騒然ナチュラル(1)
――2005年9月17日。
土曜日の朝。
寮のすぐ近くまで迎えに来た文彦は、やってきた春を見て眉間に皺を寄せた。
「……何ですか」
「春。その服装はなんだ」
「何って」
彼女は自分の体を見回す。
「ジーンズにパーカーという実に動きやすく機能的かつスポーティーな服装ですけど」
「春。オレはこの前、なんと言った」
「川と山に行くと仰いましたよね?」
「デートだって言ったんだよ!」
顔に手を当てて文彦は盛大に嘆いてみせた。対する春は涼しげな顔で、パーカーの裾を摘んでみせる。
本日の春の服装は、先ほど宣言したとおりに黒いジーンズと灰色のパーカー、そしてスニーカー。とりたてて装飾や模様などもなく、飾り気ゼロの、実用性一辺倒のものだ。
着心地が良く遠慮なく洗えるので、寮で大掃除をする時などによく着ている。
「ああ一体どうしてこんなことになっちまったんだ今日まで打った布石をこうも見事にひっくり返されるとは思っちゃいなかったぜこいつはとんだ大誤算だ!
いや、悪くない。それが悪いとは言っちゃいないけど、どうして今日この時この日に事前にデートと宣言した本日に限ってその服装なんだい!
この前、オレが買った服はどうした!」
「それなら今、ベランダで気持ちよく風に揺られてます」
「よりによって洗濯中!?」
「やだー文彦さん外見ばっか気にしてるんですかー感じ悪ーいちゃんと中身を見てくれる人だと思ってたのにー」
「感情のこもっていない棒読みで言われてもオレは痛くも
思いの外、過敏に反応した文彦の態度に春は苦笑いする。
「私だって悩みましたよ。けど、行き先が川と山だっていうから、動きやすくて汚れても良い服の方がいいかなと思って」
というのは建前だ。
いざネックレスを奪取する段になって、スカートなどの動きにくい服装では支障が出ると見越しての判断だった。
とはいえあまりに貧相な服装に、躊躇する思いがなかった訳ではない。しかし服装にこだわらないタイプの女子高生の被服生活は、平日はおろか多くの休日さえも、制服とジャージとでほぼ成立してしまうのだ。休日に着る服などほとんどない。
彼女の弁解を複雑そうな表情で受け止めると、文彦は分かりやすくため息をついた。
「楽しみにしてたんだけどなぁ。春の可愛い私服姿」
「セクハラです。ってか私服ならこの前見たじゃないですか」
「馬鹿、それとこれとは話が違うだろう。今日は丸一日使える貴重な休日なんだ。
けど、まあ。……今日行くところは、派手な装いが似合う場所ではないからな。それでも、折角なら可愛い春を連れて行きたかったけど」
最後の言葉に春はどきりとする。
文彦の台詞にどことない暗さを感じて、何故か胸騒ぎがした。
「じゃあ、行こうか」
促され、春は助手席に乗り込む。いつもと違い、手の平は緊張で汗ばんでいた。それを悟られぬよう、春はぎゅっと拳を握る。
運命の一日が始まろうとしていた。
車に乗ってから十五分もしないうち、辿り着いたのは刀音川の河川敷だった。潤の予測は当たっていたようだ。
春は車から降りる際に、こっそりポケットの中で潤あてに電話を鳴らし、即座に切る。
あらかじめ春は潤たちと、山や想定外の川だった場合には隙を見て場所をメール、千尋川だった場合は電話を数回コール、そして刀音川の時にはワンコールという風に合図を決めておいたのだ。着信を合図に潤たちは動き始めるはずだ。
助手席から降りた春は、文彦がまだこちらへやって来ないのに気付き、振り返る。見れば、文彦はトランクを開けて荷物を取り出そうとしているようだった。
遅ればせながら彼が春の隣にやってきた時には、手に小さな花束が握られていた。ふんだんにあしらわれているのは、今の季節に似つかわしい薄紅色のナデシコである。
「それは?」
「花束。秋らしくていいだろう」
「見れば、分かりますけど……」
文彦は肩に花束を担ぎながら川へ向けて歩き出した。隣を歩く春を横目で見つめ、彼は微笑する。
「献花だ」
「けん、」
言い掛けてその意味に気付き、春は言葉を飲み込んだ。
献花とはつまり、そういうことだった。
あと数歩踏み出せば川まで届くというところで、文彦は足を止める。
「ここで何があったか、聞いたことはあるか」
「……いえ」
控えめに春は答えた。だが、何かが引っかかる。記憶の奥底で、情報の断片が今にも結びつこうとしているようだった。
春が回答を出すのを待たずに、文彦は告げる。
「厳密に言やぁ、献花ってのはお門違いかもしれない。
けど、こっち側にいる身からしちゃあほとんどそういうことだ」
彼は、穏やかな表情で春を振り返った。
「ここはな。
数年前に、千花がそれになる前の人柱候補者と。
その護衛者の染沢幸政が消えた場所だ」
聞き覚えのある単語に、春は息を飲む。
「それって」
「そう。葵の兄貴だ」
あっさりと文彦は肯定した。
辺りには彼女たちの他、誰もいない。川の流れは緩やかで、足下のせせらぎはひどく静かだった。
「千花は前から人柱になることが決まってた訳じゃない。本来の人柱候補には全く別の人間がいたんだ。杏季姫とはまた別にな。
彼女があの日、幸政と一緒に消えちまって、結果として千花にお鉢が回ってきたんだよ。
今、春に憑いてる聖獣が、前に宿主としていたのが彼女なんだ」
「……そしたら。貴方は、今度は私を」
「それは違う」
ビーのように千花とすげ替えようとしているのかと尋ねようとして、皆まで言わないうち文彦に遮られる。
彼は真顔で春を見つめた。
「オレはそんなことのために春へあれを憑かせたんじゃない」
「じゃあ、……どうして」
「……オレはな、春」
一呼吸おき、文彦は視線を彷徨わせる。言うべきか否か、彼にしては珍しく悩んでいるようであった。
やがて意を決したように目を閉じ。
ようやく彼が口を開こうとしたところで。
「感傷に浸ってるところ悪いわねぇ」
背後から、甲高い声が聞こえた。
途端、険しい顔つきになった文彦は、声の主へ視線を向ける。
「苑條」
乾燥した声音で短く言い、文彦はそのまま苑條を睨みつけた。
場違いながら、春は警戒心を露わにした彼の姿に驚く。
これまで文彦が動揺する姿など見たことがない。彼にとって想定外の事態には相違ないようだった。
「ここのところどうにも捕まらないと思ったら、アナタが手中に収めてたのねぇ。そりゃあ見つからないわけだわ。
葵ちゃんをトカゲの尻尾に、アタシからその子を隠そうとしたってわけね」
苑條は不気味な笑みを湛え、肩に付くほどに首を曲げた。
「ねえぇ。その子、くれないかしら」
「誰がてめぇにくれてやるか。こいつはアンタの手にゃ余りすぎる極上の女だぜ」
文彦は春の肩に手を置き、彼女の耳元で囁く。
「一つだけ言っておこう、春」
視線は苑條から逸らさぬまま、彼は口元に笑みを浮かべた。
「オレはな。目に見える邪魔な存在をとにかくぶっ壊したいんだよ。
片っ端からうざったいあれやこれを狩り尽くしたくて仕様がないんだ。
だから春。辛抱してくれ」
そう告げると。
文彦は苑條たちに向けてすっと右手を向けた。
「『躊躇するな。暴れろ、春。狩り取れ、***。
どんな手を使っても生き残れ、何が何でも撃破しろ。絶対に影路の手には落ちるな』」
「『御意』」
春の声と、彼女の体内に居る聖獣の声が重なる。
とん、と自分の意思とは無関係に、春は自分が一歩、踏み出すのを感じ。
彼女の目の色は、すっと海のような深い青に染まった。
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