第17話 次へ、そのまた次へ
今日は、とても海の匂いがする。
決して海辺が近いわけじゃないし、だからといって遠いって程でもない。
風の流れが変わったのかな?
もうすぐ此処は雨が降るかもしれないね。
*****
此処に来て、何ヶ月たったのだろう?
平和ボケする。というと大袈裟だろうか?
だけれども、帰る場所がない僕たちに此処は安らぎをくれた。
女っ気はない。と言いたいが、マーメイドのユーリーは美人だ。執事のガブリエルさんはとても丁寧な仕事をしてくれる。ニアとウィリアムさんも素敵な時間を幾度となく感じさせてくれた。まるで家族のようで、僕はやはり 「平和ボケ」 していたのかも知れないね。
「新しい依頼来てるよ!」
ニアが書類のケースを棚から、ひとつを引きずり出そうと椅子の上に乗る。椅子の上に乗ったのにも関わらず、指先を伸ばすが若干まだ届かずに、つま先立ちで掛け声を上げ、その場で軽くジャンプした。
ガツン、という鈍い音と同時に、ニアは数枚の書類と一緒に床に落ちた。
「いっったあああああああ!」
「……オマエ何やってんだよ? 心配して見に来て損した」
ニアの叫び声でニールは部屋からすっ飛んで来る。が、ニアの仰向けに倒れたその無様な姿を呆れた声を上げ、顔を見下ろすようにし腕を組んだ。
フフフと笑うガブリエルは、ニアにそっと手を差し伸べ、
「アルベルト様、お怪我なさいませんように。御用の時はワタクシをお呼び下さい」
そうガブリエルは嫌味な程に爽やかを振りまいた。
「本日はウィリアム様が御用で事務所にいらっしゃらないのですから、何でもあまりお触りになるのは些か問題があると思われますが?」
「ボクはウィリアムさんの助手なの! 例え何かを壊したって、ウィリアムさんはボクを怒らないから! それから、ボクのことをアルベルトって呼ばないで!」
「そうですね…… では、くれぐれも大事な物を破損させたりだけはなさいません様にお願い致します。ニア様」
とても丁寧な口調でニアは、ピシャリと注意をされた。
「さすがにアレもコレもと色々と壊したら、怒られるだろうよ……」
ニールは呆れた顔でソファーに深く座って苦笑いをした。
「なんだか、ウィリアムさんが怒らない代わりに最近はガブリエルさんが大変そうですね? 」
僕は読みかけの本に栞を挟み、入れられた珈琲の香ばしくどこかフルーティーな香りを楽しんで口に含んだ。僕を見てガブリエルは、ふっと肩の力を抜き笑う。ニールの前で鮮やかな手つきで珈琲を注ぎ入れて静かにテーブルに置き深々と頭を下げる。
「ニア? お前のお茶が飲めるのはティータイムだけか?」
そんなガブリエルを見て、ニールは道具の手入れしながら、ちらっとニアの方を見た。ニアは数枚の書類を弄り、少しだけ拗ねた顔でこっちをふりかえり見た。
「ボクのお茶は特別なの! いつでも、そう簡単には飲めないの! そういうもんなの!」
そう言って書類をテーブルに綺麗に重ねて置く。
「この依頼は?」と、僕は気になった一枚を手に取ると内容を確認した。
「梅雨が淵」
連続行方不明事件。そこは美しい渓谷がある自然公園だ。観光地というほどではないがハイキングコースがあったりと、人気スポットで最近は、やけに賑わっていた。
ところがある日、ウォーキングコースに入った若い男女が行方不明になったと騒ぎになる。普段は霧も立ち込めた美しい渓谷だ。道はきっちりと柵で囲まれ意図的に外れなければ迷うことはない。この事件があって以来、立ち入ることが出来ないようになっている。若者の荷物はおろか、何も発見されていない。それから行方不明者を探しに入った捜査隊員が三名も行方不明になっている。もちろん、その三名も発見されずで警察はお手上げ状態なんだそうだ。
「そこで此処に依頼が来たという訳か……」
「五人も行方不明って……しかも何も見つからず、もう2週間以上経ってるのに……嫌な事件だね……」
依頼の紙を手に取った後、天井を見つめるようにしてニールは何かを考える。その場所の状況を僕は想像しただけで鳥肌が立った。
しばらくしてニアは元気のない猫のような素振りの小声で話しだす。
「ねえ……この依頼受けるの? ねえ……どうしても行くの?」
「なんだよ? 珍しく心配してくれんのか?」
「なんだか良い感じがしないっていうか、あんまり乗り気じゃないっていうか、気味悪いって思う……」
「お前は無理に来なくて良いんだよ! 来たくなきゃ俺たちが帰るまでに、美味いお茶の用意して待ってろ!」
「……ニール! やっぱりウィリアムさんが帰ってくるまで行かないでよ!」
ニアは調子悪そうな青ざめた表情で頭を下げた。ニールはそんなニアの頭を二度軽く叩くと自室に入って行く。それにしても、ニアがそんなふうに僕らを引き留めようとするなんて……そう思いながらも僕もニールに続き準備をする。準備も整い出発しようとすると、事務所の大きな扉の前でニアが僕のジャケットの裾を引っ張った。
「ニア……」
上目遣いで僕を引き留めようとするニアの頭を撫でて、眉をハの字に下げ困ったように僕は笑い『いってきます』と扉を閉めた。扉が閉まる瞬間に、ニアが何かを言いかけたような気がしたが僕らは気にせずに事務所を後にした。
車に乗り込み、ニールは運転席でサイドミラーを覗き、ネクタイを締めなおす。
「ふたりで調査に行くのは初めてだな!」
「そうだね……」
「オマエまでなんだよ? 怖かったら車で待っててもいいだぞ? シモン……」
「正直怖いよ? だからって……置いていかないでよ?」
「冗談だよ……もう置いて行ったりしない、安心しろよ!」
ニヤニヤしながら僕を一度見て運転をするニールは、「梅雨が淵」を目指す。一時間ほどで 「梅雨が淵」 のある町に入った。大きな案内標識が見える。しばらくすると霧が道を覆うように、うっすらと視界を悪くする。
「……おいおい。これなんだよ? 昼間の暗さじゃねえだろ? 」
ニールは車を駐車場に止め、窓を開け外を確認する。車を降りて、ふたりで周囲を見渡した。生ぬるい風が頬にかかると自然と口元が引き攣った。
「お世辞にも良い雰囲気じゃないな……」
「あ……とうとう雨、降ってきたね……」
僕は鼻先にかかる雨に気が付き、空を見上げて真っ黒な蝙蝠傘を開いた。
静けさが増す。ただ、雨の音が耳に響いた。むっと唇を結んだニールは訝しげに空を睨むことしかしなかった。しばらく歩き進むと鬱蒼と重みのある木々が道を覆うように僕らを迎えた。
「ご丁寧に看板があるな…… ここは本当に最近まで賑わってたのか?」
ニールは雨に濡れ苔が生えた立て看板を手で揺さぶる。手を少し触れただけで簡単にザザっと看板が足元に落ちる。俺のせいか? と僕を見るニールは色々と語りそうだったが僕は敢えて適当に笑って切り上げる。
梅雨が淵に入った早々、嫌な雰囲気に巻き込まれたくないと思ったからだ。
しばらく歩くが何も見つからない。10分経っても、道は変わらずに転々とある水たまりを大きく拡大させるばかりで雨が止む気配はなかった。黒く濁った水たまりに雨が激しく打ちつけ水音が跳ねる。僕は落ち着くために煙草を咥え火をつけて煙を吐く。ニールはまだ煙草を吸う僕には納得いっていないようで苦い顔をして空を見上げた。
強さを増した雨は足に跳ね返る。背筋に泡立つような寒気がする。ああ…… ニアに出会った時のあの感じ。首から一気に血が急降下していくような、あの――
何にしても、嫌なモノが身体を這い回っているような感覚だった。
「ねえ…… もう普通の生活がしたい……」
「おいおい、さっきまでの勢いはどうした?やる気は何処に逃げた?」
「やっぱり、平穏な生活がしたい…… 」
「オマエがそれを言ったらダメでしょ?」
「分かってるんだけど……」
「ははは、しょうがないね〜 シモンくんは。けど、仇討なんだろ? さあ、行こうか!」
濁った水たまりが木々の雫を受入れると、いっせいに揺れる。僕は何気なくそれを凝視する。途端に僕の脚はすくんだ。目に映る光景は信じられなかった。異界への入口が開いたような――とにかくこの状況を信じたくなかった。全ての音が聞こえなくなる。僕を残して全てが息絶えたようなかのような静けさ。水たまりから、泥にまみれた爪の剥がれかけた血の滲んだ指先が見える。そして、あちらこちらの水たまりから、水音をたて指先が揺れ動く。ひとり、ふたりの数じゃない。気がつくと僕たちはソレに囲まれた形になっていた。
ニヤッと口元だけを歪ませニールが笑う。
「悪い子がたくさんとまあ…… いっせいに、お出ましかよ! シモン! 武器を手に取れ!今回の数はシャレになってねえぞ!」
だが、ニールの顔はそういうセリフを言う表情じゃなかった。確実に楽しんでいるようで狂気に満ちた目。でも、不器用なニールはきっと怖がりな僕の背を押したかったのだろう。
銀のナイフを僕は手に持つと身震いがした。ずるりと腕が這い出てくる。濡れた頭がのっそりと現れ、髪の間からぎょろりと剥き出した目が僕を見る。その間に、ニールは聖書を読み。霧を巻き込む渦がニールの頭上に現れ勢いを少しづつ増し、空気が変わる。びたびたと足音が近くに聞こえ頭が真っ白になった。しんと静まり返った森に、ニールの聖書を閉じる音が響く。下級悪魔と言われるソレを全て吸い込み飛沫が顔に掛かった。ニールはニヤッと笑い僕を見た。
「オマエのお兄ちゃんは、これくらいじゃ負けないよ? 俺ってば、こう見えてそこそこヤルのよ? 褒めてもいいのよ? シモンくん」
そう言ったニールは僕の震える手を片手で強く掴んだ。
「もう、これで終わるの?」
「もう少し探すぞ……行方不明者の事が解決してねえだろ?」
「……そう、だよね」
雨はやむことを知らないのか? 勢いは増すばかりで気温は下がっていく。吐く息は白く、傘を差す指先が赤くなるほどだった。
「傘の本来の意味ってなんだ? これだけ激しく降ると役に立ってねえな……さすがの俺も風邪引きそうだよ……」
雨が髪を濡らし、雫になって滴り落ちる。ニールは睫毛に雫が付いているのに気付きソレを手で拭い苦笑いをした。すると携帯電話の着信音が静かな森に響く。急いで電話に出ると受話器向こうでウィリアムの慌てた声が聞こえる。
「私に許可なく勝手に! 貴方達はどうして…… とにかく、すぐにその場から離れてください! 私達も急いでそちらに向かっています…… ニールくん、いいですか? すぐに其処から離れなさい! シモンくんにはまだ早い任務です!」
いつも冷静なウィリアムの声はそこには無く、ウィリアムの後ろで騒ぐニアの声も聞こえた。
「何をオッサンは騒いでんだよ! 大した事ねえって!」
呆気に取られたニールは拍子抜けしたように笑う。
「ニール! 何笑ってるの! 駄目だよ! ニール! シモンちゃんとふたりだけじゃダメだって! とにかくそこから早く移動して! それ以上奥に行かないで! ニー……」
そこでプツンと電話が切れてしまった。切れた電話を顔から離して画面を見て、ニールは肩を上げて半笑いで僕を見た。
「ニアのヤツは何言ってんだ? 途中で切れちまった…… アイツ、これ以上は奥に行くなだって!」
「ニール…… いったん戻ろうよ! 雨も酷くなってきたし、視界も悪すぎるよ? ウィリアムさん達と合流してからでも遅くはないよ? 」
「……そうだな、一度、車まで戻るか…… スーツも濡れて寒いしな……」
そう言って来た道を戻ろうとした時だ。
裸足で水たまりに足を浸し、青白い顔の女性がゆらりと立っていた。全身がびしょ濡れでこちらをじっとりとした瞳で見つめてくる。薄黄色のワンピースは茶色くシミのようなものがあちこちに付着していた。そこから伸びる白い腕と細く長い脚。両手首と首筋に、ぱっくりと開いた傷が生々しかった。力なく薄ら笑いを浮かべ女性は僕らにむかって声をかける。
『お兄ちゃんは流石ね! あんな雑魚だけじゃ物足りないんでしょ? ねえ? そうなんでしょ? ……シモン、あなたは大きくなったわね……』
僕らは、その声と姿に釘付けにされた。
手前から煽られて吹く強い風に、ニールは傘を空高く飛ばした。
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