ネオメロドラマティック(2)
しばらく経って、静かだった部屋にまた男性陣の談笑が戻り始めた頃。
廊下を誰かが走ってくる足音がした。ぼんやりと彼らのやりとりを傍から眺めていた杏季は、紫雨が帰ってきたのだろうかとびくりと肩を揺らす。しかし男性のものにしては、足音がいやに軽い。
軽快な足音は彼らのいる部屋の前で止まり、それと同時に勢いよくドアが開かれた。
「杏季さん!」
意外な人物の登場に、杏季は目を瞬かせる。
「……こっちゃん?」
現れたのは彼女の友人であり、かつての護衛者、佐竹琴美だった。
琴美は杏季の姿を認めてほっとしたような顔を浮かべるが、杏季の手元にあるタオルを見て険しい表情になり、きっと後ろを振り返る。
「杏季さんに何したんですか!」
「何もしちゃいねぇよ大げさだな」
うんざりした様子で紫雨が後から現れた。
疑いの眼差しで琴美はじっと紫雨を見上げる。
「幾ら男性陣の輪の中に連れてこられたからって、何もしてないのに杏季さんがここまで怖がるわけないでしょう」
「まあ。ちょっとやそっと怖がらせたかもしれない」
「あああもう事情知ってる癖に何やってるんですか紫雨兄さん!」
高い声で抗議した琴美の言葉に、杏季はぴしりと固まる。
「……え?」
思わず声に出てしまい、呆然と杏季は琴美を見つめた。
彼女の反応に気付き「ああ」と声を漏らしてから、改めて琴美は隣の紫雨を指し示す。
「兄です」
「……えっ」
紫雨もまた、ちらりと琴美を見下ろす。
「妹だな」
「……エッ」
そのままの表情で杏季はしばらく硬直した。
やがて糸が切れたように力無く椅子にもたれかかり、彼女はタオルに顔を埋める。
「……友達の兄がこんな人だったって事態に理解が追いつかない」
「おいどういうことだチビ娘」
しっかり聞こえていた紫雨が杏季の髪を掴もうとした。が、彼女が悲鳴をあげる前に琴美に手を弾かれ、制止される。
「ちょっと何してるんですか杏季さんの髪引っぱらないでくださいよ!」
「ツインテールやポニーテールは引っ張ってやるのが礼儀かと」
「あんた小学生か!」
軽口を叩いた後で、紫雨はじっと琴美の髪を眺める。
「お前も髪を伸ばせばいいのに」
「嫌です。どうせおもちゃにされるに決まってるんですから」
「よく分かってるじゃん」
「当たり前でしょう」
「はっはっはよろしいよろしい」
紫雨はぐしゃぐしゃと琴美の髪を撫でた。
冷たくその手を払いのけてから、琴美は話を元に戻す。
「というか。それはどうでもいいんです。
そんな事より、いつの間にどうして紫雨兄さんが杏季さんの護衛者になってるんですか!」
「昨日から、成り行きだな。一応はこいつが俺を選んだんだ」
「どうせ貴方が
「まーね」
「いっつも兄さんはそうなんですから!」
「大丈夫だ。煽りならここに俺より一枚上手の奴がいる。俺なんてまだまだ可愛いもんだ」
「そういう問題じゃありません!」
琴美は杏季の手を取り立ち上がらせた。
彼女の手を引き、紫雨とは距離を取るような立ち位置でドアの前に連れてくる。
「紫雨兄さん。今日は私が杏季さんを連れ帰らせて頂きますからね」
「まだ何もしてないぞ」
「今日はこれが限界です」
ドアを開けて杏季を外に出るよう促すと、琴美はドアノブに手をかけながら紫雨を振り返った。
「いいですか。その辺を少し歩いて私が杏季さんと話してきますから。話し終わったら呼びますので迎えに来てください。私も同伴で杏季さんを寮まで送り届けます。
紫雨兄さんは黙って運転手しててください」
一方的にぴしゃりと言うと、琴美は乱雑にドアを閉じた。
小さくなっていく足音を聞きながら、紫雨は低く口笛を吹く。
「我が妹ながら怖いねえ」
「妹さんを怖くさせてるのは紫雨さんだけどね。
……で。これから、どうするの」
深月の問いかけに、紫雨は目を細めて彼を振り返った。
「さっき言った通りだ。とはいえ、嫌がるなら無理強いはしないけど」
「ここまで連れて来といてよく言うよ」
また深月は大きくため息を吐き出した。
しばらくの間、黙って考え込んでから、深月は慎重に言う。
「紫雨さん。俺はまだ彼女と同じ高校生で、何の実権もないよ」
「今は、な。俺だって、今日明日どうにかなるとは思っちゃいないさ。あいつの場合、時間がかかりそうだから早めに
お前にとっても、決して悪い話じゃないと思うけどねぇ」
真顔になった紫雨が淡々と告げた。深月は彼の表情を窺うが、紫雨は微動だにしない。
下手に動いたらあいつが怖いんだけどなあ、とぼやいた後で。深月は、「ま。その通りだけどね」と素直に認めた。
「分かったよ協力する。ただ、流石にここだとまずい。次回以降は別の場所でお願いしたいんだけど」
「そこは分かってるって」
満足げににっと笑みを浮かべると、紫雨もまたドアに手をかけた。
「じゃ。愛する妹に怒られないように、お兄さんは早めに車でスタンバイしてるとしますかね。
明日と金曜は塾らしいから来ないけど、明後日は暇らしいから空いてる奴らはよろしく頼むよ。またな」
ひらりと手を振り、彼は軽やかに立ち去った。
紫雨が去った後。三人だけが残された室内で、久路人はぽつりと呟く。
「……滅茶苦茶、楽しそうだったね紫雨ちゃん」
「ええ。物凄く嬉しそうでしたね」
彼らが去っていったドアを見つめながら、樹も賛同した。
同じく深月も視線をそちらに向け。
「そりゃ、そうでしょ。ようやく、かつて失った幸せの種を取り戻しかけてるんだからさ。それ言ったら怒られるだろうけど。
あんな幸せそうにしてりゃ、……ま、こっちも悪い気はしないよね」
物憂げな表情を浮かべつつも、仕方なさそうに深月はため息混じりに頬杖を突いた。
けど、と久路人は苦笑いを浮かべる。
「に、してもさ。紫雨ちゃんてさあ、本っ当に下手くそだよね……」
「いやあ。絶対一ミリも伝わってないですよね……」
控えめな声で樹もそう評し、二人は渋い表情で同時に頷いた。
「それについては、妹さんが的確な表現をしてたじゃん」
人差し指を立て、深月が指摘する。
「小学生か、ってさ」
彼の言葉に、ああ、と深く納得したように呟き。
久路人と樹は顔を見合わせ、また静かに頷いた。
+++++
「うちの愚兄がご迷惑をお掛け致しました……」
琴美が深々と頭を下げた。
慌てて杏季は両手を顔の前で振る。
「そんな、こっちゃんが謝ることじゃないよ!」
「いえ。紫雨兄さんの性格は重々承知してますので何があったのかは大体察しがつきます。本当にうちの愚兄が申し訳ありません」
「だからもう大丈夫だってば!」
「いえ、もう、ホンットに馬鹿ですみません!」
琴美はなかなか止める気配がない。焦って彼女の肩に手をやるが、それでも琴美は顔を上げようとはしなかった。
影路の敷地だからだろうか。琴美に手を引かれ、二人は早々に紅城学園を後にした。二人は今、紅城学園の敷地を出てすぐのところにある狭い路上にいる。辺りは新興住宅街であり、学生が住んでいるのだろうアパートやマンションが点在していた。
そこで、彼女からおもむろに謝罪されているのが現在である。
どうにか話題を変えようと、杏季は無理矢理に話を逸らす。
「でも、びっくりした。こっちゃん、お兄さんがいたんだね」
「ええ。皆さんには言ってませんでしたけど」
苦笑いを浮かべながら、琴美はようやくゆっくりと顔を上げる。
「一応、兄妹ではありますけど。
苗字でお察しの通り、普通の兄妹じゃありません」
ほっとしたのも束の間、杏季はしまったと口を閉ざした。
琴美に兄弟がいる、というのは初耳だった。
それどころか、家族の話題が出たときにいつも彼女は「一人っ子」だと周りに説明していたのだ。後からその事実を思い出し、杏季は冷や汗を流した。
彼女の動揺を余所に、琴美は何てことない風に続ける。
「有り体に言うと、腹違いの兄妹、ということになりますね」
「……腹違い」
「紫雨兄さんは御堂家の本家の出自。私は。いわば異端の生まれです」
さらりと、琴美は至って明るい口調で言う。
「私の母は、異世界人ではないんですよ。元からこちらの世界の住人です。ですから由緒正しき御堂の家とは相容れなかった。佐竹は母の姓なんです。
かつて杏季さんの護衛者を巡って、東風院妃子とこじれたのもその為なんですよ。
護衛者としての由緒は御堂の方が上。けれども血筋としては東風院妃子の方が上だった。
我々の界隈はカビ臭い価値観でして、血の濃さこそ史上と考えていますからねぇ」
世間話のように語られた内容は、まるで現代のものとは思えない苛烈さをはらんでいた。簡単に話しているが、その裏で繰り広げられた
何も言えず、杏季はただ黙って彼女の話に耳を傾ける。
「本来だったら、旧態依然としたこの世界で、私が護衛者になどとてもなれなかったでしょう。
けど、本家の体制はともかく。父はこっちの世界にしては柔軟な人で、紫雨兄さん共々、私達に目を掛けてくれていました。好色なのは好かないですけど。
だから、私はここにいられたんです。
父と紫雨兄さんが、私と、母に、居場所を作ってくれた」
そう言い終えると、琴美は少しはにかんだような笑みを浮かべた。
いつもの琴美とは違い、含みのない、静かで穏やかな微笑みだった。
杏季は、琴美の語ってくれた中身に触れようとするが、何を話したらよいものか全く思い浮かばず。
やがて彼女は、この場での言及を諦めた。
「……ごめん。そんな話を聞いちゃって」
「いいんです。話してはいませんでしたけど、機密でもないですし、隠してもいませんから。皆さんに気を遣わせてしまうと思って言わなかっただけなんです。
……それはそうと」
今度は琴美が話題を変え、杏季の顔を覗き込む。
「無理なようなら、断って構わないんですよ。
確かに、男性への苦手意識を治すことはいずれ必要かもしれません。けれどそれで杏季さんに負担がかかるなら、火急に進めることはありませんよ。ましてこの時期ですから、無理は禁物です。
大学に行けば、女子大でも今より自ずと男性と関わる機会は増えてしまうでしょう。それで少しずつ慣れていくのでいいのではありませんか?
行こうが逃げようが、杏季さんの望むままにしていいんですよ」
「うーん……」
腕を組み、悩みながら杏季はぽつりと話し出す。
「正直ね。ごめん、正直、紫雨さんは、まだちょっと苦手なんだけど。
でも。今だからこそ、頑張ってみなきゃなって思うの。それに、あの人たちなら、なんとかやっていける気がする。
もう少しだけ。もう少しだけ、やってみるよ」
「いいんですか?」
「うん。紫雨さんを選んだのは、私なんだし。こっちゃんのお兄さんなんだったら、表面上はああでも、悪い人じゃないでしょう」
「……ありがとうございます」
少し驚き、そして少し照れくさそうに、琴美は表情を綻ばせる。
「でしたら。
「本当?」
「ええ。元々紫雨兄さんには今日、頼みがあるからと呼び出されてたんですよ。流石に紅城学園で会うのは支障があるから、今後は私の家で勉強会をさせようってハラだったみたいです。
全く、だったら最初から説明してくれればいいものを」
「こっちゃんから事前に話が漏れて、怖気づいた私が逃げないようにするためじゃないかなあ……。こっちゃんがいると言えど今日の事がなかったら、逆に他の三人に会うのはハードル高かったと思うし」
「そうなんでしょうね。全く我が兄ながら腹立たしい」
苛立たしげに腕を組み。
しかし琴美は、堪え切れずどこか嬉しそうに笑った。
杏季もつられて微笑みながら、じっと琴美を見つめる。
こうして笑う琴美と話をするのは久しぶりだな、と場違いに彼女はしみじみと思った。
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