第2話

 数日後。

 母の実家から自らの実家へ戻ったわたしは、地元の病院へと向かっていた。かつて母が人生の最期を過ごした場所であり、現在は若菜ちゃんが入院しているという場所だ。

 若菜ちゃんは関西の出版社に勤めていて、普段はわたしと同じように独り暮らしをしているのだが……夏休みに入る少し前から、こっちに戻ってきていたという。おそらく、入院のためだろう。

 病気なのか、事故なのか……原因は椋介さんも言葉を濁して教えてくれなかった。それゆえに、わたしは余計に心配をしてしまう。

 病院へ着くと、椋介さんに教えてもらった病室へ向かう。エレベーターを使い目的の階に着くと、ほどなくしてそこは見つかった。

『瀬戸若菜』

 彼女のフルネームが刻まれたプレートを確認し、ドアをノックしようと軽く拳を握る。

 だが、叩こうとしたところで、わたしは手を止めた。中から、押し殺したような男女の話し声が聞こえてきたからだ。

 女性の方は、無論部屋の主である若菜ちゃんだろう。若干低めのハスキーな声が、関西弁混じりのイントネーションを淀みなく紡いでいる。

 そして、男性の方は……。

「お兄ちゃん……?」

 わたしは思わず、眉を寄せながら呟いた。

 低めの柔らかな男性の声は、兄のものだった。生まれてこのかたずっと近くで聞き続けてきた声なのだから、今更間違えるはずはない。

 二人が何を話しているかなんとなく気になったわたしは、病室のドアに寄り添いながら耳をそばだてた。

「……せやから、ちょっと間違えただけやって言うてるやん」

 若菜ちゃんの苛立たしげな声が聞こえる。それに対して兄は、諭すような口調で返した。

「いくらドジなお前でも、さすがに薬の分量を間違えるなんてあり得ない。何かあったんだろう」

 薬の……分量?

「何か、悩んでいることでもあるのか」

「そんなわけないやん」

 心配そうな兄を一蹴するように、若菜ちゃんが小さく笑う。その声はどこかひんやりとしていて、まるで兄のことを拒絶しているかのような雰囲気が漂っていた。

「あんたが思てる以上に、私はドジやったっちゅうことやろ。あんまり買いかぶらんといてぇや」

「若菜……」

 哀しそうな、それでいて訴えかけるかのような声色で兄がつぶやく。

 その直後、唐突にパシリ、と乾いた音がした。

「っ……何すんの」

 驚いたように、動揺しているかのように若菜ちゃんが声を震わせる。兄はそんな彼女を無視し、まるで問い詰めるかのように尋ねた。

「じゃあ、この手首の傷は何」

「っ!!」

 若菜ちゃんの息をのむ音が聞こえてくる。わたしも思わず声を出しそうになったのを、すんでのところで押さえた。けれど心臓は荒れ狂うかのようにばくばくと音を立てていて、全くといっていいほど抑えが利かない。

 わたしは内心、混乱していた。

 今、なんて……?

 若菜ちゃんの手首に、傷があるって言わなかった?

 これまでの記憶を必死に辿り、若菜ちゃんの左手のことについて思い返してみる。そんな目立つような傷なんて、これまで見たことがあっただろうか。あったとしたら、会った時すぐに気が付くはずだけれど……。

 ……あ、でも。そういえば。

 若菜ちゃんはいつの頃からか、左手にリストバンドをつけるようになっていた。一度理由を聞いたとき「だって、かっこえぇやろ?」なんて言いながら屈託なく笑っていたけれど。わたしはそれをずっと、真に受けていたけれど。

 まさか、それって……手首の傷を隠すため?

 故意的でなければ、手首なんていう場所に傷がつくなんてほぼありえない。それこそ、特殊な仕事にでもついていない限りは。

 けれど若菜ちゃんはそんな仕事なんてしていないはずだし、他に理由が見当たらない。若菜ちゃんは一人っ子だから幼い兄弟などいるはずがないし(いるとしたらわたしたちも知っているはずだし)、家で動物を飼っているというような話も聞いたことがない。

 だったらそれは、つまり――……。

 わたしの頭がその答えを導き出す前に、若菜ちゃんが淡々と答えた。

「これは……近所の野良猫に、やられたんよ」

「嘘だ」

 きっぱりと、兄は否定する。

「猫じゃ、こんな傷はつけられない。俺をあまりなめないでくれるか」

 それは、今までに聞いたことのないほどに、厳しい口調だった。普段なら『僕』と言うはずの彼の一人称すらも、変わっている。

 声を荒げはしないものの、兄は静かに怒っているようだった。

「……」

 若菜ちゃんは、黙っている。何も言わない、言いたくない……そんな意思の表れなのだろう。もしかしたら、唇を噛んで耐えているのかもしれない。

 二人の間でしばらく続いた沈黙を破ったのは、兄の深いため息だった。吐息交じりに、聞こえるか聞こえないかくらいのささやかな声で、一言呟く。

「僕じゃ、やっぱり駄目なのか」

「……」

「あの人にしか……新宮あらみや先生にしか、お前は本音を話そうとはしないのか」

 兄の口から出た聞きなれない名前に、わたしは思わず目を点にした。

 アラミヤ先生……? 誰だろう、その人は。

 先生ということは、やっぱりお医者さん?

 いや、でも……ちょっと待って。

 さっきは突然だったから聞き慣れないと思ったけれど、よく考えたら『新宮』という人名を、ずいぶん前にどこかで聞いたことがあるような気もする。

 どこで聞いたんだっけ……わたしは必死に記憶を巡らせた。

 ……あ。

 そういえば、若菜ちゃんの高校時代の担任の先生が、確かそんな名前だったような。

 だけど、もしそうだったとしても……どうして今さらその先生の名前が出てくるのだろう。彼女が高校を卒業して、もうずいぶん経つというのに。

 そんなことを考えていると、若菜ちゃんが苦しそうに声を上げた。

「……あの人はもう、私のことなんてとっくに忘れているわ。卒業してから一度も会っていないし、連絡すらしてない。なのに……どうして今さら、彼の名前を出すの」

 先ほどまでの関西弁は消えていた。彼女が普段使わないはずの不自然なまでに流暢な言葉遣いは、痛みと苦しみを伴いながら病室に響き、そしてわたしのいるドア越しの廊下にもしっかりと聞こえた。

「私はもう、助けを求めちゃいけないのよ。あの人にも……もちろん悟、アンタにも」

 それは彼女から兄への、はっきりとした拒絶の言葉だった。

 兄は察したのだろう。もう自分にはどうしようもないことを……自分の力では、彼女を救えないということを。

 息をつくような声のあとに、唐突にガタリと音がした。多分、兄が座っていた椅子から立ち上がったのだろう。

「帰るんか」

 関西弁に戻った若菜ちゃんが尋ねるが、兄は答えない。それでも若菜ちゃんは、返事を期待するでもなく言葉を続けた。

「悟。私はな、アンタを信用してないわけと違う。ただ……身近な存在やからこそ、気の置けない関係やからこそ、なかなか心の内を晒せへんねん。それはお父さんにも、お母さんにも同じや」

 ただ……それだけの、ことやねん。

 淡々とした彼女の声を、兄が聞いていたのかはわからない。

 兄は「また来る」と言い残すと、病室を出るためドアノブを回したようだった。ガチャリという音を合図に、わたしはとっさにドア前から身体をよける。

 兄はわたしを見つけると、一瞬だけ驚いたように身をすくめた。しかしすぐにいつも通りの『お兄ちゃん』の顔になって、

「凛、お前も来ていたのか」

 と言った。

 だからわたしも何も知らない『妹』の振りをして、ニッコリと笑ってみせる。

「うん。若菜ちゃん、元気そうだった?」

「まぁな。……じゃあ、僕は帰るからあとはよろしく」

「うん、またね」

 わたしの横をそっとすり抜け、エレベーターのある場所へ向かって歩いていく兄。そのほんの少し寂しそうな後ろ姿を、わたしは見えなくなるまでぼんやりと見送った。

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