遭難(3)
春はあれから身じろぎすらせず、ずっとそこに座り込んでいた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
不意に、とん、と背中へ何かが当たる。
驚いて、春は膝に埋めていた顔をはっと上げた。
「どうしたんですか、春さん」
聞き覚えのある声に、春は息を飲んだ。
彼女の背中に寄りかかった葵は、春の返事を待たずに続ける。
「こんなところに一人でいたら危ないですよ」
「……そう、だね」
ようやく春はそれだけ答えた。
この場所へ来たとき既に日は沈んでいたが、まだ日没したばかりの公園は、微かに残った光でぼんやりと辺りを見渡すことができた。
だが今や完全に日は落ち、春の周りは暗闇に沈んでいる。公園に街灯はあるが、彼女のいる場所とは離れていた。言われて初めてその事に気付き、春は驚く。
同時に、葵が近づいて来たことすら気付かない、自分の余裕のなさに口元だけ笑った。
「……どうして」
「連絡がありました。走っていく春さんを見かけたって」
淀みなく答えてから、葵は尋ねる。
「何があったんですか」
問われて、春は視線を落とす。
再び彼女は顔を半分、膝に埋めた。
「……言えない」
「言ってください」
「言えないよ! ……話せるような、内容じゃないもん」
葵は空を見上げると、明るい口調で言う。
「どんな内容だって。俺は聞きますよ。
例え俺が傷つきそうな内容だからって。それを決めるのは春さんじゃない」
穏やかな、しかしきっぱりとした葵の言葉に。
やがて春は、恐る恐るその目を開いた。
「さっき。文彦さんに言われたの。
もう金輪際、連絡をしてくるなって」
自分で言って、自分で苦しくなる。言葉にすると、それが事実だなのだとはっきり突きつけられる心持ちがして、春は胸が締め付けられた。
葵はただ、淡々と聞き返す。
「その理由は?」
「分からない。何も教えてくれなかったから」
「何か心当たりはあるんですか」
「何も。……一昨日、借りてたベースを返したけど。その時も、普通だったと思う」
ふと、春は潤との喧嘩のことを思い出す。
文彦と会ってから変わったことといえばそれくらいだったが、おそらく関係はないのだろう。文彦の連絡先を知るのは春だけだったし、弟の直彦に至っては誰も繋がりがない。文彦が知る筈なかった。
「馬鹿みたいだよね。……ただ、そう言われただけなのに。
ひどいことを言われた訳でもない、何をされた訳でもない。むしろ苑條とのことが終わってからは、助けてもらってた。
夏までの状態に戻るってだけなのに、何でこうしてるんだろう」
まるで独白のような春の言葉を、葵は黙って聞いていた。
しばらくしてから、沈黙を破り。
葵は、静かな声で聞く。
「春さんは、……高神楽文彦のことが好きなんですか」
「……分からない」
顔を歪めて、春は自分を抱きしめる。
「最初はただ憎らしいだけだったよ。
でも。あの人の人となりを見る毎に、事情を知る度に、ただの敵じゃなくなっていった。
あの人の裏の部分を知ってから、憎みたくても嫌いたくても、どうしてもできなくなっちゃったの。
何度も何度も彼は敵なんだと信じ込もうとしたけど駄目だった。私はあの人のことを嫌いになることができない。
けど、好きかと言われたらそれも違う気がするんだ。
あの人は散々皆に酷いことをしたし、許せって言われたらブン殴りたい。調子に乗って近付いてきたら塩を撒きたいし、セクハラしたら蹴り飛ばしたい。
だけど。……それでいて私は、放っておけないんだよ。
連絡するなと言われて。こんなにも動揺してる自分に動揺してる」
声だけは気丈に、春は言い切った。
しかし彼女の目には意図せずに涙が溢れ出てきて、また春は腕の中に顔を隠す。
声は出していない。だが背中の振動できっと葵には伝わっている。
それが情けなくて、けれど背中越しに伝わる温もりが妙に心地よくて、春はしばらく顔を上げることができなかった。
やがて。
葵は、ごく穏やかな調子で彼女に告げる。
「春さん。知ってるかもしれないけど。
出会ったかなり初期の頃から、俺は春さんのことが好きだよ」
「……知ってたよ」
ようやく落ち着いた春は。
自分でも驚くほど、冷静に伝える。
「私も、いつからか忘れたけど、それを知ってた」
「だよな。気付かない方が、不思議だ」
彼は、大して気にする素振りなく朗らかに笑う。
いたたまれない気持ちになって、春は胸元のブラウスを握りしめた。
「葵くん。ごめんね、私まだ今、何も答えられそうにない」
「大丈夫。知ってる」
春の言葉を遮って、葵は先ほどよりも深く彼女の背に寄りかかる。
「俺もそれを知ってた。
これでも俺は、誰よりも一番、春さんのことを見ていたつもりだから」
何も答えられないでいる春に、葵は更に言い募る。
「気にするこたないよ。
誰かの気持ちに、100%答える義務も義理もないんだ。春さんの気持ちは春さんのものだ」
「どうして、なの」
春は悲痛な面持ちで、密かに自分の拳を握りしめた。
爪が皮膚に食い込むが、その痛みよりも遙かに心の痛さの方が大きい。何の慰めにもならなかった。
「いつも葵くんは、私を助けに来てくれる。夏からずっと、いつだってそうだった。
でも。私はそんな価値のある人間じゃない」
「さっきも言っただろ」
少しぶっきらぼうな調子で葵はまた春の言葉を遮った。
「俺の気持ちは俺のものだ。春さんに決められる筋合いはない。俺が勝手にやってるだけなんだから、気にすんなよ。
頼むから、自分で自分が駄目なんだって決めつけないでくれ」
川縁に吹く十月の夜風は冷たかったが、何故か寒さは感じない。
背中越しに伝わる葵の体温が温かかった。
「私は。途中まできっと、葵くんのこと、好きになりかけてたんだと思う。
でも。今は自分の気持ちが何も分からない。こんな状態で返事をするのは、不誠実だって思うの。だから、何も答えられない。
……ごめんね、葵くん。ずるいよね。本当にごめんなさい。私のことなんか忘れてくれて、放って置いてくれていいんだよ」
「その言葉を聞けただけで。俺は今、ここに来て良かったって思う」
葵はすっと音もなく立ち上がる。
春の顔を見ないまま、葵は彼女の頭に手を乗せた。
「放って置いてと言われて、放っていく奴がいるかよ。ばぁか」
彼の発言に呆気にとられ、春は葵を見上げる。
どこか遠くの方を見つめた葵は、穏やかに、しかし力を込めた声音で言う。
「諦めるとは言わない。諦めようとも思わない。
けど、最初から仕切り直そうと思う」
葵は春の髪をさらりと撫でると。
やはり彼女から視線を外したままで、一息に言い放つ。
「春さんのやりたいよう自由にしろよ。高神楽がどういうつもりか分からねえが、今のあいつを見る限りじゃ、
けど、みすみす高神楽のことが好きだって確信させちゃやらない。俺だって好きなようにするから。簡単に奴に惚れさせちゃやらねぇよ。
だから覚悟しといてくれ」
彼はそこでようやく春の顔を見つめると、彼女に手を差し伸べる。
「帰るぞ。いつまでもこんなところにいたら、風邪引いちまうだろ」
「……うん」
言われるがままに春は彼の手をとり、よろけながら立ち上がった。春がしっかり立ちあがったのを確認してから、葵はすぐに手を離すと、腰に手を当てて告げる。
「明日。絶対来いよな」
「明日?」
「月谷の誕生日。白原が半泣きだって聞いた。いつまでも強情張ってんじゃねぇよ」
「……聞いたんだ」
「ほとんどリアルタイムで草間から野郎共に報告があがってくるぞ。これ以上、周りに心配かけるな。……何よりも」
やや強い口調で言ってから、葵は不意に言葉を切った。
さっきとはうって変わり、彼は小声でばつが悪そうに言う。
「これで明日、春さんが来なかったら。俺の心が保ちそうにないから。
だから、お願いだから来てくれないか」
またしても春から視線を逸らし、勇気を振り絞った告げた彼の言葉に。
「……分かったよ」
シンプルにそう答え、春は微笑んだ。
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