05「遠くて近き我が愛を見よ」

「ほら、特別サービスのコーヒーだ。喫茶藤原、本日に限り緊急開店だ」


「トータさん、ありがとうごじゃいますぅ」


 俺はエロイーズを自宅に回収すると、とりあえず彼女の心を落ち着かせるため、甘めのコーヒーミルク多めを与えた。


 実は俺、豆から選ぶ結構なコーヒー党なのだぜ。誰も聞いてねぇか。


 ボーダーラインを超えまくっていたサキュバスちゃんは、未だ赤い目をしながらごきゅごきゅとカラメル色のコーヒーを啜り込んでいく。いいのみっぷりだね。


 でも俺から奪った金のことは忘れねぇぞ。


 エロイーズは俺の広大無辺な慈悲に打たれて、えぐっえぐっとしゃくり上げている。


 俺はお釈迦さまのような無限に広がる愛を瞳に湛え、か弱き女を見守る。


 そんなエロイーズを悲しそうな目で見つめるマゼルは、彼女の膝の上に乗ったまま目元をティッシュで拭ってあげている。


 くうっ、この誰が教えたわけでもないやさしさが染みるね。


「なかないで、なかないでねぇ」


「ううっ、ありがとうですね、マゼル。あなたも見ないうちに立派になって……。って、えっ、もう喋ってますよっ。この子? って、デカい!」


 それは薄々気づいていたことだが本筋には関係ないので流す。たぶん、飯を腹いっぱい与えたからだよ。成長が早いのは。


「おまえが驚いてどーすんだよ。で?」


 エロイーズは、脚をぴったり閉じたままコーヒーをずずっと啜ると「なにをいってるの?」という無垢なる童女ふうな目で俺を見ながら小首をかしげた。くっ、かわいいじゃねぇか。


 ――じゃなくて。


「実際のところはどーなんだよ。腹を割って話そうぜ。エロイーズ、おまえはマゼルをどこから連れてきたんだ?」


 エロイーズはがくりとうなだれ犯行を自供した。


 ではなく、本当のことを話す気になったようだった。


 これも俺のやさしさと切なさと心強さの合わさった説得のおかげだ。異論は認めない。


「実は――その子、私が異世界から召喚したんです」


 ちょっと斧でこいつの頭をカチ割りたくなったね。


 あろうことか異世界、異世界だと――?


 半ば信じそうになりながらも理性が頑強に否定する。あってはなりません、と。


「おまえ、いくつになった。女子大生さんよ。そんなファンタジーなもん信じられるわけねぇだろが」


「トータさん、私たちの存在を真っ向から否定していますね」


 エロイーズはしらっとした顔になると、膝の上のマゼルを抱き上げ、ぐいと押しつけてくる。


 普通の人間にはあるはずのない、彼女たちの角と長耳。


 ああ、そういえばこいつらサキュバスとエルフだっけ。――そういうのもあるのか。


「ってか召喚? ななな、そんなバカげたことがこの日本国で当然のように行われていたというんかっ!」


 俺は目をカッと見開き歌舞伎の見得を切って左右の手を上と真向かいに突き出し、顔をぐるぐると回して見せた。


 マゼルがきゃっきゃっと手を叩いてよろこぶ。うし、幼女の心は俺のものだ。


「ちょっとトータさんいまさら驚きすぎですよ。そもそも私たちそのものが規格外なのですが……。まあ、いいです。話しますよ。話さざるをえないみたいですからね」


 彼女は長い舌で唇をぺろりと湿すと、ゆっくりと語り出した。


 滝沢エロイーズは地方のある寒村に生まれた。


 彼女の生家は、いわゆる限界集落というものに近かった。


「嘘ですよ。そこまでド田舎じゃありません」


 うるさいな……。


 とにかく彼女は、あまりに生活がしづらくてテレビも国営放送くらいしか入らない、日本のチベットで生を受けた。


「チベットじゃないですよ」


 彼女は生粋のサキュバスではないらしい。いわゆるハーフサキュバスである。


「あ、父がイタリア人で母が日本人です」


 って、そっちのハーフなのかよっ。

 紛らわしいだろっ。


 彼女は名前の奇抜さもさることながら、純粋なサキュバスである母の薫陶を幼いころから受け育ったので頭のネジが二三本はずれていた。


 エロイーズは母の命令でサキュバスの正装、すなわちボンテージファッション一択で地元の小中学校に登校し、思い出すも無残な学校生活を過ごした。


 本名に「エロ」という、いかにもませたクソガキが囃し立てるのに絶好なワードが入っている上、普段も革製品で身を固めたものッ凄い格好だ。


 これで子供たちの餌食にならないほうがおかしかった。


 彼女の母はよく学校の教師に娘の服装を咎められると「宗教的なものなので」といって追い返していたらしい。


 のちに、彼女の両親はこのことが原因で離婚に至る。


 革製品はエロイーズにとってトラウマとともにすでに生活の一部であった。


 そんな彼女も年頃になると村外の高校に進学を希望した。


 理由は無論、今までの自分からの脱却である。


 隣町の高校に入学するとなれば、当然のことながら寮生活を送らなければならなかった。


 しかし、彼女はこれから送る生活の不安よりも、サキュバスの伝統に縛られた母親の元から離れられるよろこびで満ちあふれていた。


 エロイーズはここでまずまずしあわせな高校生活を過ごす。


 それなりに友達もできたが、そこは田舎の常。ろくな就職先は役場か農協か嫁入りくらいしかない。


 これでは自分の人生で自由だったのは高校の三年間しかなかったことになる。


 実家に戻ればもはやサキュバス教徒と化した母親から時代遅れの伝統を念仏のように毎日耳元でささやかれ、早晩発狂するだろう。


 そう考えた彼女は、大学に進学することを決意した。


 そしてその巌のような固い意志は貫かれ、故郷よりはるか離れた街で新たな人生をスタートできることとなった。


 ここまでは順調すぎるほど順調だった。


 すべてのほころびが生まれるのは、学部の一年を集めての新歓コンパである。


 ここで彼女はあり得ない失策を犯してしまう。


 エロイーズは早く皆と馴染みたいばかりに、ネタに走って、封印されていたあのボンテージファッションに身を包みコンパに出席してしまったのだ。


 浅薄な知見によれば、これは受けたと見ることができた。


 エロイーズの整ったボディにぴっちぴっちのコスチュームは、その場に居合わせた男子学生全てを虜にし、彼女は一日でメアドを三桁取得するという鬼畜的所業に成功する。


 これがいけなかったのか。


 彼女は、一夜にしてすべての女子学生の妬みを買った。


 夏を迎える前に、キャンパスから足が遠のくほど彼女たちからトラウマを植えつけられることとなった。


 ここまで聞いていた俺はかなり後悔していた。


 だってエロイーズの目が完全に死んでるんだもん。


 話が長すぎたせいかマゼルはこっくりこっくり船を漕いでいるし、気のせいかエロイーズの身体からしゅるしゅると真っ黒なオーラが噴き出している。


 そんなわけで、半ばセミの抜け殻のようにアパートの一室で過ごしていた彼女は、半ひきこもり状態になり、会話をするのはお弁当屋さんのおばちゃんだけになってしまったらしい。


 ――どうして、私がこんな目に。


 ――私はただ、みんなと仲よくなりたかっただけに。


 日々あふれる、抱いていた未来と百八十度違う闇の世界。


 ――そうだ。こんな私を受け入れてくれない世界なんて……滅んでしまえばいいのだ。


 おい、やめろ。


 思いつめた彼女は凶行に出る。


 エロイーズは実家から持ち出したサキュバス族の禁書である召喚事典を紐解き、あまり説明も読まずに投げやりな魔術を行使した。


 彼女の間違った情熱は、気の遠くなる月日を費やされ――。


「そして、先々週呼び出されたのがこちらです」


 エロイーズはソファにもたれてすうすう寝ているマゼルを手のひらで指し示した。


 俺は首をがっくり落とすと、長く息を吐き出して落胆を露わにした。


「やっぱエルフ帝国っていうのは嘘だったのね」


「そんなものどこにあるというんですか。そろそろトータさんも大人になってくださいよ」


 おまえこそ現実と向き合えよ。


「あのオークさんたちは……?」


 それもエキストラとかいうんじゃないだろうな。


「あ、私、召喚術で魔王を呼び出すためにずっとアパートに籠っていましたので。その間の生活費とか活動資金とか、たくさん知り合いのサキュバスから借りちゃったので、ちょっと返せなくて……」


「魔王呼び出すつもりだったのかよ! おまえの心の闇、どんだけ深いの?」


「そしたら、とりたてに金貸しのやつらあんなのを異世界から呼び出してきやがったんですよう。卑怯過ぎません? こんなかわいい女の子相手にムキになるなんて、酷くない?」


 酷いのはおまえの頭の中身だ。


「で、昨日から姿を消した理由は?」


「その、子育てのストレスではっちゃけてみたかったんですけど、やっぱひとりで飲みに行っても面白くないですね。今度、トータさんがつき合ってくれるとうれしいなって……」


 このサキュバス、両手で頬を押さえながら、「きゃっ、いっちゃった!」とかひとりで叫び、あろうことか、その先の展開まで妄想し小芝居をはじめやがった。


 ダメだ、なんとかしないと。


「じゃあ、マゼルの名前とかは」


「名前がないのって呼びかけるとき不便でしょ。だから適当につけちゃいましたよっ。えへ。私って、ネーミングセンスありありですかね」


「通りで俺に話しかけてきたのは?」


「え、それは単に順番で……。基本。お忙しいのかみなさん無視されるんで。それに、いつでしたっけ、トータさん駅前で新興宗教のシスターさんからパンフ貰ってたじゃないですか。超エロ目線で。これなら、私が頼み込めば一発かなー、なんて」


 エロイーズはむふっと笑うと「たらりらー」と気の抜ける鼻歌を口ずさみながら長い脚をソファの上で俺に見せつけるように伸ばし出した。


 くっ、卑怯な。あらかじめそんなリサーチを行っていたなんて。


 つーか、こいつ最初は薦被りじゃなかったか。リサーチ微塵も生かせてないな


「ま、事情はわかった。とりあえず、明日マゼルを元の世界に送り返そうな」


「――え?」


 エロイーズは超ミニのスカートの裾をまくりあげる動作をピタリと止めると真顔になった。


 なに……? 俺が間違ってる感じなの、今の発言。


 違うよね、至極真っ当な意見だよね。


「ひどっ、酷いですよトータさんっ。私たちの愛の結晶を捨てるだなんてっ!」


「誰が誰と誰の愛の結晶だと? それに子供なんてものは親の性欲発露の結果でしかない」


「むうっ。私は、私はなにがあってもこの子を捨てませんからねッ」


 エロイーズは寝ているマゼルを強引に抱き上げると豊かな胸でかばうように隠す。


 てか、思いきりネグレクトしていたおまえにそんなこという権利ないと思うわ。


 寝ぼけまなこのマゼルはうとうとしながらも、本能で母親を求めていたのだろうか、エロイーズにしがみつくとふわふわ楽しそうな笑顔を浮かべている。


 別に俺だって鬼じゃないし、マゼルが嫌いなわけじゃない。


 許されるなら。


 ずっとこのまま、いっしょに我が家で過ごし、なんなら俺が大学進学をやめて育てていってもいいと思ってしまうほどこの子に情は移ってしまった。


 けど――。


「こいつにだって本当の親がいるはずだろう。異世界できっと探してるよ」


 俺がおまえを探したように。


「それをいわれると善性の化身である私の良心が疼きます」


 エロイーズの戯言はともかく、表情は悲しみに染まっていた。


 意外と素直に聞き分けてくれたことに驚きつつ彼女に見入った。


 ハーフというだけあって彼女の顔立ちは日本人離れしたものであったが、マゼルを見つめる眼差しだけは全人類の母親共通のやわらかなものだ。


「ねえ、トータさん。ひとつだけお願いがあって……。聞いていただけます?」


「おう」


「今夜は三人で仲よく、川の字になって寝ませんか。本当の親子みたいに」


「おうっ」


 エロイーズは、女王さまのような恰好からは想像もしえぬやさしい手つきでマゼルを抱きながら二階に向かってゆく。


 そのあとをハーメルンの笛吹きに連れられる街の子供のようにすたすたと無言で追ってゆく。


 エロイーズがすうすうと寝息を立てているマゼルをベッドに横たえる。


 それを俺はあたたかい目で見つめる。


 エロイーズが着替えようと上着に指をかけ、はたと俺の存在に気づく。


 それを俺はあたたかい目で見つめる。


「……着替えるんで、出ていってください」

「おうっ……」


 俺はあたたかい眼差しを送りながら自室を出ると、笑顔のまま扉をぱたんと閉じた。







 ちなみに一晩同衾したが期待していたことはなにひとつ起こらなかったよ!


 ちくしょう。物語は大詰めなんだから、ここいらでCG大回収しとかないとまずいんじゃないですかねぇ。


 濡れ場を求めてんだよ、濡れ場を!


 さらにいうとエロイーズの寝相は悪く、五回ほどベッドから叩き落された。


 業界ではご褒美でも俺には必要ないものだぞ、これ。 


 美少女サキュバスと一夜をともにするという、何千回転生を繰り返しても発生しないだろうイベントを有効活用できずに空費し、朝を迎えた。


 憂鬱な月曜日である。


 学生や勤め人は、そろって死人の列をなし、あるべき場所へ収まりに行く作業が再開されたのだ。


 まず第一に、この年になって誰かと一緒に寝るという行為は、非モテ学生代表である俺にとっては非日常的なものと分類される。


「うおわっ!」


 起床して意味がわからなかった。


 腹の部分に圧迫感を覚えると、セミの幼虫のような恰好で幼女がぎゅっと掴まっているのだ。


 驚かないほうがおかしい。一瞬だけ、夢の続きを見ているような思いがしたが、次の瞬間、長い髪をかき上げながら、毛布から出てきた女を見て現実に引き戻された。


「うるさいですねぇ。朝から騒ぐと、近所迷惑ですよぉ」


 寝乱れた長い髪が彼女の白い首筋にかかり、ふわりと女性特有の甘いような体臭があたりに漂っている。エロイーズだ。そうだ、幻想はまだ終わっていない。今日、すべてに決着がつく。


「おはようごじゃいます、トータしゃん」


 今度は声も出なかった。エロイーズは夜着のまま寝乱れた格好を直さず、抱きついてきた。


 頭のなかがやわらかさとぬくみとでパニックになる。


 ハグだ。ただのあいさつなんだよ、これは。


 自分で自分にいい聞かせている間にエロイーズは頬をすりすりと寄せてきて、夢うつつのままちゅっちゅっとキスの雨を顔じゅうに降らしてきた。


 このときばかりは生きててよかったと思った。むろん、マイサンもカッチカチやでェ!


「ほら、娘よ。パパがご出勤ですよ。いってらっしゃいしなさいです」


「とーた、いってらっちゃい……」

「お、おう。行ってきます」


 俺はエロイーズが作ってくれた弁当を鞄に詰め込むと、玄関口で夫婦のように見送られて家を出た。


 パジャマの上にストールを羽織ったエロイーズが、マゼルを抱っこしながらあくびを噛み殺している。これから二度寝するそうだ。別にいいけどね。


 てか、いつもはこんな早くに家を出たりしないんだけど。まだ、七時前だよ。


 遠ざかる我が家の前では、ふたりがいつまでも手を振っている影が見えた。


 街は珍しく、乳色の霧で幻想的にけぶっていた。


 通いなれた道を歩き、なんの波乱もなく学校についた。校庭では朝練に励む運動部の連中がわっしょわっしょい青春を謳歌している。


「お、藤原。珍しく早いな! なんかの用事か?」


 いや、なんとなくだよ、と野球部のクラスメイトにいったら怪訝そうな顔をされた。


 てか、あいつ誰だっけ? 

 名前、思い出せねぇな。


「藤原が早起きなんて、今日は雨が降るな」


 んなに驚くなよ。流れで家を出なけりゃもうちょっとゆっくりしたかったのに。


 俺はまだ誰もいないクラスの自席につくと、コンビニで買った紙パックの牛乳を吸い吸い、帰ってからのことを思った。


 マゼルは今日の放課後エロイーズの召喚魔術によって元の異世界へと送り返す。


 悲しいけど、それが一番正しい選択だと俺は思う。


 両親が旅行から帰ってくるのは夜遅くなので、それまでにはなにもかも終わっているだろう。


 自分でいいだしたことなのに、少し辛かった。


 俺は誰もいない教室にひとり座って、マゼルと会った日から今日までのことを思い浮かべた。


 言葉もろくすっぽ喋れなかったマゼル。それとエロイーズたんのおっぱい。


 濡れたおむつを替えてあげるとよろこんだマゼル。それとエロイーズたんのお尻。


 はじめてお出かけした公園ではしゃぐマゼル。それとセクシーな人妻さんたち。


 体調を崩して医者に駆け込んだときの赤い顔をしたマゼル。それとちろるの純白ニーハイ。


 ……若干、エラーがあちこちに混じっている気がするが、なにもかも気のせいだろう。


 不思議な彼女たちとの交流もこれでおしまいだと思うと、切なさがフルスロットルだぜ。


 ああん、僕ちゃん泣きそう。


「トータくん? おはよう、昨日ぶりだね……どうしたの?」


 うつむいていると、そこには天使がいた。というか同級生の三ツ森ちろるである。


 ナース服を着ていないが俺にはすぐ判別できたぜ。


「って、あたしってあれ着てないと区別できない子なんだっ!」


 ハッと我に気づくとすでにほとんどの生徒が登校してあちこちでぺちゃらくちゃら喋りマクリスティーである。いってて意味がわからないが。


「ねえ、どうしたの? なにか元気ないね。もしかして、マゼルちゃんになにかあったのかな」


「実は――」


 俺はちろるに向かって顔を近づけ密談の形をとった。


「なになに? ナイショ話かなぁ。どきどき」


 ……ふわぁっ。この子いいニオイするよう。


 じゃなく、て。

 ううむ、わかるぜ。


 周囲からギョッとした激しい視線を感じ背筋をぶるっとさせる。


 なぜなら三ツ森ちろるという存在はクラスのなかでも上位カーストに位置し、いわゆる「変態枠」である俺の立ち位置とは決してまじわることのない、空と大地の仮想境界線のようなものだからだ。


 現に今でも周囲の女子からは、


「ちろるっ。藤原なんかと喋ると妊娠するよっ」

 とか、


「あれだけ不用意に近寄っちゃダメっていったのに……!」

 とか、


「脅されたんか? 脅されてるんか?」


 とかのいわれもないバリゾーゴン。

 うむ、こう書くと怪獣っぽいな。


 もとい罵詈雑言を一身に浴びるハメとなっていた。


 女子のみなさん、もっとワイに気軽に話しかけてもええんやで。


「おい、三ツ森さんや。ワイらエライみんなに注目されてるやんけ。緊張しちゃう」


「あは。気にしない気にしない。みんなクラスメイトだよっ」


 俺はその属性に招き入れられてないみたいなんだが、まぁいいか。


「実はな、マゼルのやつ転校するってよ」


「え、嘘……! マゼルちゃん、エルフ帝国に帰っちゃうの?」


 あ、まだその設定信じてる方がおりましたね。エロイーズよ。罪深い子。


「そうじゃなくてだな……まあ、そんな感じな感じなんだ。ちなみにもう帰った。お別れできなくて残念だったな」


「ええっ! じゃあ、昨日のうちにもう……酷いよ、トータくん。ひとこといってくれれば」


 うん。けど、まだ家にいるっていえばちろるの性格だ。必ず会いたいっていうだろうし、そうすると別れが辛くなるもんね……って、おい! なんで泣き出すの?


「あれ……? あれ、嘘。あはは、やだな」


 ちろるは話しているうちに感極まったのか、ぽろぽろと両目から涙を流しつつ、不意に顔を伏せた。そんなに仲よくなってたのか。悪かったかな。


 これを見ていた白岡やそのほかの女生徒のみなさん。


 大挙してやってくると俺を囲んでいっせいに締め上げた。く、くるちぃです。


「あんたっ。ちろるになにをいった!」


 白岡さんは元々友だち思いなのだろう。真っ赤な顔して俺の襟元をグイグイ締め上げると、あろうことか、とんでもない馬力で「高い高い」を敢行してくれた。


 やめてくれよ、これじゃアンタ昔のヤンキー漫画に出てくる怪力キャラだよ!


「ちがっ、ひまちゃんやめて……。トータくん、悪くないよ……」


「いつの間に名前呼びっ? 藤原、ついにこの子に手ぇ出したわね! 早すぎでしょ? あんたホントは、そんなに悪いやつだと思っていなかったのに――」


 とんだ愁嘆場だ。今後の周囲が俺を見る目が怖いぜ。


 白岡さん、あんたの彼氏の神崎くん青い顔でぷるぷる震えてるぜぇ。


 一方、男たちは口々に「やったな藤原!」とか「すっげー早業、いつの間に?」と声高に叫び教室は恐慌状態にシフトしていく。もう知らんもんね。


 いつの間にやら、俺がちろるを落とし速攻で捨てたという現実とはかけ離れた「偉業」がすくすくと育まれていることに恐怖を感じるが、そろそろ離してくれませんかねぇ白岡さま。


 このあと俺とちろるは担任に呼び出されこってりと絞られたが、教室に戻ったあとはなぜかよりを戻したというまことしやかなストーリーが生まれ、なぜかみなから祝福された。


「やだなぁ、もぉ、みんなぁ。――ありがとうねっ」


 なぜかちろるは涙ぐみ目元を指先で払いつつ、腕にぎゅっと抱きついてきた。


 ノリがよすぎんぞ、おい。


 昼休憩時。俺とちろるは人気のない中庭にあるベンチに座って食事をしていた。


 てか、学校でおにゃのことふたりきり。そして飯を食うなんて機会ただの一度もなかったからな。どきどきしてしまうのも致し方ないだろう。異論は許さん。


「ごめんね、あたしって思い込みが激しくって……。それに昨日ネバーエンディング・ストーリー見てたからかぶっちゃって」


「随分渋いもん見てたんだなっ!」


 あれは、物語と現実がごっちゃになる少年のお話だったような気が。


 俺も虚無にとらわれているんですかねぇ?


 長々と深い思いに沈んでいると、小さなお弁当を食べ終えた彼女が、プラの蓋をぱたんと落とし、ほうっとため息を吐きながらいった。


「物語が終わってしまうのは悲しいよねぇ」


 ちろるの言葉は俺の胸を鋭く抉った。


 遠くでワーワーと元気よく騒ぐ生徒たちの声が遠くなってゆく。


 そうか。でも、元々ちろると俺とはマゼルだけで繋がっていただけだもんな。


 そもそも互いに棲息地域も違えばつき合う仲間も違う


 俺は彼女の言葉をそうとって、咥えていた爪楊枝を唇の端に寄せ、ぷっと吐いた。


 惜しい、狙った葉っぱにあたらないな。


「でも、これで俺と三ツ森のなかも終わりかな」


 だよな、くうう。惜しいけど仕方ない。

 涙がちょちょぎれそうだ。


 せっかくはじめての女友だち、略してガールフレンド(仮)ができそうだったのに。


 万感の思いを込めて振り返ると、そこにはまたしてもぽろぽろと大粒の涙をこぼす、三ツ森さんちのちろるさんがいた。


「ねえ、なんでそんなこというのっ。あたし、なにか、トータくんの気に入らないことしたかなぁ」


 えっと。


 状況がわからない。


「いやっ、ちょっ、待っ、なんで泣いているんだ?」


「だ、だって、せっかく仲よくなれたのにぃ。ま、マゼルちゃんがいなくなるのはさびしいけど、トータくんまで離れちゃうのは、嫌だよぅ」


「わ、わーかった! わかったから。俺たちはいままでどおり仲よくつき合おうっ。な!」


「ホント……?」


 主人の機嫌を窺うような仔犬のように、鼻を真っ赤にして見上げてくる。


「つ、つき合う。う、うん。いいよ、トータくんなら……」


 なんか、ここなんにちか、女の泣くところばっか見ているような。


 ふっ、俺ってば女泣かせなやつだぜ。


 ちろるが立ったまま震えているので、よく考えずマゼルにやるようにぎゅっと正面から抱きしめて、スッと全身の血が引いていくのがわかった。


 やべ、マゼルにやる癖で、つい。


 俺がやってる行為ってナチュラルに変質者出現事案なんじゃ……。


 どうしようかと魂を口元から、今まさに吐き出そうとしたときに周囲から、

 わっ

 と。割れんばかりの拍手が送られた。


 そういえばここって人がけっこう通るよな。


 もしかして、今の行為、誤解しかしようのない流れだったような。


「仲直りできてよかったねー」

「見せつけてくれるじゃねえかっ」

「らぶらぶー」


「けっ、真昼間っから暑苦しい。見ろ、おいらの目から汗が出てきやがったぜ」


「よっ、ご両人! 結婚式には呼んでおくんなはいっ」


 数人ほどか江戸っ子がいるみたいだが、それは気にしても意味のないことだ。


 ちろるは、うへへとかなり阿保っぽい声で笑うと鼻をぐずぐずさせて、抱き返してきた。


 ふおおおっ。なんだかしんないけど、これはこれでプラスに転じてないか?






 家に帰るとまったく転じてないことが判明した。


「てか、なにこれ?」


 世界は闇に包まれていた。

 というか、俺んちが。


 今朝、いい感じで若妻めいたサキュバスと子役のエルフに見送られた我が家が、全体的に謎の魔法陣で包まれているよ。


 家の前は何台ものパトカーで埋め尽くされ、日頃はあまり見慣れない種類のお巡りさんが多数武装したまま藤原邸を囲んでいた。


 見れば近所の住人、特に年寄りが多かった。野次馬どもは口々に声をかけあい、どこから湧いて出たかわからない若者たちはスマホで映像をパシャパシャやっている。


「さがってくださいっ。この先から勝手に入らないでっ。ほら、君。さがって!」


 あ、はい。


 ……じゃなくて! どうなってんだよ、コレ? どうなってんだってばよ!


 ふう、思わず、某忍者ふうの喋りになったが、ここで我を失ってはいけない。そうやって、キャラ崩壊して消えていった先人がどれほどいると思うのか。


 藤太よ。意識を集中し、まず落ち着くのだ。


「にしても黒いなぁ。これ……」


 家は建て替えたばかりで古くない。建坪も父がトチ狂ってしこたま広くしたので、町内では一二を争うほどの大きさだ。


 それが、うにょんうにょんと、突如発生した黒雲で覆い尽くされている。


 ね。ちょっと考えると火事だと思うでしょ。でも違うんだな、これが。


 ゲームやアニメでよく見る、謎文字が並べられた光のサークルが家屋の周りをぐるぐると無限に回っているぞ。パソコンでいうスクリーンセーバーの文字みたいなもんだ。うざい。


 なんというか、この黒雲は見ているだけで胸が悪くなるような邪悪さだ。


 具体的にいうと、ポリバケツに貯められた生ごみと運悪くご対面したような感じだ。おえっ。


 邪気、とでもいえばいいのだろうか。 


 あからさまな毒気にあてられた野次馬たちは、次々に青い顔をしてその場に倒れてゆく。


 助けようとした警官も、どこか青い顔をしてフラついている。


「ぎゃあああっ」


 均衡を破ったのはひとりの警官だった

 。

 KEEP OUT


 と記された刑事ドラマでおなじみの、まっきんきんのテープをぶち破って異形の怪物が玄関口から姿を現わしたのだ。


 全体的に青い。青黒い。大きさは百七十五ある俺の背と変わらないだろう。


 全裸かつ身体じゅうに太く盛り上がった血管の目立つその怪物は門から道路に出ると、怖気を振るうような声で吠え立てた。


 ぎいい、と。金属同士がこすれ合うような、とても嫌な音色だ。


 青黒い怪物。略称、青グロモントと名づけよう。


 青グロモントは、やたらに発達した肩の筋肉を誇示するように腕を振り上げると、あろうことか茫然と立ちすくんでいた警官を掴み、ひょいと投げた。


「へんぶっ!」


 警官は黒と白に塗り分けられたセダンのサイドに背を強く打ちつけると、動かなくなった。


 げ、死んじゃったの! 


 と、思ったら大きく咳き込んでいる。ちょっとホッとしたよう。


 じゃなくてだ。この状況、いかんせんまずいんじゃねえの。


 ほらさ、青グロモントくんも怒ってるよう、そんな感じだよう。


「来るなッ。来るなぁあああッ!」


 恐慌に駆られた警官たちがリボルバーを抜くと、威嚇射撃もなしに撃ち出した。


 ぱんぱんと、割とショボい音がして鉛の弾丸が青グロモントに撃ち込まれる。


 怪奇青グロ生命体は、そんな文明の利器なんて屁でもないもんねと、平気の平左で群衆に躍りかかり、スプラッタ的展開を繰り広げてくれるかと思いきや。


 あっさりとその場に倒れると、ぐずぐずと腐ったゼリーのように溶けて排水溝に消えていった。おいおい、そこ掃除すんのたぶん俺だぞ。


「や、やったか……?」


 まさかのポリスメン勝利である。


 俺は巡査たちが住民たちに讃えられている隙を突いて、テーピングをカットし、華麗に我が家へと帰還した。


 ふん。背後から止まれなど、勝手に入るななど制止の声が聞こえるが関係ない。


「うおっと、なんじゃこりゃ?」


 家に入ってまた驚いた。なかは、BBQ大会でもしたかと思うほど、真っ黒な煙というか闇で、鼻先もわからないほどになっていた。


 間違いない。こんなことになったのはたったひとつだ。


 居間を突っ切って三和土のつっかけを履くと庭に躍り出た。


「トータしゃあああんっ、これどうしましょうぅ?」


 そこには全力で涙目になっているエロイーズと、割と動じていないマゼルがいた。


「トータっ」


 庭には巨大な魔法陣が描かれており、ここだけは黒煙はなく視界は確保されている。


 マゼルは俺の姿を見つけると、しっぽがついていたら千切れるほど振っていただろうと思われるほどの勢いで腰のあたりにタックルしてきた。ぐう痛い。


「いったいぜんたい、こりゃどうなってんだ!」


「わからないでーす。なにもかも失敗しちゃいましたー」


 話を聞くと、どうやらエロイーズは俺がいない間にマゼルを送り返す召喚陣の下準備を行っていて、途中で手順を間違えて陣を暴走させたとのことだった。


「に、逃げましょ! トータさん、ここはなにも見なかったことにして、ここを放棄しましょ!」


「なに泣きごといってんだよ、諦めんなよっ。どうしてそこで諦めんだよ!」


「修造っぽくいってもダメでぇえすっ」


 なんてことだ、頼みの綱のエロイーズのインチキ魔術でさえこのていたらく。


 もはや万策尽きたわ!


「トータさんはほぼなんにもしてないじゃないですかっ」


 エロイーズが両手をガチで頭上に突き上げながらきいいっと叫ぶ。


 俺は不敵に笑うと、顎に手をやって応じた。


「わかってないな。ほぼじゃない。なにひとつだ」


 これ重要だぜ。


「なお悪いわ! って、ふえぇ。見てください、陣からワーキングホリデーを活用するように異世界のデーモンたちがっ」


 む。エロイーズにいわれて召喚陣に視線を巡らすと、そこには先ほど警官に敗れた青グロモントくんたちの集団が、ざっざっと足並みをそろえ逆上陸している。


 具体的にいうと、円の中央からおっかない顔をした怪物たちが、蠢きながら手を伸ばし唸りまくっている。


 どう見ても「私たち今日から藤太くんのお嫁さん候補になります。仲よくしてね」という風情ではなく、殺意がギラギラとみなぎっている。


 みんなやる気あるなぁ。

 正直勘弁して欲しいわ。


「この状況で頭沸いてんですかっ」


 沸いてない。至極冷静でございます。


「デーモンは下級魔族ですが、時間の経過とともに世界のマナに馴染み凶暴さを発揮します」


「おい、そいつは――まずいじゃないか」


 具体的にいうと時速制限八十キロの場所でリミッターギリギリまで飛ばすくらいやばい。


 オービスも光りまくりだぜ。


 どうしよう。どうすればいいんだ。勢い込んでヒーローっぽく駆けつけたのはよかったが、俺は主人公の嗜みとしての、謎のお留流武術や特殊技能など兼ね備えていない。


 いや、むしろ弱い。誰よりも弱いことで、この世は武力でどうにもできないことだってあるんだという悲しいリアルを生きたまま体現する救世主になれればいいと、そう願って暮らしてきた――。


 あ、嘘です。体力は平均並みです。


「エロイーズ。こういうときは、まず敵と自分たちの戦力を比較するんだ。味方の戦力が十倍ならこれを囲み、五倍であれば攻撃し、倍ならば分散させ、等しければ戦い、少なければ退却し、及ばなければ隠れる。俺たちとデーモンたちの戦力比はどうだ? はっきりいってくれ」


「隠れるしかないですね」


 いえーす。そんな冷静な君が好きさ。

 さあ、タンスのなかに隠れよう。


 そう思って、いざ駆けだそうとエロイーズの手を引き、マゼルの姿を探すと。


「マゼル、だめですっ。こっちにきなさい!」


 マジかよ。


 あろうことか、マゼルはすたすたと恐れを知らない足どりで、悪鬼の群れに歩み寄っている。


 冷汗三斗とはまさにこのことだ。一瞬で俺は尻のあたりまで汗がつたって濡れる。


「くそっ」


 反射的に身体が前に出た。かなわないまでも。せめて、マゼルたちだけでも――。


「へ?」


 エロイーズの間抜けな声。見ればマゼルは片手を突き出し、俺たちにはまったく理解できない言葉で呪文を唱えた。


「なにやってんだよ、マゼル! 危ないからこっちに来い!」


 ほとんど半泣きで呼びかけるがマゼルは振り向きもしない。無視されるってちょっと悲しい。


 俺が下唇を噛んでガン泣きモードに入ろうとしたとき、マゼルの手のひらが激しく発光し、なにかが地に生じた。


 ――それは、巨大な光の玉であった。


 マゼルの身体と同じくらいの白熱した球体は、ふよふよとゆるやかな放物線を描いて召喚陣の真上に到達すると、まるでその場に太陽が顕現したかのように輝きを増した。


「ま、まぶし――」


 エロイーズは片手で顔を覆いながら、ジリジリと後退してゆく。


 やはりサキュバスは邪なるものなのか。この神々しい光の前では激しい苦痛を感じ――俺もめっちゃまぶしいんですけどっ? ぎゃあああっ! 


「ああ、トータさんが聖なるエルフ魔術の光で灰になってしまいますっ」


 なるかっ。


 夫婦漫才にいそしんでいる俺たちを無視する格好で、巨大な光の玉はドンドンと膨れ上がっていく。


 そして、その光は瞬く間に庭全体を覆い、パッと輝度を強めたかと思うと、次の瞬間に霧散した。


 視界を灼かれ完全に行動不能に陥った俺は、なすすべもなくその場に佇立していた。


「は、はれ? いない、です」


 エロイーズの脱力した声にようやく回復したかと思われる目を開け、絶句した。


 なるほど。確かにこれは言語を絶する神通力だ。

 あれほどまでこの場に充満していた闇の邪気はかけらも残らず消えうせている。


 家を覆っていた黒雲のような集合体も姿をなくしていた。


 もちろん、デーモンたちもいない。

 いないったらいないのだ。


 召喚陣の前にはいつものようににこにこと笑うマゼルが得意顔で立っていた。


「とーた! わたし、あいつらやっつけたよ!」


 そうか……。いつものように守護まもらなければならない存在かと思ったら、俺の気づかないうちにそこまで成長していたんだな。


「というか、トータさんはなにもしていないんですがねぇ」


 とりあえずは俺たちの勝利だ。

 ビクトリーは燦然とマゼルの上に輝いている。


 背後でガヤがなにかをいっているが家族の大いなる愛に包まれた俺には聞こえない。


「とにかく仕切り直しだ。家の周りも野次馬がたくさん集まっているし」


 そこまでいって気づいた。完全に沈黙していた召喚陣の端から、青黒く巨木のような腕がマゼルの背に向かって忍び寄る。


 エロイーズも気づいたのかサッと顔を青ざめさせた。


 俺は反射的に駆け出すとマゼルを無我夢中で突き飛ばす。同時に、伸びたデーモンの腕が無防備な右足を掴んだのに気づき、その尋常ではない膂力に激しく呻いた。


「とーた!」

「トータさんっ!」

「来るんじゃない、おまえらっ!」


 それだけいうのが精一杯だった。


 舐めちゃいけなかったのだ、最初から。マゼルの不思議な術で追い返されたかに見えたデーモンたちは、最後の気力を振り絞って道連れにと気張ったらしいが、そうは問屋が卸さねぇ。


 ずぶずぶ。

 ずぶずぶ、と。


 たちまちのうちに下半身が召喚陣のなかに呑み込まれ、恐怖を感じる暇もない。


「ダメですよ、トータさんっ! その先はどこの異空間に繋がっているかわかりませんっ。絶対に、私の手を離さないでっ!」


 エロイーズがしゃがみ込んで俺の手を引っ張っている。女とは思えない火事場の馬鹿力であったが、力を失って急速に収束してゆく召喚陣の吸引力には焼け石に水だった。


「とーたぁ!」


 マゼルも小さな身体で一生懸命俺の腕を引いているが、悲しいか、毛ほどの役にも立っていなかった。


「ダメ、ダメですっ。絶対に――この手を放してはッ」


「たすけりゅ、とーたをたすけりゅのっ」


 うんうんと顔を真っ赤にして必死になっているふたりを見て。


 もう、いいかなと思ってしまった。


 だって、ふたりの身体もこのままじゃわけのわからん異空間に引きずり込まれてしまう。


 正常に陣が起動してるのなら、エロイーズだってここまでムキにならないだろう。


 どんな生物でも、自分が消えてゆく瞬間が間近に迫れば理解できるものだ。


 もう、俺は首のあたりまで陣のなかに埋没している。


 恐ろしいことに、その先の感覚はすでになかった。


「もう、いいよ。もうふたりとも充分だ」


「なにをいっているのですか! 本気で、本気で怒りますよっ!」


「このままマゼルまで巻き添えにするつもりなのかよっ!」


 エロイーズがひっと息を呑んだのがわかった。

 自分でも卑怯なやり方だと思った。


 それで、彼女の隙を突いて、俺は自らの力で彼女の腕を振りほどいた。


 ぐぐっと。一気に来たね。


 俺の身体は鼻先まで一気に、陣の底へと沈んでいった。


 自分という感覚が消えてゆく。放心して座り込んでいるエロイーズとマゼルを見て、ああ助けられたのだな、と思った。


 マゼルが駆け寄ろうとしてエロイーズに抱き止められたのを見た。


 わんわんと、泣き喚く声と悲痛な彼女たちの顔だけが網膜に鋭く焼きつけられた。


 そんな顔するなよ、おまえら。


 少なくとも、俺は自分の取った行動に後悔はない。


 だって、大好きなふたりをこうして助けられたんだから。


 最後の力を振り絞って叫んだ――。


 この願いが届いたらいいなと思い、俺は意識を手放した。






 不思議なおとぎ話を信じていたのは幾つくらいの年までだっただろうか。


 人は成長するごとに、幼いころ持っていた幻想をどこかに置き忘れ、思い出すこともなければそれがなんだったのかもわからなくなってしまう。


 エロイーズとマゼル。


 自称乳母のサキュバスとエルフのお姫さま。


 なんとも夢のある存在だったと、今になって思う。


 あの日、なんでもない通学路でふたりに出会って。


 まあ、無駄金ばっか使わされて素寒貧になったけど、それほど悪い気持ちにはならなかった。


 突拍子もないことをすぐ信じてしまうのは俺の悪い癖であるが、いつも思うのだ。


 俺は、騙されたがっていたのではないかと。


 現実はいつも酷くつまらなく色あせて見えていた。


 別段、人よりすぐれた特技があるわけでもなければ、この先やりたい夢があるわけでもない。


 どこを切っても、珍しい部分はなにもない。


 単に空想好きな俺にとって、エロイーズとマゼルは神さまが与えてくれたんじゃないかと、どこか思っていた。


 物語が終わってしまうのは悲しいと、ちろるがいったが、俺も同感だ――。


 もしかして、俺が捨て身の行為に出たのは、まだ物語を終わらせたくなかっただけじゃないのだろうか。だとしたら、酷く独善的で――醜いやり方だったのかもしれない。


「ゆる――して、くれ」


 酷くしわがれているが、聞きなれた声が降ってきた。


 愕然として身体の芯が熱く疼いた。そして気づく。


 動く、動くぞ。かすかだが、指先に感覚が戻っている。


 俺はあの奇妙な召喚陣から異空間に放り出され消えてなくなったんじゃないのか――?


 ゆっくりと目蓋に力を込めて押し開くと、視界には、ふるぼけて飴色になった太い梁と、黒ずんだ天井の板がバッチリ映っていた。


「おお、気づかれましたか。異界の人よ」


 低く籠った男の声だ。俺の顔を覗き込んだのは、アイヌ民族のような衣装を着た女性と見紛うような美貌を持った若いイケメンだった。返事をしようとして軽く咳き込んだ。


 俺は、あれから、どうなったんだ――?


「異界の客人よ。仔細はわかりませんが、昨晩あなたは万年樹の窪みに生じた〈ひずみ〉から、ころころころりと転がり出てきたのですよ。ああ、申し遅れました。私は、この集落の長でスヴェンと申します」


 白皙の青年は青い瞳で真っ直ぐこちらを見つめ、気づかいながらもゆっくりと語りかけてくる。というか、俺は喋っていないのに、なんで通じるんだろうか。それとも、まだ夢なんか。


「ええと。異界の人よ。たぶん、私たちは言語がまったく違うので普通に会話はできないと思い、直接思念で話させていただいております」


 ああ、そういうことね。俺は身体を無理やり起こそうとしたが、スヴェンに止められた。


 どうやら自分が思った以上に疲労しているらしい。


「よければ、あなたがどこから来たか、お話いただけるとありがたいのですが」


 うむ。どうやら俺はこの青年に助けられたらしい。それに、その耳――。


「これですか。私たちはハイエルフの一族なので、普通の人間とは耳の長さが違いますよ」


 これだけの会話で俺は即座に自分が置かれた状況に気づいた。


 どうやら、エロイーズの暴走させた召喚陣は、俺を無慈悲にも宇宙やなにも存在しない暗黒空間に送り込んだわけではなく、文明のある知的生命体のある土地へポイしてくれたわけだ。


 ……なんてついてるんだ。異世界ファンタジーいやっふううっ!


「あの、事情を――」


 ごめんね、すぐはしゃいじゃって。あとでよくいって聞かせておくんで、今回だけはご勘弁のほどを。


 俺はスヴェンに今までの状況をかいつまんで話した。具体的には、


 サキュバス召喚士、陣錬成失敗につき、俺ポーイされた(NEW)


「なるほど。あなたは、召喚陣の変性によって意図せずに、私たちの世界へと渡られたのですね」


 すっげぇ、一発で理解されちゃったよ! この人、かっこいい上に天才やで。


 というか、俺の話を聞いていただいておわかりかと思いますが、もしかしてここがエルフの村なら、この娘さんをご存じでは……?


 話しているうちに、徐々に体力が回復して起き上がれるようになったので、俺はポッケからスマホを取り出すと、昨日取ったマゼルの写メを見せた。


 冷静だったスヴェンもスマホの存在自体にはびっくりして、面白いリアクションを取ってくれたのだが、仮にも俺の命の恩人なので描写は割愛するぜ。


 彼は、ふんふんとスマホの画像を見ると、ひとつの結論に至った。


「あなたがいうマゼルという少女は、ロードエルフですね」


 ロードエルフ? ハイエルフとは違うのん?


「根本的に違いますね。ハイエルフは長命で、ほかのエルフ族とは一線を画しますが、ロードエルフは、精霊に近い存在です。魔力や知能、ともにあらゆるエルフを凌駕しています。私もこの絵姿に込められている魔力の残滓を非常に強く感じ取れます。写し身ですらこれほどの力とは……。成長すれば、どれほどのものになるか、正直見当もつきません」


 そうか。じゃあ、マゼルに父母はいないんか。


 でも、あのエロイーズのようなド素人召喚士に呼び出されるロードエルフって。


「さあ、そこまでは私どもではとても。ただ、彼女のような存在は、呼ばれて現れるようなものではありません。いうなれば、彼女のほうがあなたたちを選んでやってきた、というふうにしか思えないのです。ある意味、ロードエルフは私たちにとって伝説や、神に等しいですから」


 でも、なんでそんな存在をひとことで看破しえたのであろうか。


 俺がそういうと、スヴェンはちょっとウキウキワクワクした感じで奥の部屋に引っ込み、古ぼけた絵や古文書をしこたま持ち出して滔々と説明をはじめた。


 その姿に、初見にあった超然とした部分は見受けられなかった。


 なんか、マゼルが「ひとりでおトイレできたよー」って自慢してるみたいだ。すごく親近感湧くよ。うん。


「さて、異界の人よ。だいぶ身体も回復したようでありますし、今晩はゆっくりして英気を養っておいたほうがいいでしょう」


 そういわれてみると、俺は異世界に来ているのだった。


 ゴクリと生唾を呑む。


 好む好まざるにしろ、明日から日本に帰還する壮大な旅がはじまってしまうのか。


 怖くもあるが楽しみでもあるな。


 そんな不謹慎な思いにとらわれていると、スヴェンはすまなそうに眉を寄せた。


「すみません、異界の人よ。張り切っておられるところ水を差すようで悪いのですが、このハイエルフの里にある万年樹においては定期的に〈ひずみ〉が生まれており、別段珍しいことではないのです。明日の朝になれば、日の出とともに〈ひずみ〉は生じますゆえ、特に苦労することなく元の世界へとは戻れるはずです」


 マジかよ!


 俺の大冒険は旅立つことなく終わってしまった。心のちんちんも萎え萎えだぜ。


「外の世界を見たいといわれますのなら、無理にお引き留めはいたしませんが……。森の外には、魔術に長けた我々でも手こずる怪物が猖獗を極めております。せっかく拾った命を無下に捨てるのは、おやめくださいませ」


 ホント? じゃあ、やめた!


 命を危険に晒してまで冒険したいなんて思わないんじゃんよ。


 そういうのは、中坊で卒業したんですよ。命あっての物種とはまさにこのこと。


 スヴェン族長の言葉にガクブルな俺は、そのあとお茶を濁しながら平和と命の尊さについて互いに語り合った。


 にしても、俺を助けてくれた異世界の御仁が平和主義者でよかったわー。


 これが、オークとかゴブリンとかの蛮族的な酋長さんだったら「あひぃ」とか「らめぇ」的展開になって「エロイーズ、マゼル。俺、ファンタジー世界に勝てなかったよ……」と呟きながらレイプ目で廃人になっていただろう。


 にしても族長さんの家は落ち着くな。この囲炉裏といい、微妙な暗さの家屋といい、いつの間にか秋田のお爺ちゃんちでくつろいでいるような気分になる。


 これっぽっちもファンタジー的な気分が出ないのは、気づいてから一歩も外に出てないせいだと思うけど、俺は性格的にも自己完結型人間だから気にしないんだよ。そういうこと。


 スヴェンの奥さまだろうか。ずば抜けて美人さんなハイエルフに淹れてもらった茶を啜りながら時間を過ごす。あー、心が安らぐわぁ。


 だらだらと駄弁っていると、夕飯の時間だろうか、準備を整え終えた奥さんが、ちっちゃな娘さんたちと山のようなご馳走を運んで板の前に並べはじめた。


 ひい、ふう、みい、よお、いつ、と。奥さんが美人さんなだけあってスヴェンは頑張り過ぎちゃったせいか、随分な子だくさんだった。


 にしても娘さんたちは実にしつけが行き届いているのか、無駄口をまったく利かない。


 それでも好奇心までは押し殺せないのか。


 きらきらとした瞳で俺に向かって興味深そうに視線を投げかけている。


 一番上の娘は小学校高学年くらいだろう。


 聡明そうな顔立ちはスヴェンにもっとも似ていた。


「マグダレーナ。お客さまをジロジロ見るものではありません。すみません、見かけは大きくてもまだまだ子供でしてね」


 そういって叱るスヴェンさんの眼はすごくやさしくて、俺はちょっとだけ里心がつき、父母のことを脳裏に思い浮かべてしまった。ちゃんと北海道のお土産買ってきてくれてるかな。


 翌朝。


 図々しくも、寝過ごす寸前だった俺はスヴェンの奥さんに揺り起こされ、異常なほど慌てふためきハイエルフ一家の失笑を買ってしまった。でも、笑顔は人間関係における潤滑油だよね。


 昨日の話どおりならば、日が昇る直前に、村の中央に生えている万年樹に生じる〈ひずみ〉によって日本に帰ることができるはずだ。


「うおっ」


 家から一歩も出なかったせいか、いまいち自分のいる場所が異世界であると認識できなかったが、外に出て目にした光景には圧倒された。


 単色で占められた村々の家屋。


 居住地自体が小高い山の上に立っているらしく、高台に上ってみると、眼下に広がる延々と続く緑の樹海は膝が震えてきそうなほど味わいのある景色で迫ってくる。


 空が水色で染まっている。幻想的な青の世界を背景に峩々たる山々が四方に連なり、まるで人工的な建築物が見当たらないことに恐怖すら感じはじめていた。


 まさしくジャングル。緑過ぎるジャングル。文明の「ぶ」の字もないぜやっほう。


 昨日、スヴェンが危険だといった意味がわかった。


 あの濃い緑のあちこちに恐竜が闊歩していますといっても嘘じゃないと思えるほど暴力的な自然の驚異に声も出なかった。


 そのまましばらくボーっとしているとスヴェンに袖を引かれ我に返った。


 夜明けは近い。


 俺がやることはこの偉大な自然を堪能することじゃない。


 一刻も早く、俺の帰りを待ち望んでいるふたりに元気な姿を見せることだ。


 冷たくすがすがしい空気を肺一杯に吸い込むと、俺はそびえ立つ万年樹に向かって走る。


 清涼な風と緑の匂いが、俺の前途を祝福しているようで心地よかった。

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