第46話 冬来たりなば春遠からじ
淡い期待はするものじゃない。
期待は外れた時、とても心に悪い。
そうでしょう?
「今、瞳に映る未来を信じればいいんだよ」
そう教えてくれたのはアナタでしたよね? あの日、助けた小さな命は間違えではなかったのでしょう? だったら教えてくれますか、培った想いをどう消せるかを……
耳が痛くなる程の静けさ。街が寝静まったのを感じたのは、いつぶりだろうか。こんな夜はあの日のことを思い出す。
オフィスビルが建ち並ぶ一角にこんじんまりと佇む煉瓦作りの古い建物。それがウィリアム・ロック探偵事務所。迷い猫の依頼から夫婦のいざこざ。昔は、そんな陳腐な依頼のやり取りにあからさまな溜息をつき、うんざりしたように窓の外を見下げていた。あの頃の私は傲慢で高飛車だった。警察が手に負えない依頼が来れば、喜んで飛びついたものだった。
「誰にも解決出来なかった案件」その言葉が私の興味をそそり、初めて心が跳ねた依頼、それは「気狂いの病(やまい)」でした。心を蝕む病は、人のソレではなかった。今までのように見様見真似で出来る仕事ではないと私は頭を抱える。だが、これが最高に楽しかったのです。人の子の形をしたソレは「レッドデータ・ブック」に載る代物で数百マイル先のサーカス小屋で見つかった。エメラルドとサファイヤの瞳を交互に持つ、とても痩せっぽちな少女だった。私に依頼主は彼女の保護者を見つけて欲しいと託した。
彼女の名は『ミシェル・ウッド』
適当に付けられた名かもしれないその名を、私は愛した。心から愛した。
ミシェルは手がつけられない程に泣き叫び、部屋中を暴れまわり私を困らせた。忍耐合戦とでも言いましょうか、ろくに食事も取らず水分も欲しない彼女が先に観念するとばかり思われた。だが先に心が折れれたのは、私の方だった。
毎夜、彼女を私は客室に部屋に閉じ込めた。そうすると、泣き叫ぶ声が聞こえてくる。壁を引っ掻く音が耳障りだ。寝不足になった私は仕事をしている真昼間に朦朧としだしていた。グラスを指で持ち損ねて落としてみたり、エレベーターをボタンも押さずに乗ってみたりと散々だった。そして、心のどこかで、いずれ彼女が何かの言葉を呟く日が来ると私は信じていた。まったく疑うこともせずに。なのに彼女は話すことは疎か、一向に私に懐くことはなかった。依頼の期日が近づくにつれ、私は頭を抱える。作ってもぶちまけるだけの食事は無駄なのかと半場諦めかけていた。そんなある日マグカップにミルクを入れ、ビスケットを数枚を皿に乗せテーブルに置く。どうせ食べはしない。数メートル離れたテーブルに突っ伏すカタチで、私は彼女の目を静かに見つめた。彼女は低く唸りながら私を睨み、初めてビスケットに手を伸ばす。また払いのけるのかと、諦めたように私が笑う。すると、彼女はビスケットを口にゆっくりと運び入れたのだ。軽い咀嚼音が静まり返った部屋に響く。彼女は初めて私を見て指先を伸ばしてくる。私は箱に入ったもう一枚のビスケットを手に取って彼女に差し出した。そっと彼女は私からビスケットを受け取り、それもまたゆっくりと口に入れ、頬を小動物のようにふくらませ食べていく。時折、咳き込む彼女にミルクを勧めたが、これは飲もうとはしなかった。代わりに私の入れた珈琲をのぞき込む彼女は羨む目をこちらに一度向けると興味を示した。私は何も言わずにカップを差し出す。すると、彼女は小さな手で包み込むようにカップを持ち、ゆっくりと珈琲を口に含んだ。その時、初めて声らしき声を出した。
「これ……おいしくない」
その言葉に私が先に負けたのだ。
小鳥が囀る美しい音色のように、私には聴こえたのだ。
そこから奇妙な毎日が始まる。お皿にビスケット数枚と温かなミルクココアをマグカップ入れ、そして、優しく驚かさない様に彼女を起こす。寝起きのライオンのたてがみを連想させる程の寝癖を直すところから朝は始まる。ゆっくりと丁寧にブラシを入れていく。手入れをすると徐々に彼女の髪は繊細な絹の輝きを見せ、美しく成長していく。次に風呂に熱い湯を用意し、ゆっくりと見せてみる。やはり初めてだったのか、すぐに興味を示したが、立ちのぼる湯気に恐怖を感じ逃げてしまう。この繰り返しを根気よく毎日続けた。慣れてしまうと簡単で自ら浴室に行き、浴槽に湯を貯めることを彼女は楽しんだ。
街に連れて行き、洋服を選び、必要な物を揃える。ショッピングを楽しむ彼女の目はきらきらと輝く。彼女にとっては真新しい世界。私はそれを見守ることが幸せになりつつあった。客室は気がつけば、彼女の好む物でいっぱいになった。
ところがある日、彼女が忽然と姿を消した。次に見つかった時には暖かな指先も美しい髪もすべて、変わったモノとなってしまった。冷たい夜の海に一隻の小さなボートに乗った彼女は仰向けで青白く、まるで微笑んだかのように死んでいた。小さな手には袋が握られていた。
それは、私が一度だけ彼女を膝に乗せ図鑑を開き見せて、自作のお伽話を話したことがあったのだ。青い蝶がきっと幸せを運んでくるという御話をした。袋の中には一匹の青い蝶が、そっと入れられた状態で今にも息絶えそうになっていた。鱗粉が袋の中で巻き散らかったのか、封を開けたことによって風に舞う。キラキラと、さも楽しそうに……
「その図鑑の蝶はとても綺麗でしょう……私はこの蝶が生きて飛んでいる姿を見てみたいです。貴女と一緒に見られるといいですね」
―――私はそう、彼女に言った。
「ウィリアムさん……準備はいい?」
肌が泡立つほどの寒気がする。いつぶりでしょうか。部屋に掛けられた何も入っていない額縁を私は見つめたまま、想い出にのみ込まれかけていました。ニアの声に呼び戻され、私は胸が苦しくならずにすんだようです。
「ええ、いつでも……」
その言葉と共に私は部屋から出た。私の心を見透かしたようにティノはガブリエルの後ろに隠れた。ガブリエルはティノを気にして少しだけ苦笑うと、ウィリアムを見て小さな声を出した。
「ウィリアム様、アメリアはいつも傍に居ますよ……そう、いつも貴方の片時も離れずに……」
「ガブリエル、此処とティノさんの事は貴方に全てお願いしましたよ……」
ウィリアムの言葉にガブリエルはゆっくりと頷く。ティノはその隣で下唇をぐっと噛み何も言わずにふたりを見ていた。すると、ガブリエルの肩越しから蚊の鳴くような声が聞こえてくる。
「ウィリアムさん、アタシ……やっぱり行っちゃダメなの?」
そう言ってティノは、またガブリエルの陰に隠れてしまった。
「来てどうするの?」
「ニアはまたそんな言い方! アタシだって囮くらいにはなるでしょ!」
「ティノ……」
そのティノの言葉にニアが言葉を濁す。取り繕う言葉が見つからないのだ。
「可憐な女の子に危険な目に合わせたら男がすたるでしょう? その役目は俺でしょ?」
扉の横でカウボーイハットを被ったアダムが照れくさそうに笑った。
「なに? そのテンガロンハット……時代遅れのカウボーイ? そういうの似合ってないよ? それから足でまといの間違いでしょ?」
「ニアくん言いますね〜」
「ええ、あながち間違いではないですね……前のようにはいきませんよ」
「そんな〜ウィリアムさんまで……」
そんなやり取りに目に涙をいっぱいに溜めたティノが吹き出す。
「ティノ! 泣かないって決めたんでしょ?」
「泣いてないわよ! これはあくびで出たのよ! 勘違いしないで! それに……」
「それに?」
「アタシよりニアの方が泣き虫じゃない……」
「あ〜、はいはい……ガブリエル! とびきりの美味しいお茶を用意して待ってて!」
「ええ、ニア様、わかっています」
「言われなくたってアタシも此処でずっと待つわよ! 必ず帰ってきてよね! お土産はクリームたっぷりのパイでいいから!」
照れくさそうに壁に向いて、ティノは泣き顔を見せないようにした。
「あと、お土産はポンコツのおっさんと色白美肌のお兄さんでいいよね?」
「うん! それは絶対だからね?」
「ニア……時間です。行きましょう」
「はいはーい!」
ニアはティノと約束をし、壁の白い鳩時計を見る。時の止まった時計を。ウィリアムの声が扉の向こうから聞こえ、ニアは小走りで行ってしまう。その後ろ姿を見つめたままのティノは隣に立つガブリエルの袖口を強く掴んだ。
数時間、車を走らせ『フォルセティ』という街に着いた。ウィリアムは車を止め、天を仰ぎみる。ニアとアダムはきょろきょろしながら後部座席とボンネットを開ける。エンジンの焼ける匂いに、ニアが苦笑いをした。後部座席のリュックを背負ったアダムはニアの顔を観てボンネットに手を伸ばす。半笑いでニアの肩を優しく叩くと首を横に振りウィリアムの横に立った。薄暗い廃ビルの入口は割れたガラスに壊れた鍵。うっすらと埃のかぶった受付が見え、枯れた花の生けてある花瓶が横たわる。まるで映画やドラマのセットのようだ。完璧なまでの廃ビル。もちろんエレベーターは稼動していない。人の気配もまるで無い。ただ背筋は痺れるほどに何かを感じていた。
「よお! 御三方お揃いで!」
「その声は……ニール?」
割れた窓から降りそそぐ光でよく見えない。その逆光になった物陰で聞き慣れた声だけが聞こえ、ニアがニールを呼び眩しそうに目に手をかざした。
「ここまで来るとはまいったね……あんたはやっぱりすげえわ! ウィリアムさん御立派!」
「……ウィリアム? おじさん……なの?」
か細く今にも消え入りそうな少女の声が聞こえてウィリアムは今までに見せたことない表情になった。
「ミシェル……」
光に目が慣れてきた頃、受付から少し離れた場所に開けたホールがあり、暗がりに柔らかなランプの明かりが灯る。そこにはきちんと身形の整ったスーツ姿のニールと、細身のウエイター姿の男。そして、あの頃と何一つ変わらないミシェルがゴシックドレスに身を包み、ソファーの肘掛けに身体を預けるように座っていた。
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