早々アラルガンド(5)

――2005年9月10日。




 翌日、土曜日の朝早く。

 川辺にて、葵は汗だくになって竹刀を振り続けていた。


 休日の早朝。住宅街から少し離れたこの場所は、犬の散歩やジョギングをする人がまばらにしか通りかからない。それが葵にとっては好都合だった。彼は頭に渦巻く思考を振り払うかのように、がむしゃらに竹刀を振り続けている。

 昨夜はあまり寝つけなかった。彼の脳裏にずっとまとわりついているのは、昨夜の出来事。苑條との一件である。

 思い返し、葵は顔を歪めた。

 


――……俺はただの足手まといでしかなかった。



 彼は竹刀の柄をぎりりと強く握りしめる。


 今まで気にすることがなかったといえば嘘になる。理術で強い力を得ることが目的ではないのだからと、あえて意識しないようにしていた。

 だが、少しでも考えれてみれば、それは嫌というくらい明らかだった。



 チームCにいたことのあるメンバーは葵以外、京也も裕希も開眼しているのだ。



 葵がチームCに入った時に廉治と直彦、それに妃子は既に開眼していた。後から来た京也にも抜かれ、一緒に入った裕希とて夏の終わりに開眼している。

 そして、春と杏季でさえも。



 京也の開眼が通常より早かったというのは確かだが、それでも事実として葵だけが一般の枠にとどまったまま置いて行かれていた。

 潤と奈由も開眼はしていないが、彼女たちは葵と比べて補助装置を使った時間が絶対的に短い。あの短期間で開眼した春の方が相当にイレギュラーなのだ。

 今や琴美との約束で理術をおおっぴらに使うことが出来ない状況とはいえ、昨日のような緊急時にいざ開眼しているのといないのとでは、あまりに隔たりが大きい。


 昨日、苑條が狙ってきたのは春ではなく葵だ。だが春を巻き込んでおいて、当の葵は手も足も出なかった。

 彼は春に助けられたのだ。おそらく彼一人でいた時に苑條がやって来たなら、葵は大人しく負けていただろう。

 夏にも感じたことだったが、どうしようもない無力感に苛まれて、葵は唇を噛み締める。


「……ちくしょう」


 思わず声が漏れ、葵は何百回目か知れない竹刀を振り下ろした。



「精が出るねぇ。懐かしい光景だ」



 葵の背後からおもむろに声が聞こえた。目を見開いて勢いよく振り向けば、そこには土手の上に佇んでいる男がいた。

 高神楽文彦である。

 手を止め、葵は警戒心を露わにして彼を睨みつけた。


「……何の用だ」

「おっと。さながら敵に向けるような怖い面で言わないでもらえるかな。

 今回の被害者はオレなんだからさ」


 淡々と言いながら文彦は土手を降りた。

 葵の側、しかし一撃ではぎりぎり竹刀が届かないだろう距離で彼は足を止めると、ポケットに手を入れて真顔で告げる。


「朝っぱらから竹刀を振り回して、次に備えての稽古かい?

 無駄だ。苑條はお前のところに来ない」

「……どうしてそれが分かるんだよ」


 どこか不穏な空気を感じ、葵の手に力が籠る。

 かつて公園で対峙した文彦と今の彼とでは、まとう雰囲気が天と地ほども異なった。飄々ひょうひょうとした素振りやふざけた態度は微塵みじんもない。少しでも刺激すればすぐに何かが破裂してしまいそうな、そんな危うさをはらんでいるように思えた。


「次に苑條が狙うのは十中八九、お前じゃなく畠中嬢だからさ」


 文彦は独り言のように続ける。


「昨夜の段階じゃ、苑條はお前の存在しか知らなかった。

 けど戦いの最中で、一介の一般人たる畠中春が開眼している、それも相当なポテンシャルを秘めてるって事に気付いちまった。

 そうなったらお前はオマケ程度、興味はあろうが優先順位は畠中嬢の下だ。畠中嬢の後で片手間にどうにかしようと考えるだろう」


 昨日の出来事を何故知っているのか、最早それは言及しない。しても無駄と思えたし、おそらく彼は自分の理術でそれを知ったのだろうと予測がついたからだ。文彦は遠隔透視が出来る霊属性だった。

 油断なく、悟られぬ程度に手へ力を込めながら葵は口を開く。


「けど、あいつは開眼してるのを確認してすぐ帰った。目の前に張本人がいるのに、どうしてわざわざ出直そうとすんだよ」

「そりゃあそうだろ。

 苑條は、まともに開眼すらしてないんだからな。真っ向からやりあったら畠中嬢に敵うはずがない」

「開眼、してない……!?」


 葵は目を瞬かせた。

 文彦は事もなげに説明する。


「気付かなかったか。苑條は属性だけは派手に複数操るが、一つ一つの威力は大したこたぁない。ありゃ奴の悪趣味な研究の成果物だ。

 だから苑條は昨日、一旦消えたんだ。単身だと畠中嬢に敵わない。出直してあいつが言うところのモルモット、開眼してる影路の手下を連れて、今度は確実に畠中嬢を手中に収めるためにな」


 いよいよ葵は手にした竹刀の切っ先を文彦に向けた。


「……お前はどうしてそこまで判るんだよ。

 昨日の出来事を知ってるだけなら納得できる。けどどうしてそこから苑條の術のからくりや次の手段が分かるってんだ。あんた、苑條のこと元から知ってんのか」


 動じることなく、文彦は薄らと口を歪める。


「あぁ。知ってるさ。当たり前だろう。

 

 染沢幸政の弟が、数年前にあんたが失った共鳴の試薬を飲んでいる。しかもその効果をこの夏に発現させたってね」


 思いがけない言葉に、葵は動揺し息を飲んだ。

 構わず、文彦は続ける。


「本来であれば、今頃。お前は、苑條の手に落ちてる筈だったんだよ。

 そしてオレは――

 夏の戦いで、彼女はお前に身をていしてかばわれている。正義感の強いあの子が、お前を放っておくわけないだろうさ。

 だのに、あんたは悪党に狙われたヒロインそのものに助けられ救われて、竹刀をブン回しながらのうのうと過ごしてるって寸法だ。全く、笑えて反吐へどが出るね」


 廉治との戦いの最中、春と葵は高さのある氷柱の上から落下している。葵は春の安全を優先させ、彼女の落下地点に植物を生やした。春は無傷だったが、代わりに葵は怪我を負っている。

 いくら葵が言っても、心の奥底で春がその件を気にしていることは葵も感づいてはいた。

 そして文彦はその情報を掴んだ上で、春の感情を利用しようとしていたのだ。


 怒りにぎりりと拳を握りしめ、葵は一層激しく文彦を睨んだ。

 その怒りに気付きながらも、文彦は冷ややかな眼差しで葵を見つめる。

 

「お前の所為でオレの計画は狂っちまった。彼女のポテンシャルだけはあの奇天烈女には隠し通しとく筈だったのに、てめえの所為で番狂わせもいいところだ。

 さて、穏便に畠中嬢を手に入れようとしたのに、なかなかどうして手荒な手段を取らざるを得なくなっちまったな。なあ、他ならぬあんたの所業でね」


 無理矢理に感情を抑えた低い声でもって、葵は静かに文彦へ尋ねる。


「……春さんに、何させるつもりなんだ」

「決まってんだろう」


 間髪入れず、彼は答えた。


「都合の良い『手駒』だよ。抜けた穴を埋めるためのな」


 返答を聞くや否や。

 葵は渾身の力を込め、文彦に殴りかかる。


 しかし。



「お前の相棒から聞かなかったかい?

 オレは理術じゃなく、体術であいつらをノしたってことをさ」



 強かに文彦の拳が腹部に食い込み、葵は地面に倒れた。地面に手を付きよろめきながらも何とか起き上がろうとするが、畳み掛けるようにまた文彦は葵の顔、次いで再び腹部を殴り、成すすべなく葵は今度こそ崩れ落ちる。

 呼吸が出来ず、咳き込む葵を見降ろしながら、文彦は顔をしかめた。


「癪だねぇ」


 ざり、と文彦は地面と一緒に葵の腕を踏みつける。


「だからオレは嫌いだよ。……てめぇみたいな真っ直ぐすぎる人種はな。

 悲しいかな、何だって邪魔されなきゃならねぇんだ。

 微かとはいえ理術の世界に首を突っ込んだ兄貴がいたあんたと違い、これまで純然たる一般人だったはずの京也にも春にも奈由にも及ばない、ただの空人カラビトもいいところな、兄貴の足下にも至れないお前がよ」


 抵抗する気力なく、葵は彼の言う意味が分からぬまま微かに眉を寄せる。

 文彦は隣にしゃがみ込み、無言のままの彼の前髪をかきあげた。


「なあ。あんたは力が欲しいんだろう、染沢葵。

 周りに追い越され、圧倒的に上をいかれ、あまつさえ一人の女すら守れねぇ自分に忸怩じくじたる思いを持ってるんだろうがよ」


 ぐっと手の力を込め額を掴むと、彼は葵の顔を上向かせる。


「くれてやろうか。お前の望む力を」


 力なく垂れ下がっている腕がぴくりと動き、微かに口が震える。虚ろだった葵の視線が揺れ動き、文彦を捉えた。

 に、と嫌らしい笑みを浮かべて、文彦は続ける。


「求めろ。求めてすがって欲しがれよ。

 あんたの望む力とやらを、その身に埋め込んでやるよ。

 願ってもないことだろう、お前が欲して止まなかったことじゃないか。兄貴よりも、春よりも上回る力を、あんたにくれてやろうじゃないか。

 


「……何を、させる気だ」

「おっと。問題なのは、選択するか否かだ。オレは別にどっちだって構わない。

 ただ、あんたが畠中春の穴を埋めてくれるというのなら――オレは、それでも構わないがね。てめぇがそれに見合うだけの力を得るってんならな」

「俺があんたに組すりゃ、春さんは」

「あぁ。オレは駒さえ居ればいい。俺の手駒の穴を埋めてくれるって言うなら、あんたで妥協してやろうとも。

 覚醒する目すら持たない空人カラビトの分際で、どこまで足掻あがけるかやってみせろよ」


 葵は唇を噛みしめ、血と砂とがこびりついた拳を握りしめた。


「……やってやろうじゃねぇか」


 身体は動かせないまま、だが鋭い眼光で宣言する。


「春さんに手ぇ出すくらいだったら、どうとでも俺の力を使いやがれ!」

「……そう来なくてはね? 染沢葵」


 にやりと文彦は笑みを浮かべ、帽子を深々と被り直した。


「さあ」


 真顔で立ち上がった文彦の背後に、黒い影が立ち上る。

 その影はまるで鎌首かまくびをもたげるかのように上空へ高く伸びてから、葵に向けて勢いよく襲いかかった。




「……開宴だ」






(早→遅)

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