第48話 小さな訪問者

 十八世紀の誕生以来、ヨーロッパを中心に世界中で愛されている楽器、アコーディオン。


 中国の笙(しょう)をルーツに持つこの楽器は、その独特の音色で、今も尚、多くの人の心を掴み続けている。


 両手で抱えるようにして保持し、右手側は主に主旋律を担当し、ピアノと同様の鍵盤もしくはボタンが並べられている。左手側には主にベース音や和音を奏でるボタンが多数配置されている。

 右手側が八〜五十鍵ほど、右手側が最大で百二十ほどのボタンがあり、ボタンと空気弁を繋げるためにシャフトが張り巡らされた内部構造は大変複雑である。重量は二〜十五キログラム程度だ。


 今日でも、中古楽器市場や骨董市場では古いデザインのヴィンテージ・アコーディオンはかなり出回っている。中には希少価値のある物も数多だ。



 ーーーーー

 

 人のコミュニケーションは難しい。

 笑うこと、泣くこと、怒ること。

 重ねた言葉は何処に置けばいい?

 

 心が傷を負ったとしても、人は強くなれる?



 さあ、それはどうかな。

 それは、ミンナ違うもんさ。

 同じなんて、つまらないだろう?



 

 嘲笑い。押し殺し。蔑む。



 そして、起こること。予期せぬ出来事。



 誰も願っちゃいないのに。誰も喜びゃしないのに。残念だね。かわいそうに。まったく哀れだね。


 言い過ぎた……かな?


 背中の傷。大きくとても深い傷。滑らかに肉をつらぬいた日本刀は血を欲したわけじゃないけど綺麗に染まっていたね。おっと、言い忘れてた、これは忘れちゃいけないよね? 誰を守って出来た傷なの? え? え?


 ……聞こえないな! もうちょっと大きな声で。


 ……そうだね、お前が居なけりゃ死ななかったのに。お前が居なけりゃこうはならなかったのに。生きてる価値って? ヤダな〜怖い顔。ごめんごめん、冗談が過ぎたね。


 罰として君に一番の幸せを見せてあげるよ。怖いことも嫌なことも、寂しいって感情も。全てがない綺麗な世界ってやつをさ。


 ―――そう、ifっていうアレを……ね。




「……君のナマエはシモンっていうの?」

「そうだよ〜! 素敵で良いナマエでしょ?

 パパとママが考えてくれたんだよ! 良いでしょ〜えへへ」

「そうだね……とっても素敵なナマエだね……とてもいい名だね」


 純真無垢。

 目を輝かせ、見るモノ全てが真新しい。様々なことを吸収し、ゆっくりと大人になり、善し悪しを覚えていく。本に興味を持ったのもこの頃だった。小さな庭の草花を観察して、色々なことを見つけては、母に伝えたかったんだ。その草花にとまる蝶の模様の美しさに感動したのもこの頃だった。小さな生き物の生命に関心を持ち、指先につたうテントウムシの羽ばたく姿。太陽に向かって飛ぶ姿に、僕は嬉しさを感じた。朝になると急いで僕は大きな図鑑を横脇に抱え、首から画板と鉛筆を下げ、生き物や朝露のかかる花や草に木々に楽しみを覚えた。


 雨が降れば

「なぜ雨は降るの?」と問う。

 

 雨のあとに虹が空にかかれば

「始まりはどこで、果てはどうなっているの?」と問う。


 疑問は尽きることは無かった。

 

 雪が積もれば鼻先と頬を赤く染め、何時間も何時間でも、僕は、はしゃぎ回った。結晶を見つめ、バケツに薄く張る氷を指先で触れた。


 見るモノ全てが美しく輝き、命の尊さを感じ取っていた。


 

 僕は夢を見ているのだろうな。断続的に見え隠れする闇が訪れた。

 ……これはきっと、すべて夢なんだ。



「そういえば、貴方のお名前を聞いていなかったわね、私はアメリアというのよ。それからその子は私の息子でシモン。私の大事な息子なの。とても愛しているわ」

 リビングに女性の声が聞こえ僕はハッと我に返る。


「そうですか……僕のナマエは……ナマエは……」

「もしかしてお兄ちゃんナマエ忘れちゃったの?」

 少しだけ俯き困った表情になる。そんな僕に気がついた彼は首を傾け僕の顔をのぞきこんだ。


「そんなことは……ないのだけれど……」

「シモン、お兄ちゃんに失礼よ。それに、言いたくなかったらいいのよ、理由があるならこれ以上は聞かないわ。それからね、貴方はうちの前で倒れていたの。どこにも傷もないし頭を打った感じでもなかったから勝手に助けて此処に運んじゃったの……ごめんなさいね」

「あ〜いえ、そうじゃなくて、そういう事じゃなくて……えっと、あの、他にご家族は?」

「もちろん居るわよ! 今は買い出しで出掛けているのよ、もうすぐ帰ってくると思うわ。あら、噂をすれば帰ってきたみたいね」

 車のエンジンが遠くから聞こえ、女性は優しい笑顔で窓の外に視線を向けた。しばらくしてドアが静かに開き、紙袋に入った荷物をふたつ抱えた男性が入った来た。僕はその人を見て驚いた。


「おや! 気がついたようですね、私はこの家の主になります。ウィリアムと申します」

「……ウィリアムさん?」

「あら! あなた達は知り合いなの?」

「いえ、私は会った記憶がないのですが……もしかして何処かでお会いしたことがありますか? それならば失礼なことを言いましたね」

 ウィリアムはゆったりとした笑顔で僕に微笑む。その表情に嘘偽りはない。僕の方といえば、ありったけの偽りの笑顔を顔に張り付けた。


「あ、いえ……僕の気の所為です。ごめんなさい……」

「君は謝らなくていいのですよ。何もない家ですが身体が楽になるまで居てください、シモンもどうやら君に懐いているようですしね」

 そういうとウィリアムは、あの渋く、どこか甘い香りをさせ笑顔で荷物をキッチンに運んでいった。


 ―――一体全体どういうことだろう?

 此処は過去なのか? それとも、もうひとつの世界?

 

 まさか! これは夢だ! 悪い夢だ。


 そう思いたかった。早くこの場所から僕は逃げたくて、心が叫びだし、もがきながら冷静を保つに必死だった。


 時間が流れていく、ゆっくりと幸せを織り交ぜながら。不気味で、それでいて綺麗な模様を描きながら。


 ―――ただ、ニールは何処にいる?


 これがあの空間で間違えがないのなら、何故ニールは此処に居ない? 僕は喉奥に何かが詰まったかのように気持ち悪くなる。彼らにそれを聞いてもいいのかすら、分からなくなった。



 光があっても、此処は薄暗く禍々しい。黒くて、それでいて酷く中途半端な愛情の匂いがした。作り物のようでこれは現実? 気がおかしくなりそうだ。


 愛しさの所以(ゆえん)

 カスタードの甘い香りも甘酸っぱい林檎のコンポートも、何層にも折り重ねられたパイのバターの香ばしい香りも、挽きたての珈琲の気持ちが落ち着く香気も……痛くも痒くもないオブラートに包まれた記憶を擽る。


 そう、これは強がりだ。


 白い丸テーブルにブルーのキルトのカバーと籐で編み込まれた籠、その中にはアップルパイがゆっくりと湯気をあげる。

 

 小さな花が一輪さしてあるオレンジとグリーンの螺旋模様の美しいソーダガラスのフラワーベースが置かれていた。潤いのある瑞々しい記憶がそこまで来ていた。


 甘ったるくて、くすぐったいほどの記憶。僕は動揺が隠せない。抜け殻は乾燥し、歪さを演出した。きっと指先が触れると跡形もなく全てが崩れてしまうんだ。


 そう、思うんだ。

 だって此処にはニールが居ないから。




 ーーーーーー


 埃っぽい時間は室内の隅々に飾られた立体的な絵をぐにゃぐにゃに曲げていく。何かがとても足りないように感じさせる。何が足りないのか、皆が口に出さなくても理解していた。


「なーに、此処の雰囲気……貪欲に欠けるわね……つまらないわよ」

 そんな空気を読むことを嘲笑うように、テイルノダは脚を組み替えた。

 壁にかけられた外れかけの額縁に何処からか入ってきた蝶がまるで絵画のようにそっと止まった。それをニアはゆっくりと指先で触る。そして苛立ちを顕にした。


「そこのオバサンちょっと黙ってくれる?」

「なによ、嫌な子ね。糞ガキのあんたこそ黙ってなさいな!」

「だあ〜れがクソガキだって? ……見た目だけ綺麗だって仕方ないよ、色欲おばさん!」

「なっ! 気味の悪い餓鬼が……黙ってなさいよ!」

「こ〜んな世にも美しい王子様に言うセリフじゃないでしょ?」

「何が王子様よ! 疑念のチビッ子!」

「かあああ! ボクが一番言われたくない言葉を!

 これから身長は伸びるんだよ! まだまだ成長期なんだよ! 朽ちていくだけの人に言われたかないやい!」

 二人の退屈で無駄な言い合いに、ニールは呆れた目を向け、大きなあくびをした。


「へえ、世にも美しい王子様ね〜」

「そこは口出し無用でしょ! ニールは黙ってて!」

「あ〜、はいはい……お口にチャックね!」

「そ! ニールくん、よろしい!」

 ニアは余計な言葉を言ったニールに指を突き立てると、ニヤリと口を歪めた。


 シモンがいないのは危機的状況。なのにコイツらときたら……とニールは思うが、言葉にはせずにソファーに横たわる。その隣でそんなニールに上目遣いで一度見ると、もたれ掛かるように、ミシェルはそっと瞼を閉じた。


 普段ならば、こんな状況でも顔色ひとつ変えないウィリアムですらこの事態には困惑したようだ。着いてきた迄は良かったが状況にはついて行けていない破れかぶれなアダム。相も変わらずのガキ丸出しのニア。


 ――本当に相変わらずだな。


 そう、誰もが思った。時間は流れど、何一つ変わりはしないのだ。誰一人として。しがみつく事をしなくても全てが寄り添うのだ。誰かが間違いを起こせば誰かが叱り、誰かが悲しみに暮れる。


 喜びの歌も、悲しみの歌も。

 誓いの言葉も。すべてすべて。


「ウィリアムさん、車の荷物はどうするの? そこの馬鹿に任せるの?」

「ん、荷物?」

 ニアの言葉に、ニールは薄く目を開けた。そのままニアは言葉を止めずに今度は黙ったままのウィリアムの方向に視線を移し、ゆったりと一人がけのソファーの肘掛に腰を下ろした。


「写真の入っていない額縁と、そこにいるミシェルちゃん、それからあの古びたオールド物のアコーディオンに水色の封筒と風景写真。ゼロに戻したこともないのに、忘れたフリはないでしょ、ウィリアムさん。乗り越える為に此処まで来たんでしょ! そこの逃げ出した男も同様。ねえ、そうでしょ! 」

「どうしてお前はいつもいつも分かったような面して……」

 ニールは言葉を選ぶこともせずに、独り言のようにつぶやく。


「なんにもわかんないよ! 誰も何も言わないでしょ! だからボクがこんな大声で言うんじゃない!」

 大きな瞳に溜まった疑問も心にずっと秘めていた言葉の数々も。あちらこちらに散らばったモノが溶けて混ざっていく。そしてゆっくりと躊躇いもせずに解けていく。


 解けていく疑問は、ぱちぱちと弾ける。心が揺れていく、何かが何処かに染み込んでいく。とどまる事はおそらく全てをひとりにしていく。闇の中に座ったままの心はまだ……纏まりを知らない。それが痛いほどに贖うのだ。残酷な時間は刻一刻と歩みを始めた。


 ーーーーーー


「何? お兄ちゃん、どうしてまたそんな目をするの? お水また飲む? 僕が入れてあげる!待ってて」

 僕の目に映る、幼少期の僕が心配そうに上目遣いでおろおろと動く。焦りのわりに彼の目は冷静だと僕は感じた。


 濁った深い海の色が心を捉える。

 嫌だ。此処は嫌だ。「早く違う場所に行け」と心が叫び声を上げる。違う。違う。此処には僕が居ない。此処は僕の居場所じゃない。

 誰か助けて、助けて、助けて!


「ねえ、本当に喉は乾いてない?」

「大丈夫だよ。シモンくんありがとう」

 彼の両手に握られた水の入ったグラスを僕はそっと手でもらうと、精一杯の笑顔で笑ってみせた。さっきまで晴れていた窓からの明かりが雲が太陽を隠すと、彼の口元と澄んだ瞳にうっすらと影がついた。そして彼がすっと薄ら笑いを浮かべた。


「やだな……シモンお兄ちゃん……分かってるクセに……ね?」

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