乙女のルートはひとつじゃない!(3)
夕方に降った雨が、夜の空気をしんと冷やす。
ビルを出る前から既に雨は止んでいたが、地面にはそこここに水たまりが出来ている。薄汚れたスニーカーで浅い水たまりを踏みながら、潤は日の暮れた街を歩いていた。
舞橋女子高校から駅に続く大通りを一本、住宅街へ道を折れると、途端に辺りの喧騒が遠くなる。道を行き交う人の姿はほとんどない。
独占状態の裏路地で、潤は機嫌よく鼻歌交じりにふらふらと歩いていたが、前方に佇む人影を認めてそれを止めた。
居住まいを正して、通行人の前を横切ろうと潤は無言で歩を進める。が、それが知った顔であることに気づき、彼女は驚いて足を止めた。
「やあ、月谷さん」
携帯電話を片手に立ち止まっていたのは、高神楽直彦だった。
意外な人物の登場に、潤は目を瞬かせる。
「あれ、小動ぶ……直彦」
「今、小動物って言いかけなかった?」
潤の取り繕った発言を、直彦はすかさず拾った。
だがそこには食いつかず、潤は彼に尋ねる。
「どうしてこんなとこにいんだ?」
「どっちかっていうと、それはこっちの台詞かな。俺は順当に帰宅途中の通学路だよ。けど月谷さんは、とっくに寮を通り過ぎてるだろ」
「ちょいと野暮用があって、京也ん家に行くとこなんだよ。
だけど、そっちだって明らかに誰かと待ち合わせしてるみたいな感じじゃんか」
帰宅途中であれば、歩いている彼と遭遇したはずだ。けれども彼は、薄暗い路地にてじっと一人佇んでいたのだ。
彼は素直にそれを認める。
「そうだね。待ってた。
君らの誰かが京也の家に来る事があるんじゃないかと思って、張ってたんだ」
「は……!?」
反射的に身構えて、潤は半歩、身を引く。
「何だお前。また誰か何か企んでんのか? 高神楽文彦の差し金か!? やっぱり、はったんに近付いてのはそーゆーことなのか!?」
首を横に振り、両手を広げて直彦は否定する。
「兄貴は関係ない。どのみち兄貴は先月の一件以来、ろくに身動きが取れないんだ。今、畠中さんにちょっかいかけてるのは、単純に性的な意味だろうから心配しなくていいと思うよ」
「いや待てちょっとそれはそれで気になるんだけど、ってかむしろ更に心配なんだが何をしれっと言ってるんですかお前ちょっとぉお!?」
「冗談だ。手ぇ出せば普通に捕まるだろ。やりかねないけど」
「やりかねないの!?」
「冗談だ」
「どっちだよ!? お前、そういうキャラだった!?」
「キャラを掴ませてあげるほど、俺は君らと会話をしてないからな」
しれっと答える直彦の表情を、探るように潤は窺った。
そういえば彼は、あの高神楽文彦の弟だった、と潤は認識を改めた。
応酬を切り上げ、直彦は続ける。
「企んでる人間はそう簡単に張ってたなんて開示しないだろ。ちょっと聞きたいことがあっただけだよ」
「聞きたいこと……って」
「白原さんと御堂紫雨の現状について。どうなってる?」
彼の言葉に、ようやく潤は数日前に文化祭で起こった出来事を思い返す。アルスの件や春との喧嘩など、潤個人の周りで様々なことが起きたせいで、彼を見てもすぐに連想できずにいたのだ。
文化祭でリスキーな発言をしてまで杏季に近付こうとしたのに、結局、直彦は御堂紫雨に護衛者の座を奪われた。確かにその後の動きは気になるところではあるだろう。
それにしても、と潤は疑問を浮かべる。
「なんでわざわざ私に? 京也に聞けばいいじゃんか」
「京也の受け取る情報は所詮、複数人を介したものだろ。できればもっと近いところにいる人からの情報が欲しい。
君らは京也と懇意にしてるから、待てば誰か来るんじゃないかと思ってさ」
「それにしたって。その為だけに毎日ここで張ってたのか?」
「まさか。情報を総合して、アタリを付けて今日ピンポイントで来たんだ。
けどこの話はもういいだろう、本題が知りたい」
強引に話を打ち切り、直彦は話題に切り込んだ。
「俺は残念ながらフラれたけど、懸念はしてるんだ。御堂のことは信用していない。
白原さんの立場が危うくなるようだったら、こちらも手を打たないといけないからね」
「前にも言ってたよな、信用してないって。
私は、あっきーが御堂紫雨に任せたんならそれでいいと思っちゃうんだけど……どうしてそこまで気にするんだ。ごちゃごちゃしててよく分かんないけど、お家の事情、ってやつか?」
「そう思ってくれていいよ。それとも、高神楽にそう情報は渡せない?」
害意のない表情で、穏やかに直彦は笑みを浮かべる。しかし、かえってそれが潤を警戒させた。
紫雨に手放しで味方するわけではないが、迂闊な発言をして二者の間に火種を与えたくはない。潤は気を引き締めて口を開く。
「別に、隠すほどのもんでもない……っつーか、たいした情報ですらねーよ。
あっきーは今、もうちょい男に慣れたほうがいいだろうってんで、頻繁に紫雨さんと会うように言われてるぐらいだな。
つか、詳しい話は、よく考えたらマジで私も聞けてないからな……」
潤は、春との喧嘩を思い返す。
言ったように、潤は直彦に有益な情報を与えられるほど、杏季から話を聞いていなかった。昨日は杏季の部屋に泊まったが、喧嘩の件ばかりで紫雨との話はしていない。自分周りのことでいっぱいいっぱいだったのだ。
煮え切らない潤の説明に、しかし直彦はあっさり退く。
「そうか。ならいいや。時間取らせて悪かったね」
踵を返し、直彦はひらりと手を振る。
「じゃあ。またいつか」
そう言い残すと。
そのまま彼は、振り返ることなくあっさり去っていった。
拍子抜けし、その背をしばらく見送って。
「……なんだろ。気のせいか?」
妙な違和感を感じつつ。
しかしやがて気を取り直すと、潤は直彦とは反対方向に歩き始めた。
+++++
騒がしいチャイムの音に誰が来たかを察し、京也は足早に玄関へ向かった。
予想通りの人物が佇んでいるのを確認すると、挨拶も抜きに彼は潤へ訴える。
「おい、あのごくつぶし本当に何とかしてくれ!」
「京也センパイ、マジあざーっす!」
軽い口調ながら、最敬礼をして潤は答えた。
その後で、少しばかり怯えた表情で彼女は京也の顔色を窺う。
「え、何? まさかアイツ、男相手にもセクハラしてくる?」
「いや。流石にそれはないしさせないけどな。
日がな一日家にいるくせにあいつさっぱり何もやらないぞ。というかやらないのが問題じゃなく、皿洗いすれば連続で三枚割るし、掃除をしたら乱雑に食器棚に突っ込んで皿を割るし、料理の手伝いをすれば皿と醤油瓶を割るし、本当に勘弁してほしい……」
「本当にすみません……」
京也への対応としては、かなり殊勝な態度で潤は頭を下げた。
仕方ないけどな、と京也は潤を責めるでもなく諦め交じりで応じる。アルスを押し付けられたのは確かだが、他の者が誰一人受け入れ出来ないのは事実だったし、潤が悪い訳ではない。彼女とてアルスの登場に居合わせただけなのだ。
「因みに肝心のアルスは?」
「今は風呂に入ってる。だから当分は大丈夫だ」
「承知した。あざっす京也先輩」
「お前な。長髪ナルシストも大概だったがその呼び方もやめろ」
顔を
が、潤は彼の不満に言い返すでもなく、不意にまじまじと京也を見つめた。
「……何だよ」
「いやあ。本当に短くなってるなーと思って」
「舞台で観てただろ」
「そうだけどさ。あの時は距離があったじゃんか。
文化祭当日はお前忙しそうだったし、月曜はあっきーがゴタゴタしてて、ずっと話せなかったしさー」
潤はすっと手を伸ばし、首元までの長さになってしまった京也の髪へ触れた。
「綺麗な髪だったのに、勿体なかったなと思って」
残念そうに言う潤に、京也は面食らう。
「……な。にを、言ってんだよ」
思わず潤の手首を掴んで離し、彼はどこかむきになって尋ねる。
「それで。今日は、突然どうしたんだよ」
「ああ、そうだ! お前に悪いと思ってさ。差し入れ持って来たんだ。
あの聖獣、団子が好きっつってたから、お前へのお詫びがてらと思って」
潤は思い出したように手を叩き、団子の入ったビニール袋を京也に押し付けた。
そうしてから、彼女はおずおずと告げる。
「あのさ。ちょっとトラブっちゃって、まだ皆にアルスのこと話せてないんだ。ごめん」
「ああ。奈由ちゃんに、おおよその事情は聞いた」
「そっか。悪いな。本当は皆にも事情話して、方法とか探せればと思ってたんだけど」
潤はばつが悪そうに愛想笑いを浮かべた。
「もし長引きそうだったらさ。レンにも相談して、ちょっとあいつにも任せられないか聞いてみるからさ。本当に悪いな、京也。
それじゃ、また明後日な」
「あ、おい月谷!」
京也は、咄嗟に手を伸ばす。いつの間にか、彼は帰ろうとした潤の制服の袖をしかと掴んでいた。
彼女はきょとんとして、自分の袖口と彼の手を眺め、次に京也を見上げる。
「どうした?」
「いや、その」
本人も戸惑いながら自分の手を見つめ、京也は静かに手を離す。
「……気をつけろよ」
「何にだよ?」
「いや、その。……もう日が落ちてるし」
「まあ、秋だからな。最近めっきり日が短くなったよな」
「――いや。やっぱりちょっと寮まで着いていく。もう暗いし何があるか分からん」
「何度も来てる道なのに今更、何言ってんだよ? 慣れてる道だし、車通りも多くて明るいから別に大丈夫だぞ?」
「……道中で滑って転んで頭がかち割れるかもしれないだろ」
「具体的に怖い想像をするなよ!? 今日は何なんだよお前!?」
「いいから行くぞ。門限もあるんだろ」
「ゲッそうだった。さすがにそろそろヤバいな」
面食らいながらも、珍しく京也に押される形で潤は帰路に着いた。
ぽつり、と彼らの頬に水滴が落ちる。
また、にわか雨が降ってきたようだった。
+++++
「張られてる」
短い声で告げられたその言葉に、しかしそれで相手は理解したようだった。
『想定内っちゃ想定内だが……ちょっち今のタイミングじゃ、面倒だな。下手に動けないって事か』
「ああ。あいつらを引き込むのは、もう少し待った方が良さそうだ。
早めに動くに越したことはないが、直彦にバレるリスクの方がよっぽど怖い」
『そりゃそうだな。少なくとも二十一日が過ぎるまでは待つか』
やや不服そうながらも、彼らは確認し合って同意した。
「ただ。とりあえずは、前進だな」
時計を見上げて。
彼は、0を通り過ぎた短針を強く見つめ、手に力を込める。
「十月十九日は――越した」
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