モノクロームの世界

なつみ@中二病

モノクローム。猪狩華花のモノローグ。


「ねえ先生、先生の家行ってもいい?」

「は?何を言い出すかと思えば。意味がわからん」

「ね、いいでしょ。数学でわからないところがあるの」

「何をたわけたことを。猪狩の頭でわからん問題があるわけないだろ」

「わ、私だってわからない問題くらいあるよ。先生は私のことなんだと思ってるの」

「え、サイボーグか何かか?」

「ひっどーい!」

「まあそれは冗談として」

「むむぅ」

「わからん問題ならここで訊いていけ。高い金払ってんだから活用しないともったいないぞ。授業終わった後でよかったらちゃんと教えてやるから」

「ダメなの。先生の家でやりたいの!」

「だからなんで俺の家なんだよ」

「だって先生の家での勉強会ってすごく集中できるんだもん」

「俺は迷惑だ」

「そんなはっきり言わなくても」

「はっきり言わせろ。俺には反論する権利すら許されんのか。だいたいな、俺だってヒマじゃないんだ。出さにゃならんレポートが山ほど溜まって……」

「じゃあさ、一緒にやろうよ。私が勉強して、先生がレポート書いて。ね、それがいい」

「何をそんなさも名案が閃いたかのような顔して……。ていうかわからない問題を訊きたかったんじゃないのか」

「だから、先生が時々教えてくれれば、ね」

「それが邪魔だって言ってるんだろ。本末転倒だ。自分の勉強は自分の家でしろ。それか自習室か学校の図書室にでも行け」

「だから先生の家が一番集中できるんだってー」

「嘘つけ。こないだだって大勢で押しかけてきて大騒ぎして帰って行ったじゃないか。勝手に人の部屋あさって、誰一人勉強してるようには見えなかったぞ」

「そんなことないよ。私はすごく集中できた。先生の家だとね、雑音が消えるの」

「は?あれだけうるさくてか」

「うん。頭の中がクリアーになって、すっごくすっきり」

「またわけのわからんことを。だいたいな、どうせまた大勢で押しかけドンチャン騒ぎして俺の家をぐちゃぐちゃにするのがオチだ」

「そうはならないよ」

「なんでそう言い切れるんだ」

「だって、私しか行かないし」

「…………は?すまん、よく聞こえなかったようだ」

「だから、私一人で先生の家に行くの」

「待て待て待て。それはダメだろ」

「なんで?」

「なんでじゃないよ。問題あるだろ、いろいろと。嫁入り前の娘が男の一人暮らしの部屋に上がるなんて、ダメに決まってるだろ」

「先生何言ってるの!相手は中学生だよ。何考えてるの、やらしー」

「バカ、だからそういう問題じゃないんだって。常識的に考えろ。だいたい親御さんが了承すると思ってるのか?」

「大丈夫だよ、黙ってれば」

「お前、自分が言ってること矛盾してるって気付かないのか」

「え?してるかなあ、矛盾」

「してるんだよ。とにかく絶対ダメだからな」

「えー、いいじゃんケチ」

「ケチじゃない。それが塾内テストで一位を取った奴のセリフか?猪狩はときどきほんっとに頭悪いこと言うよな」

「そんなことないよ。みんなの前では普通だよ。こういうのは先生の前だけ」

「だったら俺の前でも普通にしていてもらいたいものだな」

「ぶー」

「とにかく、俺んちに来るのは絶対にダメ。わかったな」

「なんだよーケチー」

「ケチじゃない!だいたいなんださっきから、敬語を使いなさい!立派な大人になれんぞ」

「先生だからだよ」

「先生は敬いなさい!」

「これでもちゃんと尊敬してるんだけどなあ」

「ほう、そんな戯言をほざくのはその口か」

「いたいよ、先生いたいよ」

「ちったあ反省しろ。じゃあな、もう授業始まるから」

「むー。先生、私諦めないから!」

「言ってろ、ばーか!」

「…………ほんと、先生だけなんだけどなあ」


◇◇◇


退屈で気が狂いそうだった。


毎日がつまらなくてたまらなかった。私の目に映る世界はすべてがモノクローム。色あせた面白味のない風景。予定調和な毎日、当たり障りのない友人関係、優しいだけの両親、優等生を演じ続ける自分。その全てがくだらなかった。

クラスの子と話す時に、ほんの少し知的で難しい話をしてみる。日本経済の話、地球環境の話、犯罪者の精神論について。本を読んで知った知識、ニュースを見て誰かが言っていた言葉。誰もが知らないことを、さも自分が考えたかのように口にする。周りを突き放して、少しだけ上に立ったような優越感が、私の心をフルワセル。それは確かな、快感。「はなちゃんはすごいな」「猪狩さんは頭いいな」そんな安っぽい賞賛で、私の小さな心は満たされる。ほんの少しだけ他人を突き放し、ほんの少しだけ友達を見下す。そんなつまらない心持ちで、本当に誰かと仲良くなれるはずなんかない。頭のいい私はそれを良く知っている。それでも私は、誰かとの距離に快楽している。

満たされない心を満たそうと“特別”になればなるほど、私は孤独になっていった。特別になるための、他人を突き放すための、自分が優位に立つための、そういう努力は怠らなかった。昔から勉強も運動も一通りのことはなんでもできた。努力をすればするほど、他人の上を行ける。こんなに楽しいことはない。だから努力をした。勉強して、勉強して、周りを突き放す。テストでいい点を取るのがうれしかった。周りを見下すのが喜びだった。

でも、ふと気付く。私は本当に楽しい?自問しても、返ってくる答えはノー。そんな瞬間は寂しくてたまらなくなる。大きな声を上げて泣き出したくなる。世界中に私はたった一人なのだと、そんな感覚に支配される。

否、事実そうなのだ。私は一人ぼっちなのだ。心を許せる友達もおらず、両親にも本心は絶対に見せない。だって、くだらないから。意味がないから。人間同士は理解し合えない。人間はみんな一人なんだ。だったら、最初から一人でいた方がいい。

くだらない、くだらない、くだらない、くだらない。

どうして私は生きてるんだろう。どうして私は生まれてきたのだろう。

すべてがくだらなすぎて、目に映る世界はモノクローム。


中学生だったあの頃の私は、本当にどうしようもない奴だった。何もわかっていなかった。ただ、退屈で退屈で死んでしまいそうだったのだ。


◇◇◇


最近、俺には悩みがある。バイト先の塾の生徒に猛烈にアタックされている。アタックといっても恋愛的なそういうものではなく、ただ俺の家を自習室変わりに使おうという腹だ。全く、自習室なら塾にもあるだろうが。だのに、猪狩は俺の家がいいのだとしきりに言い張る。

俺自身、猪狩華花という生徒は嫌いじゃない。むしろ好きな部類だ。頭が良くて飲み込みが早いから実に教えがいがある。会話のレベルも高度で、大学生の俺と政治や経済の話で熱く語り合ったりすることもあった。

そういうとき、彼女の頭の良さを思い知らされる。俺もこれくらい優秀ならもっと人生楽に生きてこれたのだろうなあとときどき空想する。

そう、彼女はこれ以上勉強をする必要がないというくらいに成績がいい。だから、わざわざ俺の家に来てまで勉強する必要はないのだ。

バイトの先輩には「お前のこと好きなんじゃないのか?」なんてからかわれたが、そういうのは絶対ないだろう。確かに懐いてはいるが、俺は22で相手は中3。8つも年が離れている。そういう感情が芽生える要素が全くない。

だから男女とかそういうの全然ないし、とは思うが男の一人暮らしの家に女子中学生を上げるというのもなんだか抵抗がある。いや、ダメだろ、世間的に。

だがしかし、猪狩の猛烈なアタックは日ごとにエスカレートしていき、しまいには「あのことバラすよ!」とかわけのわからないことを言ってきた。

あのことってなんだよ。思い当たる節は全くない。多分。

毎日のようにやかましくて仕方がなかったし、本当にわからない問題があって勉強を教えてもらいたいようだったので、俺は最終的にしぶしぶオーケーを出してしまった。

よかったのだろうか、本当に。

だが過ぎてしまったことは仕方がない。とりあえず俺は年輩者として大人な対応を取ってやるだけさ。

そういうわけで、今度の日曜に猪狩がうちに来ることになった。

俺は猪狩華花という人間をいたく気に入っている反面、ものすごく恐れていた。

それが何故かっていうのは、自分の中でもう結論が出ている。勉強ができるあいつの存在は、誰かを思い出させるんだ。


◇◇◇


5月某日、私は一人で先生の家を訪れた。

塾の友達――といってもうわべだけの――と一緒に過去二度ほど行ったことがある。一度目は男女2人ずつの計4人で。二度目は全部合わせて10人で。一度目はまじめな勉強会。塾内でもトップクラスの4人組だった。もちろんトップは私。先生が出した数学の問題が全然わからなくて、みんなで質問をしに行ったのだ。もちろんその時はアポも取った。少し困った顔をしたが、先生が出した宿題のプリントを見せると、苦笑いをして、それでも最後は快く受け入れてくれた。あの問題は成績が上位でいい気になっている私達への嫌がらせだったらしい。

二度目は、もう勉強会とかそういうものじゃなかった。私達4人が先生のアパートに遊びに行ったという噂(無論、遊びに行ったわけではない)が広まり、成績のレベルに関係なく元気な奴らが集まった。最初のメンバーのうち二人はもはや勉強にならないだろうと判断し、二度目は来なかった。賢明な選択だ。

でも私はなんとなく先生の家は居心地がよかったし、前回の勉強会ではすごく集中できて有意義な時間がすごせたし、何より先生の教え方はすごく上手くて、私の感性に非常に合っていて、そういうわけでもう一度行ってみようと思ったのだ。

結果はと言うとやはりというか、誰一人勉強をせず、みんなで先生の部屋を荒らして物色して、終始お祭り騒ぎだった。先生の家はボロアパートのくせに(失礼)意外と広く、キッチンの他に部屋が2つもあった。最初はみんなも先生も勉強をするつもりだったが、それは土台無理な話で、大学生の一人暮らしの部屋を見るなり元気な野郎共はテンションが上がりまくり、女子達も四六時中キャーキャー言っていた。

人が多かったり騒がしかったりするのが苦手な私だったが、その時は不思議と落ち着いていた。人の中にいると、雑音が頭の中をこだまする。人の話し声や息づかいが苦しくて、息が詰まりそうになる。でもそのときは確かに静かだった。実際はみんな騒いでいたからうるさかったのだけれど、それでもいつものような苦痛は感じなかった。心がとても穏やかで、落ち着いていた。周りは暴れまわっていたけど、私は部屋の隅で参考書を読んでひっそりと勉強していた。とても頭がさえていた。

すごくうるさかったはずなのに、ひどく静かだった。なぜだろう、私は考えた。そして気付いた。先生といる時だけ、雑音が聞こえない。なぜだろう、なぜだろう。私はずっと考えていた。でも、答えは出なかった。私は、先生と話している時だけ、自分を確かめることができた。今まではただなんとなく生活して、学校に行って、勉強して、生きているという実感がまるでなかった。退屈な日常に埋没してしまった自分がやるせなくてたまらなかった。でも先生といる時は違う。私は今までの自分、いつものつまらない自分とは違う、新しい、別の自分になれる気がした。私にとってそれはとても心地がよかった。毎日が退屈で、でも心の中はいつもざわざわしていて落ち着かなかった。そのざわめきが、雑音が消えた瞬間、自分が生まれ変わったような不思議な感覚に捕らわれる。私は誰なんだろう。今まで自分だと思っていたものは本当の自分じゃないのかもしれない。今私の体を、心を、すべてを支配しているこの感情を、私は知らない。私は生まれてはじめて人生の命題にぶつかったのかもしれない。だから私はこの気持ちが何なのか確かめたくて、先生の家に来たかったのかもしれない。


◇◇◇


「お邪魔しまーす」

「お邪魔でーす」

「もう、お約束のボケはいいから」

「いやいや、猪狩相手にはちゃんとこなしとかないといけない必須科目だからな」

「なにそれ。おおーちゃんと片付いとるのー。関心関心」

「お前は何様だ。当たり前だろ、人が来るのに片付けない奴はいない」

「よかった、私もちゃんとお客さん扱いされてるってことだね」

「本当に君は自分の都合のいいように解釈をするなあ……」

「あれ?私何か間違ってた?だって先生は私のことサイボーグか何かかと思ってたんでしょ」

「まだ根に持ってるのかこいつ……」

「そりゃ根に持つわよー。こんなにかわいい子にサイボーグはないでしょーが」

「自分で自分のことかわいいって……」

「あれ、そうは思わない?私絶対イケてると思うんだけどなー。将来美人になるわ、うん」

「猪狩、お前どんどんいい性格になってきたな」

「それって誉めてるの?」

「誉めてない事くらいわかってくれ。俺は最近お前が本当に頭がいいのかわからなくなってきたぞ」

「そう?私頭いいよ?」

「その自信はどこから来るんだ……」

「結果が示しているじゃない」

「まあ、成績がいいことは認めるが。言っとくけどな、頭がいいってことと勉強ができるっていうのは全く別物だからな」

「知ってるよ」

「いーや、わかってない。そもそも人生において頭がいいってことはだな」

「ねえ、そのへん座っていい?」

「人の話を聞け」

「ねえ、いい?」

「……ああ。床でもテーブルでも好きなところに座ってくれ」

「テーブルには座らないよ」

「今のお前ならなんでもやらかしてくれそうだからな」

「なんだよそれー。あ!」

「今度はどうした?」

「これ!パンダのクッション!」

「ああ、使いたかったら好きに使ってくれ」

「いいの?やったー!でも前来た時はなかったよ」

「ん?……ああ、大学の友達が置いて行ったんだよ」

「へえーそうなんだ」

「今麦茶かなんかいれて来るから勉強の準備して待ってろ」

「麦茶の季節にはまだ早くない?」

「うるせー、好きなんだよ」


◇◇◇


正直、すごく緊張していた。男の人の一人暮らしの部屋に女一人で上がってしまった。

別に先生は私のことを異性として意識していないだろうし、私も先生のことを仲の良い兄妹のように思っている。それでも、緊張してしまうのは私がませているからなのか、それともまだまだお子ちゃまだからなのか。両方のような気もする。男の人の部屋にティッシュの箱があるというだけで、私は何かいけない物を見てしまったような気になった。いかんいかん、私は何を考えているんだ。

それにしても――

私はパンダのクッションを抱きしめながらさっきのことを思い出す。パンダの話をした時の先生の反応に少し違和感を覚えた。それは蚊の息ほど僅かですぐに消えてしまったけど、確かにあった。あれは、躊躇いだ。私にパンダの持ち主のことを言及されたら困ることでもあるのだろうか。

いかんいかん、いつもの悪い癖だ。人間観察と心理状態の考察。今目の前の人間が何を考えているのか、どうしてそんな行動を取ったのか、そんなどうでもいいことを私はいつも気にかけている。人間観察という行為が好きなのだ。勉強と同じくらいに私の趣味なのかもしれない。

人が何を考えているのかを見抜いて、その人を勝手に解釈して定義づけする。それで私は優位に立ったつもりになる。私の原動力は優越感。それを得る為に私はいくらでも人を蔑む。私はこんなに小さくていやらしい人間なのだ。

それも先生相手だとあまりやろうとは思わなかった。先生相手だったら、弱みを握っていじってやろうとか、こういう風にしたらおもしろいだろうなとか、そういうことが先立つ。そこがまた興味深いところで、私は先生が他の人と何が違うのか、それを知りたかった。私にとって人間ってやつはどれも代わり映えがなくて、くだらなくて、頭が悪くて、退屈で、私が見下したり優越感を得る為だけの存在でしかなかった。

でも、先生は違う。違うのは何か。私はずっと考えていた。

そもそも私は考えるという作業が大好きで、くだらないことを四六時中考察したりしている。答えがなかなか出ないこと、そもそも答えなんか存在しないもの、そういうことを考えて物思いにふけっている自分は嫌いじゃない。むしろ好きだ。そういう風に私は私自身を分析してみたりもよくする。

そして思考が取り留めがなくとめどないのも私の特性だ。実は私はものすごい妄想癖の持ち主なのではないかと心配になったりする。

閑話休題。

思考が思いっきり脱線してしまったが、もう一度意識をパンダのクッションに戻した。

かわいい。つぶらな瞳がこちらを見つめている。クッションだから、座る為のものだから、平たくつぶれているのもまた良い。

と、論点はそこではなくパンダの持ち主と先生の関係性についてだ。もう10年近く人間観察を続けている私にはもうお見通しだ。甘いわよ先生。その程度のポーカーフェイスで動揺を隠しきると思いまして?

パンダの主の正体について考えていたその時、私はあることを思い出した。そう、私にはやらなければならないことがあったのだ。先生が台所でせっせと何かをしている隙に、私は静かに腰を上げた。

がさいれの開始である。

目標は、エッチなビデオ、または本。

前回の討ち入りで男子たちがそういうものを必死でさがしていたが、結局は何も見つからなかったらしい。その時はくだらないなあとか思っていたけど、実は興味があったりする。だって先生なのだ。あの先生なのだ。まじめで、おもしろくて、でも本当の先生はどんな人なのだろう。

先生のプライベートな部分を知りたい。それが私の気持ちの正体を確かめる為には必要なことなのだと、私は自分に言い聞かせた。ぶっちゃけエロ本を見つけて先生をいじり倒してやろうというのが本心だ。

だって、もしもそんなものを私が見つけてしまったら、先生はどんな顔をするか。困るのか、恥ずかしがるのか、怒るのか、考えただけでわくわくする。私は先生の百面相を想像しながら本棚を漁った。

探しものというの人海戦術だけが有効手段ではない。頭を使わないと。本当に人に見られたくないものはどこに隠すのか。私は中間テストと塾内テストで主席だった頭脳をフル回転させて考えた。

本棚の裏側にも本の間にもない。となると……

私にはエロ本を隠す男の気持ちや習性なんて知りようもなかったし、だったら人間の根本的な心理から考えを広げて行くのが有効なのでは?しまった私にも苦手分野があったのか。そういう男の内面的な物に関する知識があまりになさすぎる。性欲処理であるとか、体外的部分に関しての知識は多少あるものの、事実内面に関する情報はあまりに少なすぎる。

とも思ったが、やはりセオリーには従わなければならないだろう。エッチな本の隠し場所と言えば人類が紙面に性的表現を留めようとした太古から決まっている。ベッドの下だ。

これはマンガやら小説やらで得た知識で、まゆつばものであろうし、ファンタジーの域を出ない仮説だ。

だが人間はとっぴょうしもない伝説じみた仮説から進歩をしてきた生き物だ。故人曰わく、郷に入っては郷に従えである。ちょっと違うか。

先生の家のベッドはロフトベッドで、イメージの中のベッド下ではなかったけれど、私はゆっくりとシーツをめくってその中身を確かめようとした。



◇◇◇


正直、俺は困惑していた。猪狩の私服姿なんて初めて見たわけで、それで女を感じたとかそういうわけではないが、ぐっとかわいらしく見えるというか、まるで別人――そう、別人のようだった。

猪狩を目にする機会は塾でしかなく、その時はいつも制服のセーラー服姿である。普段の彼女といえば、クールで落ち着いていて、しっかりしたみんなのお姉さんのような存在だ。前から思っていたが彼女は周りの子に比べるとずっと大人だ。勉強ができるとか成績がいいとかそういうことを差し引いても猪狩は別格だった。しっかりと自分の意見を持っているし、自分一人で考えて行動するだけの器量も持ち合わせている。中学生とは思えないほど大人びた彼女は、他の生徒に比べて非常に話し易かった。まるで同年代と話しているような感覚がする時だってある。中学生のそれと同じかと考えると少し悲しくなるが、精神年齢が近いと表現した方がわかりやすいだろうか。だからこそ俺は猪狩と特別仲が良くなったのだろう。

そうだ、俺は確かに自覚している。俺にとって猪狩は他の生徒とは違う。冗談を言い合ったり、世界の情勢やら真面目で小難しい話をしたり、時にはどつき合ったり、まるで友達みたいな感覚になってきている。生徒に対して友達感覚になることや、特定の生徒とだけ仲良くなることはいけないことだってわかっている。仮にも将来は教員を目指している人間だ。分別とけじめはきちんと持たなければ。とは思うが、猪狩は俺を油断させる何かを持っていた。それは中学生に見合わない大人びた雰囲気や考え方が為だろう。

でもそれは、肉体が成長する前に精神が成熟してしまったような、そんな危うさがあった。体を置いて、心だけが先にどこか遠くへ行ってしまったような感覚。

今まで忘れていたが、猪狩はまだたかが14歳の少女なのだ。心も体も未発達の、ただの子供なのだ。あまりに達観した彼女の有り様に、俺はそんな簡単な事実をすっかり忘れさってしまっていた。

それに気付いたのが猪狩の私服姿を見てからなんて、なんてマヌケな話なんだ。前に二度ほど俺の家に来たがその時は制服を着ていたし、だからこれは不意打ちだ。それほどまでに彼女の今日の格好というのが年相応に見えて、衝撃を受けた。

確かに今までのことを振り返ってもそうだ。最初に彼女に抱いたイメージと、実際に彼女と話したイメージは全く別物だったのだ。初めは、猪狩華花は本当にサイボーグなんじゃないかと思うくらいに、彼女は完璧だった。成績優秀、人当たりも良くて、悪い噂は全く聞かない。でも俺は、そんな彼女の完璧さは作りものじみた感じがして、少し気持ちが悪かった。完璧な人間なんてこの世には存在するわけがない。最初に彼女に興味を持ったのはそういうところからだったのかもしれない。

だんだんと話す回数が増えると、だんだんと今のあか抜けた猪狩が姿を現してきた。これが奴の素なのではないかと思うが、本人は否定する。

「私は先生につられてるだけ。普段の私はもっと冷めてるわよ」

だ、そうだ。ちょっと待て。俺につられてるって、俺はお前みたいにヘンな奴じゃないぞ。

しかし――冷めているか、確かにそうだ。俺と話しているときの彼女と、友達と話しているときの彼女はまるで別人だ。いつもの彼女は綺麗すぎて少し怖い。隙がないのだ。中学生なのに子供らしくないというか、あれは――演技だ。普段の彼女、他人と接している彼女は全て計算された上での、虚構だ。猪狩がよく他人を観察しているのは知っている。人に気を遣うのがとても上手い子で、いつも他人の顔色を伺っている。だから俺はあいつの私服姿を見た時の動揺を隠すのに必死だった。もしかしたらバレているかもしれない。もしかしたら変な捉え方をされて、変な目でみられたとか思ってるのかもしれない。

まあそんなことはどうでもいいとして、彼女は常に他人の表情やら仕草を観察し、身を構えてしまっている。他人と距離を取って、壁を作って、当たり障りのない善人の仮面をつけて、他人を欺いている。そこまでして自分を作る必要がどこにある。そこまでして自分が完璧である必要がどこにある。

彼女が演技をしていると気付いたのは、俺にも昔そんな時期があったからだろう。人間誰だって本音と建て前ってものがあるし、人間の中で生きていくためには当たり障りのない人間関係を作ることだって必要だ。だからって、そればっかりで人生楽しいのか?猪狩はまだ14、5年しか生きていない子供だからわからないのかもしれないが、自分を作って、偽って生きていくってのはとてもきついことなんだ。そういうことを人生の先輩として教えてやりたい気もするが、俺もそんなにできた人間じゃない。まだまだ自分に手一杯のガキなのさ。たかが20年ちょっと生きただけのな。

だから猪狩を家に招いたのはもっと別の理由だ。俺は確かめたかったのだ。普段見せる彼女が全て演技なら、俺と話しているときの彼女はどうなんだろうと。俺に向けている笑顔も嘘なんだろうかと。

それが気になってしまうくらいに、俺は猪狩とどつき合う関係が、楽しいと思ってしまっているんだ。



◇◇◇


俺が慣れない手つきで柄にも無く紅茶なんかを淹れている隙に、猪狩はとんでもない奇行に出ていた。

「何をやってる……」

「いや、別に」

何事もなかったかのように座る猪狩。

待て待て。確かに今俺のベッドに手を突っ込んでいたよな。

「なーにをしているのかなあ、猪狩君」

「あ、紅茶。おいしそう」

「話をそらすな」

「麦茶じゃなかったんだ」

「質問に答えろ」

「えっと……」

「ひとんちあさって、何をしてるんだと訊いている」

「いやあ……そのぉ…………エッチな本とかあるのかなあって」

衝撃が走った。まさか猪狩の口からそんな言葉が出るとは思わなかったからだ。一応君は品行方正な優等生だろ。俺の中での彼女のイメージがまた一つ崩れさった。

「お前なあ……」

「だ、だって気になるじゃない。前に来たとき男子達が探してて、見つからなくて、もしかしたらこのへんにあるのかなーなんて」

俺はさわやかな笑顔で言ってやった。

「帰れ」

「ちょっと待ってよ!ごめん!ごめんなさい!ちょっとした出来心で。いやあ、先生ってそういうのに興味がないのかなあって。それはもう調べてみなきゃ!って感じで」

「ほほう、それでお前はそれを知ってどうするつもりなんだ?」

「いやあ、ただの知的好奇心の探求をばと」

「そうかそうか、俺はてっきり俺を揺する為のネタにするのかと思ったぞ」

「げ、なんでわかったの?……あ」

「やっぱりそうか」

「ち、違う、違うよ!」

「何がどう違うって?」

「ちょっと違う。正確には、エロ本をネタにして先生をおもちゃにしようかと」

「帰れ!やっぱりお前は帰れ!」

猪狩の頭をぐちゃぐちゃにかき回していじめてやった。

「ごーめーん、ごーめーん!」

全く、俺の今までの苦悩はなんだったんだ。猪狩はやっぱり、俺の知っているいつもの猪狩で、制服を着てようが私服を着てようが、猪狩はやっぱり俺にとってどつきあったり冗談を言い合ったりする変な生徒に変わりないのだ。

「せっかく気をつかって紅茶なんか買ってきたがお前にはやらん」

二人分のティーカップに手をかけ、俺は両方一気に飲み干した。

「ああ!ごめんなさい!」

「せっかくケーキとか用意してたんだけどなあ」

「ケーキ!食べる!」

「ダメ。一人で食ってやる」

「太るよ」

「へっ、俺は太らない体質なんだよ」

「ずるい!」

「ずるいってなんだよ。お前はもうちょっと太った方がいいと思うぞ。ガリガリすぎんだよ」

「ヒドい!女の子に向かってそういうこと言う!?」

「はー、いっちょ前に女の子気取りですか」

「失礼な!これでもちゃんと胸あるもん!」

別にそういう意味で言ったつもりではないのだが……

「不能よ!この男は不能なんだわ!エロ本もエロビデオもないのがいい証拠よ!」

「ちょっと待て。お前どこでそんなこと覚えてくるんだ!」

「今どきの中学生なら誰でも知ってるわよ!近づかないでよ変態!妊娠する!」

言っていることが矛盾してるぞ。こいつ本当にわかってるのか?頭が痛くなってきた。

「あのな、言っておくが俺はごく普通の健全な男だ。だからな、誤解を招くような事を言うな」

そうとも。だいたいエロ本もビデオもないのは全部パソコンの中に入っているからなのさ。

「いやー!犯されるー!」

しまったそう解釈するか。

「やめろ!アパート中に響くだろうが!ここの壁薄いんだよ!」

にやり――

猪狩が笑った。しまったと、世界が終わったような気がした。

「ロリコンよー!ここにロリコンがいるわー!」

猪狩が叫ぶ。俺は慌てて口を塞いだ。もごもご何か言っているが多分変態とか犯されるとかそういう言葉だろう。

そうか、こいつは俺をおちょくって遊んでやがるんだ。

それでやっとわかった。猪狩にはこんな風に大声を出して騒いだりする友達がいないんじゃないか?だから俺というとっつきやすい存在ができて、今まで溜まっていた感情をこういう形で発散している。なんだ、やっぱりガキじゃないか。



そんな風に最初の一時間くらいは騒いでいたが、暴れ疲れてようやく落ち着きを取り戻した俺たちは、一息ついて普通に勉強を始めた。俺も教採が控えているわけで、勉強することは山ほどあるんだ。時々質問をしてくる猪狩に解説をしながら、俺たちは結局5時間くらい勉強していた。

最初の大騒ぎが嘘のように集中できて、かなり勉強が進んだ。

もしかしたら最初に暴れたせいでいい運動になってかえって頭が冴えたのかもしれない。

猪狩に数学を教えているとき、こんな会話があった。

「ねえ、先生は将来先生になるんだよね」

「まあな」

「そっか……うん、いいと思う。すごく合ってると思うよ。先生教え方すごく上手いし」

「そうか?」

「そうだよ」

何故か知らないが猪狩はニコニコと笑っていた。

俺はそういう風に言われてうれしいとか思うより先に、そういえば前もこういうことがあったなあと、そんなことを考えていた。



◇◇◇


あれ以来、私はよく先生の家に遊びに行くようになった。親には塾で勉強して帰ると嘘をついて、先生の家に寄って帰ったり。もちろん勉強はした。先生の家は塾の近くで、生徒や他の先生に見つからないように行くのがスリルがあってドキドキした。

私は人生で初めて楽しいと思えたのかもしれない。先生と一緒にいるのは楽しいし、頭の中から雑音が消えた。退屈でたまらなかった白黒の世界も少しずつ鮮やかな色に染まっていく。

私は本当に、先生の家に行くとき、先生と話す瞬間が楽しくて仕方がなかった。勉強にも集中できるし、一石二鳥ってやつだ。

私にとって先生がどうして特別なのか、ずっとわからなかった。


先生と仲良くなると、先生のいろいろな面が見えてきた。真面目そうな先生は、実は私生活がズボラだったり、食生活が偏っていたり、レポートもギリギリだったりと、結構適当な性格らしい。

昔のこともいろいろ話してくれた。

先生の家は昔からお金に苦労をしていて、先生は高校も大学も奨学金で通っているのだそうだ。大学での一人暮らしの生活費はバイトで稼いでいるらしい。

私は愕然とした。私は今まで自分は自立していると思っていた。でも、それはただの思い違いだった。確かに私はまだ中学生だけど、私と先生があまりに違うことに戸惑いを感じていた。彼は自分で考えて、自分で努力して、自分の力だけで立っている。これが大人なのか、と私は衝撃を受けた。結局今までの私は何もわかってはいなかった。まだ義務教育だけど、私は親に守られた存在だ。高校にだって、自分一人の力で行くものだと思っていたけど、結局お金を出すのは両親だ。うちは割と裕福な家庭で、お金に困ることなんてまずない。きっと大学も私は親のお金で行くのだろ。

私は急に自分が恥ずかしくなった。私は人よりもなんでもできて、優れていて、立派な人間だと思っていた。私はこんなにもすごいのだと、そう思うことで他人を見下してきた。他人を否定することだけで、私は初めて自分を肯定できる。

でもそんなのはなんてちっぽけな優越感だろう。私が先生と同い年になった時、今の先生みたいになれるだろうか。答えは、否だ。先のことなんてわからないけど、私はやっと気付いた。私は、成長していない。

私は他人と線を引いて自分を特別扱いすることばかりで頭がいっぱいで、実を伴った事は何一つ成し得ていないのではないかと。どれだけ勉強ができても、私には本当の友達なんて誰一人いない。でも先生にはたくさん友達がいる。先生がプライベートの事を話せば話すほど、私は惨めになっていった。

私は先生に近づくことで、やっと気付いた。私には何もないってことに。うわべだけで生きてきて、心の中では人を否定していた人間に、本当に人がついてきてくれるはずがない。本当に仲良くなってくれるはずがない。

先生は違う。生徒にも他の先生にも好かれて、人に影響を与える人。明るくて、自然体で人の中にいられる人。

比べてみると私はなんなんだろう。みんなと一緒にいる時も演技をして、話す言葉も本心じゃない。嘘だ。私を構成する全ての要素は嘘なんだ。嘘、嘘、嘘、嘘。

優秀になれば、幸せになれると思ったのに。満たされると思ったのに。結局私には何もなくて、私の心は満たされない。

そういうことに気付いたのは、先生のようになりたいと思ったから。先生みたいになれたら、きっと人生が楽しいんだろうなって思った。

でも、先生に憧れれば憧れるほど、私は自分が先生とはあまりにも違うことに絶望した。

そうか、そうだったんだ。私は本当は、こんな風になりたかったんだ。

そうか、なんだ。気付いてみれば簡単なことだった。私にとって先生が特別なのは、当たり前のことだったのだ。自分では意識をしていなくても、私は先生に恋をしていたのだ。だって、私とはあまりに違って、でも、私にとって憧れるべき存在。そう、私は先生みたいな人になりたかったんだ。だから、惹かれたんだ。だから、好きだと思ったんだ。


ある日の勉強会の時、私は言った。

「ねえ先生」

「ん?」

「私、先生のこと好きみたい」

「え?」

「好きになってもいいですか?」



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