第47話 残響と幻想とアメトリンの瞳
季節は待っちゃくれない。雲の流れも待っちゃくれない。ゆっくりと準備して、用意した頃にはもう遅くて、空を見上げては溜息を吐いた。
小さな頃から、いつも後ろ姿を追いかける僕は必死だった。並んで歩けるように手を伸ばしても伸ばしても、距離はいっこうに縮まらないと思ってた。
ずっとずっと、そう思ってたんだ。
ねえ、まだ僕は追いつけないままなのかな?
*****
いつから、このビルは静かに廃墟のように佇んでいるのだろうか。自らの世界を形成し、時間を閉じ込めた空間。壁は老朽化が進み、所々の壁紙が捲り上がっている。その捲り上がった木の所々に、シミがグラデーションを描く様な不規則な形で茶色く靄のように浮き上がる。それでも、床の大理石はクリームが溶け込んだような滑らかさがうっすらと埃を積もらせても、美しい模様を見せた。石は美しさを物語るには十分な程に人々に年月を伝える。自然の豊かさを取り込み、ゆっくりと年月を重ね、地も水も生命すらも練りこんだモノだ。
此処はホテルだったのだろうか。荷物を運ぶワゴンが錆をたっぷりと蓄え、物悲しさが垣間見える。ソファーの肘掛には二枚の手袋と膝掛けが丁寧にかけられていた。昔は此処はとても賑わっていたのだろう。高級感が分かるのはホールの豪勢なカットガラスのシャンデリアに革張りの大きなソファー。飴色のテーブルに数脚の刺繍の入ったスツール。古き良き時代。まるで目を閉じれば、その当時が容易に思い浮かばることが出来た。とても賑わった吹き抜けのホテルのロビー。ドアマンの真摯な対応も、ベルの爽やかな笑顔も、今は此処には跡形も何も残ってはいない。今此処にあるのは、埃の降り注いだ静寂と過去の記憶。そう、思わずには居られなかった。
「え? ちょっと、何? これはどういう冗談?」
ニアはニールの姿を見て、素っ頓狂な声を上げる。その隣の男は口元を歪め、ニールに腕を伸ばして何か言いたげな表情を浮かべた。ソファーに気怠い体制で横たわる少女はまるでセルロイドの人形のようで、触れるといとも簡単に壊れてしまうのではないかと思わせる。少女は繊細な上に無駄な動きが一切ない。時折、細い指で髪を巻き取る動作を繰り返し、こちらを見たまま髪を何度も触った。瞬きをする度にウィリアムは目を疑い、目の前の状況にしばらく黙ったままだった。
……偽物なのか、本物なのかさえ分からなくなるほどに。
「ニールさん! なんですかコレ…… 仮装パーティーでもする気なんですか? 俺もカウボーイですし…… そういうアレなんですか?」
その空気を割って入ったのはアダムだった。
嫌な程に空気が張り詰めていたのに、「コイツは……」と、流石にニールが額に手を添え呆れた声を上げた。
「アダム…… オマエだけは相変わらずだな…… 何も変わらないな」
そのニールの言葉に男は不愉快そうにニールを見た。
「これもお前の仲間か?」
「まあ、成り行きの……ね」
男の言葉に笑みもこぼさずにニールは答えた。
「ひどい…… 成り行でも家族は家族でしょ!」
「オマエは家族とは違うだろ…… アダム……オマエは何かが違うぞ」
「もう本当にニールさんってひどい…… ところで、そこの女の子ちゃんは誰ですか? 攫ってきたとかって事はないですよね? ニールさん」
「本当にオマエはどれだけ馬鹿なんだよ……そんなわけあるか!」
ニールの言葉にアダムは言葉を積み重ねて行く。ソファーに座った彼女は何も感じていないのか変わらず髪をいじっていた。そこに痺れを切らしたニアが少々呆れ気味に腕を組み、冷ややかな視線を落とし声を出した。
「じゃ〜ニールは…… その御様子じゃ、シモンちゃんの事をな〜んにも知ってはないみたいだね?」
「ニア…… シモンに何があった!」
「すぐそうやって目の色変えちゃう! ん〜でもね…… そっちが先に今までの事をキレイさっぱり嘘偽りなく話をして、三指付いて誤ったとして…… まあボクが素直に言うかなんてわっかんないよ〜! どうしよっかね〜 」
「けっ…… クソガキが! もったいつけやがって……」
「だあーれが糞ガキだよ! そっちの方がボクなんかよりもずーっとガキんちょでしょ! そもそもシモンちゃんが居なくなったのだってニールが居れば確実に対処できたことなんじゃないの! 元はと言えば、すべてニールが悪いんじゃないか! 勝手に出て行ったって事は理解してないんじゃないの!」
「こっちにも色々あんだよ…… それにシモンのことは本当に俺はなにも知らない……」
「何が色々だよ! それは勝手なそっちの言い分でしょ! ちゃんと説明してよ! だいたいニールはいつもいつも……」
「もういい加減に二人ともおやめなさい……」
小さな小競り合いを止めるには十分なほどの落ち着いたウィリアムの声は二人をあっという間に黙らせた。
「ほーんと…… 勝手に始めちゃって気に食わないったらありゃしないわよ! まだ熟してないマンチニールの実は美味しくないわよ!
青い毒林檎は気侭に摘み取っちゃイケナイのよ! ねえ、ドミノ!」
「……テイルノダ!」
何処から現れたのか、あの時の女が受付カウンターのテーブルに真っ黒なカクテルドレス姿で脚を組み座る。そして、艶めかしく赤黒い唇を舐め、痛い程の視線をニールに向けほくそ笑んだ。女を見ても驚くことなくニールは嫌味を言い放つ。
「ほほお、そういう繋がりはもっとキチンと説明してくれよ…… それにしても本当に嫌な女だなオマエ!」
「二人を残して、役者がみんな揃ったっていうのに…… なんなのよこの感じ。それに、ニールは一晩中、愛し合ったレディーに久しぶりに会ったっていうのに一番最初のセリフがそれなの…… 本当に、嫌な男ね……」
「あんな美女と…… 一晩中、愛し合ったって?」
「アダムさん…… 驚くの、そこじゃないよ…… って黙っててくれない? ……なんなら今すぐにでもボクが黙らせてあげようか!」
アダムは頭に手をあて、女とニールを交互に見て騒ぎ、ニアが苛立ちを隠せない表情を浮かべてアダムの袖口を持ち後方に一気に引っ張った。
「次から次と面倒な奴らがぞろぞろぞろぞろ…… ミシェル…… そこの書類をくれるかい?」
少女はゆっくり立ち上がり、サイドテーブルに置かれた封筒を手に取り、ニールを見て首をかしげた。
「これでいいの?」
「そう、ミシェル今日もいい子だね、それからかわいいよ。……ウィリアムのオッサン! この子のこと知ってんだろ? なあ〜」
不意に声をかけられたウィリアムは伏し目がちにニールを見て声を出す。
「ええ、ミシェル・グリーンは…… 私のとても愛した子だ……」
「ミシェル? ……愛した子? ウィリアムさん……」
ニアは独り言のようにつぶやき、ウィリアムを見たまま黙りこんでしまった。
おいてけぼりの心が叫び声を上げる。
あの時の記憶も私の想いも、流れてゆく年月も、流した涙も。加速していく心がすべて巻き戻していく。甘い爪痕は思ったよりも深かったようですね。硝子が散って奥深く刺さり退屈な果実が静かに腐っていくようだ。液体と化したそれは私の上に降り注ぐのでしょうね。しがらみも後悔も気が遠くなりそうですよ。束ねた愛は燃やすべきでしたね。
ウィリアムとニア達を囲む辺りの空気は、夏を迎える一歩手前の気温ではないと否応にも感じた。
*****
目を閉じているというのに暖かな陽射しで、まぶたの裏がとても眩しい。目を開けると、ぼやけた視界に真っ白な天井が見える。すると、きらきらと光る眩しさに目が開けていられなくなった。そして、僕はもう一度ゆっくりと目を開けて、身体を横にした。目に見えるのは木目の綺麗な壁。香ばしくて、僕は懐かしさを心の隅に集中させた。背にしていた壁から身体を反対側に向けると白い木の椅子でうたた寝する女性の姿が見えた。僕はその人を起こさないように息を潜めた。すると、その椅子の斜め向かいに何かが動くのが見えた、目を凝らし視線を移す、カラフルなブロックで大きな何かを作っていく小さな男の子が見える。栗色のカールされた髪に、淡い水色のTシャツにヒッコリーのオーバーオール。しばらく眺めているとその子は不意にこちらを振り向き一瞬小刻みに身体を揺らす。それは完全に僕に気が付いたようだった。びっくりした目をしたかと思うと、何かを思いつめたようにきゅっと目を細め、口を一文字にする。そして、徐ろに立ち上がり、ぱたぱたと軽快なリズムを奏で小さな音を部屋に響かせた。
「ママ〜! お兄ちゃん起きたああ! やっと 起きたあああああ!」
僕はその言葉に面食らった。典型的な子供の告げ口をする時の勢いだ。
「あら、本当ね〜 起きたわね」
女性は目を覚まし、口に手を添えて小さなあくびをする。小さな彼の言葉に応えるように優しく彼の頬を撫で安心させた。きっとこの女性は彼の母親で此処はこの人たちの家なんだろう。女性はテーブルの上に置かれたライムの輪切りとレモンの輪切りが入ったガラスのピッチャーの水をグラスに注ぎ入れ、とても柔らかな笑みを浮かべ僕の横に立った。
「貴方どこも痛いところはない? お水飲めるかしら?」
なんだろう、この感じ。僕は少し違和感を覚えつつも、グラスを受け取ってすぐには飲まずに両手でそれを握ってゆらゆらと揺れる水を眺めた。
「ふふふ、毒なんて入っていませんよ? ライムとレモンと、あと、ほんのちょっとローズマリーが入ったお水よ。口の中がさっぱりするだけ、安心してちょうだい」
そう彼女は僕の前にかがみ、暖かな笑顔で僕のその手を柔らかく両手で包み込んだ。温かくて優しいブルーローズの香りがふんわりと微かに僕に届く。どこか懐かしい。その横にさっきの男の子が立ち、僕の前にぬいぐるみをそっと差し出した。
「お兄ちゃん泣かないで! ぼくまで悲しくなっちゃう…… クマさんかしてあげるから、もう泣かないで…… ね?」
―――僕は何故、泣いている?
おかしいな。どうしてだろう。涙が次から次へと溢れ出した。
「シモン、とっても優しいのね…… ママも同じ気持ちよ。早くこのお兄さんが元気になってほしいものね。シモン、ママとってもとっても嬉しいわ、アナタが大好きよ…… シモン」
と、アメトリンの輝きを持った瞳の色の彼に柔らかに母は微笑んだ。
―――此処は一体全体、何処だ?
――― 僕は何故、此処にいる?
此処はあの家だ。
大嫌いだった、思い出の場所だ。
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