第19話 壁

 ボクは自分が特別だなんて思った事は一度もなかったんだよ。あの人に逢うまで。喜びも悲しみも何も知らなかったんだ。

 涙を流す事も笑う事も――すべて、あの人に出逢うまで知りもしなかったんだ。

 教えてくれたのは、あの人だったから。幾ら言葉を重ねても足りないんだ。ホントだよ?


 *****


 身体中が悲鳴を上げ、目が覚める。寝返りをしようにも、しばらく時間がかかる、痛みで起き上がれないなんて、生まれて初めてだった。僕はベッドから起き上がる事がとても億劫だった。

 昨夜、あのまま眠ってしまったのか。スーツをあちこちに脱ぎ散らかし、ベッドに身体を深く預けていたらしい。

 それから、何か大事な夢を見た気がするのに。まったく思い出せない。

 とても大事な事だった筈なのに。何かが邪魔をして頭の中に靄がかかり、思い出せないでいた。

 

 応接室に行くと、忙しく動きまわるニアが僕に気が付く。

「あ…… シモンちゃん。起きたんだね? よかった。でも…… ニールがまだ起きないんだ……」

 氷枕や氷嚢を両手に持ち、苦笑いをしてニアはニールの寝ている部屋に入っていった。少し開いたドアの隙間からニールの呻き声が聞こえたが、足がそれ以上前に進まない。そんな僕の肩にガブリエルがそっと手を置く。


「シモン様、 昨夜はお風呂にも入らずに眠られたようで…… お湯の用意が出来ています。スーツもワイシャツもクリーニングに出しておきます。今日くらいはゆっくりとなさってください」

 そう笑顔で僕を気遣ってくれた。

 

 バスルームに入り、姿見の前で自分の身体を見て血の気が引く。

 身体中に手形のような痣が無数に散らばっていたのだ。その痣は、あちらこちらに鮮やかな赤や青紫の花を咲かせる。でも、それよりも心の中の痛々しく腫れ上がった感情は何処に捨てればいい?

 優しい香りのするバスタオルに身体を包み込み、僕は梅雨が淵の事を思い出していた。

 弱々しい華奢な身体を揺らして、ニールを抱きしめる女性が、アレが母さんだったと知った僕は恐怖に怯えて動けなかった。話には聞いてた。けど、あんなに酷い傷だったのかと、あんなに小さく華奢な人だったのかと、思ったんだ。僕は相変わらず無力感に押しつぶされそうになっていた。嘘だと思いたかった。あんなに傷だらけで、なにも手だし出来ずに崩れていくニールの姿を見るだけで何も出来ない自分にも……

 湯船に身体を浸す。お湯が熱いのか、痣に沁みるのか、その痛みは心にも打撃を与えてくる。

 あの時の恐怖。あの時の痛み。あの時の自分の不甲斐なさ。どれをとっても苦しい事だった。もう、思い出したくなかった。


 バスルームから出て、髪を乾かし、扉をゆっくりと開ける。ソファーに腰掛け、資料に何かを書き込むウィリアムは僕の姿に気が付きテーブルに資料をそっと伏せて置く。


「シモンくん、大丈夫ですよ…… ニールくんは、彼は、とても強いです。だから平気です。君が気に病むことはないのです」

 ウィリアムがいうには、ニールの傷は致命傷は避け、数日間は様子を見るということだった。


 翌日、梅雨が淵で五人の遺体が沢の下流で発見されたとの報告が入り、騒ぎはもう何も聞かないとの事だ。下級悪魔が起こした事件は、自然災害と片付けられた。


 数日後、やっとニールが目を覚ます。

 僕は大声で騒ぐニアの声に気がつき、目が覚める。


「もうちょっと…… 静かに騒いでくれないか?」


 ニールの声が聞こえ、僕は部屋を覗く。ベッドで笑いながらニアの頭を押さえている姿が見えた。僕は胸を撫で下ろすと部屋に入るなり声を上げた。


「 ニール…… どうしていつも無茶ばかりするの? 僕がどれだけ心配したと……」

 まずい。僕は思わず大声で叫んでしまった。何が起きたのか分からずにキョトンとして、僕を見るニールの顔。これ以上、声にすると僕は泣きそうだった。

 驚いた表情からバツ悪そうにニールは頭を掻く。

「わかってるよ。でも、今は勘弁してくれよ……」


「ねえ? ……バカなの?」

 ベッドの上で座り、大人しく話を聞いていたニアが、聞こえるか聞こえないかの声で言葉をこぼす。


「 ……わかってるよ。俺が馬鹿だって事くらい…… お前まで本当にうるせえよ」

「そっちじゃなくて…… あっちの人……」

 と、ニアは僕を指差し、酷く睨みつけて肩を震わせ声を荒げた。


「ねえ、わからないの? ホントに? ……大事だからに決まってんじゃん。真面目優等生キャラのクセに…… ホントにバカじゃないの?」

 ニアは伏し目がちにそう言って、再度声を荒げたかと思うと、僕をもう一度睨みつけた。


「コイツになんかあったら、ボクがアンタを許さないし、ウィリアムさんだって悲しいんだからね?」

 扉の前で『そうですね、次は指切りでもしていただきましょうね』と、サイドテーブルにスープを置いて、そっと静かに部屋から出て行ってしまった。


「ね? すごく心配してくれてるよ!」


「ね? じゃねえぞ? オッサン、今さらっと恐ろしいセリフ残して出て行ったぞ……」

 半笑いでニールはニアの髪を撫でると、ニアは目を細め首を竦めて嬉しそうにした。


「ニール…… ニア…… ごめんなさい……」

 僕は二人に頭を下げ謝ると、床を見て頭をなかなか上げることが出来なかった。


「俺は気にしてねえよ。お前が無事でよかった…… 本当によかった……」

「そうやってまた甘やかすんだ……」

 ニアは呆れた目でニールを見上げてから、窓から見える空を見上げて空気が漏れるような声で笑った。

 

 真っ青な空は高く、冬の雲を飛行機がゆっくりと引っ張っていった。

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