9章:よもやま悩み

乙女のルートはひとつじゃない!(1)

――2005年10月19日。




 翌朝。

 ふわあ、と欠伸をしながら杏季は重たい瞼をこすった。目は半分閉じたまま、のろのろと洗面所に赴き、奈由の隣に並ぶ。

 歯を磨いていた奈由は正面を向いたまま、鏡ごしに杏季の顔を眺める。


「おはよう。眠そうだね」

「おはよー。夜中にね、顔面につっきーの手が当たって叩き起こされた……。あと、途中で布団がなくなってた」

「ご愁傷様」


 挨拶を交わしながら杏季は手の平を冷たい水で満たし、思い切り顔にかける。いつもより念入りに顔を洗って、ようやく目の開いた杏季は、気だるげに息を吐き出した。

 髪をかしながら奈由が何気なく話しかける。


「あっきー。相談があるんだけど」

「なあに?」

「あの二人。どうにか、仲直りさせよう」


 歯ブラシへ歯磨き粉を出そうとしていた手を止め、思わず杏季は奈由を見つめる。


「意外。気が済むまで放っとけっていうかと思った」

「昨日の時点ではそう思ってたんだけどね」

「……だろうね」

「私もね。一晩経って、冷静になったんですよ」


 口に髪ゴムをくわえ、奈由は手慣れた仕草で髪をまとめる。

 夏に比べて伸びた奈由の髪は、肩より少しだけ長い。日本人形を思わせる艶やかな黒髪を、奈由は珍しく春と同じポニーテールに結わえた。


「あっきー。明後日、何の日か覚えてる」

「あっ……」


 気付いて、杏季は視線を泳がせた。目線はカレンダーを探すが、あいにくと洗面所にそれは置かれていない。


 明後日、すなわち今週の金曜日は十月二十一日。

 潤の誕生日だった。


「……よりによって、よりにもよってなタイミングで喧嘩したねあの二人」

「ホントにね。困ったもんですよ。

 いつもだったら、本人たちが冷静になるまで好きにさせとけって言うんだけど。流石に誕生日にぎすぎすしてるのはうちらだって嫌だし、余計にこじれるでしょう。

 このまま放っといたら長期戦になりそうだし」

「あれから一切、口きいてないもんね……」


 喧嘩の後。潤と春は、夕食時は勿論のこと、入浴から就寝に至るまで、会話をするどころか近寄ってすらいなかった。潤などは春のいない隙を狙い、手近な荷物をまとめた上で杏季の部屋に逃げ込んでいる。

 お互いに顔を合わせないように意識をしているので、和解するきっかけも掴めない状況だ。二人はクラスが一緒だが、教室でもおそらく話をしないのだろう。昨日の今日である、態度がすぐに変わるとは思えなかった。


「今日明日でどうにかなってくれればいいんだけどね。

 もし明後日までにどうにかならなかったら。誕生日当日に仲直りしてもらおうかと思ってるんだけど」

「当日にいきなりどうにかできるかなあ」

「よくある青春ドラマよろしく殴り合いでもさせましょう」

「ふぁっ!?」


 歯ブラシをくわえたまま杏季は間抜けな声を挙げた。


「……河原で拳で語り合うみたいな?」

「うん。そこまで深刻な拗れ具合じゃないし。周りがお膳立てしてそういう状況作れば、なんとかなるんじゃないかな。

 あっきーの誕生日みたいに、京也氏とかいつもの連中で集まってさ。皆で誕生会やろうよ。元々、金曜日は皆、塾とか多くて人が集まらないから、寮の誕生会は日をずらそうかって話してたもの。私からナコさんにはそう言っとく。

 それに寮のメンバーより、ちょっと部外者な立ち位置のメンバーで冷静に外から指摘してもらった方が、話がまとまりやすい気がするし」

「確かにそうかもねえ」


 ふんふんと頷いて同意しながら、しかし杏季は懸念を浮かべ首を傾ける。


「それ自体は素敵だと思うけど。今回は学校帰りだし、門限までだと京也くんたちと一緒にっていうの、時間短くないかな」

「会場は京也氏の家じゃなく、近くのお店で甘いもの食べるくらいでいいんじゃないかな。殴り合いは、その前に外でやってもらうことにしてさ。

 あとね。私、実は金曜日からちょっと用事があって外泊するんだよ。だからそれにかこつけて、ついでに三人も一時間くらい門限延長してもらえるように頼んどくよ。任せて」


 淀みなく奈由は答えた。あまりにそつない奈由の提案に、杏季は思わずまじまじと彼女を見つめる。杏季の視線を受け、彼女は怪しげな微笑みを浮かべて唇に人差し指を立ててみせた。


「じゃあ。男性陣への協力依頼やナコさんとの調整は私がやる。

 あっきーは、あのタラシとあの変態をどうにか金曜日に連れ出せるよう、二人を説得してくれないかな」

「了解です!」


 びしりと右手を額につけ、杏季は頷いた。

 話を終えると、身支度を終えた奈由は足早に自室に戻って行った。


 一人になってから、奈由との会話内容を思い返しつつ、手早く髪を梳かしていた杏季だったが。

 とあることに気付き、ふと動きを止める。勢いよく奈由が立ち去った方を振り向くが、既に彼女の姿はそこにない。

 誰もいない廊下を見つめたまま、杏季はぼそりと独り言を言う。


「……一番厄介なところを、体よく押しつけられた気がする」


 昨日の二人の様子を思い浮かべ、杏季まで憂鬱な心地になる。

 それを振り払うように力を込めて髪をくくると、杏季は顔面をぴしりと叩いて、気合を入れ直した。






+++++



 お昼休み。第一のミッションには難なく成功した。


「え、マジで。行く行く超行くけど。めっちゃパフェるけど」


 潤をこっそり連れだし、一対一でお弁当を食べながら、京也たちとの誕生日会の旨を告げると、彼女は諸手を挙げて賛同した。

 当事者なので、潤が断ることは多分ないだろうと思ってはいたのだが、ひとまず杏季は安堵する。


 恐る恐る春のことも話に出すが、潤は渋い顔を浮かべながらも「あいつが来るなら来るで、来ないなら来ないで、それで別にいいだろ」とぶっきらぼうに言い捨てた。最初から彼女の事を拒絶する訳ではないらしい。ようやく杏季は胸を撫で下ろし、卵焼きを口に運んだ。

 念の為、杏季は争いの火種であった人物についても確認をとる。


「大丈夫? 当日ユキくんが何か考えてたりはしない?」

「いやそんなこと考えてる訳ねえだろあの鬼畜メガネが。そもそも本気で付き合ってる訳じゃねえし、かえって誕生日に行くの嫌でさ。ちょうどどうしようか悩んでたんだよ」

「嫌だったの?」

「嫌じゃないけど。嫌ってか、その日に行ったら、ちょっと祝ってもらうのを狙ってるみたいじゃん?」

「そうなんだ?」


 首は傾げつつも、かといって当日、廉治のところに行かれてしまっては困るので、杏季はたいして言及せずに留めた。

 最初に喉を通らなかった分を挽回しようとするかのように懸命に箸を動かしながら、杏季は潤に依頼する。


「じゃあユキくんには、はったんと喧嘩してることも含めてその旨を報告しといてくださいね」

「なんでだよ?」

「今回拗れたのは、お互いに言いづらくて話が通ってなかったからでしょ。何があるか分からないし、一応、事情説明は徹底しといてくださいね」

「……何も言えませんハイそーですね分かりましたよ」


 口を尖らせながら潤もまた卵焼きを口に運んだ。






 そして迎えた放課後。第二のミッションにして、最大の山場。

 杏季の言を受け、にっこりと春は笑う。


「行かない」


 あくまで表情は柔和なまま。

 だが、目の奥では全く笑っていない。

 一見、そうとは感じさせないながら、実際にはすこぶる威圧的な笑顔でもって春は続ける。


「あっきーとなっちゃんで行って来なよ。私は寮で待ってるからさ」


 杏季は心の中で両手をあげた。



 ――無理だ。連れていける気がしない。



 しかし、このまま引き下がる訳にはいかなかった。


「はったん!」

「何?」

「ミスド行かない!?」

「いいよ。けど、金曜の誕生会の誘いなら聞かないよ」

「…………」


 敵はなかなか手強い。

 しかし。このまま、引き下がる訳にはいかない。

 杏季はぐっと拳を握る。


「ミスドにも行くけど! それはそれとして!!

 よし。はったん。今日はつっきー追い出すから、今夜は私と一緒に寝ようか」

「え、本当に? あっきーと同衾どうきんしていいの? やったあ超楽しみ」

「その言い方やらしいよ!!」

「やらしく言ってるもの。いやあ楽しみだなあお姉さんどきどきしちゃう」

「身の危険を感じてきた!!」



 ――とにかく、はったんの言い分を聞いて心を解しつつ、隙を見てしつこくない程度にアタックあるのみ!



 杏季は心の中で自分の頬を叩き、また気合を入れ直す。

 その時。


「しーろはーらさーん?」


 彼女の背後から聞こえた、ねっとりした含みのある声。

 察して、すっと背筋に冷や汗が流れる。


「かっ、かっ」


 ぶん、と音が鳴りそうなほど、焦って勢いよく振り向けば、そこに立っていたのは予想違わぬ人物だった。


「春日先生……!」


 上ずりそうになる声をなんとか抑え、努めて平然とした口調で杏季は答えた。しかし、口元がひくりと引きつってしまったため、その努力は無駄だったかもしれない。


 杏季の背後にいたのは、大柄の幾何学模様が描かれたカーキ色のロングワンピースにブラウンのカーディガンを羽織った、あまり背の高くない妙齢の女性。


 春日かすが告久美つぐみ

 女帝と称され恐れられる、彼女たちの英語教諭だ。


 夏休みに、彼女たちを虫退治にいざなった張本人でもある。しかしその時のことは、そうと問いかけても笑顔で煙に巻かれてしまったことと、琴美との約束のこともあり、突っ込んだ話は聞けていない。


 あまり目線の変わらない杏季をじっと見つめ、告久美は悠然とした笑みを浮かべる。


「今日のリーディングの訳が盛大に間違っていたのに、放課後ミスドに行くとはいい度胸じゃない」

「申し訳ございません!!!」

「冗談よ」


 本気か冗談か分からない調子でそう言うと、ほほ、と告久美は口元に手を当てた。


「息抜きはいいけど、明日はちゃんと答えなさいね。また当てるわよ」

「がんばります!!!」


 敬礼のポーズを取り、さほど咎められなかったことに杏季は安堵のため息をついた。

 次に告久美は春に目を向ける。


「畠中さん」

「はいぃっ!!」


 杏季より更に輪をかけて怯えながら、春は悲鳴にも近い返事をした。

 なお四人組の中で、英語の成績は春が一番悪い。

 んん、と咳払いしてから、低い声で告久美は口を開く。


「……先日の小テスト」

「申し訳ございません!!!」

「あら、まだ何も言ってないわよお。

 ところで成績不振者には、別途特別に補修を組んだほうがいいんじゃないかと思っていてね?」

「次回は挽回いたします……ッ!」

「いい心がけねえ。先生嬉しいわあ」


 妖艶な笑みを残しながら、彼女は踵を返した。

 完全に告久美の姿が見えなくなってしまってから、杏季はぽつりと言う。


「はったん」

「……はい」

「ミスド行こう!」

「行こう! 外国語のことはひとまず忘れよう!!」

「英語なんてなーいさ!」

「英語なんてうーそさ!」

「ねーぼけーたひーとが!」

「しゃべったー言語さ!」

「女帝の授業のレベルが高すぎるんだよおおおお!」

「単語テストみたいなノリで東大や上智の入試問題を出されてもしぬしかないじゃない!」

「和訳してみても日本語でも割と難しい論文だったぞー!?」

「こちとらセンターでもボーダーぎりぎりなんだぞー!」


 緊張から解き放たれた二人は、やいのやいのと言いながら、小走りで玄関に向けて逃げ出した。




 潤の誕生日まで、あと二日。

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