ネオメロドラマティック(1)

 杏季が連れてこられたのは、裾野長く広がる山のふもとに差しかかった舞橋市の北の外れ。閑静な住宅街に賑やかな商店街と、整然と区画整理された街並みを通り過ぎた先にある、高い壁に囲まれたひときわ広い場所だった。

 白壁の時計塔にガラス張りの新校舎が目に眩しい私立学校、紅城こうじょう学園である。


 車窓から眺めたことはあったが、杏季が実際に訪れるのはこれが初めてだった。紅城学園は同じ敷地内に幼稚舎から大学までが併設されているが、今二人が向かおうとしているのは大学の敷地のようである。

 物珍しく辺りを見回していると、二人の乗った車はなめらかに駐車場へ収まった。半端な時間だからか、あまり車は停まっていない。


 車を降りた紫雨は足早に歩を進める。正門ではないのだろう小さな門をくぐり抜けると、彼はすぐ一番近くにある建物の中に入った。不安を覚えながら、目深くパーカーのフードを被った杏季も遅れて中に入る。

 四階建ての建物は全面がガラス張りで出来ていた。既に日が沈んでいるため、室内を照らすのは照明のみだったが、昼間なら光が射し込みさぞかし明るくなるのだろう。

 吹き抜けのエントランスを口を開けて見上げていると、早くしろとばかりに前にいる紫雨に睨まれた。慌てて杏季は小走りで彼に追いつく。


 ホールにもまた、まばらにしか人がいない。彼らを横目に、杏季たちは細い通路に入った。

 通路の脇には一定間隔でドアが立ち並んでいる。通り過ぎざまにちらりと目をやれば、ドアには『写真同好会』『書道研究会』などと張り紙やプレートがかけられている。どうやら、サークルの部室が立ち並んだエリアのようだった。

 似たような部屋の前をいくつか通り過ぎた後で、紫雨は一番奥、突き当たりの手前にあるドアへ手をかける。他の部屋と違って何の張り紙もプレートも付けられていないドアを開ければ、部屋では三人の人間がくつろいでいた。

 そのメンバーには、杏季にも見覚えがあった。


「あ、紫雨さん。お疲れさ」


 中にいた人物の一人が、顔を上げて途中まで挨拶を言うが。

 紫雨の後ろに隠れるようにして佇む杏季を見、かっと目を見開く。


「紫雨さんが女の子かどかわしてきた!」

「人聞きの悪いこと言うんじゃありません!!」


 部屋にいた人物が一人、安吾あんごいつきに言い返しながら、紫雨は杏季を室内に押しやった。声が外に漏れないようにするためか、それとも杏季がすぐ逃げられないようにするためか、紫雨はドアをしっかりと閉める。

 部屋に押し込まれた杏季は、壁際の隅に身を寄せながら、所在なさげに視線を壁に向けた。


「よく見ろよ。お前が散々茶化してきた白原杏季だ」

「え、ついに我慢しきれずおひいさん誘拐しちゃったの!? やっるう!」

「『やっるう』じゃあねえよブン殴るぞ樹」


 紫雨が樹の頬をつねる。彼の手から逃れようともみ合いが始まるが、執拗な紫雨の攻撃からはなかなか抜け出し難いようで、樹の悲痛な声が聞こえた。


 部屋にいたのは、先月に影路側として杏季たちの前に登場した三人だった。

 樹の他にいたのは、十六夜いざよい久路人くろと、そして影路かげろ深月みつき

 つまり葵と一緒に苑條を打ち負かした全員が勢ぞろいしている。


 紫雨と樹のいさかいを後目に、残りの二人はただ黙り込んでいた。久路人は煎餅せんべいを手にしたまま口に運ぶことを忘れ、困ったように深月と紫雨、そして杏季へ視線を彷徨わせている。

 深月はしばらくじっと杏季を見つめていたが、やがて二人のもみ合いに待ったをかけると、静かに紫雨へ告げる。


「紫雨さん。別に俺は紫雨さんがすることについて、意見する気も咎めるつもりもないんだけどさ」


 深月は杏季を振り返り。

 眉間に人差し指を当てて、目を閉じながら苦い表情を浮かべる。


「これはまずい。本気でまずい。マジでまずい」

「え、誘拐してきたこと?」

「『影路』の陣中に『白原』がいるのは本当にまずいって言ってんの!」


 樹の軽口に深月はかみついた。

 相変わらず苦い顔のまま、深月は深く息を吐く。


 影路は白原、つまり古に手を出してはならない。

 これは御三家においての原則であり、他ならぬ紫雨が直彦に向けて告げた言葉でもある。苑條と葵が戦った際に、杏季が来ると知った深月たちが出動すらせずに諦める程度には、その決まりは確立されている。


 紫雨がどういうつもりなのかは分からないが、杏季が影路の本拠地に連れて来られているのは確かだ。もしこの場面を見られたら、言い逃れできない。

 そういえば、と杏季は、ここに来る車の中でブレザーからパーカーに上着を変えるよう指示されたことを思い出す。単純に他校の制服では目立つからなのかと思ったが、どうやら理由はそこにあるらしかった。


 当事者の杏季は深月と、それから紫雨へ恐る恐る視線をやり、控えめに呟く。


「……じゃあ、帰りますね」

「待てよチビ娘」


 足を静かにドアの方に向けるが、がっと頭を手の平で掴まれ杏季は涙目になる。


「帰っていいとは言っていない」

「あーあー、シグさんが女の子泣かしたー」


 樹の言葉は無視し、紫雨は杏季の頭を押さえつけたまま深月に言ってのけた。


「バレなきゃ構わねえだろ」

「紫雨さん。言わば魔王の城に姫を連れてきといてマジで何言ってんの」

「来るときに辺りからは隠してる。門限までに帰せば問題にはならん」

「隠してないんだったら本当に今すぐ帰れと言うけどね。

 まず。そもそも何で彼女をここに連れて来たの」


 深月の言葉に、紫雨はにやりと笑みを浮かべて。

 杏季の両肩に手を置き、彼らの方へ向き直らせた。


「俺は昨日付で正式にこいつの護衛者になった」


 紫雨の言葉に、深月は目を見開く。久路人と樹も似たような反応をしているところをみると、その事実はまだ誰も知らなかったらしい。

 無理矢理に向かい合わせにさせられたものの目線は上手く彼らと合わせられずにいる杏季を、肩越しに覗き込みながら紫雨は言う。


「成り行きではあったが、つまりそういうことだ。

 なったからには。俺が一から鍛えてやろうと思ってねぇ」

「……なるほど。飲み込めた」


 ぼそりと呟き、深月は眉をしかめる。


「一番、厄介そうなところから攻め落としとこうって訳か。……ま。ここに限れば今はある意味じゃ一番安全なところ、ではあるしね。

 だから今日、わざわざ全員いるか聞いてきたのか」

「そうそう。下手に招集して勘付いた誰かが逃げ出すといけないしねぇ」

「これだから大人は……!」


 額に手をやり、彼は肩を落とした。

 二人の会話を今一つ飲み込めていない様子の久路人が尋ねる。


「……つまり、どういうこと?」

「こいつをお前らに慣れさせる為に、定期的に交流を持って欲しいってことだね」

「定期的!?」


 これまで黙り込んでいた杏季が、仰天して声を挙げた。

 掠れて小さな音量ではあったが、そこは狭い室内、彼女の声はしっかり全員に届いていた。しまったと思うが、既に遅い。


「何だ。何か文句でもあるのか。まさかあっさり今日一日で済むとでも思ってたんじゃないだろうな」

「いえ、その、あの、けど」


 紫雨の鋭い眼差しに射抜かれ、杏季は裏返りそうになる声を必死に繋げる。


「私、……一応、受験生で、その。あんまり、時間を使うのは……」

「それなら問題ない」


 彼女の訴えをあっさり切り捨て、紫雨は事もなげに告げる。


「一応、俺らはこれでも紅城学園に在籍してるんでな。

 年下の樹はともかく、他の三人は家庭教師代わりにゃなるだろ。ついでに勉強まで見てやろうというんだ、一体どこに問題があるというんだい?」


 紅城学園は県外にもそれなりに名を馳せる総合大学だ。実際に中高生への家庭教師役として地元住民からの人気も高かった。

 高等部も私立学校では県内で一番偏差値が高い。大抵は高等部からストレートで大学に進学してしまうので、外部進学が少なく単純に比較はできないが、葵たちの在籍する舞橋高校と並ぶくらいに指折りの進学校ではある。


 彼らから勉強を教わるのであれば、確かに当初の目的には合致するし、いたずらに時間を浪費することもない。

 けれど唐突に言われて、分かりましたと手放しで頷ける程、杏季のキャパシティは広くなかった。

 またしても勝手に進んでいく話に、気持ちが追いついていかない。


 どうにか返事をしたいのに言葉が出ず、しかし反論することも出来ずに、杏季は言葉を詰まらせる。泣くつもりなどないのに、無意識のうちにまた目尻へじわりと涙が滲んだ。

 慌てて誤魔化そうとするが、そう思えば思うほど涙は止められない。彼女は既にいっぱいいっぱいだった。



 様子を見守っていた久路人が、見かねて紫雨をいさめる。


「紫雨ちゃん……俺らは別に構わんけど、流石にちょっとカワイソーじゃない? 事情知ってるだけにさ。男四人の中に女の子一人はどうよ」


「四対一でこの調子だと、どうも虐めてるようにしか見えないですよねえ。

 っていうか彼女、さっきからずっと怯えてるじゃないですか。紫雨さん怖すぎるんですよ。ようやく護衛者になれたってのに、もっと優しい言葉かけられないんですか大人げない」


「嫌だなあ。事態がバレたら宮代に目を付けられるの俺なんだから、ホント巻き込まないで欲しい。ま、ま、こっちの事情差っ引いても、全面的に久路人さんと樹さんの意見に同意するけどね。何回泣かせたら気が済むの。

 あ。樹さん、絶対彼女が泣いてるとこ写真に収めたりしたら駄目だからね。万一それが流出して宮代にでもバレたら俺ら命がないから」


「わーった、わーったよ煩ぇな!」


 三人から一斉に責められ、紫雨はうっとおしげに顔をしかめた。

 杏季を離すと、彼は踵を返してドアに手をかける。


「援軍を呼んでくる。予定よりちょっと早いが、五分もすりゃすぐ来るだろ」


 ぶっきらぼうにそう言い残し、紫雨は部屋を後にした。




 彼の足音が遠ざかったのを確認すると、弾かれたように久路人が立ち上がった。

 壁際で縮こまる杏季に彼はおろおろと話しかける。


「大丈夫? ごめんねごめんね、怖かったよね。うちの紫雨ちゃんがごめんね!」

「久路人さん。彼女、男子苦手だから」


 静かな声で深月が指摘するが、久路人は歯痒そうに突っぱねる。


「分かってるけど! でも放っとくわけにはいかないでしょ!

 あ、てか座って座って! 俺らから離れた場所で良いから!」


 素早く空いたパイプ椅子が杏季へ差し出される。

 続いてテーブルの上に広げてあったお菓子が、すっと杏季の方へ押しやられた。


「久路人さん、お菓子お菓子! これも渡したげて!」


 樹が紙コップにお茶を注ぎ、それも彼女へ渡される。

 おずおずと杏季は椅子へ腰掛けた。お菓子に手を伸ばす気にはならなかったが、怖々と紙コップを手に取り一口だけお茶を含む。喉を通り抜ける冷たい感触は、彼女を少しだけ落ち着かせてくれた。


 ようやく一心地ついていると、斜め左前に座っている深月からタオルを手渡された。受け取ると、それはひんやりと心地いい。いつの間に用意したのか、濡れタオルだった。


「使って。戻ってくるまで、ちょっと休んでるといいよ」


 穏やかな口調でそう言ってから、深月はすっと目を逸らす。彼らから向けられる視線に慣れないでいる杏季への配慮だろうか。

 視線は逸らしたままに、深月は独り言のようにぽつりと付け加える。


「今、聞いても信じられないと思うけど。

 紫雨さん。あれで、悪気はないんだよ」


 彼の向かいの席で、悪意の塊にしか思えないけどねえ、とため息交じりに久路人も同調する。

 杏季は黙り込んだまま、また一口お茶を飲んだ。


 深月の言葉は、今の彼女にとってほとんど安心材料にはならない。頭では理解しようと努めるのだが、不安定になっている感情が邪魔して、紫雨の事を思い出すだけでも暗い気持ちが胸をよぎった。

 けれど。そのことと彼らとは、また別問題だ。

 むしろ彼らには、言った方がいいことがある。いや、言わなければならない、と杏季は別の意味で胸をどきどきとさせた。


 しばらくの間、悩み続けて。

 たっぷり一分は経ったかという時。ようやく意を決して杏季は口を開く。


「……ありがとう、ございます」


 彼女の言葉に、驚いたように深月たちは顔を上げて。

 ややあって、ミツキが表情を緩める。


「どーいたしまして」


 返された言葉に少しだけ安心して、杏季は濡れタオルに半分顔を埋めた。

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