ベーシストの帰納的愛憎
――2005年10月8日。
天高く馬肥ゆる秋。とは、よく言ったものだ。
ありとあらゆるものが旬を迎える季節、街中には美味しそうな広告や美味しそうな香りが充満する。
数々の誘惑を振り切ろうにも、大通りを行こうとするならどの道を選んだところで何かしら目に入ってくるのだから始末に負えない。おまけに視線はどうにか逸らせても、
「……やってしまった」
小ぶりの石焼き芋を握りしめ、私、
いや。より正確に言うならば、後悔すると同時に満足していた。
商店街をくぐり抜けたところにある広場。そこのベンチに座り、私ははやる気持ちを抑えながら茶色の紙袋を広げた。
ほとんど黒に近くなった深紫の皮をもどかしく剥いて、黄金色の身にかぶりつく。じわりと舌に広がる深い甘み。
……うう、ほうじ茶が欲しい。自動販売機で買ってこよう。
あれです。全ては石焼き芋屋さんがいけないんですよ。広場にいる客を狙って近くに車を停めたあげく、件の石焼き芋のアナウンス(非常に購買意欲をそそる)をがんがん流すからいけないんですよ。
しみじみと秋の味覚を味わいながら、私は全ての責任を石焼き芋屋に
秋って罪深いよね。何を食べても美味しい。
それにしても最近、食べてばっかりな気がする。この前だってあっきーがミスドでドーナツを箱買いして来たので、夕食の後に食べてしまった。しかもその翌日はナコさんがアップルパイ焼いてくれたのでまたしても食べてしまった。
おまけに月末にはハロウィンだから、ハロウィンパーティーやろうぜとかつっきーが言い出して、あっきーとなっちゃんがカボチャのお菓子を焼くことになったし、トリックオアトリートは言わずもがなお菓子が満載ですし、本当止めて欲いいぞもっとやれ。
ほろほろと口で解けるお芋を
だが、そう油断ばかりはしていられない。美味しいものを食べることは幸せでも、その後にはカロリーという名の大きな反動がやってくる。
受験勉強でエネルギーを消費しているとはいっても、部活を現役でやっていた頃よりは遥かに消費量が少ないのだから、今年は例年より自粛せねばならない。冬に泣くことになる。
しかもまずいことに本日は、これから高確率で糖分を摂取することになるイベントが待ち受けているのだ。
抗え。抗うんだ、私。
思考は危機感を覚えながら、一方で焼き芋をせっせと口へ運ぶという裏腹な行動をしつつ、私は自制せよとの念を自分に送り続けた。
とはいえ食べながらの自己催眠はあまり効いている気がしない。残念ながら現時点で食欲は全くの衰えをみせなかった。
ま、既に買っちゃったものは綺麗に食べないとね。勿体ないし。
そんなことを考えながらしばらく焼き芋を堪能していた私だったが、そろそろ食べ終わるという頃に待ち合わせていた人物の姿が目に入る。
出た。カロリーの悪魔。
「……春は本当にオレのことをなんだと思ってるんだい」
訝しげに見つめた視線で、思考が顔に出てしまっていたようだ。
何も言わないうちから私の心を読まないで欲しい。
「カロリーの悪魔、と思ってますけど」
「オレの所為にしないで欲しいね。待ち合わせ前から焼き芋を幸せそうに頬張ってる子に言われたくはないな!」
だったらその手に持ってるビニールの袋は!
ビニールから透けて見える見覚えのある店舗の紙袋は!!
その鯛焼きは何なんですか!!!
「何を持ってるんですかー!」
「鯛焼き」
「見れば分かりますー!」
焼き芋を食べ終えた私は、両手で顔を覆って大仰に嘆いた。嘆きもしますとも。
鯛焼きは焼きたてが美味しいよね!
やって来たカロリーの悪魔こと
「粒あんとこしあん、どっちがいい?」
「こしあん!」
勢いよく私は主張する。こうなってしまったものは致し方ない。食べ物に罪はないのだ。
ちゃっかり購入したほうじ茶を片手に、私は手渡された鯛焼きを頬張る。
表面はさっくりと、内側はもっちりと、絶妙な加減で焼き上げられた生地の中に、甘さはやや控えめの餡子がぎっしりと詰まって、
待て。
違う。
これは、違う。
私は、滑らかな舌触りを求めているんだよ!!
素朴な粒の存在感は主張しなくていいんだよ! そこ!!!
「粒あんじゃないですか!」
「そうだよ」
断固として抗議すると、しれっと奴はそう言ってのけた。
この男……!
一瞬、間違えてしまったのかもしれない、と擁護する考えが浮かんだが決してそんなことはなかった。やっぱり確信犯でやってやがった。
「私、こしあんて言いましたよね!?」
「言った言った。面白そうだから粒あんの方渡してみた」
「こしあん派に対する宣戦布告ですね……!」
こしあん派と粒あん派の抗争は、きのことたけのこに匹敵するくらいの日本で深刻な未解決紛争だぞ。センシティブな問題によくも。
そういう貴方はどっち派なんだと聞いてみれば、
「オレ? カスタード派」
という非常にふざけた返事が返ってきた。殴ってやろうか。
さて。焼き芋と鯛焼きに気を取られていたけど、そろそろ本題に入るとしよう。
初めに断っておくが、別に私は今日、この人とデートをしに来たわけではない。
断じてないのだ。本当に。
休日にわざわざこの人と待ち合わせて会うのには、そうせざるを得ないやんごとなき理由があったからなのだ。
今、私たちは学園祭に向けて、各々楽器の練習をしている。
私の担当はベース。部活をやってた頃は管楽器、具体的にはチューバを吹いてたんだけど、弦楽器もまた違って面白い。音楽に関することなら、全般好きだしね。クラシックも好きだけど、ロックも好きだ。
今日は土曜日。夕方からアジトにてみんなで曲を合わせる予定になってるんだけど、その前に私は一人でこの場所へ来ていた。
合わせる前に練習しなくていいのかって?
私だってしたいさ。けど、練習ができないからここに来ている。
だから今、私はこの場所で焼き芋と鯛焼きを食べているんだ。
……や、これらを食べたのは本題ではないですけれども。
実を言えば。私が今、練習に使っているサイレントベースは、この人に借りている。
弟に学園祭の話を聞いたらしい彼がおもむろに電話をしてきて、その話の中で「六月の時と違って練習に困ってるんですよー」と話すと、「使ってないのがあるから」と快く貸してくれたのだ。
出演が決まってからサイレントベースを借りるまで、その間は実に二十四時間を切っていたという。
いえ、お陰さまで非常に便利に練習はさせてもらいましたけれども。
そして本日、私は借りたサイレントベースを背負ってこの場所に来ていた。
だが本番の学園祭は一週間後。まだ返すタイミングでは、ない、のだけれど。ちょっと予期せぬ出来事が発生してしまったのだ。
弦が切れました。
……はい。本当に申し訳ないと思っています。
「誠に申し訳ございません……」
両手を合わせて深々と頭を下げる。ホント、これに関してはすみませんの言葉しかない。派手に演奏しすぎましたかね……。心当たりはありますすみません。
「長いこと使ってなかったからな。劣化してたんだろ」
何てことない風に言ってくれるが、借りている側の私は恐縮するしかない。借りた挙げ句、休日に呼び出してまでいるのだ。
なお。何故、弦が切れたくらいでわざわざここに現物を持って来たのかといえば、前述したように私の専門は管楽器で、ベースはそれこそ数か月前の文化祭で少しかじった程度なのだ。
つまり知識が猫の額くらいしかない私は、弦が切れたところで何をどうしたらいいか分からず、自力で調べて交換するのには借りものだしあまりに怖かったので、この人に助けを求めたという訳なのだった。
よく文化祭で舞台に立ったなと思う。
いえ、今も現在進行形ですが。
鯛焼きを平らげた私たちは、綺麗にぷつりと切れた弦を張り直すため、商店街にある楽器屋へ赴いていた。歩きながら、彼は思い出したように尋ねてくる。
「ところで。どーして今日はこんな
「えっ」
不意に問われて焦った私は、不自然な表情で顔を上げる。
「いや、だってほら。店は街中だし、こっちで待ち合わせた方が近くていいかなと」
「オレが迎えに行けば楽だったろうに。どうせ車だ、たいして変わりゃしない」
「この後、アジトに行きますし、近いからその方がいいかなーと」
「送ってくつもりだったけど」
「商店街って駐車場ないから大変かなーと」
「どのみちここに来るのに車停めてるけどな」
ぐう。
ぐうの音も出ないとはこのことか。
いや出た。心の中でだけど。
って、それはどうでもいいのだ。
我ながら酷い言い訳の羅列に
「さしずめ、周りの連中にバレたくなかったってとこか」
ぐう。
いや、だから「ぐう」じゃないってば。
「別に、隠してる訳じゃないんですけどね……ちょっと、言い辛いといいますか……」
もごもごと口の中で私は濁した。
この人から練習用のベースを借りたことは、皆に秘密にしている。
別にやましいことがある訳ではない。けれど何だか皆に知られるのは、特に葵くんに知られることは、抵抗があった。
「ま。気持ちは分かるがな。未だにオレと関わってるなんて知れたら、全力で皆さんに止められるに決まってる。
借りたはいいが、春だって極力オレとの関わりは最小限に止めたいところだろうさ」
違う。
違うんです、そういうことじゃない。
けれど、私は上手いこと言葉にすることが出来ない。しばらく迷った後で諦め、俯きながら「すみません」と呟く。気にするこたぁない、と本当に気楽な口調で、彼はからからと笑った。
+++++
楽器屋で弦を調達した私たちは、結局いつものように車に乗り込んでいた。
本当はどこかの店でお茶をしながら弦の張り直しをしようと提案されたのだが、店内で荷物を広げて作業をするのがはばかられたのと、私が「これ以上のカロリー摂取は本当に勘弁してください」と懇願したからだ。
本当、さっきの言い訳が言い訳にすらなっていないのが丸わかりである。
いつもと違って後部座席に乗り込み座席を倒すと、思いの外、広くて快適な作業スペースが出来上がる。そこで彼は胡坐をかき、買って来たばかりの商品を開封して、慣れた手つきで作業を始めた。
節ばった長い指が器用に細い弦を扱うのを見て、思わずどきりとする。
月谷の指も長くて綺麗だけど、それとは違う。いくらつっきーの手が色気があってエロくていやらしいからといって、あくまで彼女のは女の子の手だ。
男の人の手は質感が全然違うということを、悔しいけれど私は知っている。この人の思惑に巻き込まれて、先月に散々間近で見てきたからだ。見てしまったからだった。
けれど。その手がたまに驚くほど弱々しく、何かに縋るように頼りない時があることも、私は知っている。
ぼんやりとそんなことを考えながら
「はいよ」
「ありがとうございます……!」
私は大事にサイレントベースを仕舞った。出たごみを片づけていると、一仕事終えた彼が途中で購入した炭酸飲料のペットボトルを開けながら、何気ない口調で告げる。
「そういえば、一つ報告することがある」
「何ですか?」
「無職になったよ」
むしょく。
無職。
むしょ。
「……えええええええええええええええええええええええええ!?」
目をむいて叫ぶと、それまで真顔でいた彼は堪えきれないというように吹き出し、声を立てて笑い始めた。
おい。また嘘か。また嘘なのかアンタ。
笑いの波を抑え付けながら、涙目で奴は続ける。
「無職ってのは半分冗談だ。DDから完全に立ち退いたのは事実だけど、収入が絶たれた訳じゃない」
何だよ、やっぱりそういうことか!
人をからかってばっかで楽しいんですか! 楽しいんだろうな!!
と苛立ちのままに文句を言おうとするが、途中の言葉に引っかかって私は冷静になる。
「DDから立ち退いた、って」
「要はクビってこった。そういう意味じゃ、無職で間違っちゃいない」
この人がどんな職に就いていたのか、私は知らない。でも、なんとなくDDの中枢組織にいるんだろうなという気はしていた。
この人は高神楽家の長男な訳だし、いくら四年前の出来事で失脚したとはいえ、完全にDDから離れるということはむしろ難しいんだろうなと思っていたのだ。多分、その推測は間違ってはいなかったのだろう。
けれども、今この人は「完全に立ち退いた」と言った。
「つまり今度こそ、DDからは完全にお払い箱って訳」
あっという間にペットボトルの中身を飲み干し、彼は私の考えを裏付けるようにそう言った。
私の表情が固まったのを見て、彼は取り繕うようにひらひらと手を振ってみせる。
「でも安心しな。さっきも言ったが収入がない訳じゃない。むしろ余裕があるくらいだ、御茶代も弦の料金も心配しなくていいぞ」
私が気にしたのはそこじゃないんだけど。元から払うつもりだったし。まあいつもみたいに受け取ってくれないんだろうけどさ。
でも、どうして仕事を辞めたのにお金が入ってくるんだ。お金持ちだから実家からお小遣いでも出てるのか。それはちょっと引く。
恐る恐る私は尋ねてみる。
「収入って、勤めてないのにどこから入ってくるんですか」
「不動産管理」
出た。悠々自適の不動産収入。
まじか。まだ二十代後半の筈だけど、この人マジなのか。
さっきよりも顔が引きつっている私の前で、彼は苦笑いで説明する。
「さほど驚く話でもないさ。こっちの世界に馴染むにあたって高神楽が
元からオレん家の家業は不動産業で、DD関連と別にそっちの知識やノウハウも爺様から叩き込まれてんの。
大爺様から相続した物件もあったし、ついでに株取引で稼いだ取り分もあるし。DDの傍ら、稼いだ金でオレは若いうちからそっちに投資してたんだよ。どうせいずれこうなるって判ってたからな」
へえ、と話を聞いて納得はするが、それでも相続とか投資とか、理屈で知っていても私の日常では聞き慣れない事柄ばかりだ。まだ二十代後半のこの人がそうなのだ、理術抜きにしても高神楽家が
私はあと二時間後に行くことになる建物を思い浮かべる。
「そういえば、アジトは高神楽家の所有なんでしたっけね……」
どうしてあんなビルを所持していたのか不思議だったが、そういうことなら頷ける。数多所有する不動産の中で、借り手がつかなくなってしまった半端な物件なのだろう。
ぽつりと呟けば、もっと衝撃的なことを教えられた。
「あいつは嫌がって言ってないみたいだけどな。あのビルの名義は『高神楽直彦』だよ」
「未成年ですけど!?」
「未成年でも登記自体は可能だからな」
前言撤回。
やっぱ、ちょっと理解しがたい世界の話だった。
「じゃあ、今後はその不動産収入でふらふらしながら暮らしてくんですね」
「ふらふらとは聞き捨てならんな……けどまあ、当分はそうだろうな。
それに司法書士や社労士やらの資格があるからどうにかなるだろ。今の暮らしに飽きたら就職でも開業でもするさ。幸いにして各所にコネはある」
「ちょっと待ってください、さらっと言ってますけどどれも難関資格ですよね」
「在学中にとったな。奨学金目当てで」
「動機が不純! でもそれで合格してるのがなんかムカつく!!」
ほんと、あらゆる方面からこの人のスペックは一体なんなのか。
その脳みそをちょっと私にも分けて欲しい。主に文系方面に。
ようやく私も購入した炭酸飲料に口を付けながら、ふと素朴な疑問がわく。
「高神楽は官公庁と不動産って言ってましたけど。理術に関する家柄って、それぞれ職業も偏ってたりするんですか?」
「影路は分りやすいだろ。学問、研究分野。紅城学園やらK・Mコーポレーション、特A機関絡みは大体が影路だ」
そうでした。愚問だった。
「じゃあ御堂はどうなんですか?」
「御堂……というよりナイトメアはあらゆるところにいる。立場がちょっと高神楽や影路と違うからな。護衛対象によって居るべき場所も変わってくるし、一概には言えない。
ただNの連中は、全く関係ない職に就いてる奴もいるが、高神楽か影路、どっちかの息がかかった場所にいることが多いな」
「高神楽か影路?」
こーちゃんを見てて、ナイトメアってその二つの家とは一線を引いてるイメージがあったのだけど。息のかかった場所にいるって、不思議な感じがする。
「ナイトメアの中は派閥があるらしいからな。
高神楽内や影路内にもあるはあるが、目立つほどのものじゃない。ま、DD内で高神楽と影路の二派に分かれてるようなもんだが、そっちだって見かけ上は分かりやすく対立はしてないさ。
その点、ナイトメアは『高神楽寄り』か『影路寄り』ではっきり派閥が分かれてる。詳しくは知らないけどな」
意外。
どちらかといえば、高神楽と影路の方が争いがある印象だったけど。
とはいえ、諸々の懸念が過ぎ去った今となっちゃあまり関係はない話だ。
そう。
関係は、ないのだ。
手元のペットボトルをぎゅっと握りしめる。
「……文彦さん」
視界の隅に、驚いた表情の文彦さんの顔が映る。だが、構わず私は俯いたまま続ける。
「DDでの、……高神楽家でのあなたの立場は、どうなったんですか」
多分。その点について、彼は意図してさりげなく流した。
だけど私は聞かずにはいられなかったのだ。
DDから叩き出された理由。それはおそらく、彼が私へ聖獣を憑けたからだ。
直接の理由でなかったとしても、これに関する何かが原因だと考えて間違いはないだろう。
確かに彼がとった一連の行動は、傍目に見て決して褒められたものではない。それどころか犯罪に限りなく近いところにいたのだろうと思う。
けれど。
果たしてそもそもの原因は、一体どこにあったのだろうか。
凶行に及ぶまでに彼を追い込んだのは、一体何だというのか。
夏からこの方……いや。四年前からこの方。
ありとあらゆるものを人に押し付けておいて。人の人生まで盛大に台無しにしておいて。
DDは、高神楽は、一体これまで何をしてきたというのか。
釈然としない。
無関係なのは重々承知だ。それでも、私は。
理術と、その世界と。人柱と、護衛者と。彼と、彼の周りを取り巻く環境と。
全ての物事に、納得がいかなかった。
しばらくの間、車内は無言になる。
やがて。心底、困り果てたような顔をして、文彦さんはぽつりと告げる。
「……ごめんな。それは、言えない」
「……はい」
私は、間抜けにそう答えた。他に答える言葉が見つからなかった。
けれど、誤魔化しでもなく、慰めでもなく、そうはっきり言ってくれたことが。優しさであり、答えでもあるのだと思った。
膝の上で、私は両手を握りしめる。
ひどく、苛々とした。そして直後に、これは苛々ではなく、もやもやだったと知る。似たようなものかもしれないが、私にとっては大違いだ。
視線を自分の手の甲に注いだまま、私は思い切りそれを睨みつける。
言ってはいけない、ような気がしていた。だって私は他人だし、無関係だし、別にもうこの人とは何の縁も繋がりもないのだ。
練習用にベースを貸してくれた人、ただそれだけ。
学園祭が終わればそれも終わりだ。
けれども私はずっと、多分最初に連れまわされた時からずっと引っかかっていて、だけど当時は漠然としたままだった感情と、踏み込んではいけないのだという躊躇から言うことが出来ず、ずっともやもやし続けていた。
だけど、もう。
もう、言わずにはいられなかった。
「おこがましいことだってのは自分で十分すぎるほど十分、分ってます。もしかしたらとんだ的外れかもしれない。
だから、今から私が言う事は、独り言だと思って聞き流してください。全部。できれば、全部、忘れてください」
私は、この人を憎んでいた。
憎んでいる。いる、のだ。
女の子でも躊躇なくこーちゃんを蹴り飛ばしたこの人は、
虚言で私たちを翻弄して危険な目に遭わせたこの人は、
葵くんを苑條に売り飛ばそうとしたこの人は、
合わないと分っていながら葵くんに精霊を憑けて血まで吐かせたこの人は、
葵くんの命と引き換えに私に古の聖獣を憑けたこの人は、
自分の目的の為に他者を巻き込んでも平然と笑うこの人は、
ただただ私たちにとって憎しみの対象でしかない。
私を手中に収めてからは毎日どこかに連れまわし、何故か私に良くしてくれて混乱した。意味が分からなくて苛々した。もやもやした。悶々とした。いい加減にしてくれと何度思ったか知れない。ふざけるなと、馬鹿にしているのかと、内心で憤っていた。
私は心底、この人を。高神楽文彦を。
「私は、貴方を助けたい」
何故か私は泣きそうになっていた。
本当に今、私はひどい顔をしているのだろうことが分かる。
憎い敵だった筈なのに、私はこの人を放っておけなかった。
この人は、一人にしてはいけない。
一人だから、いけないのだ。
このまま放っておいたら。またこの前みたいな馬鹿なことをやらかしてしまう。この人は、一緒にいてあげないといけないんだ。
誰かが、どうにかして。
それは到底、ただ何の関係もない小娘の私には力不足かもしれない、けれども。
しばらく呆けたように黙り込んでいた文彦さんは、やがてふっと優しく微笑んだ。
まだ子供の私に、安心していいんだと、大丈夫だと、言い聞かせるかのように。
でも、それは。
それを与えられるべきなのは、……あなたの方だ。
「なあ、春。一つ、約束をしようじゃないか」
「……約束?」
相変わらずひどい顔をした私を見かねたのか、彼はそっと私のメガネを取って、顔にハンカチを押し当てた。ふわりと彼の香りが目の前に広がる。
「俺は。お前にだけは、嘘は吐かないよ」
「どういう、ことですか」
借りたハンカチの向こう側から、やはり情けない顔で聞いたけれど。
それには答えず、彼はにっと笑って私の頭に手を置いた。
「これまでも相棒をあんたに託して以来、嘘は吐いてないけどな。これからも俺は、春にだけは嘘は吐かない。どこまでも真っ直ぐな、君に免じてな。
……よく覚えておきな」
そう言ってくしゃりと撫でると、手を頭に乗せたまま彼はまじまじと私を見つめる。
「メガネがない春も可愛いな」
「ふざけんな」
反射的に言い放ってハンカチに顔を埋める。
ああ、駄目だ。
私は。大概、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます