昏睡フラット(2)
目の前に、自分の姿があった。
ポニーテールにまとめた髪にメガネ、舞橋女子高校の制服。よくよく見慣れた自分の姿だ。
だが。
大きな鏡に映った姿かと思うが、どこかおかしい。
姿形はまるきり自分の姿である筈なのに、底知れぬ違和感がある。見た目は春そのものだが、中身は全く別の存在であるような、そんな気がした。
鏡ではない。
根拠はないながらに、彼女は目の前の春が自分でもないことを悟る。
次の瞬間に、気が付いた。
目の前に立つ春の目は、まるで深い海の底のような青色をしていることに。
「ようやく、目を覚ましたか。春」
向かいに立つ春が、春に語りかけた。
話す口調は春のものではない。が、醸し出すその雰囲気は、どこかで覚えがあった。
不思議な心地で春は尋ねる。
「あなたは、誰?」
「私は、聖獣と呼ばれる存在。これまで文彦に使役され、今はそなたに憑いている古属性の聖獣だ」
「聖獣……?」
聞き慣れない単語に彼女はぼんやりと反芻した。聖獣と名乗った人物は、ああ、と声をあげ、付け加える。
「そういえば、説明は文彦が省いていたのだったな。
たいしたことではない。こちらの人間が言うところの理術の系統によって、呼ばれ方が異なっているだけのこと。
自然系統の性質を持つものを、精霊。
人為系統の性質を持つものを、聖獣、と呼ぶだけの話だ。
私は古の性質を持つ。故に、精霊ではなく聖獣だ」
春は昨日起こった事柄を思い返した。
葵を助けるため、彼女は古属性となることを、すなわち文彦の使役していた霊を自分に憑けることを了承した。
春に憑く前に形取っていた竜のような姿を思い浮かべれば、確かに聖獣という呼称は精霊のそれより似つかわしい気がする。
聖獣は更に続ける。
「そして今、お前に語りかけていることから分かるように。人間の体内に宿っている通常の精霊や聖獣とは異なり、私には自我が存在する」
「自我」
言われて、春は今更になって違和感を覚えた。
これまでに彼女は、自分の中に精霊がいると感じたことはないし、まして会話をしたことなどはない。
だからこそ、精霊や聖獣といった存在を今まで彼女は認識していなかったのだ。
「何で貴方には自我が存在するの? 上から人に憑かせることのできる、特殊な聖獣だからってこと?」
「とりたてて私が特殊な訳ではない。これも精霊と聖獣の違い同様、そもそもの種別が違う存在だからだ」
聖獣は訥々と語る。
「精霊や聖獣には、二種類のものが存在する。
一つが、人間を宿主とし存在しているもの。
一つが、単独で自然界に存在しているもの。
前者は人間が主体である故、自我は存在しない。
後者は単体で自身を構成している故、自我が存在する。
ただし。あの少年に宿った地の精霊には、まだ私ほどはっきりした自我は存在しなかった。聖獣より精霊の方が自我を確立するまでに条件と時が要る。
とはいえ、私の命に応じる程度の自我は存在していた。自身で意見を主張したり宿主に語りかけることは、当分できない」
少年、というのは葵の事だろう。彼の話が出て、春ははっと目を見開いた。
文彦は言っていた。この聖獣が葵に憑いた精霊を生み出した存在であり、母体であるのだと。
「葵くんに憑いてたあの精霊。あれは、貴方が生み出したものなの?」
「そうだ。あれはかつて文彦に請われて呼び寄せ、配下とした精霊だ。既に別の者の手によってある程度育てられていたそいつを、今度は彼の少年に憑けたのだ。
そなたは私が憑いた時、地の精霊の名を『ローシェル』と呼び、離れるよう命じただろう。それの名が知れたのは、私が教えたからだ。
私の元の精霊だからこそ、私は名を知っている。他の古では言うことを聞かないのは、名を握っておらぬためだ。
名によって精霊や聖獣は縛られる。
我々にとって名を握られるのは、命を握られるのと同然なのだ」
一旦言葉を切り、聖獣は静かな声で春に問いかける。
「私が憎いか、春。ローシェルを憑け、少年を苦しめた私が」
「それは……」
言い淀んで春は口を噤んだ。
葵に精霊を憑けたのはこの聖獣だ。本人も否定していないところからすると、間違いはないらしい。
だが、不思議と聖獣に対しての怒りは沸いてこなかった。
人間とは別種の存在だから、というのもあるかもしれない。
だがそれ以上に、聖獣の言い様からは、文彦に寄った発言というものが感じられないからだった。
淡々と紡ぐ言葉の端々には、どこか諦念や達観といったものが漂い、少なくとも心から賛同して文彦に組みしているようにはみえない。彼を責めるのは、お門違いな気がした。
上手く答えられずにいると、聖獣は浮かない表情で息を吐き出す。
「私とて、気乗りはせんさ。合うか否か、ものは試しと
私は文彦の命に抗えんのだ。今もなお、な。
私は私で、奴に名を握られているのだ」
「名前を……?」
春は首を傾げた。
先ほどの話にもあったが、名前を握られるということの意味合いが今一つぴんとこない。名前とは、単なる名称ではないのか。
悩む春を正面から見つめながら、再び聖獣は語る。
「そなたたちにとって『名』とは、単に個を識別する記号に過ぎないだろう。
だが我々にとって、また人であっても場合に依り、名は単なる名称のみならずもっと大きな意味合いを持つ。
名とは、契約であり本質そのものだ。
自分の名を知られるというのは、それだけで相手に自分の支配権を与えてしまうことに他ならない。
まして今、名を知られるのみならず……私は、文彦に完全に名を奪われてしまっている。最早、自分の名を思い出すことすらできんのだ。
結果、私は文彦に使役される身となった。奴に抗うことはできんし、文彦の命じるがままに従う他ないのだよ」
一息に言ってから、聖獣は春へ厳かに告げる。
「そして現在。文彦の使役と紐付けられた私が憑いている以上、春、そなたもまた文彦に逆らうことができない状況になっている。
傀儡とまではいかないが、もし本意でない所作を命じられても、刃向かうことはできまい」
「そんな」
愕然として春は言葉を失った。
昨日の彼女の選択はほとんど無我夢中で、それでも春なりに覚悟を決めてしたことだった。だが、紐解いてみれば条件は想像していたよりずっと悪い。
「どうにか契約を解除する手段はないの?」
「ある。奪われた名を取り戻すことだ」
聖獣はブレザーの胸ポケットの中に手を差し入れた。取り出したのは生徒手帳だ。続いて、腕に嵌めている時計も示す。
「例えば、こういった手帳や。或いはいつも身に着けている小物。文彦は私を使役した証、楔として、どこかに私の名が刻まれた物を持っている。
それを破壊するか、刻まれた名を知りこの身に取り戻す。さすれば、私もそなたも自由の身になることができるはずだ」
「破壊……か、名前を見る、ね……」
低い声で繰り返し、春が腕組みした。
流石にそう簡単な手段でどうにかなるとも思っていなかったが、他でもない敵の当人が身に着けている物から探せというのだ。容易いことではない。
聖獣の瞳が真っ直ぐに春を捉える。
「春。私の名を見つけだし、文彦から解放して欲しい。昨日、そなたがローシェルにやったのと同じように。
春が眠っている間に、そなたの友人たちにも協力を依頼した。そなたのためにも、あやつの目的を挫くためにも、力を貸して欲しいのだ」
頷きながら、しかし春は心許なげに渋面を浮かべる。
「分かった。私だってどうにかしたいし、勿論やるよ。
けど、探すにしてもまず会える手段がないんだよね……あの人への連絡手段もないし」
「それは心配ないだろう」
彼女と対照的に、安穏とした口調で聖獣は言う。
「お前に私を憑かせたのは、文彦に目的があったからだ。遠からず奴の方から接触してくるだろう。こちらは機会を窺い、探ればいい」
目的、という言葉に春は反応する。
「あいつの目的は何なの? あなたなら知ってるんでしょう」
「知っている。知っているとも。
だがな。重要なことは全て文彦から
それを伝えるには、私の名を暴き、文彦から解放してもらう他ない」
いずれにせよ、聖獣の名を手に入れないことには、分からないことばかりのようだった。
無駄かもしれないとは思いつつ、春は最後に尋ねる。
「その目的ってのは、私たちにも影響があることなの。誰かに危害を加えたり、世界に影響を及ぼしたりするような、危険なものなの?」
「そなたたちには害はない。かつて廉治がやろうとしていた事のように、そなたの友人が巻き込まれることもないだろう。だが」
言葉を切り、静かな声で聖獣は答える。
「ある側面から多くの人間は救われる。
だが、その為に幾人かの人間と感情とを殺すことになるだろう。
今も既に薄れかけている繋がりは永遠に切れる」
謎かけのような言葉を残し、聖獣は黙り込んだ。
どんなに尋ねても聖獣がこれ以上のことを話すことはできず、聖獣の台詞が何を示すのかも分からなかった。
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