5章 例によって騒々しい日々

戦慄インテルメッツォ(1)

――2005年8月29日。




 夏休み明け初日のラストを告げるチャイムが鳴る。

 その合図と共に、舞橋まいばし女子高校の生徒たちは一斉に脱力した。安堵、悔恨、開放感、はたまた熟睡していた生徒の寝起きの呻き。それらの雑多な感情が入り混じった、声ともため息ともつかぬざわめきの中で、テストの答案が回収される。


 清々しい新学期1日目は、英数国の実力テストから始まった。いくら休み明けだろうと、受験を控えた高校3年生に先生たちは容赦してくれない。もっとも進学校である舞女まいじょでは、1年だろうと2年だろうと夏休み明けは早々に試験攻めにされるのが慣例であった。

 終業時刻はいつもよりが早いが、夏休み明けの本調子でない身体には堪える。それに夏休みが終わったといえど暦はまだ8月、暑さもまだまだ容赦ない。試験と相まって、心身ともに疲労を覚えるのには十分だった。



 ホームルームの終了後、他の生徒と同様に脱力し、畠中はたなかあずまは背もたれにぐったりと寄りかかっていた。さきほどの試験結果を憂いているというよりは、ただただ疲れた、という形容が正しい。

 そしてまだ結果の分からぬそれよりも、彼女には目下、重りのように伸し掛かる憂鬱があった。


 姿勢を崩したまま、春は本日、返却されたばかりの模試の結果をちらりと眺め、渋面を浮かべる。

 夏休み前に実施した模試の結果は、志望校の合否判定まで含めて表示されている。AからEまでランク付けされた合否判定をじっと眺めたが、何度見返そうとそこに表示されている文字は変わらない。

 つまり、結果は芳しくなかった。


 僅かに視線を上にずらし、次は各科目の成績に目を向ける。『英語』と書かれた部分だけ目を滑らせながら、しかしやはり看過できずに怖いもの見たさで何度も眺めた。

 他の科目は、さほど悪いわけではない。

 明らかに、問題は英語なのだ。


「英語が日本語になればいいのに……!」

「それ意味なくない!?」


 思わず漏らした春の呻きに、ちょうど側までやってきた月谷つきやじゅんが反応した。


「英語の試験が日本語だったらいくらなんでも簡単すぎるよ! ていうかそれ科目が違うよ!」

「うるさい成績優秀者、ひっこめこのやろう」

「はったんがつれない……!」


 投げやりに答える春を労わるように、潤は彼女の頭をぽんぽんと叩いた。されるがままになりながら、ふてくされて春は問いかける。


「つっきーはどうだったのさ」

「やー、まだまだかな。今のままだと、正直ちょっと不安だわ」


 潤はぴらぴらと成績表を振りながら苦笑いを浮かべた。 

 ちらりと見えた潤の五角形の得点グラフは、春が手にしているものよりバランスが良く、かつ大きい。それでも志望学部が医学部である潤は、どれもA判定には届いていなかった。


「やっぱきっついねー。このままじゃ、現役だと厳しいかな」

「そんなに成績良いのに、どれだけ得点したらA判だすつもりなんだろ」

「やや、まだ全然だよ。数学も今回はあんまりだったし」

「つっきーのあんまりが私にとっては神レベルな訳ですが」


 春は模試の成績表と一緒に配布された冊子をめくる。そこには平均点や結果の講評と併せて全国の成績優秀者の名前が掲載されており、数学の上位ランキングにはたまに潤の名前が載っていることがあるのだ。

 数学の欄を開いてチェックし始めた春に、潤はばつが悪そうに告げる。


「今回はさすがに載ってないと思うよ」

「でも見ないと気になるんだよねー。知り合いが載ってるとなんか嬉しいじゃん。

 しっかし一回でも載ることがすごいって。私なんて載るどころか……って」


 喋りながら文字を追っていた春の目線が、ふと一か所で止まった。


「……ん?」

「どした?」


 潤が春の肩越しに冊子を覗き込む。春は瞬きして、書いてある名前を二度見した。


「え、えええええええ!?」


 叫び声を漏らしながら、春は潤にとある名前を指し示す。


「なああああああああ!?」


 同様に叫び声を挙げて、潤は冊子を春からむしりとった。

 そこに書かれていたのは、紛れもなく。






「なーっちゃあああああん! 聞いて聞いて聞いて!」

「煩い。騒がしい。近所迷惑」


 模試の冊子を振りかざしながら奈由のいる3年8組に突撃した潤は、顔も見ないうちに草間そうま奈由なゆにぴしゃりと切り捨てられた。


「辛辣!!!」

「はいはい」


 奈由は動じず、黙々と帰り支度を続けている。

 後から追いついた春は、教科書やノートを手早く鞄に詰める奈由を見て何気なく尋ねる。


「あれ、今日は撤収が早いね?」

「うん。ちょっとね。というか二人もだよ。あっきーからのメール見てない?」


 そこでようやく奈由は顔をあげた。


「これから公園に来てくれって。私は先にあっきーと行ってるから」

「公園?」


 潤は首を傾げた。

 奈由は立ち上がり鞄を肩にかけると、今まで座っていた椅子を机に収める。


「あっきーの友達が、夏休み中にイギリスに留学してたらしいんだけど。あっきーだけじゃなく、私たちにもわざわざお土産を買ってきてくれたんだって。公園まで来て渡してくれるみたいだから、待たせちゃ悪いでしょ」

「友達って、よく手紙とか電話してた『りょーちゃん』?」


 春は思い当たる名前を口にした。奈由は頷きつつ、教室の出口へ向う。


「そうみたい。だから、二人とも早くね。こーちゃんとあっきーは、既に玄関にいるみたいだし」

「マジか! うおおおお了解!」


 びしりと敬礼のように右手を額につけて、潤は回れ右する。


「うっし急ぐぞはったん! あいつのことはとりあえず後回しだ!」

「切り替え早ぇなオイ」


 既に教室を飛び出した潤を追い、春も急ぎ足で奈由のクラスを後にする。

 廊下をダッシュしていた潤が、不幸にも偶然通りかかった教師に首根っこをつかまれる現場を目撃するのは、その数秒後のことである。






「一瞬、首が締まった……」

「運も悪かったけど、あんだけのスピードで廊下を走るつっきーが悪い」


 無事に教師に解放された後、潤と春は公園への道のりを歩いていた。

 舞橋女子高校から件の公園までは、歩いて3分もない距離である。先日、夏休み中に何度か戦うこととなったあの公園だ。

 しかし因縁の場所である前に、その公園は四人組がよく集う場所でもあった。四人の暮らす寮もすぐ側にあるが、寮生でない友人と帰り際に話し込む時や、コンビニ等に行く前後の憩いの場としてしばしば使われているのだ。


 舞女の前の歩き慣れた道を行くと、狭い道のささやかな横断歩道を渡った先に、いつもの公園が見える。横断歩道を渡り彼女たちが公園の入り口を目指して歩みを進めていると、前方から自転車でこちらへ向かってくる二つの人影があった。


「あれ? 葵くんたち?」


 春が呟いた。見れば、自転車に乗っているのは、染沢そめざわあおい臨心寺りんしんじ裕希ゆうきの二人である。どうやら彼らの目的地も同じようで、減速し公園の入り口で止まろうとするところであった。

 潤も気付き彼らの姿を認めると、「あいつ!」と一声あげて勢いよく駆け出す。公園の入り口でちょうど鉢合わせる形となり、潤は裕希に詰め寄った。


「おーまーえー!」

「どうしたんだよ出会い頭に」


 裕希が自転車から下り、スタンドを立てながら怪訝に言った。

 潤は鞄の中から素早く模試の冊子を取り出すと、該当のページを開き彼に突きつける。


「何なんだよどういうことなんだよこの成績!!!」

「……へ?」


 しかし顔面に付くほどの近距離で押しつけられたため、裕希は何が何だか分かっていないようだ。

 先に公園へ来ていた奈由たちが、何事かと寄ってくる。奈由と杏季、琴美の他に、何故か京也もいたが、潤は気に留めない。裕希から冊子をひきはがすと、潤は無言でそれを広げてみせた。

 開かれているのは数学の成績上位者が掲載されたページである。該当の箇所へは丁寧にラインマーカーが引かれていた。

 そこに書かれていたのは、彼女らのよく知った名。


『2位:臨心寺裕希(県立舞橋高校)』


 の文字だった。


「ふわあああっ!?」

「えええ……っ!?」


 彼女たちから驚きの声が漏れる。信じ難いものを見るように、冊子の名前と目の前の本人とを順番に見比べた。

 いち早く驚きから立ち直った佐竹さたけ琴美ことみが、鋭い眼差しで潤に訴える。


「釈然としません、なんでこのふにゃぺら軟弱男が掲載されているんですか。何かの重大な誤植だと思われるので今すぐ事務局に問い合わせた方がいいですよ」

「寸分たりとも信じていない!? いや流石にこの誤植はないと思うよこっちゃん!」


 かく言う潤とて、あの暢気な裕希がこの成績、ということで驚愕を隠しきれずにいたのだが、珍しい苗字と学校とが一致していることから、別人とは考えにくかったのだ。

 当の裕希は頭の後ろで腕を組み、他人事のように言う。


「だって取れちゃったんだからしょうがないじゃん」

「お前、常連だろ」


 葵が口を挟む。裕希を親指で指し示しながら、葵が解説した。


「いやうん、信じられないと思うけど、こいつ化け物級に数学できるんだよ……」

「どういう意味だよアオ。つーかお前らも、揃いも揃って失礼じゃね?」


 軽い口調で抗議し、裕希は口を尖らせた。


「や、確かに悪かったとは思うけど。

 けどいくらなんでも驚くわ! だって全国二位だよ! 全国……」


 腕を組み嘆息しながら、春は再度、まじまじと冊子を眺めた。裕希はみんなの肩越しに一瞥し、何てことない風に言う。


「数学だけじゃん。国語とか英語は載ったことないし」

「……その口ぶりだと、理科と社会ならあるんだな?」


 雨森あめもり京也きょうやは恐る恐る尋ねた。


「まあ、理社なら。けど回数は少ないよ」

「載ることがすげぇわボケ」


 あっさりと答えた裕希に、思わず言葉が乱れる京也である。


「なるほど。月谷と同じく、天才と馬鹿は紙一重って事だな」

「おいこらどう言うことだ長髪ナルシスト」

「そのままの意味だ考えなしの猪突猛進野郎め」

「お前、まだあの時のこと根に持ってんのかよぉ!」

「持ってるさ。海よりも深くな」


 いつものように京也と応酬を繰り広げながらも、しばらく潤は驚き冷めやまぬ表情を浮かべていた。

 しかしやがて、何かを思いついたように目を輝かせ、ぐっと右の拳を握る。


「手を組もう!」

「へ?」


 きょとんとして裕希が間の抜けた声を出す。


「だーかーら、手を組もうぜ! お互いのさ、得意科目を教え合って、苦手を補うんだよ! 英語だったら私、得意だし。

 というわけで勉強会しよう! 折角だし、うちらと男子ズ合わせてさ。どうせこれから勉強漬けになるんだ。折角だし息抜きがてら勉強会する方が、楽しいじゃんか!」

「勉強会なのに息抜きってのが、矛盾してるけど」

「いんだよ、どっちも合ってるんだから」


 にっと笑って潤は言い切った。


「つっきーはそれでいいかもしんないけど、私は人様に教えるようなレベルまで到達してる科目がありません……」


 おずおずと春が挙手した。しかし潤は勢い良くかぶりを振る。


「別に人に教えなきゃダメってのじゃない。聞く側だって分からない部分を整理して聞くこと自体が一人でやるより頭に入りやすいと思う。それに皆で集まって勉強し合うだけでもモチベーション上がると思うんだ。

 とはいっても回数多いのは負担だろうし、根本的な勉強は一人じゃないと進まないから、月に2、3回とかそんなんでいいと思うんだけど」

「面白そうだな」


 京也は潤の意見に賛同した。


「お前にしては珍しくいいことを言う」

「お前にしては珍しくいい選択眼だな」


 腕を組み、潤と京也はお互いに不敵な笑みを浮かべる。


「やるなら僕の家だろう、どうせ。図書館だと話せないしな。構わないよ、狭い部屋だけどそれでよければ」

「さすがコンブ、話が早い!」

「誰が昆布だどうして昆布だ」


 潤のフィーリングにより謎の呼称で呼ばれた京也は、彼女の口をぐにゃりと引っ張る。案の定、二人の一体感は長く続かなかった。

 京也との攻防が一段落した後、ふと思い出したように潤が尋ねる。


「……ところでお前ら、なんでここにいるんだ?」

「それはこっちの台詞だよ。どうしてみんな雁首がんくび揃えて大集合してるんだ。わざわざ舞女の近くだから妙だと思ったけど、もしかして女性陣も呼ばれたのか」

「呼ばれた?」


 潤は京也の言葉に首を捻る。


「うちらは、単にあっきーのおこぼれというかおまけで来たんだけど。けど、そっちはどういう」

「……あ!」


 話の途中で、白原しろはら杏季あきが弾んだ声をあげた。

 彼女は公園の外へぱっと駆け出すと、今し方、道の端に自転車を停めた人物に向けて大きく手を振る。


「りょーちゃん!」


 顔を上げ、成り行きを見守っていたメンバーは、誰しもが目を疑った。


 公園に現れたのは、涼やかな白いシャツにスラックスの男子高校生。

 残暑厳しいこの時期にきちんとチェックのネクタイを締めた服装と、程よい長さで整えられた清潔感のある髪型とは、優等生という単語を否応なしに彷彿ほうふつとさせる。しかし整った顔立ちに浮かべた爽やかな笑顔には、型に収まるだけの優等生に留まらない溌剌はつらつとした活力を感じさせた。

 総合して、彼は男女問わず、大人からも同世代からも、幅広く好感を寄せるだろう雰囲気を漂わせていた。


 が、問題はそこではない。


「……ちょ」


 目の前の光景に思わず狼狽し、潤はわなわなと震える。



「ええええええええええ!?」



 当事者二人と琴美を除いた全員が、誰にともなく当惑の声をあげた。

 そこにあったのは、杏季の天敵であるはずの男子に彼女が自ら駆け寄り、満面の笑みで飛びついた姿だった。

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