キーボードの叙情的情念
――2005年10月14日。
夕焼け小焼けの鐘が鳴る。
聞き慣れたチャイムの音に席を立ち、窓まで歩み寄ってカーテンを閉めた。少し前までこの時間はまだ明るかったのに、今では既に外が暗い。日が短くなっているのだ。
また机に戻ったところでちょうど携帯電話が震え、メールの着信を知らせて来る。画面を見れば、表示されていたのは、やりとりの少ない私の携帯電話にて受信・着信件数堂々の第一位を誇る彼の名前だった。
さて。そんなわけで。
やっほー、ご機嫌麗しゅう皆さん。
え? 何々、草間奈由に限ってその軽いテンションはあり得ない、偽物だろうって?
やだなあ、忘れたのかい?
私は普段、そういう風に喋らないだけで。
二次元では!
すこぶる!
絶好調☆なんですよ。
覚えておいて欲しいね。でないと火星に変わって折檻よ。
最初っから飛ばしすぎると驚かれちゃうと思って、オープニングは真面目にやりましたが。
え、徹頭徹尾まで擬態してないとだめだって?
それだと私のアイデンティティが失われるし何より疲れちゃうじゃないですかやだー。
静かなるハイテンション、それが草間奈由です。そろそろ覚えましたか。ここ、テストに出ます。
では皆さんの脳髄にしかと私の性質について刻みつけたところで、たった今起こった出来事を解説しますね。
とある馬鹿からメールが来たんですよ。
で、とある馬鹿からのメールにはただ一言、『外』とだけ書かれていて。
ははあ、どうせまた馬鹿なこと企んでやがるな、と思った私は窓に歩み寄ってカーテンを開けた訳ですけれども。
そしたらそこには、窓の外へ取り付けられた小さなベランダのような柵(プランターとかが置けるサイズ感のあれ)へ宙ぶらりんの体制で
こいつは馬鹿ではなく尋常じゃない馬鹿だと思いました。
メールを見た瞬間、思ったんですよ。
「あ、コイツ寮の前にでもいやがるな。馬鹿か」と。
けどまさか、窓にぶら下がってるなんて流石に思う訳ないじゃないですか。
女子寮ですよ。見つかったらどうなると思ってるんですかね。おまけにそもそも二階ですよ、ここ。どうやってよじ登った。
なんなんでしょうね、この馬鹿。馬鹿なんですかね。馬鹿ですね。
「……何をしてるんですか」
流石の私もドン引いて尋ねれば、相変わらずのポーカーフェイスで月谷恵氏は人差し指と中指とを揃えて額に付け、チャッと挨拶する。
「やあ。今宵も可憐にクールビューティーだね、俺のマイステディ」
片手を離してまでやることなのかそのポーズ。
馬鹿なんですかね?
馬鹿なんですね! 知っていました。
「何してるんですか貴方」
「逢い引きに来た。ロミオとジュリエットみたいだろ」
間抜けにぶら下がってる人に言われたくない。この状況にロマンスもへったくれもあるものか。
あれはバルコニーと地上という、家の立場と同様に隔てられた距離感にて会話するのがいいのであって、ロミオが今みたいにバルコニーへぶらぶらぶら下がっていたら、ジュリエットは全力で乳母を呼んだに違いない。やべえロミオやばい奴だ、と百年の恋も冷めるに決まっている。
あれ。私、通報すべき?
「けど。俺たちをもってしてロミオとジュリエットになぞらえるのは一つ重大な問題がある」
友人の兄弟を公的機関へ突き出すのは気が引けるなあ、と目の前の現実から逃避するように考えていたら、聞くからにどうでも良さそうなことを言い出した。やや重々しい口調で彼は続ける。
「草間家と月谷家は別に何も対立していない。困った」
「馬鹿なんじゃないの」
思わず声にも出して言ってしまった。声に出して読みたい日本語。だって馬鹿なんだもの。もーなんなのこいつ。
お家同士の対立なんか二十一世紀にそうそうあってたまるか。高神楽やら影路やら御堂やら、そういう家があることすらにわかには信じがたいというのに。
そんなことよりも問題なのは現状である。
不審な男(友人の弟)が私の部屋の窓にぶら下がっているという信じがたい現実を冷静に受け止め、私は念のために不審者へ尋ねる。
「知ってる? 今は昔のヴェロナでどうかはさておき、現代社会ではこれを不法侵入というのだけれけど」
「まだ侵入してない」
「敷地内には侵入してますけどね」
「空中だからな。そこは大目に見て欲しい」
大目に見るのは私じゃない。寮母さんかお巡りさんだ。
それに下手したら地上にいるよりよっぽどアウトだと思うんですけど。
「そもそもなんでこんなところに飛びついたんですか」
「本家本元のロミジュリみたいに地上から会話したら、声で誰かに気付かれるだろ」
窓に飛びついているところを見られたら、それこそ警察沙汰になりかねないということに気が付いて欲しい。寮の前の道は人通りが少ないし、日が暮れて尚更だったけれど、誰も人が通らないという保証はないのだ。配慮するところが間違っている。
大体、どうしてこいつが平日の夜に舞橋市にいるんだ。月谷恵の通う学校は東京で、普段暮らしているのも勿論、東京のはずで。
明後日の日曜日は私たちが学園祭に出るから、そこで帰ってくるという話は聞いていたけれど。
「ちょっと野暮用があってさ。予定より一日早く帰ってきた」
「だからって、わざわざ今日来ることないでしょう。明日でも良かったのに」
「明日は本番前で忙しいだろ。それに今日の方がいいかと思ってなー」
不法侵入してるくせしていい訳があるか。
思わず私は頭を抱える。他の何者も追随を許さず、この奈由さんを華麗に振り回してくれる、いやブン回してくれちゃうのは世界広といえども君くらいだよマイステディ。
この男、つっきーの弟こと月谷恵は、メンバーの中でもとりわけ私にちょっかいを出してくることが多い。
別にそれは私に特別な好意があるとかトキメキな類いのものでは決してなく、奴の単なる感傷なのだということは分っている。
月谷姉弟には。かつて幼くして病気で亡くなった共通の親友がいたそうだ。
彼女の命日が十一月六日であり。
つまりそれは、私の誕生日でもあった。
いつか、つっきーがこっそり、内緒話を打ち明けるように教えてくれた。
この話は他の二人、はったんとあっきーは知らない。多分つっきーにとって、そして恵くんにとっても。人にはそうそう教えられない、大事な柔らかい部分に関する話なんだろうと思う。
だからこそ、私だけに教えてくれたことは嬉しくもあったし、合点がいって少しばかり落胆もした。
何のことはない、この男が私にちょっかいを出し始めたのも、私の誕生日が判明した直後辺りだったからだ。
つっきーは以前から仲良くしていたし、誕生日を教えたところで態度が変わることはなかったけれど。この男の場合は、あからさまだったからね。わざわざ私たち、に会いに来たくらいなのだから。
以来、元より女好きだった月谷恵はこれ幸いとばかりに何かと私にちょっかいを出してくるようになり。
普段は滅多に会えないくせ、私もそれを適当にあしらうのが日常のようになり。
その結果、月谷恵は現在、窓にぶら下がっている。本当にどうしてこうなった。
しかし来てしまったものはこの際仕方ない。どう現実逃避しようと、残念ながら友人の弟(馬鹿)が窓にぶら下がっているという奇天烈な現実は変わらないのだ。
こうなったら奴(救いようのない馬鹿)が誰かに見つからないうち、早く済ませてしまうに限る。
馬鹿(月谷恵)に諭すことは諦め、声を潜めて私は身を乗り出した。
「それで。何か用事があったんじゃないの」
「あったよ。今、済ませた」
えっ今ただ窓枠にぶらさがってるだけですけど現時点で何の用を済ませたというんだ君は。泥棒か何かにでもなろうとしているのか。ルパン三世か。ルパンはもうちょっと上手いことやる気がするけど。
怪訝に眉を顰めていると、対して奴は眉一つ動かさずにさらりと告げる。
「奈由に会えたからな」
ポケットから何かを探っていたかと思うと、奴はこちらへ手を伸ばし。
私の髪の毛へ、すっと何かを差した。
突然のことに驚いて、私はついつい息を止める。
「……何を」
「奈由に似合いそうだったからさ。買ってきた。
白いハナミズキ。の、ピンなんだけど」
髪に手をやれば、ひやりとした金属の感触が指を伝った。けれどさっき奴が触れた場所だけは妙に熱く感じる。
体温が高いですからな、この男は。
「誰が触っていいって許可したんですか」
「俺」
冷たい物言いにもめげることなくしれっと言ってのける。
そういうところ、素直に凄いと思うよ。もっと別のところに才能を生かせばいいのに。
「ひと月早いけど、来月は奈由の誕生日だろ。明日、皆のいる前で渡したら、素直に貰ってくれない気がしたからな」
「よく分かってるじゃないですか」
「だろう。もっと褒めてくれたまえ」
「その減らず口にワサビでもぶっこんでやろうか」
「奈由が食べさせてくれるなら俺は食うよ」
相変わらずのポーカーフェイスのまま、お互いに軽口を叩いていたけれど。
不意にこの男は黙り込んで私を見つめた。
そこで初めて。
君は、にっと笑みを浮かべる。
「うん。やっぱり、良く似合ってる」
またしても、私は息を飲みこんでしまう。
あまり人のことを言えたクチではないけれど。普段は何があっても大抵が真顔で、棒読みが如く淡々と喋り続け、どんなに歯の浮くようなセリフだってそのままの顔つきで言ってのける癖に。
それは。
ちょっと、反則なんじゃないですかね。
満足したのか、彼はひらりと地面に飛び降りる。私の方がひやりとするが、物音はほとんどせず、誰かに気付かれる様子はなかった。本当に、その身体能力をもっと別のところで生かしたらいいんじゃないかと思う。
あっという間に敷地の外に出ると、今度は咎められない距離感のところから私へ静かに呼びかけた。
「奈由」
「何」
「本番の誕生日は、年の数の薔薇の花束の他に、何がいい?」
「馬鹿ですか」
ピンならまだしも寮に薔薇の花束なんか持ち込んだら弁解のしようがないぞ貴様。
本当にやりそうだから怖いんだ、この男は。
こういうことを、本当に好いてもいない女にやってのけるのだから、月谷恵は始末に負えないタラシで女好きで大馬鹿だ。
けれど。
間抜けにぶら下がるロミオを見ても百年の恋が冷めなかった私は、いい加減、奴に匹敵するくらいの大馬鹿者なのだろう。
ルパン三世ほど身軽に器用に立ち回ることはできないけれど。私の心を盗むくらいなら、この男は簡単にやってのけたのだ。
また一言、何か歯の浮くようなセリフを垂れ流したところで。思い出したように彼は空を見上げる。
つられて見上げれば、すっかり夜になった空には明るい月がぽっかりと浮かんでいた。中秋の名月はとっくに過ぎたけれど、満月に近い月の光は煌々と地上を照らしている。
「月が綺麗だな」
何気なく一言、そう言い残し。
彼は身軽に走り去って姿を消した。
取り残された私は、またしても言葉を奪われたことに一抹の悔しさを覚えつつ。
「……月が綺麗ですね」
君が立ち去った後の誰もいない路地に向けて、ぽつりと呟いた。
どうせあの馬鹿は、大した意味など考えていやしない。
カーテンを閉めて部屋に戻ってから。
私は本棚から目当ての本を取り出して。
なんとなく。本当になんとなく、調べてみる。
ハナミズキ、の花言葉。
『永続性』、『返礼』、『私の想いを受けてください』。西洋では『逆境にも耐える愛』。
それから、『Am I indifferent to you?』。
――『私があなたに関心がないとでも?』
「……馬鹿馬鹿しい」
そう一人で言い放って、私は乱暴に本を閉じた。
どうせあの馬鹿は、深いことなど何一つ考えてはいないのだ。
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