遅々ストリンジェンド(4)

 寮の窓から西日が射し込む。

 季節は次第に秋へと移り変わってはいるが、それでもまだ九月の日は長い。おやつの時間もとうに過ぎ、そろそろ夕方の気配を感じさせる時刻だが、戸外では遊び盛りの子供が駆け回る音がしている。


 謹慎中の春は本日、寮の自室にて大人しく一日を過ごしていた。

 昼過ぎに出ていった杏季たちと葵のことが気になって落ち着かず、勉強も読書もゲームでさえも、何も手につかない。仕方なしにただベッドに寝転がりながら時間をつぶしていた春だったが、枕元で鳴り響いた携帯電話に勢いよく跳ね起きた。

 携帯電話をひっつかみ、目当ての電話だと気付くと、ボタンを押すのももどかしく電話に出る。


「もしもし、あっきー?」

『はったん、そっちは異常ない? 大丈夫?』

「大丈夫、だけど。そっちは何かあった?」


 彼女の口振りから嫌な予感がして、春は息を飲む。

 そして杏季から一部始終を聞き、愕然として携帯電話を取り落としかけた。彼女の動揺を悟ったかのように、隣の部屋からぎしりと床のきしむ音がする。


「……何それ。どういうこと」

『偽物だったの』


 耳元で、杏季の高い声が響く。


『私たち、誰かに騙されてた。昨日のチャットで、葵くんのところに行くようし向けたのは、ゆうくんじゃない別の誰か。

 寮を手薄にするのが目的なのか、それとも違った意味合いがあったのかは分からないけど』

「高神楽の誰かがなりすましてたってことかな」

『ううん、多分、その線は……少なくとも高神楽文彦って人じゃないと思う。私たちがいるのが余分だ、って言い方をしてたから。

 けどあの人はあの人で、凄く意味深なことを言ってた……』


 上手く言葉がまとまらなかったのか、杏季は一呼吸黙り込んでから、不安げに告げる。


『気をつけて、はったん。何がどうなってるのかは分からないけど、きっとそっちは危ない。つっきーとなっちゃんと一緒にいて、一人にならないようにして』

「あっきー」


 彼女の言葉を遮り、ぽつりと春は呟いた。

 目線の先は、ぼんやりと自室のドアに向けられていた。



「少し、遅かったみたい」



 春は携帯電話を耳から離す。通話口からしきりに話しかける杏季の声が聞こえてくるが、春は構わず通話ボタンを切った。


 寮の一室は八畳程しかない。そのうち半分は潤のテリトリーであったが、彼女は今、部屋には不在だった。潤は下の階に降りて涼しい部屋で自習をしているはずだ。

 奈由もまた一階の談話室でくつろいでいた。この狭い部屋には今、春一人しかいない。


 筈だった。



「やあ、畠中春女史。御機嫌麗しゅう」

「麗しくないです……」



 消え入りそうな声で春は答えた。

 ドアの前には、先ほどの電話で話題が出たばかりの、高神楽文彦その人が立っていた。

 にこやかに人をくったような笑みを張り付けて、春の逃げ道を塞ぐように後ろのドアへ寄りかかっている。

 葵が地属性の術を使ったと杏季から聞かされたことよりも、目の前の光景の方が余程も信じ難かった。


「随分な度胸ですね……」

「そちらこそ、随分なご挨拶だね」


 文彦は人差し指を立て、飄々と言ってのける。


「君の発言は、あれかな?

 誰が敵で誰が味方が掌握し難いこの状況下で、のこのこ他軍の陣中にやって来たオレに対する御挨拶かな?

 それとも可憐で優雅な女子高生の花園へ、身の程知らずにも単身乗り込んで来たオレに対する御挨拶かな?」

「両方です」


 冷ややかに春は答えた。

 相変わらず何を考えているのか全く読めない。ペースに飲まれてはいけないと、春は自分から話を振る。


「あっきーと京也くんを、えらく遠いところに飛ばしてくれたみたいですね」

「やあ、早いな。もうそこまで話が来ていたのか」


 少しばかり驚いて低く口笛を吹いてみせると、文彦は辺りを見回して、やはり部屋には春と彼の他に誰もいないことを確認した。


「しかし周りに取り巻きがいないところを見ると、うん、他の女子にはまだ伝わっていないらしい。違うかい?

 さっき電話を切ったところからすれば、現在進行形で白原杏季姫から連絡を受けているところに颯爽とこのオレが登場したが故に、既に電話をしているところを見られてしまった現状これ以上通話を続ければ身の危険もあり得るし、携帯電話を隠し持って後でこっそり連絡をとることも不可能、ともすればせめてオレが携帯電話を破壊したりするなどの器物損壊の凶行に及ばないよう自分から電話を切ってみせたと、そんなところかな。

 殊勝で賢明な判断だねえ誉めてあげよう。君の携帯電話は無事にもうしばらく機種変更の憂き目に晒されずに済んだというわけだ」


「…………」


 そう簡単に主導権は握らせてくれないようだった。

 春は携帯電話をベッドの隅へ押しやると、自分はベッドから降りて文彦と正面から対峙した。部屋の中である、二人の間の距離は二メートルにも満たない。


 まさか、寮の中に乗り込んでくるとは思わなかった。誰も気付いていない様子からすると、当たり前だが堂々と正面から入ってきたわけではないらしい。


 声をあげれば潤や奈由が気付いてはくれるだろうが、この状況下で迂闊に二人を呼んでしまうのは躊躇われる。それに二人が来ても、部屋のドアは文彦が押さえているのでどちらにせよ入ってくることは出来ないだろう。

 どうしたものか思案する間に、文彦は春の方に踏み出し右手を差し出した。


「ともあれ、状況を理解しているのなら話は早い。

 畠中春女史、今から君をとっておきのところにお連れしよう」

「それでほいほいと着いて行くとでも思うんですか?」


 文彦が距離を詰めると、春は一歩後退する。

 しかし部屋はそこまで広くない。じりじりとせめぎ合いを続けるうち、あっという間に春は窓際に追いやられた。

 窓枠に手をつき、文彦は愉悦を込めた表情で春をのぞき込む。


「無理矢理連れて行くと言ったら、どうする?」


 せめてもの抵抗とばかりに、春はキッと彼を睨みつけた。


「連れて行けるものなら、連れて行ってみなさいよ。私はてこでもこの部屋から動きません」

「じゃあ」


 文彦は手慣れた仕草ですっと春の手を取った。

 そして春は、自分の発言の間違いに気付く。


「遠慮なく」


 にっと文彦は笑みを浮かべ、春は口を引きつらせた。


 彼は、杏季と京也とを東京まで飛ばしたのだ。春をどこかに連れ去ることくらい、造作もないに違いない。

 そう考えが至った頃には、既に彼女の姿も、文彦の姿も、部屋の中から消えていた。






 気が付いた時には、春は澪標公園にいた。

 部屋から飛んできたので、足は靴下のままだ。居心地の悪さを覚えながら顔を上げると、春は見知った人物を見つけて声をあげる。


「葵くん……!」


 が、身を乗り出そうとした矢先、文彦に腕を掴まれた。


「おっと。外に出るなよ、春女史」


 真顔で文彦が春を制する。


「ここから出たら悟られるぞ。君だってみすみす苑條の手に堕ちたくはないだろう」


 見れば、文彦と春の周りには、影のような半透明の物体が円になって取り巻いていた。春は直接見たことはなかったが、潤たちから話には聞いている。おそらくこれが文彦の使役しているという蛇なのだろう。


 だが明るいところでよくよく見れば、彼女の思い描く蛇とは少し印象が異なっている。蛇のそれより随分と厳つい体表と、頭部の周辺に何本か突き出た小さな角は、どちらかといえば蛇よりも竜という呼称が似つかわしい気がした。


「これ、囲まれている中では理術が使えない、外に出ようとしても出られない、って奴ですか」

「今回はそのモードじゃない。今のはいわばステルス機能だ。あいつらからオレたちのことは全く見えない状態になっている。声だって聞こえない」


 春の腕をつかんだまま、文彦は言い含めるように告げる。


「ひとまず今は大人しくして、顛末てんまつを見守ってくれたまえ。オレは君の為に言ってるんだぞ。むざむざ苑條にエサをくれてやるこたぁあるまい」

「けど、葵くんが」


 春が気遣わしげに前方へ視線を投げた。

 彼女の居る場所から五十メートルほど先に、葵と苑條たちがいる。対峙する相手は炎属性だったが、幸い彼の攻撃は葵に当たってはいないらしい。ぱっと見、怪我は負っていないようだったが、離れた場所からそうと分かる程度に葵は消耗しきっていた。


「そんなに構えなくとも大丈夫だ。いくら葵とて、今の苑條たち相手に負けるほどじゃあないさ

 苑條たちにはね」


 文彦の含みには気付かず、春はただ唇を噛みしめて見守った。




 葵は、ぜい、と息を吐き出して、ちらりと木の上へ視線をやる。


「埒が、あかねぇ……」


 葵とナインスとの戦いは、葵が優勢のままだ。彼は一度も葵に攻撃を与えていないのに対し、最初の数撃以外にも葵は何度かナインスへ術を命中させている。

 だが時間が経つにつれ、少しばかり状況は変化していた。


 体が鉛の様に重い。

 次第次第に腕が言うことを効かなくなり、術を出す時に腕の動きが伴わないことも増えていた。足の感覚がなくなりつつあるのが判る。今は気力と元々の体力とで無理矢理に補っているが、それも時間の問題だろう。

 序盤は葵が圧倒的に有利だったが、今や互角の形勢にすら近づきつつある。

 それに諸悪の根元たる苑條は、相変わらずのうのうと木の上で二人の戦いを見物しているばかりなのである。


「にゃろう……」


 葵は一旦、ナインスから距離をとると、木の上の苑條を見据えながら両の手の平を合わせ、叫んだ。



「“シグマ”!」



「……それはやめとけって」


 ぼそりと口の中で文彦が呟いた。


 彼の台詞に気を取られ、春が文彦に視線を合わせた隙に。

 視界の隅で、何かが派手に弾け飛ぶ。


 慌てて春が葵の方へ向き直れば、そこには松の木ごと地面から吹き飛ばされ、地に突っ伏す苑條の姿があった。

 顔を歪めると、苑條はナインスに手で合図して呼び寄せ、よろけながら立ち上がる。


「……今日のところは退いてあげるわ。また会いましょ、葵ちゃん」


 途端、先日と同じく煙幕が彼女たちを取り巻き、またしても苑條は姿をくらましてしまった。

 残された葵は苑條たちを追いかけようとするが、一歩踏み出したところでがくりと体勢を崩し、その場に力なく崩れ落ちた。


「葵くん!」


 春は文彦の手を振り払い、葵に駆け寄る。苑條が去ったからか、彼に止める気はないようだった。


「春さ、……何でここに」


 荒い息を吐きながら葵がうわ言の様に呟いた。春は彼の傍にしゃがみ込んで、傷の具合を確かめる。

 見た限りではどこにも傷を負っていない。だがそれにしては、葵の消耗具合は異様だった。手足からは力が抜け、指一本動かすのすらままならないようだった。


「葵くんこそ、どうしてこんなこと」

「……俺が、どうにかしたかったんだ」


 独り言のように、空を見上げたまま葵はぽつりと言う。


「巻き込んだのは、俺だ。だから、俺がケリをつけないと」

「気にしなくていいのに! あの状況は仕方なかったし、何も葵くんは悪くないじゃない!」

「そう、したかったんだ」


 葵は春を見つめ、ふっと柔らかく笑んだ。


「分不相応でも。俺が、守りたかった」


 そう言った後で。

 葵はさっと顔色を変え、体を丸くして咳込んだ。口元を押さえた手には赤い液体が飛び、手で押さえきれなかった数滴が地面に飛び散る。


 地面に散ったのは、赤黒く毒々しい血液だった。


「葵くん!?」


 春は仰天して彼に取り付く。背中をさするが、咳はなかなか止まない。苦しそうな咳は、それ自体が彼自身の命を削っているような気がした。


「身の程知らずに、御大層なこって」


 背後から、固い声が聞こえた。

 春たちの数歩ほど後ろまで歩み寄ってから、冷ややかに文彦は葵を見下ろす。


「どうしてここまでしやがった。あんた、マジで死ぬぞ」


 葵は答えない。

 答えられない、といった方が正しいだろうか。


 代わりに、混乱した春が文彦へまくし立てる。


「どういうことなの!? 何か変な術でも受けたの!?」

「落ち着けよ春女史。葵のそれは、苑條にやられたんじゃない」


 文彦は冷酷な表情はそのままに、淡々と春へ告げる。



「さっきの戦いでは、誰も葵にゃ手を下してねぇよ。

 葵は自滅しただけだ」



 また血の固まりを吐き出し、ようやく葵の咳が止む。

 文彦の言葉を聞いているのかいないのか、葵はただ苦しげに呼吸を繰り返すばかりだった。

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