第51話 記憶の箱

「もういいよ? もうひとりの僕、そっと目を開けて……」




「シモン……シモン……」



 小さなシモンに加え、もう一人の声が耳に聞こえてくる。僕は忘れられない声に胸が苦しくなり、目を開けられずにその場に蹲った。狂わしい声に足踏みの音。そっと妄想に押しつぶされる心。


「……うぅぅ」

 僕は唇を噛み締める。不気味な程に血の味が口内にゆっくりと広がる。鉄の味が喉を通る度に嗚咽が出そうになったが我慢をして飲み込んだ。僕は頭抱えて、まだ目を開けることが出来なかった。自分を中心に辺りがぐるぐると回転しているようで、船酔いに似た気持ち悪さが襲ってくる。へたり込むように床に額を押し付けかけた時にひんやりとした指先が僕の背に触れ、肩をそっと抱えられた。手のひらが当たりゆっくりと温もりが伝わってくる。優しい暖かさ。優しく澄んだ声。どこかで聞いた懐かしい声。


「……シモン……もういいのよ。大丈夫よ」

 心の奥深くからの、その懐かしい声に身体が痺れる。武者震い? 違う。僕が泣くのを我慢しているからだ。


「おか……あさん……?」

 頭の奥底がちくりとする。何かを思い出そうと必死になればなるほど、酷く痛むんだ。


「もういいの……さあ、おいでなさい。何を躊躇うの? シモン……よく頑張ったわね……もう我慢なんてしなくていいのよ」

 優しく伸ばされる両腕は柔らかく僕を包み込んだ。目を閉じれば、熱く溢れそうになる気持ち。懐かしさでこれまでの記憶が壊れてしまいそうだった。


「いいのよ……もうすべて終わったのよ」


「……嘘だ」


「……シモン?」


「……これは嘘の記憶だ」


「何を……言っているの?」


「……ここには、貴女は居ない! 居ちゃいけない!」


「……お母さんがこれからはいつも傍に居るわ」


「……そんなの嘘だ」


「嘘じゃないわ、幸せにお母さんと暮らしましょう! シモンを大切にするわ、誰よりも」


「帰して……僕をみんなの場所に帰して……」


「シモン……あなたさっきから何を言っているの? お母さんが嫌いなの? 困らせないで……」


「だからっっ! 僕は今の一分一秒を大切に生きたい! ニールと……みんなと生きていたいんだよ! お願いだからみんなの場所へ帰して……」


 世界は美しいからこそ、とても儚い。

 僕らは、自ら選んでこの世界を生きているわけじゃない。

 

 風の匂いも太陽の暖かさも。かけがえのないものばかりだ。照らしてくれる光は、僕を育ててくれたんだ。


 もう迷わない。

 僕は前に進むよ。




 ******


「この建物にこんな場所があったのね……」

「此処は暫くは全てから遮断されます。ですが、この状況では……」

「ずっとは無理なのね?」

「ええ……」

「ガブリエルさん、アタシには何も出来ない?」


「ティノ様?」

「アタシじゃ、みんなの助けにはならない? 何も出来ないの?」


「ティノ様はニール様やシモン様が戻られる場所なのですよ! 何も出来ないなんて言わないでください……」

「やっぱり優しいのね…… 傷つけないように、傷つけないようにって言葉を選んで……そんなのってずるいのよ、ガブリエルさん」


「ティノ様……」


 溢れる想いに、涙が次から次へと流れ落ちていく。床に落ちる涙は渇いた煉瓦に染み込んでいく。全てを抱えるには彼女にはまだ早いのだ。愛を知らずに此処に来たティノにはみなの愛情が痛く、心が壊れそうになる。一度知った温もりは肌が忘れない。香りが身体を纏うように忘れないのだ。


「アタシが此処を守れば」

「ええ……」

「力を貸してくれる? ひとりじゃ寂しくて死んじゃいそうよ」

「この身体が壊れようとも貴女の傍に」

「もっと家族らしく言ってよね。不器用なんだから……ガブリエルさんは……」

「すみません……こういうの苦手で」

「ふふ、知ってる」


 精一杯の強がりもひとりじゃ格好つかなくても、誰かを待つのがこれだけ大切だとティノは気がつく。



 *****


「はあ…… 馬鹿だって気がついていたけれどね」

「ここまで来ると逆に清々しいな」

「それ褒めてませんよね?」

「うん…… そうかもね」

「ニアくん、ひどい……」


 アダムの提案にニアが呆れ、ニールが半笑いで目を細める。アダムはいつもと変わらずに飄々と壊れかけの破れたソファーの肘置きに腰を軽く座ると、胸元のポケットから鏡を出す。髪をわざとボサボサにして目にグッと力を込めて口元を緩める。そのアダムを見たミシェルは背筋がぞくりとした。


「お兄ちゃんってニールに似てるのね」

「はああ? ミシェルちゃん何を言って……るの……」

 指のささくれを気にしていたニアがミシェルの言葉に鼻で笑い、アダムを笑い飛ばそうと顔を上げて、言いかけた言葉を止めて息を呑んだ。

 纏う空気は流石の元映画スターだ。張り詰めた空気はその人物になりきる為の演出の道具。


「ミテクレだけじゃバレるわよ?」

 黙っていたテイルノダが口を挟む。


「アンタは美人だが、世間を知らないお嬢さんだな……」

「なっ……何よ……」

「言葉のまんまさ……お嬢さん」

 ニールを真似て言葉を吐いたアダムの首根っこをワシ掴み、ニールが怪訝な表情になった。


「おい……オマエは一体全体、誰の真似をしてるつもりだ?」

「痛いなあああ! せっかくセクシーにキメてたのにいいい!」

「何がセクシーだ……オマエな……そういうのは気持ち悪いからやめといたほうがいいぞ!」


「……時間稼ぎには良い手かも知れませんよ?」

「本当ですか! ウィリアムさん!」

「ただ……」

「ただ、なんですか?」

「少々危険な役目ではあるかと思いますよ」

 ウィリアムは指先に銀の十字架を絡めるように鎖を握るとアダムを見た。その表情にアダムは俯きかける。そこに、腰に手を添えたニアが大きな声を出した。


「そこは天才的な策士のボクが居るでしょ? 僕も出来ることあるでしょ!」

「ニアくん……俺を守ってくれるんだね!」

「アダムさんよりは、ボクは絶対に役に立つと思うんだよね?」

 口元だけを歪めて笑ってニアが目を大きく見開くと、赤黒い瞳が輝きを増し淡い色に変わっていく。


「アタシも居るわよ」

「テイルノダさん!」

「気安く呼ばないでよね……馴れ馴れしいったらないわよ!」

 テイルノダの声にアダムはすぐさま駆け寄ろうとしたが、当たり前のように言葉が棘のように飛んできた。もちろんだが、アダムはそれ以上近づいては行けなかった。


「……私は?」

「ミシェルちゃんにはニールとウィリアムさんが居るでしょ? 心配しなくて大丈夫だよ」

「……ということで2チームに分かれるって訳か」

 心配するミシェルにニアが優しく微笑むと柔らかな髪をゆっくりと撫でる。その姿を黙って見ていたニールがウィリアムを見る。ウィリアムは黙ってそれに頷いた。


「人間っていつもこうなの?」

「そっ! 面白いでしょ?」

「…………」

「あらら〜 無愛想だね〜」

 ケラケラ笑って眼鏡をニアが掛けるとウィリアムは少し伏し目がちに俯いた。


「……ただ、誰も傷つかないなんて無理ですよ?」

「んなことが分からない連中じゃねえだろ?」

「ウィリアムさん……ミシェルは今度は逃げないよ? もう逃げたりしないからね」

「分かっています。私には……もう逃げる時間も余裕もありませんよ」

 そうウィリアムは笑うとミシェルに優しく言葉を返した。



 夜は闇を連れてくる。音は微かに風が吹くと枯れたモノを転がしていった。皆が息を飲み、朝が来るのを待たずに準備を進める。何も起こらないなんてないのが、逆にみんなの士気を高めていった。



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