臨心寺裕希の事情

――2005年8月25日。




 抜けるような青空に響く、大音量の蝉の鳴き声。

 夏休みもあと残り僅かだが、相変わらず彼らの鳴き声はそこここできんきんと鳴り響いていた。


 そんな蝉時雨の降る最中、けれども人通りがないためしんと空虚な気配の漂う昼下がり。白原しろはら杏季あきは、一人で寮の近所にあるお寺に来ていた。


 今日は皆それぞれ用事があるようで外出しており、杏季は一人だった。勉強に気のりせず、しかしただ室内に籠っているのは勿体無く感じられた彼女は、こうして馴染みの場所に足を運び、暇を持て余していたのだった。杏季はお寺や神社が好きで、ふと思い立った時に近所のお寺や神社にふらっと遊びに来ることがままあるのだ。

 木陰になったベンチに寄り掛かって、杏季はぼうっと青空を見上げる。爽やかな青色とは裏腹に、あまりの暑さに辟易へきえきして、杏季は少しばかり目を細めた。


 と、不意に彼女の顔に木陰以外の影が差して、目を見開いた。

 瞬きして焦点を合わせれば、幾らも離れていない位置から彼女を覗き込む顔がある。


「……何やってんの?」

「んにゃっ!?」


 驚いて杏季は引っくり返りそうになるが、なんとか留まった。手足をばたつかせながら慌てて上半身を起こすと、勢いよく後ろに立っていた人物を振り返る。


「り、り、り、りり臨心寺くん!?」

「そんなに『り』は付いてないけど、その通り臨心寺くんですよ」


 すました表情で佇んでいたのは、Tシャツにジーパンというラフな私服姿に身を包んだ臨心寺りんしんじ裕希ゆうきであった。杏季は動揺冷めやまぬまま尋ねる。


「な、な、……な、なんでこんな、とこに」


 裕希は舞橋まいばし高校の寮に入っている。しかし舞橋高校はこの界隈、舞橋女子高校のある場所からはそれなりに離れていた。自転車なら30分以上は悠にかかるだろうか。

 舞橋女子高校の近辺は住宅街だ。わざわざこの寺へやってくる理由は、咄嗟に見当たらない。

 そんな疑問を内包した杏季の台詞に、非常に簡潔な言葉でもって裕希は答えた。


「ここ、俺ん家」

「……へっ!?」


 裏返った叫び声を挙げて、杏季はきょろきょろと当たりを見回す。裕希は左手を差し上げ、門構えを指し示した。


「『臨心寺』って、ここの寺の名前だけど。気付かなかった?」


 示された先を見れば、慎ましく掲げられた扁額へんがくには紛うことなく『臨心寺』の文字が刻まれていた。呆気にとられて口を開けたまま数秒固まった後、杏季は遅れて驚きの声をあげる。


「すごーい! お寺がお家なの!? 近すぎて、名前とか気にしてなかった。……あれ、寮に入ってるって、話じゃ?」

「ここは、じーちゃん家。夏休みだからたまに帰ってるんだけど、基本はお前らと同じように寮だよ」

「そっかぁ。ここ、臨心寺くんのお家だったんだー」


 前よりも親近感がわき、杏季は顔をほころばせる。手を膝にのせ、感心したように彼女は改めて境内を眺めた。

 一方、裕希は少々、不貞腐ふてくされたようすで尋ねる。


「あのさぁ。何度も言ってるんだけど。

 お前、頑なに俺のことご丁寧に苗字で呼ぶよな。他人行儀でやなんだけど、まだ慣れない?」

「ご、ごめん。……えと、その」


 我に返り、慌てて杏季はぶんぶんと両手を振った。


「身近に同じ『リン』って呼ぶ人がいるからなぁ、と思って。

 ……なんか、かぶっちゃってややこしいから、もしいやじゃなかったら、えっと、……別の呼び名でもいい?」

「そりゃ、別に何でもいいよ」


 理由を聞いて納得がいったのか、すぐに気を取り直したようすで裕希は気楽に言った。ほっとして杏季は胸を撫で下ろす。


「何がいいかな?」

「堅苦しーのじゃなきゃ何でも」

「……えと」


 何でもと言われると逆に困る。どうしたものかと考え込んで杏季が腕を組んだ、その時である。


 二人の視界に、一匹の犬が飛び込んできた。まだ二人のいる場所からは数十メートル離れたところにいたが、毛を逆立て牙をむいているのがその位置からでも分かる。

 毛の色が茶色でなければ狼のようにも見える大型の犬は、前方にいる二人を威嚇するように喉を鳴らし、低く唸り声をあげていた。


「迷い犬?」

「か……かな?」


 言いながら、杏季はぱっと立ち上がり一歩後ずさる。隣の裕希もそれにならって、じり、と後退した。


「随分凶暴そうですけど」

「でででですね」

「属性的に、犬とかもなだめられたりしないんですか、杏季さん」

「えと、それ、無理。基本、好きだから、いいけど。いい子は、ともかく、怖い子は、……なかなか」

「なるほど」


 片言で杏季は返答する。何もそれは杏季が男子、もとい裕希にまだ不慣れだからだという理由ばかりではない。


「ちょっと行けば、じいちゃん家あるから。とりあえず、避難するか」

「りょーかい、です」


 前方の犬を見据えながら、二人は犬を刺激しないようじりじりと後ろに下がる。

 が、その努力もむなしく、犬は弾かれたように盛大に吠えると、それを合図にばっと二人に向けて走り出した。


「…………!」


 二人は回れ右をして、全速力で逃げ出す。


「なんでこっちくんだよっ!」


 距離は取ってあったものの、犬の足は速い。背筋にはひやりと冷たいものが走った。

 だが、そこまで広くない境内である。裕希より少し遅れて走る杏季だが、走ればぎりぎり杏季も室内へ逃げ込める、はずだった。


「ひあっ!」


 彼女の叫び声に立ち止まって振り向けば、お約束のようにつまずいて転んだ杏季の姿が目に入る。逃げ込む予定の建物は目前であったが、犬もまたすぐそこまで迫っていた。


「にゃろっ!」


 裕希は地を蹴り取って返すと、犬と杏季との間に転がり込み、左手で自分の右腕を掴んで、ほとんど反射的に理術を放った。






 妙に、静まり返った境内。

 先ほどまで獰猛どうもうに吠えて走り寄ってきた犬は、一声弱々しく声をあげると、元来た方へ逃げ出していってしまった。後に残ったのは、相変わらずの蝉の鳴き声。

 地面に倒れ込んだ杏季は、想像していた脅威が去ったのを感じ取ると、恐る恐る目を開けた。


「……え」


 杏季を守るようにしてうずくまる裕希。



 その背からは、一対の翼が生えていた。



 肩甲骨の辺りから、鷲のような黒と濃い茶の翼が広がっている。翼には破れた服の切れ端が引っかかりぶら下がっていた。

 翼は背中の部分のみを覆うだけで一メートルに満たず、人間の体と対比すればさして大きなものではない。だが、異様さを見せつけるには充分だった。


「大丈夫?」


 いつものように屈託ない笑顔を見せながら、裕希は杏季へ手を差し伸べる。が、慌てて手をひっこめると、埃を叩いて立ち上がり頭の後ろで腕を組んだ。


「わり、変なもの見せちまって」


 ちろりと舌を出してそう言うと、裕希は肩越しに自分の翼を確認して、翼にかかった服の残骸をつまみ上げた。


「あーあ、駄目になっちゃったな。ま、古いのだったしいっか」


 何を気にするでもなく、彼は平然とした口調のままだ。

 だが杏季は金縛りにでも遭ったかのように目を逸らすことができず、呆然と裕希を見つめている。


「……どう、して?」


 言葉少なく放たれた問いに、裕希はやはり簡潔に答える。


「理術。自分に向けて、使ったんだ」

「なん、で」

「犬を追い払うためだよ。でも、そのまま理術を使ったらさ、音だからお前がダメージくらうだろ。だから、自分に犬が嫌う周波数の音をまとわりつかせて、追っ払ったんだ。そんで疾患が出ただけだよ。

 詳しくは話してなかったけどさ、俺は『変形』タイプの理術性疾患なんだ」


 さすがに症状出したのは久しぶりだけどな、と軽い物言いで付け加えながら、裕希は自身の体を物珍しそうに点検した。


「こーゆータイプのもあんまないから驚かせちまったみたいだけど、別にどってことないから。だから、気にすん」


 途中まで言いかけて裕希は口をつぐんだ。

 杏季は唇を噛み締めて、必死に泣くのをこらえているところだった。


「ご、……ごめんなさい……」

「泣くなよ」


 初めて裕希は困ったように眉根を寄せた。


「お前を泣かせないためにやったんだから。それに今はまだ、撫でられない」


 歯がゆそうに杏季を見つめ、裕希は理術の残滓ざんさが残ったままの拳を握りしめた。






+++++



「全くお前も、無茶をする」

「だって犬がすぐそこまで来てたんだもん、仕方ねーじゃん。……でッ!」

「これくらい我慢せい」


 怪我した部位に消毒液がしみて、裕希は顔をしかめた。

 裕希と杏季は、裕希の祖父宅にあがりこんでいた。裕希は疾患の所為で服が破けてしまっていたし、軽く擦り傷をつくっている。杏季にも転んだ際の傷があったので、一緒に祖父に手当てをしてもらっていた。裕希の翼はもう引っ込んでしまい、今は別のTシャツを着ている。

 先に手当てを終えた杏季は、正座をしながらぼんやりと二人のやりとりを眺めていあ。広い和室の部屋に、庭が見渡せる縁側に下がった風鈴の見える光景は、初めて訪れた場所であってもどこか心落ち着くものがあり、存外に彼女は寛いでいた。


「服まで駄目にして。もう少し頭を使ったらどうだ」

「考える暇なんてなかったって!」

「挙句、女の子にまであんなに心配かけおって」

「……それは、そうだけど」

「ほれ、終了」

「ぎゃ!」


 絆創膏ばんそうこうを貼り終えた上からぱしりと叩かれ、裕希は悲鳴をあげる。


「ちょっとは優しくしろって、じーちゃん!」

「やかましい、大した傷でもなし、お前にゃこれで充分だ」


 不服そうに傷をさすりながら、裕希は口を尖らせた。

 祖父が裕希から離れると、恐縮しながら杏季はぺこりと頭を下げる。


「すみません、私まで手当てしていただいて」

「礼には及ばんよ、これしき。むしろ、うちの孫が心配かけてすまなかったね。

 まさか、裕希にこんな可愛らしいガールフレンドがいたとはな」

「いえ! 滅相めっそうもない、私は、助けてもらったので!」


 びくりと思わず反応し、慌ててぶんぶんと手を振る。

 今の言葉は、特に深い意図なく放たれたものだと分かってはいた。だが、そういった類の軽口を受け流せるほど、まだ杏季は慣れていない。

 少しばかり挙動不審になった杏季に、しかし祖父は目を細めて微笑んだ。


「すまないね。裕希は母親を亡くして、父親も遠くにいるからか、どうも慣れた人には甘えてしまうきらいがあるが。どうか仲良くしてやってくだされ」


 さらりと告げ、祖父は軽く頭を下げた。その言葉に杏季は言葉を失う。何と答えたらよいか分からず、杏季はただ曖昧な表情で頷くしかなかった。


「今、麦茶でも持ってくるから待っていなさい」

「あ、そんな申し訳ないです。お構いなく」

「いやいや、折角だ。外は暑いし、ゆっくりしてってくだされ」


 柔らかい、しかし有無言わさぬ口調で言い残し、裕希の祖父は部屋を出て行った。思わず杏季は息を吐き出す。


「悪かったな」


 障子が閉まり祖父の足音が遠のくのを確認してから、裕希は呟いた。

 口は一文字に引き結んでいるが、その表情に憂いはない。

 障子を見つめながら、裕希は立てた膝に頬杖をつく。


「急にさらっと言われて、困るだろ。じいちゃん、そういうとこあるからさ。

 昔のことだから。気にすんなよ、今更だ」

「ううん。私こそ、……ごめん」

「なんでお前が謝るんだよ」


 軽い語調で切り返したが、しかし杏季は答えず。

 彼女は、うつむき加減で無理矢理に笑んだ。


「私も、ね。

 お母さん、ずっといないの。生きては、いるけど」


 今度は裕希が言葉を失った。

 続く杏季の話に、自然と彼も視線がうつむく。


「子どもの頃に倒れてから、十年も意識不明で。もうずっとサナトリウムにいる」

「お前さ」


 はあ、と一つ息を吐き出し。

 裕希は杏季の頭を、ぽんと軽く叩いた。


「……別に、対等になろうとしなくて、いいからな」

「う。……ごめん、逆に、変なこと言って」

「いや。ありがと」

「……うん」


 ぽつりと、答え、二人とも黙り込む。

 部屋の中にはしばらく沈黙が訪れた。



 やがて気を取り直すように、あえて裕希は声を張って尋ねる。


「ところでさ。お前、もう男は平気なの?

 じーちゃんとは普通に喋ってたけど」

「あ、えっと。元から年配の方は平気なの。同世代の子が苦手なだけで、大人の人は割と大丈夫」

「そんなもんなのか」

「だって男の人がみんな駄目だったら、高校の授業でも怯えてなくちゃいけないもん」


 杏季は苦笑いする。

 舞橋女子高校はその名の通り女子校だが、教師は女性に限らない。もっとも女子校であることを考慮されてか、男性で舞女に配属されるのはもっぱら年配のベテラン教師ばかりであった。

 その年齢層があまりに高いので、一部で舞女まいじょは『教師の棺桶』という失礼極まりない呼称を囁かれていたのだが、それは余談である。


「ふーん。……ついでだから、この機会に聞くけどさぁ」


 胡坐をかいた足首を掴み、裕希は杏季をぐいと覗き込むようにして見つめた。


「俺には怯えてたくせに、何でナオには、アルドには平気だったんだよ」

「え、何が?」

「何がって、お前がビーのとこに捕まった時だよ。あの時、ナオとは普通に話してたじゃんか」

「……あ」


 しばらく考えて思いだし、同時に杏季は少し顔を赤らめた。


「えっと、あの、……笑わない?」

「怒ったとしても笑いはしないと思う」

「お、怒るのも止めて……」


 しばらく躊躇った後で、杏季はおずおずと口を開いた。


「あのね。……カラスと、一緒なの」

「カラス?」


 怪訝に裕希は聞き返す。


「うん。……あのね、私、動物さんが好きなんだけど、猫さんとかと遊びたくても、なっちゃんは猫さんが苦手だから、寮ではあんまり呼べないんだ。けど鳥さんだったら、そんなになっちゃんも苦手じゃないから。

 だから、鳥さんたちと一緒にいることとか多いんだけど」

「うん」


 杏季は両手を前に出した。おなじみのポンという効果音と共に、一羽のカラスが現れる。出るなり宙へ舞い上がり、杏季の肩にとまったカラスを、彼女は手でそっと指し示した。


「この子が、直彦なの」

「……へ?」

「このカラスさんが、直彦って名前なの。

 ……ば、ばかみたいな話だけど。あの時アルドが直彦だって聞いて、同じ直彦なのになんで鳥さんたちを虐めるんだろうって、その、……キレちゃったの。

 それで、理性が吹っ飛んでしまったというか」


 話すうちに段々と下に来てしまった視線を、杏季はそろそろと裕希に向けた。どんなに呆れられるかと怯えながら裕希の出方を見ていると、彼の口から、く、という声が漏れる。


「……直彦」

「わ、笑ったー!」


 両手の拳を握って杏季が抗議する。耐えきれず、裕希は肩を震わせてくつくつと笑った。


「や、だってこれ笑わずにいられっかよ。……そっかそっかカラスか、お前らしいな。ならいーや」

「な、なにがいいの?」

「なんでもねー。あー面白い」

「わ、笑ったー!」

「笑うよ」

「笑わないって言ったー!」

「あれ、そんなこと言ったっけ?」

「言ったー!」


 気付けば。

 杏季は、裕希と構えることなく会話をすることが出来ていた。さながらいつものメンバーと話すときのように、二人の間に壁はない。


 だがそのことに、杏季も裕希も、まだ気が付いていない。

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