7章:偽神礼賛
昏睡フラット(1)
春の視界に入ってきたのは、見慣れた寮の天井だった。
ぼんやりとした頭で、クリーム色の壁紙と飾り気のない蛍光灯を眺めながら、春は額に腕をやった。
体が妙にだるい。痛みはないが、一挙一動が
――一体、何をしていたんだっけか。
体と共にほとんど働こうとしない頭で、春は虚ろに思案する。しかし思考はほとんど進まないまま、彼女はごろりと寝返りを打った。
と。入り口の方から、かちゃりと小さな音がする。
音を立てぬよう気を遣ってそろりと開かれた扉は、春が目を覚ましているのに気付くや否や、勢いよく開いた。
「はったん!」
駆け込んできたのは、同室の潤。
彼女は私服姿である。よくよく見れば窓の外はまだ明るく、自分が何故ベッドで寝ていたのかと春はきょとんとする。
「あれ、つっきー。なんで私、寝て」
彼女の台詞を皆まで言わせず、潤は春を力の限り強く抱きしめた。
「いいから。……いいから、今は、休んでろ」
どこか悲痛な声音の彼女は、春の顔を見ないままに告げる。
「事情は京也たちとアオリンに聞いた。ひとまず何も考えなくていいよ。……ゆっくりしてな」
そこでようやく。
春は、全部を思い出した。
「……私、えらいことやらかしましたね……」
「本ッ当だよ」
春の体を離し、くしゃりと顔を歪めた潤はぶっきらぼうに吐き捨てる。
「お前、今度全員にドーナツ奢りな。ないしは、永遠に罰当番」
「それは、嫌だなあ」
苦笑いして、春はぽんぽんと潤の頭を撫でた。
談話室に潤が戻ると、落ち着かない様子で杏季が振り向く。
「はったん、起きたの?」
「うん。けど、また眠ったよ。今日は寝かせとこう」
彼女の問いかけに、いつもより静かな声音で潤が答えた。
寮の談話室にいるのは、杏季と潤の他には奈由だけだ。他の生徒たちは皆、学校へ行っている。
――2005年9月12日。
今は月曜日の午前中。
昨日春が寮に戻されてから、彼女は昏々と眠り続けていた。朝になっても起きる気配のない春に、潤たち三人は本日、看病がてらに学校を休むことを選択したのだった。
他の生徒たちが学校に行っている昼間はどうしても寮は手薄になる。日中も寮母はいるが、彼女とて他の用事があるのだ。四六時中、春についている訳にはいかない。
もっとも昨日、文彦が苦もなく寮内へ侵入してきたことを考えれば、学校に登校していたとて、人目の多い夕方とて、危険性のあるなしはほとんど変わらないだろう。
それでも今の状態の春を一人にしておくのは抵抗があったのだ。
「とりあえず、男子ズに連絡しとくね。目は覚ましたって」
「よろしく、なっちゃん」
ソファーに沈み込み、潤はクッションを抱き抱えた。
「……あの野郎」
低い声で呟き、彼女ははそのまま口を閉ざす。
昨日。杏季の電話を受けた潤と奈由が駆けつけた時には、既に春の姿は部屋から消えていた。
そして彼女たちが右往左往しているうちに、春は再び気を失った状態で部屋に戻ってきたのだった。
同じ寮の建物にいながら、彼女たちは何もすることができなかった。瞬く間の出来事であったとはいえど。自分自身に対しての不甲斐なさと、文彦に対する怒りと、その他様々な感情がない交ぜになって、潤はそれ以上の言葉を発することが出来ずに唸りをあげた。
「はったんもそうだけど。アオリンのダメージは相当でしょうね」
メールを送信し終わった奈由がぽつりと呟いた。
不安げに杏季が顔を上げる。
「染沢くん、やっぱ具合悪いの?」
「体調はぼちぼちみたいだけど。いや、病院沙汰になってるから良くはないけどさ。入院はしなかったみたいよ。
そっちじゃなくて、精神面」
「ああ」
顔をしかめて潤は息を吐き出した。
葵からは、額面的な事実以外の事柄、すなわち彼の行動動機などについては、実のところ深く聞けていない。
無事に精霊から解放されたとはいえ、苑條との戦闘に身体への負荷と、彼は彼で消耗しきっていた。最低限のことを潤たちに説明するのが精一杯だったのだ。
だが葵の性格とこの状況に至った経緯を鑑みるに、体に負ったダメージよりも、現在彼が精神的に負っているダメージの方が、遙かに辛く酷なものだろうことは容易に想像がついた。
「流石に、あからさますぎて可哀想なくらいだよ。
自分の所為で好きな女に危険が迫って、それなのに当のはったんに助けられて。
どうにか挽回しようとした、その結果が今回だから……ね」
「……気持ちは分かるけど」
潤は渋い表情のまま頬杖をつく。
「けど、あいつはあいつで今回、断罪対象だけどな。てめーだけで勝手にやらねーで、ちょっとはこっちに相談しろってんだよ」
「……言っておきますけど」
奈由は携帯電話をテーブルの上に置いて真顔で彼女を見つめる。
「それ、貴方にも十二分に言えることですからね。
今回はたまたまアオリンだったってだけで、似たようなことをやらかす恐れがある人物堂々のトップスリーは貴方なんですから、そこんとこ肝に命じておいてください」
思いがけない台詞を投げかけられ、潤はぐっと言葉に詰まる。
「……しねぇよ」
「するでしょう」
「するね。つっきーはそういう性格」
杏季まで同意し、深く頷いた。
なんだよ、と潤はきまり悪そうに苦笑いした。奈由は深くため息をつく。
頭の中で身近な人物を思い浮かべながら、杏季は首を捻る。
「トップスリーって、あと二人誰?」
「さああ? 誰だろうねー」
適当な口調で奈由が流した。
緊迫していた空気が少しだけ緩んだところで、不意に、かちゃり、と談話室のドアの開く音がした。
寮母でも入って来たのだろうか、と何気なく顔を上げた奈由は、驚いて高い声をあげる。
「はったん、寝てなくていいの?」
そこに立っていたのは、先ほどまた眠りについたはずの春だった。潤と杏季もまた奈由の言葉に慌てて振り返る。
だがしかし彼女は奈由の問いかけには答えない。無言でぐるりと談話室を見回し、彼女は何かを了解したように頷く。
「ちょうどいいな。幸いにして、今ならばあの子もいない」
独り言を呟いた後で、春はようやく三人へ視線を向けた。
「初めまして、というのも奇妙な心地がするな。久しぶり、とでも言うべきだろうか」
春にしては奇妙な物言いに、三人は一様に困惑した表情を浮かべた。
構うことなくその人物は淡々と告げる。
「私は、春に憑いている古属性の聖獣だ。
彼女の精神は今、深い眠りについているのでな。その間、少しばかり彼女の身体を借りて話をしている」
「はっ……!?」
潤は思わず春、もとい春に憑いている聖獣と名乗る存在を指さした。
「お前、……お前が、例の、古の精霊?」
「厳密には違う。文彦はそう語っていたが、私は精霊ではない。先に言った通り、聖獣と呼ばれる存在だ。
とはいえ、性質の違いに依る区分に過ぎないからな。この際どちらでも良かろう」
春の姿で腕組みした聖獣は、鋭い眼差しで三人を順繰りに見つめる。聖獣の口調と視線とにつられて、三人も思わず居住まいを正した。
「後で、春本人にも説明はするつもりだがな。今は語りかけることができないので、まずは仲間のそなたたちの方に話すことにした。
お前たちに頼みがある。
これは春を私という存在から解放するために、ひいては高神楽文彦から解き放つのに必要なことだ」
胸元に手をやり、聖獣は彼女たちに重々しく告げる。
「私の名前を、見つけだして欲しい」
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