HAPPY END 03:閃光の乙女

 薄暗い部屋にほのかな明かりが灯る。


 既に太陽は高く昇っているというのに、カーテンも開けずに閉め切った部屋は、夜のように暗い。雨戸まできっちり閉めているので、当然といえば当然だった。

 外からは人々の生活音が聞こえてくる。が、分厚い雨戸とカーテンとに遮られ、くぐもって聞こえる音は、まるで別世界の出来事のようだった。時計の針の音すら聞こえないこの室内は、さっきまではごく静寂に満ちていた。


 闇と無音に沈んだ空間を切り裂いたのは、携帯電話の着信だ。耳障りな電子音を鳴らし、ちかちかと眩しい光が点灯する。

 しばらくの間、彼はそれを無視し続けていた。

 だが携帯電話は一向に大人しくなる気配がない。電話のようだったが、それにしても長すぎる。いつまでも鳴りやまぬ携帯電話に、彼は苛立ってようやくそれを手に取った。


 そして、画面に表示された文字に目を見開く。

 彼は信じきれぬまま、熱に浮かされるように電話を取った。


「……もしもし」

『あ、やっと出た。もしかして寝てました? おはようございます』


 聞こえてきたのは、表示された着信主と違わぬ本人のもの。

 畠中春の屈託ない声だった。


「ああ……いや、起きてはいたけど」


 彼は面食らって言葉を詰まらせた。

 何を言ったものか逡巡して、ようやく一言、彼は呟く。


「どうして」

『デート。連れて行ってください』


 多くの意味を含有させた彼の問いかけに、春ははっきり答えた。

 またしても言葉を失った彼へ、春は弁解するように続ける。


『連れて行ってくれるって、約束したじゃないですか。川と、それから山に。

 まだ、山に連れて行ってもらっていません』


 そこで彼女は一旦言葉を切ると、少しだけ迷ってから告げる。



『そこにあるんでしょう。幸政さんの、お墓』



 高神楽文彦は息を飲み。

 そして、静かに目を閉じた。






+++++


――2005年9月18日。




 舞橋市の北の端。裾野の長い山の斜面を登った丘陵に、紅峯あかみね公園はあった。

 公園といっても街中にある澪標公園とはタイプが違う。山の中に作られているだけあって、アスレチックや水遊びなど自然の遊びを楽しむ公園である。

 そしてもう一つ特徴は、紅峯公園には大規模な墓地が併設されていることだった。


 日曜日の午前中。公園は子供たちが遊ぶ声で賑わっていたが、春と文彦が向かったのは一際ひときわ静まりかえったエリアだった。緑に囲まれた小道を歩いていくが、彼らの他に誰も人はいない。

 やがて春を先導するように先を歩いていた文彦は、とある場所で立ち止まった。

 目の前の墓石には『染沢家』と書かれている。まだ新しい花と団子が供えられており、線香の燃え痕が残っていた。傍らの墓誌ぼしには、『幸政』という文字が見て取れる。


「聞いたのか」


 これまでほとんど無言だった文彦が、墓石を見つめたまま尋ねた。

 持参した花を供え、両手を合わせていた春は、ゆっくりと目を開く。


「……はい」


 固い声で春は答えた。




 苑條を倒した後。

 春は、深月からこれまでの経緯と合わせて話を聞いていた。


 何故、深月はネックレスに聖獣の名があると断定できたのか。

 何故、文彦が刀音川に現れると分かったのか。

 高神楽文彦に、かつて何があったのか。


「本当に概要だけ、ですけど。四年前のことと、その前のことも」

「そっちまで話しやがったか」


 文彦は顔をしかめた。慌てて春は言いつくろう。


「深月くんを責めないでください。私が聞いたんです」

「分ってるよ、別にいい。もし、機会が来てたなら。オレもいずれは話すつもりだった。

 ……どこで、気になった」

「漠然と何か引っかかるものは、ずっとあったんですけど。

 一番は。ロケットを、見たときに」

「ああ」


 彼は目を細めて空を見上げた。


「そりゃ、そうか」


 本日は快晴。雲一つない青空は、高い。

 木々の間を通り抜けた風がそよそよと菊の花を揺らす。山の中だからだろうか、空気が澄み渡っているような気持ちがした。






 春に宿っていた古の聖獣は、以前は別の人物に宿っていた。

 その人物こそが元々の人柱候補者であり、染沢幸政は彼女の護衛者だった。


 これは昨日、文彦からも聞いたことである。

 だが、深月から聞いた話には、もう一つ補足すべき情報があった。



 護衛者だったのは染沢幸政だけではない。

 幸政と共に、高神楽文彦もまた彼女の護衛者だった。

 正確に言えば、護衛者候補、である。



 後天的に発現した古属性として、彼女は当時、一挙に注目を集めることとなった。重要な人材である。当然、護衛者の話は早い段階から出てきていた。


 しかし護衛者として彼女を守る側であるはずの御堂は渋った。

 本来の血統から生まれた古の護衛で手一杯であり、彼女にまで人員を割く余裕が無い、と。


 結果、高神楽側からは文彦、影路側から幸政がそれぞれ選出され、彼女の護衛者候補として争うことになる。

 いわば、高神楽と影路、どちらが彼女に対して優位な権利を握るかの代理戦争だった。

 以来、彼女の大学入学時から四年間、彼ら三人は公私共に一緒に過ごしてきたのだった。いずれ重要な役割を果たすことになる彼女を、その日まで護衛する為に。



 だが、彼らは始めから彼女が人柱候補であることを知っていた訳ではない。

 知らなかったからこそ、悲劇は起きた。






 春は自分のバッグを探る。目当ての物を探し当てると、彼女はそれを取り出して手の平に載せた。


「これ、返します」

「ありがとな」


 彼は差し出された春の手から、昨日紫雨に奪われたロケットを受け取る。

 春は恐縮したように縮こまった。


「すみません。鎖、切れちゃってますけど」

「何で春が謝るんだよ。お前はどっちにしたって巻き込まれた側だ、気にするこたぁない」


 ロケットを握りしめ、文彦は笑う。


「それが、古の彼女と幸政さんですか」

「だな。もう八年も前だ、だいぶ雰囲気は違うだろうけど」


 彼は片手でロケットの蓋を開いた。


 中にあるのは、昨日まで春に憑いていた聖獣の名。

 そして反対側には、三人の人物が写ったプリクラが張り付けられている。

 真ん中に女性がいて、その両脇を固めるように男性がいる。だいぶ古ぼけており、サイズ自体も小さいので、三人の顔はよく見えない。だが、そうと思って見てみれば、右側の人物が高神楽文彦その人であることが分かった。

 八年前であれば、それはまだ彼らが幸せだった時のものだろう。






 数年間の平穏な時が流れた後、遂にその時がやって来た。

 裂け目へ赴こうとした彼女は、しかし護衛者二人の手によって阻まれる。


 止めようとした幸政は扉の事故に巻き込まれ。

 文彦は彼女から強制的に古の聖獣を引き剥がした。


 結果、幸政は行方不明となり、千花が代わりの人柱として選出され、文彦は高神楽家次期当主の座を剥奪はくだつされた。


 今から四年前の九月十七日。刀音川の河川敷にて起きた出来事である。






 春が深月から聞いたのは、以上の話だった。

 夏に彼女たちが巻き込まれた事件よりも遥かに大きく、彼らの一件は理術界界隈を揺るがしたらしい。

 だが内容が内容である故に、本当に中枢に関わる人物にしか事実は知らされていない。

 これを知っているか否かで深部に関与できる人間かどうかが分かる、それを文彦に探られたのだ、と深月は言っていた。


「このロケットはな。まだ平和だった時に、オレたち三人で一緒に買い揃えたものなんだ。

 女王様のご命令でね。喧嘩ばっかしてたオレと幸政をちょっとでも仲良くさせたかったのか、当時まだ黎明期だったプリクラで撮ったものを貼り付けられて、半強制的に持たされたものだよ。

 まさか、こんな風に使うとは思ってなかったがな」


 手の平のロケットに視線を落としてから、文彦は静かにそれを握りしめる。


「聖獣を使役するにゃ、ちょっとやそっとの小手先で出来る事じゃないんだ。名前を刻むのは何でも適当なモンでいいって訳じゃない。

 くさびとなる物質には、聖獣と親和性が高いもの、聖獣と関係性が繋がれるものを選ばないといけない。手持ちには、該当するのがこのロケット以外になかった」


 彼は握りしめたまま、そっとポケットに仕舞った。

 気後れしながらも、春はおずおずと口を開く。


「もう一人の人は、……古だったというその人は、どうなったんですか」

「……聞いてないのか」

「聞いてません」


 だが、精霊を無理矢理に引き剥がしたという事は、つまり。

 言葉を飲み込んだ春に、文彦はすぐには答えない。


「葵が瀕死ひんしになったとき、オレが言った言葉を覚えているか?

 『無理矢理に精霊をはがしたら、それこそ不具合が生じる、命の保証はしない』ってな」

「覚えてます。……じゃあ」

「いや。あれは、正確じゃない」

「嘘だったんですか」

「嘘とも違う。オレは今回、ほとんど嘘は吐いてないぜ。言い足りない箇所があっただけだ」


 一瞬言葉を切ってから、文彦は静かに告げる。


「精霊や聖獣を引き剥がしたところで、死にはしないだろう。

 だが強制的にそいつをやったら。

 一緒に、

 俺が葵の精霊を取り除いたところで、身体的にゃこれまで以上の影響はなく、すぐに苦しみからは解放されたろうさ。

 けど、そりゃあ。

 現時点での『染沢葵』が死ぬのと同じことだ」


 彼の説明に、春は息を飲んだ。

 文彦は淡々と、ただ事務的に続ける。


「無理矢理に聖獣を引き剥がした結果。彼女は聖獣と一緒にこれまでの記憶も全部、なくしちまった。

 幸政のこともオレのことも、全部な」


 春は顔を上げ、隣に佇む文彦を見上げた。唇を引き結んだ彼の表情からは、どこか優しい諦観が漂う。

 思わず勢い込んで春は尋ねる。


「今、その人はどうしているんですか」

「元気に暮らしてる、だろうさ。居場所は知ってるが、一度も会いに行ったことはない。

 危うくエンカウントしそうになったことはあるけどな」

「……会ってないんですか」

「会ってどうする。会ったところで赤の他人だ。何がどうなる訳でもない。

 それにかえって、会わない方が身の為なんだよ。

 自分の所為で恋人の幸政が消えて、あの時のあいつは発狂寸前だった。

 やっと俺たちと関わりのない平和な人生を手に入れたんだ。もし下手に俺が会って、万が一でも記憶が戻ってみろ。今度こそ彼女は不幸になる」


 毅然とした文彦の言葉に、春は目を伏せて黙り込んだ。

 さやさやと二人の間を風が通り抜けていった。爽やかな風は、しかし気分まで晴らしてくれることはない。

 やがて無言のまま、文彦は持参したペットボトルの蓋を開けた。中にいれていた水を、墓石へどぼどぼとかける。


「全く。よりによって。よりにもよって、どうしてお前は誕生日なんかにいなくなっちまったんだ。

 おかげさまで忘れたくても忘れられねぇじゃねぇか。こんな石の中に、お前は一欠片たりとも存在してないってのによ。

 あいつだって、……もしかしたらもう少しは、ショックが薄かったかもしれない。

 知ってるか。あいつは、お前のために、とっておきを用意してたんだぞ」


 独り言のような語りかけに、答える声は、当然ない。

 聞いてはいけないような気がして、春はそっと一歩、後ずさった。


 ペットボトルが全ての水を吐き出してしまうと、文彦はその手を静かに下ろした。たっぷりと水を被った墓石は、雫を滴らせ御影石の床をぴちゃりと叩く。


「お前に言われた通りだよ」

「え?」


 突然言われ、春は目を瞬かせた。

 また文彦を見上げれば、彼は穏やかな眼差しで春を見つめていた。


「俺は、単に目障りなもの全部を断ち切りたかっただけなんだ。

 確かに俺は世界を呪っていたのかもしれない」


 外柵に腰かけ、文彦はまた空を見上げる。


「あんたを古にした時には、裂け目という空間そのものをぶち壊すつもりだった。

 もううんざりだったんだよ。周りの連中がどうにかしようとちょろちょろ動き回ってるのを見るのも、高神楽側として小手先だけの対策を講じ続けるのもさ。

 竜太と違って、俺は世界の向こうに行っちまった人物を取り戻そうなんて夢物語みたいなことは願っちゃいない。

 ただこれ以上何も奪われず、これ以上不幸にならないなら、それで良かったんだ。

 けど。あんたを古にして、ちょっと予定外の事が起きた」

「予定外」

「要は。思い出しちまったんだな、昔のことを」


 春に視線を合わせ、文彦はにっと笑う。

 そして、春の頭をくしゃくしゃとかき撫でた。


 昔。それは文彦が、幸政と彼女と三人でいた時代のことだろう。

 おそらくは一番、彼にとって楽しかった時。

 平穏な時代を懐かしんだのだろうか。彼女のことを思い出していたのだろうか。ないしはかつての廉治のように、春と彼女とを重ねて何もできなくなってしまったのか。

 それとも。


 だが、文彦は続きを喋らない。

 言うつもりはないようだった。


「だからオレは、賭けることにした」


 しばらくして、おもむろに文彦はそう語る。


「あいつらの命日に、春を刀音川とここへ連れてくる。

 デート中に、俺からネックレスを奪おうとお仲間たちとそれなりの奮闘を見せてくれたら。その時には大人しく、春と相棒を解放しようってな。

 結果、俺の負けだった。ここまで綺麗さっぱり負けるとは思っちゃいなかったけどな、深月たちがでてくたあ予想外だった。とはいえ、それを除いても合格だ」


 彼は立ち上がると、今度は優しく春の頭をぽんと撫でた。


「仲間を大事にしろよ。

 結局オレたちは、全員が全員、一人で抱え込んじまったのがいけなかったんだ」


 そして彼は、少し先の小道へ視線を向ける。つられて春も振り向けば、そこには葵が複雑そうな面持ちで立ちすくんでいた。

 命日であった昨日は、あれから深月たちと話をしていたら一日が終わってしまった。代わりに本日、遅ればせながら墓参りへ来たのだろう。


「行けよ。野暮な邪魔者は消えるとするからさ」


 文彦は葵の方へ、とんと春の背中を押す。よろけて前へ踏み出した春が彼を振り返った時には、既に文彦はきびすを返していた。

 思わず春は声をあげる。


「待ってください!」

「帰りの足が必要か? 安心しろ、嫌じゃなけりゃ二人まとめて駅辺りまで乗せてってやるよ」

「そういうことじゃなくて!」

「春」


 彼女の言葉を遮り、文彦は静かに告げる。


「言っておくけどな。二十八歳は、高校生のお前が考えるほど大人じゃない」


 それだけ言い残すと。

 彼は振り返ることなく、森の中へ消えて行った。




「春さん」


 文彦の姿を見送っていた春の隣へ、固い表情の葵が歩み寄る。


「何で、あいつと一緒にいたんだよ」

「聞きたいことがあったから」


 葵に向き直って何気なく答えるが、彼は顔をしかめて苦言を呈する。


「昨日の今日なのに、何を考えてんだよ」

「葵くんだって昨日、深月くんから聞いたでしょ。本人から話を聞きたかったから。もう聖獣もいないから、私を利用しようとはしないだろうし」

「そういうことじゃない。一人でこんなところまで着いてきて、何かあったらどうするんだよ」

「何かって。色々あったけど、あの人は悪人じゃない。そこまで嫌悪しなくたって」

「心配なんだよ」


 珍しく語気の強い声で葵が遮った。

 驚いて、春は目を瞬かせ葵を見つめる。


「確かに春さんの言うとおりかもしれねえ。

 俺だって、名前も顔も知らなかったけど、兄貴から年上の憎たらしい親友がいるって話は聞いてたんだ。多分悔しいが、間違いなくあいつのことだってのは今なら分かる。

 俺だって残された側の家族なんだ。あんな状況に巻き込まれた奴がそう思ったって、一概に責める気にはなれない。全部理解できるとは言わねえけど、少しくらいなら気持ちは分かるよ。

 けど、前に自分がされたことを考えてみろよ。頭で理解しようとしたって、心配なものは心配なんだよ」


 一息に言ってしまうと、葵は深く息を吐き出した。

 春は俯き加減に、小声でぽつりと言う。


「……ごめん。そうだよね。ちょっと軽率だった」

「いや。俺も言い過ぎた。ごめん」


 ばつが悪そうに葵は視線を逸らした。

 が、今度は春の方が表情を引き締め、思い出したように顔を上げる。


「でも。そしたら、私だって葵くんに文句を言いたい」


 びくりと葵もまた顔を上げ、後ろめたそうに口を引きつらせた。


「……分かってるつもりだよ。甘んじて受ける」


 彼女は腰に手を当てて、びっと人差し指を葵に突きつける。


「知らない間に地の精霊を憑けて苑條を倒そうとした」

「はい」

「身体に負担がかかるのを判ってて無茶なことをした」

「はい」

「相談もなしに勝手に苑條のところに行った」

「はい」

「ホントに向こうへ行っちゃったんじゃないかと思って、怖かった」

「はい」

「心配、したんだからね」

「はい」


 そこまで言って、次の言葉が出て来ず、春は言葉に詰まる。


 やがて結局は葵の言ったことと同じ内容になってしまうと気付いた春は、ふっと表情を緩めた。

 何のことはない、お互い様だった。

 葵の方がやらかした数は多いけれども、それでも相手にとってみれば、不安に思う気持ちは似たようなものだろう。


「……お互いにこういうことは止めましょう。夏から、そんなのばっかりな気がするけど」

「そうだな……」


 思えば、廉治といい、杏季の周りの人物といい、勿論のこと葵と春といい。夏の一件からこの方、何かを抱え込んだ人物が勝手に立ち回ってばかりだった。



 けれども、それではいけないのだ、と春は思う。


 自分一人で解決しなければならないことは世の中に沢山ある。だが、周りに迷惑を掛けまいと抱え込み過ぎて、自分が潰れてしまっては意味がない。


 たとえ周りに相談したところで、どうにもならないかもしれない。何ら救いにはならないかもしれない。

 けれど裏を返せば、どうにかなるかもしれないし、救われる可能性だってあるかもしれないのだ。

 一人の閉塞した世界に他の誰かを連れてくることで、自分が決して探し出せなかった場所を見つけられるかもしれない。


 絶対は存在し得ない。そんな保証は世の中のどこにもない。

 だからこそ絶対の絶望はないし、救われない保証とてどこにもないのだった。


 ひどく後ろ向きな希望であったとしても、手を取ることのできる誰かがいるならば、すがることは甘えではない。

 いつか自分一人で解決しなければならない事柄に当たった時の為にも。

 文彦もそう言っていた。


 春は、去って行った文彦のことを思う。

 過去の事柄について、彼女は完全に部外者だ。まだ葵の方が近いところにいる。

 だが、部外者だからこそ。いずれ春は、葵と文彦の両方を救う道を見出せるかもしれないのだ。

 今はその方策があるのかどうかすら、見当がつかなかったけれども。




 そんな途方もないことを夢見て、ひとまず春は葵に伝える。


「それから」


 気持ちの良い風が二人の間を吹き抜けた。

 秋の風が土の匂いを運び、鼻孔をくすぐる。そういえばいつの間にか、ここ最近はすっかり涼しくなっていた。季節は移り変わっているのだ。



「お帰りなさい」

「……ただいま」



 そういえば昨日もこんなやりとりをしたなと思い出しながら、少し照れくさそうに春は微笑んだ。






(第2部:カイホウ編……完)

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