READY STEADY GO(2)
時を遡ること二か月ほど前。
――2005年8月25日。
杏季の誕生日、夕暮れ時の澪神宮。
「何の、用ですか」
「一度、話をしてみたかったんだ。草間奈由乙女と」
日の沈み掛けた稲荷神社の社には鬼火のように辺りへ炎が灯り、どこか現実離れした空気を醸し出している。
その場にいるのは草間奈由と高神楽文彦。そして、黙って傍らに控えている高神楽直彦だった。
しかし。
そこに居たのは、彼らだけではない。
普段はあまり動かすことのない表情筋を歪め、月谷恵は気配を消しながら彼らの様子を窺っていた。木の陰で息を潜め、三人には聞こえぬ音量で舌打ちをする。
お盆より一週間ほど遅れて実家に帰省していた恵は、奈由の後を追って稲荷神社の奥へ彼らと共に入り込んでいた。
澪神宮にて奈由を見かけたのは偶然、ではない。元々彼は、杏季の誕生日にサプライズを仕掛けるため、奈由と合流する手筈になっていた。澪神宮は待ち合わせ場所に行くまでの通り道なのだ。
遠目に彼女の姿を見つけ近付こうとした恵だったが、様子がおかしいことに気付いた。
まるで陽炎か蜃気楼のように、澪神宮一体がゆらゆらと揺らいでいる。
そして次の瞬間。澪神宮はまるで端から存在しなかったかのように、すっとその場から消え失せた。
いや。消え失せた、という表現は正しくないかもしれない。鬱蒼と茂る木立や鳥居と古びた本殿のある境内はそのままだ。
消え失せたのは、神社の存在感だった。
古くから鎮座する神社があった場所に人の気配はない。恵の目にそこは、何年も人が立ち入っていないかのような、荒れ果てた場所に見えていた。
実際に建物や木々が消えた訳ではない。だが、赤いはずの鳥居は赤黒く木の陰に沈み、本殿は朽ちて崩れ落ちたかのように映っている。
一瞬だけ、呆気にとられた後。
恵は自転車を放り出し、考えるより先に澪神宮があった筈の敷地へ飛び込んだ。
「……どういうことだよ」
一歩、中に入った途端。先ほどまでの違和感は消え、目の前に広がっていたのは見慣れたいつもの神社だった。さっきは目を凝らさねばそうと分からぬ色彩だったのに、今は鳥居の朱が目に鮮烈だ。
後ろを振り返れば、やはり何の変哲もない町並みが広がっている。だが、違和感に気付いている通行人は誰もいないようだった。
後に彼は、これが闇属性の術で周囲から隠蔽された状態だったのだと知る。
この時、まだ事態は飲み込めていなかった恵だったが。神社に踏み入った理由を思い出すと、そちらはさて置き彼女の姿を探した。広くはない境内、さして動き回ることもなく奈由は見つかる。
さっきまで神宮の入り口付近にいた彼女は、今は炎に導かれるようにして、稲荷神社の方へ歩を進めていた。声を上げそうになったが、咄嗟に思いとどまる。
彼以外に、別の人間の気配を察したからだった。
嫌な予感を感じた恵は、奈由も含めて誰にも気付かれないよう身を隠し、少し離れた場所から奈由と高神楽兄弟との逢瀬を見守っている。
人を
思わず飛び出しそうになった恵は、自分の二の腕を抓りあげて必死に堪える。
――ここで出ても! 仕方ねぇだろうがよ!
歯を食いしばり、代わりに彼は自分の右ポケットに収まった携帯電話へ手を伸ばす。
やがて、数秒後。
奈由の携帯電話が警戒するように唸りをあげて鳴り響く。それはまるで恵の不満を代弁しているかのようだった。
奈由は我に返り、文彦から飛び退る。
安堵して、恵は静かに息を吐き出した。
「邪魔が入ったようだね」
文彦はあっさり彼女から身を引くと。
一言二言、意味深な言葉を残し、その場から文字通りに姿を消した。
だが。
恵は一瞬、驚いたように口を開いてから、すっと目を細めると。
拳を握りしめ、無言で彼を睨みつけた。
+++++
「待てよ『黒幕』」
恵の声に彼は振り返る。
高神楽直彦は、目を見開いて恵を見遣った。
「……何?」
見慣れぬ人物に怪訝な色を浮かべるが、潤と酷似した彼の容貌で気付いたのか、恵が何も言わぬうちから「ああ」と声を上げる。
「月谷恵、くんだね。話には聞いてるよ。月谷潤さんの双子の弟さんか。
夏には色々、君のお姉さんに迷惑を掛けたね。その話?」
穏やかな口調で直彦は応じた。
が、恵は直彦の言葉に答えず、独り言のようにぼそぼそと呟く。
「炎属性。兄弟。喋り方。一見は人畜無害そうな風貌にやや陰気なその表情。
あんたは高神楽直彦だな。さっき一緒にいたのが高神楽文彦か」
「そんな細かい情報まで知ってるのか。随分、姉さんと仲がいいんだね」
「あの馬鹿は俺にツーカーで話を流してくるからな」
世間話の体で軽く受け答えてから、今度は真っ直ぐ直彦を見据えて恵は言葉を続ける。
「ただ、夏にお前らと騒動があったのはよーく知ってるけどな。理術の秘密や裏事情については言うなと厳命されてるようで、さっぱり教えちゃくれないんだ。
あんた、潤の代わりに俺へそれを教えちゃくれないか。一体、何がどうなってるのかをさ。
それから。
……ああ、今理術について教えろとは言ったけど正直俺にとっちゃ理術の機密なんざどうでもいいんだが、きっとソレが絡んでくるだろうと思ったから聞いたまでで実は理術のことなんて心底どうでもいい。
と。要するに、だ」
一息に言った恵は、一拍置いて。
表情は真顔のままに、凄みを効かせて言う。
「奈由に何をした?」
ごうっと二人の間を強風が吹き抜ける。派手な音を立てて木立がざわめき、不穏に枝葉が軋んだ。
なかなか止むことのない風は、直彦の伸びた髪の毛をひっきりなしに荒らす。
「その前に、俺からも一つあんたに聞きたいことがある」
直彦は恵の言葉にも疾風にも動じず、静かに尋ねる。
「何故、俺が見える?」
直彦の質問に不審な色を滲ませると。
恵は、何てことない素振りで告げる。
「別に。目を凝らせば見える」
彼の返答に、直彦はしばらく無表情のまま立ち尽くしていた。
だが。
「……く」
やがて耐え切れぬように声を漏らすと、彼は前屈みに体を曲げた。
直彦は右手で自分の顔を覆いながら、左手では強く腹を押さえつけ、何かを抑え込もうとするかのように身を抱える。手の平の中からは、笑いを堪えるような籠もった嗚咽が聞こえた。
「傑作だな。
何とも、素晴らしいじゃないか!」
ようやく直彦は顔を上げる。
指の隙間から、彼の片目が覗いた。
愉悦の色で恵を見つめていたのは、真っ赤な瞳。
深紅に染まった直彦の目だった。
「『私』が術を掛けたと、どうして分かった?」
彼の様子に虚を突かれながらも、冷静に恵は言い放つ。
「パフォーマンスには意味がある」
じっと直彦の瞳を見つめながら、彼は流暢に続ける。
「マジシャンのただ派手なだけに見える一挙一動にだって、人の目を騙す為の視線誘導だったり、客の目を楽しませるというれっきとした理由が存在する。意味のないパフォーマンスは、自己満足という顕著な例外を除いたら、大抵は存在しない。
さっきの奈由との駆け引きには無駄が多すぎる。牽制だけであれだけのパフォーマンスをやる意味がないし、そもそも狙う前からそう宣言しちまうのは、愚の骨頂以外の何物でもないからな。
あれが自己満足じゃないとすれば。
炎の揺らめく神社で奈由と会話としたことには、何か別の目的があったと考える方が自然だろう。
さしずめ、炎はあんたの目の色を誤魔化すため。兄に喋らせたのは自分は付随物なのだと誤認させるため。それから自分が『何か』していたとしても悟られないようにするため、か」
「……傑作だ」
直彦はにやりと唇をチェシャ猫のように引き伸ばす。またも恵は戸惑い、眉をひそめた。まるで、先ほどとは別の人物と喋っているようだった。
「一つだけ付け加えるなら。炎は目の変化を騙すだけでなく、術の生成にも一役買っている。あれは一種の催眠効果をもたらしている」
直彦は顔を覆っていた右手を離した。両の双眸はやはり深い赤色に染まっており、暗くなり始めた林の中で爛々と輝いている。
「『
相手の魂にほんの少しだけ私の魂の欠片を仕込み、私と紐付ける。初めは一時的に意識を奪うことができる程度だが、浸食が進めば、最終的には一定の条件下で術者の意図するまま操り人形と化すことができるのだよ。
私が草間に掛けたのはそういう術だ。とはいえ、先ほどはほんの仕込み。術が大成するにはまだしばらくかかるな」
肩を怒らせて、恵は直彦に掴みかかりそうな勢いで唸る。
「てめえ……」
「そう意気込むな。話はまだ終わっちゃいないよ」
体の前で手を広げた直彦は涼しい顔で言った。
恵の体は動かない。
説明の途中から、彼はとっくに直彦に飛びかかろうとしていた。だが、その場から彼が一歩も踏み出せずにいるのは、直彦が何か術を使っているからなのだろう。
睨むことしかできない恵へ、直彦は微笑を浮かべながら提案する。
「取引しよう、月谷恵。
何故こう易々と私が手中をお前に明かしたと思うのだ。私とて露見した策をそのまま決行するほど愚かではない」
言うと、直彦は携帯電話を取り出した。片手で操作し、流れるような仕草で電話をかける。
「文彦か。まだ近くにいるよな。面白いことになったぞ。
マリオネットの完成を待たずして適合者が見つかった。さっきと同じ澪神宮にいる。すぐに戻れ、アルスが要る」
淡々と電話口に告げながら、横目で動けぬ恵を眺め、直彦は満足げに唇を歪めた。
+++++
「……以上が、君の姉君が先週の騒ぎで知り得た知識の全貌と。私たちの本来の目的である依代計画の概要だ。
廉治の目論見は失敗したが、代わりに私たちは何人かの有望な依代候補を見いだすことができた。それが草間だ。
しかし彼女は簡単に首を縦に振ってくれそうになかったからな。警戒される前段で、予めマリオネットを仕込んだ、という訳だ。
お分かりいただけたかな、月谷恵殿」
説明し終えた直彦は、恵へ水を向ける。
長い話の最中、恵はずっと黙り込んだままだ。
先週の騒ぎで現場に居なかった恵からすると、巻き込まれた潤たちよりも更に輪をかけて信じ難い話ばかりではあった。
けれど。異世界の事情やこれまでの常識が覆ってしまったことなど、彼は歯牙にかけていなかった。
今の彼にとっての問題は、もはやそこではない。
「計画には二名の依代が必要だ。草間に術を掛けたのもその為だった。
だが聡明な君なら気付いているだろう?
草間奈由より更に高い確率でもって、既に依代として適合しうる人材が居ると。
そう。君だ」
思案するような面持ちで口を噤み続ける恵に、直彦は尚も続ける。
「君は闇で隠蔽した筈の澪神宮に侵入し、姿をくらました私の姿を見破った。
つまり無自覚だろうと、君は現時点で『光』の付加属性を発現させている」
「……無自覚じゃないがな。バレてるようだから言うが、合ってる」
諦めて、恵は息を吐き出した。
何故直彦の姿が見えたのかと問われた際に、一応は濁して言ったつもりだったが、関係者からしたら自明のものであったらしい。光属性と闇属性の話で得心が要った恵は、大人しくそれを認めた。
「ソレが理術の属性だってこたあ初めて知ったが。俺のこれは随分前から筋金入りだ。
俺は、光属性だよ」
加えて、恵は潤と血を分けた双子である。
もっとも重要な部分である『依代の素質』を持つ可能性が高い。
あと恵に足りない要素は『開眼』のみだが、こちらについてはさほどの問題ではなかった。補助装置を使えば時間はかかれど、一般人とて難なく開眼はできるのだ。
直彦は真面目な面持ちになり、恵に手を差し伸べた。
「月谷恵殿。依代計画チームDの一員として、依代役になって欲しい。
君が確実に依代として適合したならば、代わりに私は草間から手を退こう。正式に適合が判明したら、協力者として相応の依頼報酬も出す。
君にとっても悪い話じゃないだろう」
直彦の手は取らず、恵は探るように聞く。
「それは、俺が不適合だった場合には奈由に手を出すってことか」
「不適合だったとしても、協力してくれたことへの敬意は払うさ。極力、彼女の優先順位は下げる」
「なら。せめてあの術だけは今すぐ解け。
奈由が助かるなら、俺は依代だろうが何だろうがやってやるよ」
「承知した」
口元を緩め直彦は頷く。
「交渉成立、だ」
言いながら、恵は仏頂面で直彦と手を叩き合わせた。
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◇参考
【第2部】カイホウ編
間章 生誕祭クーラント「高神楽直彦の事情」
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881507313/episodes/1177354054886795254
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