないときは着実に迫っていた。


 なんとなく感動のシーンである。俺が深く余韻に浸っていると、スマホがちゃらちゃらと軽快な着信音を鳴らす。


 画面表示を見る。そこには俺が登録した記憶のない『あなたのフランシスソワーズちゃん』というふざけきった名前が愉快に踊っていた。


 あいつ、もしやロックを破って勝手にいじくったのか。恐ろしい女だ。


「ねー、とーた。でんわさん、なってりゅよ?」

「おう、そうだな」


 マゼルはもの凄い勢いであらゆる知識を習得しつつある。俺は、このスマホを電話だとただの一度も教えていないのだが、どこからか入ってきた情報を独自に脳が吸い込んだのだろう。


「もしもし」


「トータさんトータさん、なんっでワンコールで出てくんないんですかっ。朝も、なんどもかけたのにいいぃ。私のことなんだと思って――」


 反射的に切った。

 ふうと、ため息を吐く。


「いいの?」

「ああ、いいんだ」


 ふむ、どこかで聞いたような声だが。確かにスマホの着信履歴を見ると、エロイーズからはなんどもかかってきていたようだが、ちょうどちろるとマゼルがシャワーを浴びていて俺が寝入っていた時間なので、気づかなかったらしい。あっはっはっ。


 とか考えていると、再びスマホがちゃんちゃか鳴り出した。


 マゼルが一丁前に「うぜぇ」っていう顔をしたので、それがクラスの女子に俺が話しかけたときと重なり、ずくっと古傷が痛んだ。


 幼くても女なのね、マゼルちゃん。

 俺は断腸の思いで電話に出た。


「もしもし――」

「なんで切るのよおおおっ! ふざけてるのおっ」


 俺はエロイーズのキンキン声に我慢できず、スマホを耳から離した。


 マゼルは口を◇にして目をぱちくりさせている。そりゃこれほどデカい声じゃ丸聞こえだわ。


「おい、犯罪者エロイーズ。とうとう俺からパクった金を返納する気になったか」


「ギクギクッ。なぜそれを? というか、トータさん、私の本名をなぜ……?」


「なーに、ふざけたこといってくれちゃってんの? おまえがいってたエルフ帝国うんぬんって話もぜーんぶ嘘なんだろ。今なら、怒んないから、まるっと白状してみ。ん?」


「ふっふっふっ」

「?」


「ふーっふっふっ」

「……あのな」


「ふぅーはっはっはっはっ! そのとおりです。私がエルフ帝国王女マゼル姫の乳母というのはあなたを欺く仮の姿、しかしてその真実は――」


「バカな女子大生の滝沢エロイーズちゃんだろ。この犯罪者が。とっとと帰ってきて、早く奪った金返さんと学生課に今から乗り込んでひと暴れしてやんぞ」


「あああーっ! らめぇっ。それだけはらめぇっ。なのおおっ。トータさまお許しになって!」


「じゃあ、家に帰って来いよ。結局マゼルはどこの誰の子なんだよ。まさか、おまえの娘とかそういうオチじゃねえだろうな」


「それが、そのう……帰れない事情がありまして、それでお電話したんですう」


「なんでだよ」


「ちょっと飲み食いしすぎちゃって、てへ。電車賃もないのですよ、これが」


 ――その言葉。殺意を自らのなかに押しとどめるのはかなり忍耐が必要だった。


「今、どこにいるんだ」


「公園なんですようー。昨晩はここのベンチでひと晩泣きながら過ごしたんですぅ。お願い、トータぁ迎えにきてぇえっ」


「わかった。迎え行くからバカみたいに泣くんじゃねえや」


 どうしようもない阿呆だった。


「しょうがねえな、マゼル。あのあほんだらサキュバスを迎えに行くぞ」


「……?」


 マゼルはきょとんとした顔で俺の顔を見上げていた。


 いや、これはマジでやばい兆候なのでは、と背中にじっとりとした汗が湧いた。


「で、今、おまえどこにいるんだよ」

「えっとですね――」


 エロイーズは五島市からみっつほど離れた駅のある街の名をいった。


「で、詳しくは」


 続けて詳しい地名を聞こうとしたら、ぶつりと電話が途切れた。


 しばらくすると電話がかかならない旨を通知するガイダンス音声が流れる。ああ、たぶんこりゃバッテリー切れだな。


「マゼル、悪い。下手したら、今日一日探偵をやるハメになるやもしれん」


「ううん。いいよっ。とーたといっしょなら!」


 マゼルは片目をつむってサムズアップした。残

 り資金は、家のなかをさらってさらいつくして、マジで少ないがやるしかにゃあも!


 俺とマゼルは日曜の街を駆け巡りながら必死でエロイーズを探した。気分は刑事だ。


 頭のなかでは太陽にほえろの青春のテーマが鳴り響いている。


 ――お子ちゃまにはわからんだろうがね。


「だから、そんな角の生えた女の子は見たことないよっ」


「買わないなら出ていってくださいませんかね」


「お店間違えてません? うちはコスプレのサービスやってないんで」


「コロッケのことはよく知ってるけど、うちは肉屋だしねぇ。おとうちゃーん?」


 聞き込みは続く。なかなか現代においては人情が薄れているのか、実のある情報を入手することは難しかった。


「あのね、とーた……」

「なんだ?」

「きくひと、ちがってるんじゃないかなぁ」


 マゼルにいわれて気づいた。俺はどうやら、惣菜店を中心に聞き込みをしていたようだ。


 ふふ。あのおばちゃんコロッケくれたしねっ。


「だれをさがしているのか、わかりゃないけど。ちゃんとしないと、だめっ」


 すんません。足元にいた相棒マゼルに厳しいお叱りのお言葉をもらう。


 ……というか、誰を探しているかわかならないけどって、あんまりにも冷たすぎやしませんかねえ。


 俺たちはレンタサイクリングで街の観光名所――じゃなくて、人が多そうなところに移動したり、ときには屋台のケバブやアイスを買って半分こしたり、路地裏で野犬や猫と格闘したりして、最後にはとうとう有力な情報を入手した。


「なんだって、おやっさん! この先に角のあるSM嬢みたいなのを見かけたって?」


「いや、僕おやっさんじゃないけどさ。お兄さんのいうとおりの人がベンチにずっと座ってるから……。なんかお酒の飲んでたみたいだけど」


 野球帰りの小学生に「ありがとう」と元気よく礼をいい、これが最後のチャンスなのではと、最後の希望を胸に教えられた公園に向かった。


 それはなんの変哲もないありふれた公園だった。


 真っ赤に焼けただれた夕日をバックに、子供の手を引く母親が夕飯のメニューを語り合っていた。


 くうう、なんで夕暮れどきの公園ってこうまで胸に染みるんだろうなぁ。


 とか、思いつつマゼルの手を引いてなかに入ると――そいつはいた。


 声をかけようとして、一瞬立ちすくんだ。


 ベンチでしょんぼり膝を抱えているエロイーズの姿は、まるで親が迎えに来るのを待ちくたびれた小さな子のように、深く近寄りがたい陰があった。


 うっ、ビールの缶が。


 見れば彼女の足元には、幾本もの空き缶が転がっていた。


 一瞬だけ、彼女からなにかこう、ヒロイン的オーラを感じたような気がしたのだが、なにもかも気のせいだったよ!


 ちゅーか酒買う金合ったら、なんで電車賃がないとか嘘つくかな、こいつ。


 俺はマゼルを置いてきぼりにして大股でつかつかと歩み寄り、膝小僧に顔を埋めているエロイーズを一目見ようと額に青筋を立てつつ腕を伸ばす――。


「来て、くれたんだぁ」


 ふと、彼女と視線がかち合った。

 エロイーズの瞳。酔ってなどはいなかった。


 泣き腫らしたのか、目元が赤く染まっている。

 違う。こいつは俺の知っているあれではない。


 彼女は初見のときと同じような神秘に包まれた角を微妙にくいくいと動かし、みるみるうちに涙を盛り上げさせ、わっと泣きながら抱きついてきた。


 当然準備などしていなかった俺はすってんころりんと背後にひっくり返って固い赤土に頭をこれでもかというほどぶつけた。


「なにを――おまえ!」

「だって、もう来てくれないかと――」


 くしゃくしゃになった表情を見たら、もう、なにもいえなくなっていた。


 いいたいことは山ほどあった。

 勝手に人の生活に入り込んできて――。

 マゼルを無思慮にも置き捨てにして――。

 人の財布から金を根こそぎ抜いて――。


 さんざん探し回らせた結果、このていたらくだ――。


 俺はハッキリいって人さまの感情の機微には無頓着なほうだ。


 だから、この年になっても彼女のひとりもできないし、女の気持ちなんぞは一生理解できないだろう。


 なにかいやなことがあったのだろうか。散々振り回された癖に、目の前の女に対して妙に酷薄になれない自分に気づき、自嘲が漏れた。


 でも、嫌なことばかりあったわけじゃない。


 マゼルのやつは我がままだしお漏らしするし、ここ数日で嫌ってほど金を使わされ、こっちは素寒貧だが、あろうことか損をしたという気分にならないのだ。


 そのくらい、この金土日と充実していた。そのことに関しては、エロイーズに感謝している。


「迎えに行くっていったろ? おまえにはまだ貸しがあるんだからな」


 マゼルにやるように、エロイーズの背をゆっくりとさすってやった。


 彼女は「ふぇふぇ」などとかなり間抜けにしゃくり上げながらようやく顔を上げた。


 今更ながら確認しなくてもとんでもない美人であるが、俺にはどこか、彼女の泣き顔がマゼルと重なって見えた気がした。


「トータしゃん、私のこと、許してくれるんですか……」


 俺はふわりと笑うと無言でエロイーズの頭をそっと撫でた。


 彼女は許されたと思ったのか、泣き笑いの表情で鼻を啜っている。


 勘違いしてほしくないが、許すとはひとこともいってねぇぞ。


 今の笑みはキッチリ取り立ててやるという決意の表れなのだが――まあいいか。


「帰るぞ、俺たちの家に」

「は――はいっ」


 エロイーズは目元を手のひらでこすりながら、ぴとっと身体を寄せてくる。


 おいおい、そんなにくっついたら歩きにくいだろうが。とか、考えていると、入り口で待っていたマゼルがとことこと歩み寄ってきた。


「――マゼル、もう歩けるようになったんですねっ。凄いですっ!」


 エロイーズは純粋にびっくりしたのか、両手を広げて抱え上げようと寄っていくが、寸前のところでマゼルが身をかわした。


「……だれにゃの?」

「んかっ」


 ぱかっと口を開けたサキュバスさんから奇妙な声が漏れた。


 エロイーズは唇をわななかせると、両手を広げた格好でその場に凍りつき、顔を紅潮させた。


 うん。これはちょっと。

 でも、やっぱ自業自得かな、と思う。


 マゼルは、二日くらいでエロイーズの存在を完全に忘れ去っていたようだった。


 笑えるぞぉ。







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