第52話 Liar
大きな地響きの後、ガブリエルのジャケットの裾をティノが力強く握りしめた。足の裏にいつまでも残る、痺れのような痛み。心まで痛みが届きそうで、自分が震えていることにティノは気がついた。
「ティノ様、貴女はこの場にいてください。私はすぐに戻ります。決して此処を動いてはいけませんよ。良いですね?」
ティノはそんなガブリエルのセリフに納得なんて出来なかった。ティノがこの街に来て数ヶ月。ニールたち以外に知り合いなど居ないに等しく、ティノの瞬きの回数が徐々に増えていく。手のひらは、じんわりと汗ばんでいく。ガブリエルはティノにそっと視線を落とすと、澄んだ目を細め、口元をふと緩める。
「大丈夫です…… すぐ、ですから……」
ティノの手を解くとガブリエルは扉の外に柔らかな香りを纏い出て行ってしまった。薄暗い部屋にぽつりと残されたティノは離された自分の手を握る。ガブリエルに理由があるのは承知だった。だけれども、ティノは不安に勝てそうになかった。
「知らない街でひとりぼっちにしないでよ! ガブリエルさん…… これって何かの冗談よね? アタシの傍に居るって約束したじゃない! どこに行くかも言わないで…… ガブリエルさんのうそつき!」
身体中の熱が一気に上がる。両手で自分を抱きしめるようにして、ティノがその場にうずくまる。ティノは聞きたくもない見たくもないことが一気に脳に流れ込んできた。耳を覆いたくなるほどの周囲の音や声に目眩がしそうだった。ビルとビルの間に車が走り、人々の足早に歩く靴音。頭の風景の中で、ふと見上げた空には様々の色の風船が飛んでいた。何かの祝いの名残りだろうか? 風に乗り柔らかく飛んでいく。ティノは一瞬その光景に目を奪われて、耳から手を下ろすと大きな声を張り上げた。
「なによ…… こんな時に。嫌味なくらいに綺麗。とてもとても、綺麗だわ」
「お嬢さん…… どうなされたのかな」
「え? ……誰? どうして? これってアタシの頭の中よ? 声をかけてくるなんて……そんなのって……変じゃない!」
「おやおや…… 私が誰だか分からないようならば教えてしんぜよう…… ふふふ」
黒く大きな傘を広げた音にティノは身体を揺らし、後方に下がろうと足を動かした。壁とビルが覆いかぶさってくる錯覚に気がおかしくなりそうだった。
鏡が何重にも重なり合う遊園地のマジックボックス。そこには何人もの同じ横顔が見える。セルロイドのアンティーク人形。黒と赤のゴシックドレスにきらきらと黒光りするエナメルのブーツ。古い船と煙草の甘い香り。古着にまみれた店の匂いにも似ている。さっきまで街の中に居たはずなのに。ティノは猛烈な吐き気に襲われて、その場に膝から落ちうずくまった。
「おやおや、大丈夫でしょうか……」
「これじゃ……この子はダメですね?」
「そう……ですね。そっとベッドに横して、しばらく眠らせてあげようか」
「そうやってまた、貴方達はカワイイ女の子に甘いんですから……」
「嫉妬かい?」
「……まさか。御冗談でしょ」
「また、おふたりは……ふふふ」
数人の声がティノの耳に入るが、気持ち悪さにティノは目を閉じているのがやっとで身動きが取れなくなっていた。
次にティノが目を開けた時には、見たことのない天井に鉛ガラスの小ぶりのシャンデリアが目に眩しく入ってきた。
「なに? ……此処は何処なの?」
「おやおや、目が覚めたようだね」
ソファーに横たわっていたティノがその声の主に顔を向けた。そこに居たのは、一匹の耳の垂れたバセット・ハウンドと、深い緑のツイードのダブルのスーツの初老の紳士。そして、鮮やかな暖色のニット帽に細身のゴシックスーツに身を包んだ小柄な女性だった。
*****
「お兄ちゃんってどんな風に生きてきたの?」
「僕のこと? それとも、ニールのことが聞きたいの?」
「ん〜 ……どっちもかな」
「僕の記憶は本物なのか、正直に言うと定かじゃないんだよ…… それでもいい?」
「うん。大丈夫。全部ちゃんと聞かせて」
彼とは。ううん。小さな僕とは初めてのようで、初めてじゃない気がする。嬉しいような恥ずかしいような。なんだか懐かしい気持ちだった。そんな僕は僕に、彼にとっての未来を語る。僕にとっては過去の語りだ。
「シレッと、ものすごいことを言うよね?」
「聞きたがったのはそっちでしょ?」
「そうなんだけどね。それでも想像よりも壮絶にこの先を生きるのかと思うと、ちょっとね?」
僕は小さな僕と顔を合わせて笑う。こんな時に。いや、こんな時にこそなのかも知れないね。
「あらあら…… 二人とも嘘つきだね」
「え?」
その声に振り向くと、あの少年が日本刀を片手に嫌な笑みを顔に浮かべた。
「これから君がウィルスを撒き散らす原因とも知らずに…… よくもまあ、それって英雄気取り? キミらは一体何様なのかな〜」
僕は、その言葉に寒気がした。
「どういう意味?」
「無症候性キャリアって知ってる?」
「むこうしょ…… なに?」
小さな僕が首を傾げる。
「まさか…… そんなことがあるはずない!」
「おっきい方のは知ってるみたいだね。物知りだね。さすが大人だね」
あの時の彼がソファーに深く腰を下ろし、ぶらぶらと足を揺らす。時折、日本刀の先をくるりと床で回す。
「病原体による感染が起こっていながら、明瞭な症状が顕れることなく他の宿主に伝染させる恐れのある個体とでも言えばわかるかな?」
「……なにそれ?」
「キミは…… いや、シモン・クインテットは厄災なんだよ。例えば、そこの君を壊したとしても代替わりが居るからね。つまり……それはキミなんだよ。おチビちゃん」
「何を言ってるのか分からないよ」
「それが普通さ。分かる方がおかしいのさ。キミらは、まるで嘘つきだ。架空のどこかのお話のようだね。天使の殻をもつ病原菌。シモン・クインテット。血も体液も感染源。唾液を一滴でも垂らせば、世界が変わっていくさ。だからね、ボクはキミがほしい。世界中が生き残る為に争いごとを産む。強い者が弱い者を襲い、金なんて意味を持たない世界になる。権力も何も合ったもんじゃないさ。だからキミはボクのモノになればいいんだよ? 分かる?」
彼は、さも楽しげに両手を広げる。その度にソファーに立て掛けられた日本刀がきらきらと陽の光を壁に映し輝いた。
「悪魔も、バケモノも、人間も、みんなキミには勝てないのさ? キミが居れば全て手に入る。愛なんていらないのさ。地位も名誉も金もボクはいらない。さあ、こっちにおいで」
「君は…… 一体、誰なんだ?」
「ボクは誰でもない! ボクはボクさ!」
「お兄ちゃんの僕! 逃げて!」
「おやおや! おチビちゃんは怖いんだね? 安心してね? ボクはどっちも逃がしゃしないさ! いっしょに連れていくよ?」
大きく息を吸って笑う彼の目は深い青が滲み、広い湖のように冷たい表情をする。そして、腹の奥底から溢れ出す想いと、笑みをこぼす。シモンは彼を怖いと思った。バケモノよりもきっと人に近い存在。ひどく歪んだと孤独が自分にどこか似ていたからだ。
「お遊びはここまでだよ…… さあ、目を閉じて元に戻ろうか……」
彼がシモンの頭上に手を置くと、カビ臭いあの真っ暗な部屋に戻っていた。
「で? 自分が誰か、分かったかい?」
「僕はシモンだ……」
「そうだね! シモンくん! 出来損ないのシモンくん!」
血の噎せ返るような匂いと、心のダブついた感覚にシモンは眉間に皺を寄せた。
「シモンくん。もう今日は、お帰りよ…… やっぱり今の君にはまだ早かったみたいだね。あと半年ってところかな?」
「コルトレーンが車である場所まで送ってあげるてっさ! 今回はニール・クインテットの元に返してあげる…… さあ、それまでお眠り……」
酷く冷たい指先がシモンのまぶたを摩るとシモンは意識を失う。次に目が覚めた時には知らない町の知らない建物の雨に濡れた軒先に横たわっていた。シモンは目を凝らし辺りを見渡すが人の気配はなく、寒さに身を震わせた。薄暗い空に壊れたビル。花壇に枯れて折れた花が風に吹かれカサカサと耳障りな音を立てた。
「……ここはいったい何処なの?」
その場でシモンはもう一度辺りを見渡す。今にも雨が降りそうな空にどこからか焦げ臭い匂いがする。しばらく歩くと古くて立派なホテルがシモンの前に現れた。どこか懐かしいと思うのはウィリアムのあの事務所がある建物にどこか似ているからだ。古びたレンガのはめ殺しの窓。スライド型の窓ガラスは今にも崩れ落ちそうに引っかかったままだ。入口付近の階段に足を踏み入れると何者かの気配がする。シモンはゆっくりと扉に近づいて中の様子を伺った。すると、影がゆらりと動く。シモンは慌てて後ずさりをしようとして足を滑らし、側にあった瓶を倒してしまった。静まり返った町に倒れた瓶の音が響き渡った。その音に気がついた影が足音を立てこちらに向かってきた。壊れた扉がカナギリ声を上げるように開く。シモンの目に懐かしい姿が映る。そんなに長く離れていた訳でもないというのに、シモンの目には自然と涙が溢れていく。驚いた顔をして近づき、手をゆっくりと伸ばす。すると、陽射しが黒い影の晴らしていく。そこに立っていたのはニールだった。
「ニール…… ニール……」
小さな声で僕はその名を口走り、ニールの手に応えようと手を伸ばした。
「おまえ…… どこから来たんだ?」
ニールのその言葉にニアが顔を出し、その後にアダムが声を上げた。
「ありゃりゃ〜 迷子ちゃんですか? 誰かとはぐれたの?」
「こんな状況で迷子じゃないでしょ? ぼく、どこから逃げてきたの? 寒かったでしょ? ニール! ボケっとしてないで中に入れてあげなよ!」
「そうだな。 とにかく中へ入れ! 見たところ怪我もしてないみたいだな! ニア、温かいお茶は用意出来るか?」
ニアに向かってニールが声をかける。ニアはにっこりと微笑みカバンを持ち上げた。
「タンブラーの紅茶がまだ残っているよ! あとは僕の秘蔵のクマちゃんビスケットもあるよ! おいで! ここの人は誰も怖くないよ?」
「もう、大丈夫だからな」
ニールが僕に手を伸ばし、僕をゆっくりと抱き上げると、部屋に戻り扉を少し強く閉めた。
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