きみとぼくの狂った世界(6)

 ふわり、という独特の浮遊感。

 それを刹那味わってから、杏季は潜水するときのように勢いをつけて深く底の方へと潜り始めた。息は出来るはずなのに、潜る前に思わず大きく息を吸い込む。なんとなく、そうしないと保たないような気がしたのだ。

 先ほどより、動き回るコツは心得ていた。今度は最初に来たときよりも迷いなく、そして何よりも急いで杏季は裂け目の中を突き進む。


 嫌な予感がしていた。


 ビーを追って彼女が進む道筋は、千花や千夏のいる場所とは全く異なっていた。

 彼女たちのいた場所は、暖かく心地の良いところだ。

 しかし今ビーを追って進んでいく場所は、少し肌寒い。冷えとも悪寒ともつかぬ寒さは進めば進むほど強くなっていって、彼女の指先を微かに痺れさせる。

 おまけにそこはひどく息苦しかった。息は出来るが、どうしてか胸が苦しい。呼吸をしようとする毎に何かがつかえたように邪魔をして、呼吸の仕方を忘れてしまいそうだった。

 計り知れないほど、深い。

 裂け目の中で、ビーはどんどん沈んでいっているのだ。杏季はもてる力を懸命に振り絞り、必死に彼を追いかけた。すぐさま後を追ったはずなのに、彼の姿はまだ見えない。


 嫌な予感が、していた。




「……何しに、来たんですか」


 ようやく杏季がビーに追いついたのは、入り口からは随分と沈んだところだった。

 さっき居た場所は、白という形容が似合う空間だった。

 けれどもここは、夜の闇のような、海の底のような、深い深い色だった。ともすれば自分の姿もここに紛れて溶け込んでしまいそうな、そんな深い藍色のような空間。

 その藍色の闇で、ビーはにわかに制止していた。

 気だるげに体中の力を抜いたビーは、目線だけ杏季の方を向く。ひとまずほっとし、彼女は深く呼吸をして肩を上下させた。


「戻ろう」

「……どこへ?」


 自嘲気味にビーは笑みを浮かべる。


「戻る場所なんてどこにある。誰も僕なんか待っていやしない。

 二人が戻らないというなら、……僕は戻る意味がない」


 杏季は悲痛な面持ちでぎゅっと杖を握りしめた。


「二人が戻らないなんて誰も言ってない。二人を助けられなかったのは……私だって悔しい。けど千夏さんと千花さんは諦めてるわけじゃないよ。今は駄目でも、いずれちゃんと二人は戻ってくる」

「一体、それがいつになるっていうんですか。僕は確実な方法で連れ戻そうとしたのに、あの人たちは頑なに戻ろうとしなかった」


 拗ねたようすで放言するビーに、むっとして杏季は声を荒げる。


「それは方法が悪かったからでしょう! さっきの時間、何を話してたの! あんな方法で助けたって、二人はちっとも嬉しくな」

「分かってましたよ!」


 ビーはくるりと身体を反転させ起き上がり、勢い込んで怒鳴る。


「分かってた、分かってたよ! こんな方法、あの人たちが拒否するって事ぐらい!!

 でも無理矢理にでもいい、僕はなんとかしたかった! 最後の望みが消える前に、僕はあの二人をこっちに連れ帰りたかった! たとえそれで、後々どんなに恨まれてでも」


 最後の方は意気消沈し、ビーは両手で顔を覆った。



「それでも僕は、あの人たちを助けたかった」



 消え入りそうなビーの声に、杏季はうろたえながら尋ねる。


「最後の、望み?」

「……あまりに裂け目へ長時間居過ぎると、本当に戻ってくることが出来なくなる」


 顔を覆ったまま、ビーは絞り出すように答える。


「核を持った状態で年単位の長い年月を過ごすと、世界そのものになってしまう。裂け目に取り込まれ、その一部となってしまうんですよ。

 二人が裂け目に入って、もう二年。五年も経てば完全に彼女たちは世界と融合してしまう。名実ともに『壁』に成り果ててしまうんだ。

 今日はまだ意識があって姉さんたちは話も出来た。けど、それだっていつまで保つか分からない。あの人たちが人間としてこっちに戻ってくるためには、……もう、時間がないんだ」

「だったら」


 杏季は負けじと声を上げる。


「なるべく早く方法を探し出せばいい。今日明日で二人がどうにかなってしまうんじゃないもの、まだ時間はあるよ。それまでに、世界の均衡を保った上で二人が戻って来られる手段を見つけ出そう?」

「簡単に、言わないでください」

「簡単に言ってるつもりはないよ。でも、やってみなきゃ分かんないでしょ。一人で考えるんじゃなく、みんなに協力してもらってやれば、きっとなんとか出来る」

「くだらない!」


 吐き捨てて、ビーは憎悪のこもった瞳で杏季を睨んだ。


「君こそ、今まで何を見てきたんです。チームCはなんだったんですか。それなりに優秀な人手を擁してもこの有様だった!」

「だってあなたは、みんなに協力してもらおうとしてないじゃない!

 一方的にああしろこうしろっていうだけで肝心なことは誰にも言ってなかった。そんなの一人でやってるのと同じだもの!」


 ビーに負けぬ迫力で杏季は怒鳴る。


「あなたが絶望してどうするの! 一番戻ってきて欲しいと願ってる人が、その人が帰ってくるのを信じなくてどうするの!」


 ビーは言葉を失う。迷ったように瞳を彷徨わせた。

 杏季は強い光を目に宿したまま続ける。


「あっちにいる理由がないんだったら、作ればいい。

 私は、千花さんと千夏さんを助ける。そして世界もちゃんと大丈夫なようにする。私は二人を助けたい、けどこの世界だってどうにかしたいの。両方まとめてなんとかする。

 この目的を達成する為に、君の協力が必要なの。私よりずっといろんなことを知ってて、二人のことをよく知ってる君が。だから、私に協力して。

 その理由の為に、元の世界に戻ろう?」

「……無茶苦茶だ。どれだけ大それたことを言ってるか、分かってるのか。まるで子供の我侭だ。それに当人の意思を差し置いて、勝手すぎる」

「成せばなるの! それにいいの、私は自分勝手に我侭に生きることにしたの! 今!」

「人にそれを強要するのは、迷惑を顧みないというんだ」

「違う。君はそう願ってる、二人が戻ってきて欲しいって! ただもう待ってるのが辛くて終わりにしちゃいたいだけだよ! まだ二人は無事だって分かってるなら、なんでそれを取り戻そうとしないの!

 まだ、まだあの二人は間に合うのに!!」


 理解し難いといった表情でビーは杏季を見つめる。


「どうして……無関係の君が、そこまで言うんですか」

「無関係じゃないよ。私が君を助けたいと思ってるんだから、無関係じゃない!」

「……無茶苦茶だ」


 ビーは眼鏡を掛け直し、呆れたように微笑する。


「けど、……もう既に、僕のやったことは無茶苦茶だったな。考えてみれば、今更、何が来たところで驚きゃしない。

 だったら、その滅茶苦茶に一枚噛むのも……悪くない」


 にやり、とビーはその顔に悪戯めいた色を浮かべた。杏季は息を吐き出し、顔をほころばせる。


 と。

 突如、裂け目の奥の方からの強い力が働き、ビーはがくんと体勢を崩した。杏季は慌てて彼を支えようとするが、物凄い速さで彼は下へ引っ張られていく。

 杏季の横をすり抜け、彼は更に奥へと沈んで行った。






+++++



 異変が起こっていた。

 ビーを追って杏季が扉に飛び込んだしばらく後。それまで鳥居いっぱいに広がっていた白い空間が、不自然に波打った。それを皮切りに、白い空間の範囲が徐々に狭まり始めたのだ。

 困惑して春は鳥居を凝視する。


「何が起こってるの?」

「扉が、……閉じようとしてるんだわ」


 ベリーは動揺しながら呟いた。


「時間が経ちすぎたのよ。……早くしないと、扉が閉まってしまう」

「ちょ、ちょっと待って。扉が閉まると、あっきーたちは」

「……杏季ちゃんは大丈夫かもしれない。でも、もし扉が閉まったら」


 口を閉ざし、その先を彼女は言わなかった。

 言わずとも、全員が理解した。




 潤が身体を引き摺りながら前進する。氷の檻の手前まで来ると、隙間から手を差し入れ外に手を出した。彼女の意図が分かって、ベリーは慌てて潤を止めた。


「止めて、傷に障るわ。言っとくけど、重傷なのよ」

「うっさい。扉が閉まっちまったら、それどころじゃないっ……!」


 顔を歪めながら、潤は理術を放つ。彼女の水が、白い空間に直撃した。

 水の他にもう一種類、一瞬遅れて理術が加わった。春の雷である。

 続いて更にもう一種類。倒れていたはずの奈由が、身を起こしていた。

 春はともかく、潤と奈由とは既にぼろぼろである。見ていられず、ベリーは三人を見回して、悲痛な面持ちで首を振った。


「無茶よ。開眼した三人が全力でやっとだったのに、今の状態の私たちがやったって出来っこない」


 ベリーの忠言に。

 三人は、一斉に豪語した。



「んあこたぁ関係ない!」

「やってみなくちゃ分かんないでしょうがっ!」

「うちらが開けといったら開くんだよ」



 三人は、扉へ理術を放ち続ける。

 水と雷と草。

 威力は、普段の半分に満たない。

 おまけに、そのうち二人は開眼をしていないのだ。

 三人が理術をぶつける間にも、みるみる扉は小さくなっていく。既にその大きさは、元の四分の一程度にまで縮まってしまっていた。


「ち、……くしょ」


 潤は悔しさに顔を歪める。


「……だったらこっちにだって考えがあるぞコノヤロウ」


 彼女は理術を放ったままで、空いた手を自分のポケットに突っ込み。

 口を使って、傷を負っているはずの左手へ制御装置をはめた。


「月谷!」


 京也の静止にも構わず、潤は両手を突き出して叫ぶ。


「おいこらお前ら、もっと気合いれろ気合いィ!!」

「うっさいなタラシ、春さんのフルパワーはこれからだっての!!」

「つっきーに言われずとも、今からが本気ですからね」

「何をぅ、潤さんに恐れをなしてビビんじゃねーぞこの変態ズが!」

「変態に敵うと思ってんのかこの色男めが!」

「私の娘たちを甘くみないほうがいいよ」


 互いに声を掛け合った、それを合図に。

 三人の理術が、一斉に勢いを増した。


「……うっ、そ」


 ベリーは目の前の光景に見入った。

 三種の理術が綺麗に絡み合い、扉に吸い込まれていく。雷の閃光で鮮やかな色彩が夜闇に浮かび、彼女たちを照らし出していた。開眼していない理術の威力だとは、到底思えない。


 ふと、ベリーは気付いて目を見開いた。

 扉の縮小が、止まっている。

 先ほどまで段々と狭まっていた扉は、ぎりぎりのところで動きを止めていた。それどころかよくよく目を凝らせば、ほんの微かにであるが、扉はまたその範囲をじわじわと広げている。

 たまらず、ベリーは体中に力を込めた。


「起きなさいアルド!」


 ベリーは一喝する。


「不甲斐ない京ちゃんたちの代わりに、うちらが加勢するのよ!」


 言ってベリーも術を放ち、彼女たちに参戦した。苦痛そうな表情でアルドもまた炎を呼び出し扉へそれを向ける。

 不甲斐ない、と言われた京也は苦々しく唇を歪めた。そうは言われても、葵は動ける状態ではなかったし、京也と裕希はそもそも人為系統なので加勢することができない。味方の男子勢は、依然彼女らのようすを見守るばかりである。


「……したらば、だ」


 京也は重い体を持ち上げ、刀を抜く。潤とベリーの術と動きを手で一旦制してから、京也は刀を振るった。氷の檻は砕け、彼女たちは自由になる。


「思う存分やったれよ、月谷、ヒメ」


 どさり、と京也は刀を支えにまた座り込んだ。

 目の前の障害がなくなった潤は労しながら立ち上がり、扉へ向き直った。ベリーとアルドが加わったおかげか、白い空間は着実にその範囲を広げつつある。今や五種類になった理術は、閉じかかった扉を再びこじ開けようとしていた。


「帰ってこい、あっきー!」


 誰かが叫ぶ。

 誰か一人が言ったのしれなかったし、もしかしたら全員で叫んだのかもしれなかった。


「あの大馬鹿ヤローをとっ捕まえて、帰ってこい!!」


 鳥居の中の扉は。

 人が通れる大きさにまで、復元した。






+++++



 ずんずんと沈んでいくビーの後を、杏季は必死に追った。

 より藍色は濃くなり、より寒さは侵食する。取って返したい衝動に駆られたが、杏季は堪えて前を向いた。


『それ以上行っては、いけない』


 ふと、杏季の脳裏に誰かの声が響いた。驚いて止まりそうになったが、ビーを見失わないよう奮い立たせて彼女は進み続ける。


『それより奥に行ったら、戻れなくなってしまう』


 続いてまたしても聞こえたのは、先ほどとは違う声。

 戸惑いながら、杏季はおずおずと尋ねる。


「あなたは、誰?」


 杏季の問いには答えず。

 声の主は、もう一度『行ってはいけない』と杏季に囁いた。


「駄目なの。あの人と、一緒に帰らないと」


 杏季の言葉に、ため息のような空気の振動が届く。


『そう。なら、早くしないと』

『急いで、取り返しがつかなくなる前に』

『その先は、あなただけは行ってはいけない領域』

『そしてまた、彼も』

『ああ。それにしても、ようやく、ようやく出会えた』

『これで希望は、見い出せる』

『これで悲劇は、終わらせる』

『あなたならば、彼女たちを救える』


 二人分の声は次々杏季の脳裏に語りかける。ビーを追うのに必死であった杏季は、半分も頭に入らなかったが、その最後の言葉に引っかかって息をのんだ。

 彼女たち、とは。千夏と千花のことであろうか。


『いいことを教えてあげる。全部を全部、綺麗に片付ける方法を』

『それを覚えていて。いつか、それをしに来て』


「全部を、綺麗に?」

 独り言のように反芻した杏季へ、声の主は『それは』と置き語りかけた。


『―――――――。』

「……!?」


 声の主から聞かされた言葉に、杏季は目を見開く。

 驚きでバランスを崩しそうになったが、どうにか彼女は持ち堪える。聞き間違えかと思い、杏季は耳を澄ます。

 だがそれきり、件の声は二度と聞こえてこなかった。




 声に気を取られはしたが、どうにか杏季はビーを捉えた。破顔して彼に手を差し伸べようとするが、つい悪い癖が出て、杏季はその手を差し出すのを一瞬、躊躇する。


「置いていってください」


 諦めきった目でビーは杏季を見つめる。


「こうなったのも因果でしょう、大人しく僕は身を任せますよ。

 君の目的なら、僕以外にも適任はきっと見つかる。おこがましいですが、もし君の言う方法が見つかったら、姉さんたちを助けてあげてください」

「そうじゃない、確かに二人も世界も助けたいけど、そうじゃないの」


 杏季は小さな身体全体で、叫んだ。



「私は、あなたを助けたいの! みんな待ってる、みんなのいる元の世界に戻ろう!」



 迷って彼女はぴくりとその手を震わせてから。



「ユキくん――!」



 杏季は、精一杯にビーへ手を伸ばした。




 二人の距離は、近いようで遠い。元々身長の低い杏季では、ビーの手へ僅かに届かなかった。懸命に手を伸ばすが、もどかしい少しの距離が縮まらない。


 ビーは目を見開き、そんな杏季を見つめていた。心底不思議そうに、理解出来ないとでもいうように。

 だが、やがて彼もまた、その手を一杯に伸ばして。




 ビーは、杏季の手を取った。






+++++



 扉を抜け出て地面に転がった杏季は、硬い地面を感じて目を開けた。重力の感じられる地面が心地いい。

 傍らにビーが倒れているのを確認し、ああ、と彼女は安心しきった声を漏らす。


 頭上には、綺麗な星空が広がっていた。もうそろそろ秋の星座たちに主役を交代しようとしている、真夏の星空。大きな大三角。

 どこか遠くで花火の音がした。近隣の街で花火大会らしい。気のせいだろうか、夜気は少しだけ、火薬の香りと夏の名残を含んでいるような気がした。

 無意識に、杏季は微笑む。



 ――私は、この星空を、……忘れない。



 杏季は、優しい眼差しを浮かべた目をそっと閉じ。

 そのまま、気を失った。




【白原杏季・ビー(ユキ):戦闘不能】

【勝者……?】

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