遭難(2)
杏季が琴美の家で勉強に勤しんでいる頃。
公衆電話からの着信があったのは昨日の放課後のこと。不審に思いながら電話に出ると、その相手は文彦だった。
普段、彼は携帯電話から電話を掛けてくる。今回はどうして公衆電話なのか尋ねたが、彼は濁して答えず、ただ木曜日の17時に県庁一階ホールで待っているよう告げたのだった。
何事だろうと不思議に思いながら、手持ちぶさたに壁により掛かり待つこと十五分。腕時計を見れば、まもなく時刻は約束の17時になろうとしていた。
ホールには多くの人が行き交っている。目印となる県の形を模した小さな噴水を見つめながら、壁にもたれ掛かっていると、ふと一人の男性の姿が目に入った。
大抵の人は受付に何かを尋ねるか、エレベーターホールに向かうかで、春のいる場所は足早に通り抜けるばかりなのだが、その人物は誰かを捜すように辺りを見回している。上着を羽織らずにベスト姿であるのも目を惹いた。
やがてその男は春の方へ視線をやると、まっすぐこちらに近寄ってくる。彼女は思わず居住まいを正した。
春の前に歩み寄った男は、丁寧な口調で声を掛ける。
「畠中春さん、ですか?」
「そうですけど……」
訝しがりながら春は答えた。その返答に、男は安堵したように表情を緩める。
彼女が何か聞く前に、男は自分から名乗る。
「私は堂島と申します。高神楽文彦の遣いの者です」
「遣い?」
「ええ。諸事情ございまして、私が代理で参りました。
ただいま本人と繋ぎますので、少々お待ちいただけますか」
そう言い置くと、堂島と名乗った男はおもむろに自分の携帯電話を取り出し、電話を掛け始める。受話口に向けて一言二言喋ってから、男は春にそれを手渡した。
戸惑いながらも春は電話に耳を当てる。
「……もしもし?」
『ああ、俺だ。悪いな春』
聞こえてきたのは文彦の声だった。
ほっとして春は息を吐き出す。
「どうかしたんですか? 来られないって、何かあったんですか」
『ちょっと事情があってな。
呼び出しといて悪いが、手短に言うぞ。時間がない、俺の言うことを良く聞いてくれ』
早口でそう言うと、文彦は間髪入れずに告げる。
『今後一切、俺には連絡をとるな』
「……え?」
おもむろに告げられた彼の言葉に。
春は愕然として、携帯電話を取り落としそうになった。
「どういう、ことですか」
『そのままの意味だ。
メールも電話も、金輪際かけてくるんじゃない。いかなる通信手段も使うな、データを削除してくれて構わない』
黙り込んだ春に、文彦は静かに続ける。
『お前に渡すものがある。堂島からそれを受け取ってくれ。
他の誰にも見せちゃいけない。見るときには、誰もいないところで確認して欲しい。
これは俺の勝手な願いだ。だから、……捨ててしまっても文句は言わない。全部、春の好きにしていい。
……悪かったな』
一方的に文彦はそう話し終えると。
春の返事を待つでもなく、電話はあっけなく切れた。
春は走っていた。
堂島という男への挨拶もそこそこに、県庁ホールを正面玄関ではなく裏手の方へ駆け抜け、駐車場を横切り、車の隙間をぬって道路の反対側へ渡り。
気が付けば春は、県庁裏手にある川辺の公園に辿り着いていた。
はあ、と息を切らせて、ようやく春は立ち止まる。
川と道路の間に造られた舞橋公園は、石の積まれた防塁を越えれば、すぐそこに刀音川が流れていた。噴水やシャワーが設置されており、夏の間は水遊びをする子どもたちで賑わっている。
しかし今は十月。おまけに日が暮れた公園には、誰も人の気配はなかった。
「……馬鹿だなあ、私」
自嘲気味に笑い、春は一人呟く。
「こんなとこ来たら。嫌でも思い出しちゃうのに」
北の方角を眺め、春は顔をしかめる。
先月、文彦と苑條とがぶつかり合ったのは、この公園より数キロ上流の場所だった。だが視線の先には対岸へ渡る大きな橋が掛かっており、往来する車に遮られてその先は見えない。
「……ばっかだなあ」
また、春は震える声で呟いて。
芝生の上に膝を抱えて座り込んだ。
+++++
『葵。今、暇か?』
「それは受験生に言うべき台詞か?」
図書館で勉強していた葵は、京也からの電話に呆れ顔で息を吐いた。
が、それを無視して京也は早口で続ける。
『今、どこにいる。図書館かどっかか?』
「そうだよ、図書館だ」
『どっちのだ』
「どっちって、……ああ、県立の方だよ」
『なんだ、そっちか』
「『なんだ』ってなんだよ。市立より近いんだからそりゃそうだよ」
『いや、確かにそうだよな。でもまあ、そこだって飛ばせば間に合う……間に合うってなんだ、何にだ? いやでも、このまま放っとくってわけにも』
煮え切らない彼の様子に、葵は怪訝に尋ねる。
「この前の聖獣か何かの話か? あいつ、やっぱり何かやらかしたのか?」
『あのごくつぶしは今回どうでもいいんだよ。
悪い、いきなりで意味不明だよな。ちょっと僕もここまでの状態だったとは知らなくて、つい慌ててだな』
電話の向こうで息を吸う気配がした。
呼吸を整えたのか、先ほどよりは幾分か落ち着いたトーンで京也は続ける。
『本当はもろもろ話してから送り出したいところだけど、ひとまず事実だけ言うぞ。
春ちゃんが、高神楽文彦から今後一切の連絡を取るなと言いわたされて、泣いてる』
「……は?」
思いも寄らない台詞に、葵は一瞬、言葉を失った。
「どういうことだよ。何が起きてる? お前ら今、どこにいるんだ!?」
『僕は一緒じゃない。春ちゃんは今、一人で県庁の裏にある舞橋公園にいる』
「じゃ、どうしてお前がそれを」
『積もる話はあるが、――それは今してる場合じゃないな』
もどかしげに言葉を詰まらせてから、京也は続ける。
『状況は追って簡単にメールで知らせる。話は終わった後でだ。
行くんだろ?』
「勿論だ。了解した、ありがとな京也」
手短に言い、葵は電話を切る。
携帯電話をポケットに仕舞い込むのも忘れ、彼は急ぎ館内にとって返した。
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