早々アラルガンド(3)

 大通りから細い路地へ入り、暗くなった道を二人は並んで歩く。

 昼間はまだむせ返るような暑さだったが、夜になればぐんと気温は下がった。もう半袖では少し肌寒い。

 住宅街の人気のない裏路地を歩きながら、春はふと思い出して、隣の葵に話しかける。


「この辺、見覚えがない?」

「……すげぇあります」


 そこは、花火大会の日に葵と裕希が、春たち四人組を待ち構えていた場所だった。

 視線の先には、相変わらず灯りの消えかけた街灯がちらちらと瞬いている。確か彼らは、その下で春たちを待っていたのだった。

 数日間に及ぶ理術を巡った廉治たちとの攻防は、思えばこの時が始まりだった。


 当時は敵として戦っていたグレンこと葵が、今は助けを求めた友人として隣にいるかと思うと、不思議な感慨がある。

 よくよく考えれば、彼と出会ってからまだ一か月程度しか経っていないのだ。葵のみならず、京也といい裕希といい、あの時とはまるで立場ががらりと変わっている。


「そういえば、一つお聞きしたいんだけど」

「何ですか?」

「どうして狐面なんか被ってたの」

「……あぁ……」


 羞恥からか苦悶の声を上げながら、葵は自転車のハンドルを握りしめて声高に主張する。


「俺は嫌だったんだけどな!?」

「うん、そんな気はしてた」

「けど、なんか浴衣とか花火とか雰囲気にマッチするのは狐面だとユウに上手いこと言いくるめられてしまったというか……」


 数週間越しに改めて弁解しつつも、みるみる恥ずかしそうな表情になっていく葵である。思わず春は顔を緩めた。


「意外と葵くん、流されやすい?」

「しょーもない事柄については、そうかもしれない……真顔で言われると、どうもな……」


 強力なボケに対しツッコミ役が一人だけでは心もとないという事らしい。似たような立場にいる身として、春にもその気持ちは分かった。

 気を取り直して、今度は反対に葵が尋ねる。


「そうだ。因みに、あのお面は誰の趣味だと思う?」

「臨くんじゃないの?」

「いや。実は宮代だ」

「はあっ!?」


 春は目をむいて葵を凝視する。


「何それ。だって、宮代くんは夏の件、関与してないんじゃなかったの?」

「してねぇよ。それとは別立てで準備してた奴なんだ。いずれ宮代の計画が動き出すときには、顔が割れねぇようあれを被るつもりだったらしい。

 そいつが倉庫にあったから、ユウが喜び勇んで拝借してきたって訳」

「なるほどねぇ……」


 何かに思い至ったような表情を浮かべ、春はおもむろに頷いてみせる。


「あのさ。あの時、あっきーは男子が苦手なのもあって、相当怯えてたように見えたでしょ」

「あぁ。ユウとだってろくに会話してなかったみたいだな」

「うん。勿論、怯えてはいたんだけどさ。

 実は浴衣に狐面の葵くんたちが登場したこと自体については、あの子、超喜んでたの」

「はあぁ!?」


 今度は葵が目を見開く番だった。


「何それ。どういうことだよ」

「あのね。結論から言っちゃうと……浴衣に狐面とか、あれは思いっきりあっきーの趣味なのよ」


 ため息交じりに春は続ける。


「こないだの誕生日には偶然、臨くんのお寺に行ってたけど、あっきーは和風とか着物とか神社とか大好きでね。ビーに狙われた時に買いに行ってた本も、まさに狐面に浴衣の男性が出て来るし」

「何そのピンポイントさ」

「まったく、ホントだよ」


 空を仰ぎながら、春はまたため息を吐き出しながらぼやく。


「宮代くんは、とことん、あっきーを喜ばせるためにやってんだね。ビビるわ」

「……だからなのか。宮代にしちゃ、おかしいとは思ったんだ」


 そこまで言って、二人は黙った。

 杏季と竜太の関係については、他人が傍目に見ただけでは計り知れないものがあるのだろう。八月の終わりに話を聞いただけの葵にも、それは分かった。

 黙り込んだ二人の間には、静かな虫のさざめきだけが響く。


 と、その時。



「見ぃつけたぁ」



 暗がりの中から、甲高い女の声が聞こえた。

 ぞわりと背筋に冷たいものを覚え、春と葵はばっと後ろを振り向く。 


「やっと会えたわ。アタシの可愛いモルモットちゃん」


 そこには、白衣を着た女が一人、立っていた。


 年齢は三十前後だろうか。赤い唇が印象的なメイクを施し、腰まであろうかというぼさぼさの長い髪が夜風に不気味に揺れている。すらりと長い長身に病的に細い体躯が一層それを助長していた。

 女はくるぶし近くまであるぶかぶかの白衣に両手を突っ込み、愉しそうな笑みを浮かべて春と葵を見つめている。


「……誰だ、お前」


 葵は一歩、前へ進み出ると、低い声で尋ねた。

 夜の闇の中でもそれと分かる赤い唇に人差し指を付けながら、彼女は名乗りを上げる。


苑條えんじょう紀美香きみか。知らない?」

「知るわけねぇだろ」

「あらぁつれない。伝えておいてくれなかったのねぇ」


 彼女は不服そうに口を尖らせながらも、表情は嬉しげなままで両手を頬に当てた。


「それにしても今日はいい日だわぁ。くーちゃんと遊べたし、いーちゃんは従順だし。なんて可愛いモルモット達なのかしら」


 目の前の女、苑條紀美香の『モルモット』という単語に引っかかり、春は怪訝に尋ねる。


「もしかして影路の関係者?」

「あらぁ。影路を知ってるってことは、そこの子もそれなりの関係者なのね」


 苑條は意外そうな面持ちで春に目を向けた。

 興味深げに春を見つめようとするが、葵は苑條の視線から春を隠すように左手を広げる。


「……てめぇが『影路』か。どういう輩か大体分かったぜ」

 

 葵は目一杯に苑條を睨みつけた。

 しかし意に介さず、苑條は愉しそうに声を上げる。



「勇ましいわねぇ。そういうとこ、

「な」



 葵は愕然として苑條を見返す。


「兄貴の事、知ってるのか!?」

「知ってるに決まってるじゃなぁい」


 苑條は腰に手を当てて、言い聞かせるかのように人差し指を立てた。


「あなたのお兄さん、幸政ちゃんと私は、元同僚だったんだもの。

 そして幸政ちゃんが盗み出した試薬、S-5513は、アタシの作った芸術作品なのよ」


 春は葵の背後で息を飲む。

 行方不明になった葵の兄、染沢そめざわ幸政ゆきまさは、理術第5研究所から共鳴に関する試薬を盗み出している。

 幸政の意図は不明だったが、件の薬を作ったのが苑條紀美香。そして後に、共鳴の研究は頓挫とんざしてしまったと聞く。


 思わず、春は葵の腕を掴んだ。

 葵は春を庇うように立っているが、苑條が狙っているのは春ではない。

 文脈からしたら、それはおそらく。


「まさか、弟クンが飲んでたなんてねぇ。

 てっきり、幸政ちゃんが飲んだものだとばっかし思ってたのにぃ」


 苑條はすっと長い指を前に出し、葵を指差した。


「数年前に飲み干した、アタシの芸術作品。

 それを飲んだ、あなたも同じことよ、葵ちゃん? 嬉しいじゃないの、数年越しに愛しいキミカのモルモットに会えたんだもの」


 酔い痴れたように喋り続ける苑條紀美香は、笑いながら白衣のポケットから手を出す。



「アタシのモノに、なってもらうわよ」



 苑條は不敵な笑みを浮かべて、両手を広げた。


 二人の立つ場所のすぐ真横から植物の蔓が伸びた。葵には構わず、蔓は春だけを狙って襲い掛かる。咄嗟のことで避けることが出来ず、春は苑條の伸ばした蔓に捕まった。

 そのまま、春は電柱に縛り付けられるような形で拘束される。


「春さん!」

「とりあえず、邪魔者は大人しくしててもらうわよぅ」


 けほっと咳き込んでから、春は気を取り直して早口に葵へ告げる。


「私は大丈夫、草なら一人でどうにかできるから。だから、こっちは気にしないで!」


 草属性とは、他ならぬ葵との戦いで勝手を経験済みだ。草を雷で攻略したことは何度かあったし、今の春なら難しいことではない。当時と違って、春は開眼しているのだ。この程度であれば、すぐにでも脱出することができるだろう。

 しかし苑條は愉悦を込めた笑みで首を傾げてみせた。


「アハ……でも、を女子高生が引きちぎれるかしら?」

「えっ……」


 苑條の台詞で、春は異変に気付く。

 春に絡みついた植物は、硬化していた。

 握った感触が、春の知っている植物のそれと違う。ひどく冷たく異様に固い。鈍色に輝く表面に爪が当たり、かちりと音が鳴った。


「どういうことなの……」

「うふふふ、ごめんなさいねぇ。アタシが葵ちゃんを連れて行ってここから居なくなれば、そのうち剥がれると思うわぁ」


 植物が役割を果たしたのを見届けて春に興味を失ったのか、苑條は葵に向き直る。


「さぁて葵ちゃん? お姉さんと一緒に行きましょうか」

「誰が!」


 葵は自転車を塀に立てかけ、竹刀袋を手にする。するりと竹刀を取り出すと、構えて切っ先を苑條に向けた。


「春さんを離せよ」

「威勢がいいわねぇ。そういう子の方が、さらい甲斐があって好きよぅ。その後にうってかわって従順になるとこまで含めてね。

 でも、そういうことなら、そうね」


 苑條は胸の前で両手と両手を向い合せる。

 途端、手の平の間からは深緑色の霧が生まれた。


「そしたらアタシも、同じ武器で相手してあげるわぁ」

「は……!?」


 驚愕して葵は口を開く。

 苑條の手の中には、先ほどまではどこにも存在しなかったはずの『刀』が握られていた。


 同様の術はこれまでにも何度か見たことがあった。京也や琴美もやっていた『術具の具現化』である。

 覚醒した者か、ないしは鋼属性なら開眼すればそれが可能となる。


 先ほど苑條が蔓を生やしていたところから見れば、彼女は草属性。

 それはつまり、苑條が覚醒した人間だという事を意味する。


 葵は舌打ちする。彼は開眼すらしていないのた。

 普通に考えれば、勝てるはずがない。


「さぁあ、行くわよぅ」


 苑條が乱雑に踏み込み、刀を振り下ろす。

 葵は半身、身を翻し、難なくそれをかわした。苑條の攻撃は素人も甚だしいところで、隙も多く振りは甘い。竹刀と竹刀であれば葵が苦もなく勝つだろう。

 しかし対する苑條は、理術で作りだした武器とはいえ刀だ。一度、それを竹刀で受けただけでも葵の武器はいとも簡単に壊れてしまう。触れただけで軽傷では済まされない。


「ど、こが同じ武器だ!」

「あらぁ。ごめんなさいね?」


 今は隙を窺うしかないと、闇雲にくってかかる苑條の攻撃を葵は避け続けた。

 理術で対抗するという選択肢はない。今は補助装置もないのだ。どうしたものかと彼は必死に思考を巡らす。

 だが機敏な葵の身のこなしに苛立ったのか、苑條は不意に足を止めた。


「やっぱり慣れないから辞めるわぁ。アタシ、体を動かすのは向いてないのよねぇ」


 言うと、苑條は簡単に手にしていた刀を背後に放った。闇の中に、刀がすっと消え失せる。


「じゃあ、次は何をして遊ぼうかしら、葵ちゃん?」

「……てめぇ」


 葵は口を引きつらせた。


 苑條は、楽しんでいるだけなのだ。

 彼がどうすることもできないのを分かった上で、じわじわといたぶるように攻める。その上で、葵に手を下すのは最後の最後。


 だからこそ、苑條は笑みを浮かべる。

 影路の使命が先立っているのでは、きっとない。

 彼女の娯楽なのだ。


「葵くん!」


 離れた場所で蔓をほどこうと奮闘していた春だが、見かねて春は苑條に向け電撃を放った。両手が拘束されていたため手は使えない状況だったが、雷が出せないわけではない。しかしいつもと勝手が違うからか、彼女の放った雷はいとも簡単にかわされてしまう。


「邪魔よぅ、そこの子」


 苑條は不快そうに顔をしかめて、春に向けて右手を広げる。

 と、途端に小石のつぶてがバラバラと春の顔面を襲った。腕を動かせない春は防ぐすべなく、もろに顔へ苑條の攻撃を受けてしまう。


「てめぇ……」


 怒りを覚えながらも混乱して、葵は竹刀を構えながら一歩、にじり寄る。


「お前……何属性なんだよ」

「そんなこと。些細なものじゃぁない?

 知りたければ教えてあげるわよぅ。葵ちゃんが素直に来てくれるなら、手取り足取り、ね。そうすればこの子だってすぐに解放するわぁ」


 苑條はすました顔で頬に手を当ててみせた。

 顔をしかめて葵は黙り込む。苑條の元に下るのは御免だが、このままでは勝ち目がないのは分かっていた。本当のことを言っているかどうかは怪しいが、苑條が言う事を守るのなら春だけは助かる。元から彼女の狙いは葵だけなのだ。



 と。

 一拍置いて、口を引きつらせた春は。

 腹の底からの苛立ちを全力で込めて、息を吐き出した。



「だあああああああああああああ!」



 息を吐き出し終え、彼女は拘束された蔓の中で拳を強く握りながら、凛とした声で一つ、唱える。



「“フォルティッシモ!”」



 葵の背後で、背を向けていてもそれと分かる閃光がほとばしった。

 慌てて振り向くが、眩しくて様子は確認できない。思わず目を閉じ、しばらくして目が開けられるようになったころには、蔓を振りほどいて自由になった春が立っていた。


「いー加減にしてくんないかな、そこの変質者さん?」


 彼女は左の掌に右の拳を打ち付ける。


「ちょっとばかし、冗談が過ぎるんじゃないの。ええ、変態は私のお家芸ですけれどもね? けど。科学者紛いの変質者に易々といたぶられる趣味はないのよ。

 そんで目の前で友達が変質者の餌食になろうとしてんのを、黙って見てるのもね!」


 春の背後からは、ばちばちと雷が立ち上っている。抑えてはいるが、彼女の内心で怒りが猛っているのが見て分かった。

 ようやく苑條の顔から笑みが消えた。だがそれでも苑條は怯むことなく、真顔でもって春をじっと見つめる。


「あなた、開眼してるのね?」

「だったら、どうしたってのよ!」


 微かに口元に笑みを浮かべ、苑條は白衣のポケットに手を入れる。


「しょうがないわねぇ。この場は引いてあげるわ」


 苑條はくるりと反転し背を向けた。

 その後で顔だけ振り返り、愉しげに微笑む。


「また会いましょ。お二人さん?」


 言うなり、苑條はポケットから手のひら大の球体を取り出し、地面に叩きつける。

 途端、辺り一体を深緑色の煙が取り巻いた。

 煙に襲われ、春と葵は反射的に顔を覆う。

 やがて煙が引いたころには、既にそこには誰の姿もなかった。


「あんの女ぁああああああああああ!!!」


 怒りの行き場を失った春が拳を握りながら声を上げる。わなわなと手を震わせながら苑條のいた方角を睨みつけるが、そこには静かな住宅街が広がるばかりである。

 春を横目に葵は無言で立ち尽くしていたが、しばらくして我に返り、静かに竹刀を袋にしまい込む。ぜいぜいと荒げていた息を落ち着けてから、春もようやく気を取り直して葵を振り向いた。


「葵くん、大丈夫だった?」

「……大丈夫です。俺より、春さんの方が」

「私は大丈夫。ちょっと顔に石ぶつけられたけど、特に怪我もないしね。へーきへーき」


 春は屈託なく笑う。しかし葵は苦悶の面持ちで黙り込んだ。

 ようやく、油断なく辺りを見回す。


「とりあえず、早くこの場から離れよっか。気まぐれに戻ってくるかも分からないし、そうじゃなくてもあの女の所為で大分時間を」


 言いながらふと春は時計を覗き込み。


「うえええええええええええええっ!?」


 一声叫んで、そのまま動きを止めた。

 何事かと思わず自分まで静止した葵は、恐る恐る春へ尋ねる。


「ど、どうしたんですか」

「寮の門限……過ぎてる……」

「えっ」


 葵は腕時計を確認する。暗闇の中で目を凝らしてみれば、時計の文字盤は七時五分を指していた。


「まだ七時まわったとこですけど」

「うちの寮、門限は19時なの……申請しとけば延長は出来るけど、今日のはイレギュラーだったから、勿論何も申請してない……」


 春は頭を抱え、さっきまでの威勢が嘘のように弱々しい声色でしょげ返った。葵はばつの悪そうな表情で謝罪する。


「すみません。俺のとこは門限20時なんで、そこまで気が回らなくて……」

「葵くんは何も悪くないよ……すべてはあの性悪白衣女のせいだああああああ!」


 悲痛な春の叫びが、控えめな音量で響き渡った。






+++++



 暗がりの中、1人分の影が揺らめく。


「へぇ……成る程ねぇ」


 全身を黒で固めたその服装は、夜の暗がりに上手いこと溶け込んで周囲と調和する。よくよく注意して見なければ、そこに人がいるとは気付かないだろう。


「しかし。ちょっとばかり、深月みつきのアテが外れたね」


 雲に隠れていた月が、うっすらと姿を現す。

 気まぐれに差し込んだ月光は一瞬だけ、人の顔を映し出した。黒髪の下、眼鏡の中から覗く鋭い目が、すっと細められる。


「ま。あいつの言葉を借りるなら……この程度であれば、誤差の範囲内かな」


 そう言い残し。

 影は、音もなく姿を消した。

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