第18話 揺れ動く時間

 信じられなかった。


 いや、きっと俺は信じたくなかったんだ。赤子だったシモンはきっと本当の母さんの顔を覚えちゃいない。シモンの知る母さんは作り物の 「アノ」 母さんだ。優しい口調も瞳も髪も


 ――偽物だったのだから。


「ニール……とっても逢いたかったのよ?」

 

 土砂降りの雨が俺達の心を弱くさせる。雨はさらに地面に力強く叩きつけた。ゆらゆらと揺れる身体を支えた彼女の両脚は心なしか不格好だ。華奢な身体は雨に濡れた事で更に弱々しく見せる。大きく開く傷口に雨が吹き込み、カサブランカの花が枯れたような、捲れ上がった充血する皮膚からは数匹の黒い虫が蠢く。ニールは顎を上げ彼女を見下ろしたと思うと眉をひそめた。


「……俺は、オマエなんて知らない!」

 青白い額から眉間に向かって伸びる血管は赤黒い刺青のように浮き出てていて痛々しい。こんな余計な事を考えている暇なんてありゃしないのに……色んなモノが一気に流れ込み、ニールの頭が理解に苦しむ。


「そんなひどい言葉使わないで…… さあ、こっちにいらっしゃい…… いっぱいあなたを抱かせてほしいの…… ねえ? ニール……」


「ニール…… その人が…… 本当の母さんなの?」

 シモンは怪訝な表情で首を傾げる。

 違う! コイツは母さんじゃない! そう叫びたがった。でも、ニールは何も言えなかった。唇を噛み締め、力を入れなきゃ倒れそうだった。じわりと血の味が口に広がる。もう俺は限界に達しそうだった。地面に足をしっかりと付けているはずなのに、ぐらぐらと頭が揺れ眩暈がする。正気を保てと自分に言い聞かせるので必死だった。だから、声を出す事も出来なかったんだ。


「……ニール ……さあ、こっちにいらっしゃい」

 ゆっくりとニールに、にじみ寄る彼女。みしみしと撓る音がなる膝の関節は今にも骨が突き破りそうで薄い皮が透ける。


「その顔で…… その声で…… 俺を呼ぶなよ…… なあ…… やめろよ? ……やめてくれよ!」

 両手を前に突き出し首を横に何度も振る彼女は紛れもなくあの頃の母親だった。夢なら覚めてくれ、そう何度も願うが、これは現実。彼女の笑う顔が徐々に近づき、くしゃくしゃと乾燥した唇が動き、小さな歯が見え隠れする。


「恥ずかしいことなんて、ひとつもないのよ? 」

「うるさい! 黙れ!」

 目を力いっぱい閉じてニールは怒鳴る。混乱で頭がどうにかなりそうだった。母さんは死んだんだ、あの時バスルームで――


「ニール…… あなたが居てくれて嬉しい……大好きよ」

 あの時の最後の言葉。

 ニールの中で何かが徐々に崩れ落ちる音がする。

 血の匂いとバラの香水の入り混じった匂い。バスルームの噎せ返る、あの香り。心の片隅に居た子供の姿のニールが顔を出す。泣きたいのを我慢する子供の頃のニール。脚の間に子供の姿のニールがしがみつく。恐怖に、おののいた顔……あの時のニールだった。父さんに必死でしがみつくニールがフラッシュバックする。バスルームからの水が流れ落ちる音。勢いよく扉を開けた時の記憶。母さんはバスタブに浸かり穏やかな眠った顔で死んでいた。傷口は水分を含み、ぶよぶよと白く膨れていた。排水溝に流れゆく赤い水は白いタイルの溝に線を綺麗に描く。思い出したくなかった。もう二度と思い出したくなんてなかったんだ。


 腹の底から何かが湧き出るような感じがする。我慢が出来なくなり膝を付きニールは嗚咽を加え、腹の中の物を全てブチ撒けた。


 水たまりから無数の手が、ぐちゃぐちゃと音をたてて這い出て蠢く。赤い爪に、虚ろな白く濁った目。腐った臭いに黴た臭いが入り交じる。吐き気がする。まだ真新しい死体の殻を被った醜い形をしたモノ。


「まさか? 行方不明者? でも、もう彼らは……人間じゃ……な……い……」

 シモンがソレを見て後ずさりをする。きっと本能がそうさせるのだろう。此処に居てはイケナイ。一歩でも前に出てはイケナイ。

 何処かと通じているかのような無数の水たまりから醜い形をしたモノが溢れ出てくる。数匹の下級悪魔がシモンの両脚と両腕を掴む。次に頭を鷲掴みにし地面に叩きつける音とシモンの叫び声が聞こえた。

 シモンを助けたいのに身体が云うことを効かない。

「俺はあいつの…… シモンのヒーローにはなれないのか?」

 ニールの頭には昔のことばかりが思い出された。

 ニールの両腕を左右から下級悪魔達が持ち上げる、そんな事にもニールは気が付かなかった。抵抗することもなく拘束される。全く情けないとニールは思った。


「ニール! 僕が…… 今助けるから…… 今すぐに行くから……」

 シモンの絞り出すような声が聞こえる。


「あらあら…… 弟を助けることも出来ないのね? そうよね、人は誰でも自分が可愛いものね? ママにそんなに甘えたかったの?ねえ? ニール……」

 母の形をしたモノが俺を抱きしめる。頭に顔を押し付けて、きつくきつく抱きしめられた。


 ――あの時と同じ、あの時の香りで。


「……ニール逃げて」

 シモンは押さえつけられ、ニールを見ることしか出来ずに悔しそうな声を出す。

「なんで…… どうしてだよ…… よりにもよって母さんの姿なんだよ? やめろよ! やめてくれよ! 」

 今にも泣き出しそうな声は雨の音にかき消された。首に後ろからそっと巻き付くような形で、母さんの入れ物は千切れそうな両手をニールの頬に当て笑う。


「ニールは優しくてイイコだもの…… 私を傷つけたり出来ないわ…… ねえ? 一緒に行きましょう。ねえ? 」

 優しい口調の母さんの声が厭に耳に纏わり付く。髪を掴み上げ、ナイフを拾いニールの首元に先端を付けた。ナイフが首をスッと撫でる。薄く切れた傷から鮮血が雨に混じり白いシャツを赤く染めていく。母さんの入れ物は裂けた口で、にやりと笑う。高笑いする声。人間の姿をゆっくりと雨でどんどん溶け落とし醜悪な顔と腐った臭いを放った。数人の下級悪魔に身体を押さえつけられ、身動きひとつ取れない僕は見る事だけを許されニールに向かって大声で叫んだ。

 

 悲痛な僕の叫び声と共に、水飛沫を飛ばし突如として現れたニアが母さんだった入れ物の首を真上から見事なスピードで切り落とした。


「ちょ~っと! おイタが過ぎるんじゃなあ~い? 下級ちゃんのクセに偉そうなの! それにね、滅多に僕はこんな業物は使わないんだよ? ってことはね、すごーく怒ってるって証拠! そこ! 大事なことだからメモっていてよ? シモンちゃん! 今回、あの荷物の中からコレを借りたよ!」

 ニアは返り血の付いた自らの顔を腕でグイと拭くと「汚いな! もう!」と、そう言って笑う。あの赤い紐の巻き付けてある日本刀を一度大きく振って血を飛ばす。そして、そのまま鞘に入れず刀を肩で担ぐ。地面に無残な姿で転がるニールを見て。


「ああ…… 結構やられちゃった? もうちょっと遅く来てあげれば良かった? いひひひ~ 」

 ニールの横に腰を下ろして顔を確認するように見てから、ホッとため息を吐いて歯を出し笑う。

「バカヤロ…… 死ぬ所だったんだぞ! もうちょっとヒーローってのはな…… 早く来るもんだろうが……」

 突然、言葉が途切れたと思ったらそのままニールは気を失った。そんなニールを見たニアは呆れた素振りをみせ、踵をトントン鳴らして笑う。


 ウィリアムは完全に座りきった冷ややかな目で、戦いを楽しんでいるようだった。舞の如く鮮やかに下級悪魔の腕と脚の健を狙い、刀で削ぎ落としていく。痛みに気が付く事も無く体制を崩し落ちていく。ウィリアムは腹の底から楽しむように冷たい声で、

「おや、こんなものですか? もっと楽しめると思ったのですが…… 残念ですね……」

 ウィリアムはそう言うと、次に下級悪魔の目を潰し切る。

「アナタに永遠の闇をプレゼント致しましょう…… どうですか? 感覚で全てを感じて下さい。孤独でしょうか? はたまた快楽でしょうか?」

 と、言った次に素早く鼓膜を貫く。下級悪魔は叫び声を上げるだけでグニャグニャと身体を揺さぶり動くだけだった。

「おや? もう終わりですか? なんともつまらない幕締めですね…… アナタにもう御用はございません……」

 そう言って首をひと突きして下級悪魔を見下ろし、嘲笑った。


「ああ…… ありゃダメだ! ウィリアムさん完全に楽しんでる…… 怒らしちゃダメな人ナンバーワンだもん! 下級ちゃん達、ご愁傷様だね……」

 さすがのニアも冷や汗をかいて苦笑いをする。シモンに気がついたウィリアムは近づき腰を下ろすと「シモンくん…… 歩けそうですか?」と確認する。

「ええ、なんとか……」ニアが肩を貸してくれ、僕はようやく立ち上がった。


「今回の問題はあちらですね……」

 ウィリアムは深いため息をつき、ニールを見下げてから背に担ぎ、車まで運ぶ。後部座席に横たわらせるとウィリアムは車を事務所まで走らせた。僕はニールの車を運転してウィリアムの車の後を追う。助手席のニアが根掘り葉掘りと聞いてきたが途中で疲れて眠ってしまったようだった。

 

 事務所のベッドルームに、ニールとニアを寝かし付けるとウィリアムが暖かな飲み物を用意する。僕は黙ったまま着替えもせずに窓際で雨の降り続ける外を眺めていた。そんな僕に何も言わずにテーブルにマグカップを静かに置く。

 ウィリアムは独り言のように喋り出した。

「私は何も言いませんし、何も聞きません…… 何が大事か何をするべきかは貴方が一番分かっていることでしょう……」

 そう言葉を残して自室に入っていった。


「シモン様…… お着替えをなさいませんとお身体に触ります…… 暖かいシャワーでも浴びた方がよろしいかと……」

 ガブリエルが心配そうに僕に近づきバスタオルで髪を優しく拭いてくれる。暖かな温もりに安心したのと全ての力が一気に抜けたのか自然と涙が溢れ出した。


「今回はお二方ともお命があっただけでも幸いですよ? お引き止めすれば良かったですね。ワタクシの至らなさが今回の事を招いてしまったかも知れませんね」

 ガブリエルはそっと僕の肩を掴みソファーまで誘導して座らせ、その隣りで腰を下ろして顔を下から覗き込み切なく笑った。


「シモン様はアメリアに似ている、優しい瞳に絹のような髪…… 今の貴方は光が強すぎます……」

 僕は、ハッとしてガブリエルを見た。


「ワタクシはあなたの母上の仲間です…… 輝きが増す前に、もっと早くにお逢いしたかった。驚かせてしまった事をお詫び申し上げます。ですが…… また、それはのちほど……」と、ガブリエルは指を弾く。すると僕は意識を失った。


 僕は夢の中で声を聞いたんだ。

 優しくて心地いい声を。暖かい声を――


 自室の窓の側の壁に、もたれ掛かりウィリアムは写真立てを手に持ち見ていた。


「ヴァイン…… あの子達は何も考えずに突っ走る…… まるで、あの時の貴方の様です。また同じことを繰り返すのですか? 私はもう……」

 ウィリアムは写真立てを抱きしめるようにして、その場に蹲った。










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