きみとぼくの狂った世界(5)

 地面に足をつけると、ぱち、と瞬きして杏季は辺りを見回す。きょろきょろと忙しなく首を動かして、彼女は凄惨たる有様な状況を目の当たりにし、深く息を吐き出した。


「……何を、してるんですか」


 ビーの抑えた言葉に、杏季は傍にいた彼を仰ぎ見る。すっと冷えた目つきをしたビーは、最早、怒りを隠すことをしなかった。


「言ったでしょう。僕の言った通りにして下さいと。

 何故、何もせずに戻ってきたんです。如何にも大事に育てられ過ぎた甘ちゃんだと思っていましたが、そこまで君は無能なんですか。

 分かってるはずだ、人質を取られていることは。何をしてるんですかさっさと役目を果たしてこないとどうなっても知りませんよ!?」


 ビーは左手を後方に突き出す。四方八方から無数の鋭い氷が突き出て、潤たちを慄かせた。幸いにして氷が誰かを貫くということはなかったが、見もせずおそらく無作為にやったのだろうビーの術は、危険極まりない。

 杏季は仏頂面で目の前のビーを見上げる。

 そして、小さな手を精一杯に伸ばして空へ差し上げてから。



 思いっきり、ビーの横っ面を引っぱたいた。

 パン、と乾いた音が鳴る。



「このバカが!」


 辺り一体に響き渡る大声で、杏季は怒鳴った。

 茫然として、ビーは瞠目しながら杏季を見下ろす。ビーに負けず劣らず、いや、それ以上に怒りを前面に浮かべた杏季は、仁王立ちでもって彼を睨みつけていた。

 ビーだけではない。この場にいる全員が今の出来事に目を疑っていた。


 あの杏季が、あのビーを平手打ち。


 下手をすれば、先ほど散々聞かされたとんでもない事実より、よっぽど何かの冗談としか思えない光景であった。


 腰に両手を当てて杏季はビーの顔を覗き込む。身長は彼女の方が低いはずだったが、まるで杏季の方が年上であるかのような印象を受けた。


「ったく何してくれてんのよあんたは!

 この私の許可も取らずにどえらいとこに首突っ込んでくれちゃって。人様にも散々メーワクかけて、勝手放題好き放題やってくれちゃってるみたいじゃないの。

 どーにもしばらく見ないうちにそこそこ悪知恵が働くようになったようねぇ。だったらもっとソレを別分野に生かしたらどーなの。しょーもないことばっかしてるとまた一発ブン殴るわよ」

「は……?」


 開いた口が塞がらずに、ビーは戸惑いの色を浮かべるばかりである。

 杏季はそんなビーを小ばかにするように、ちっちっちっと指を振った。


「あーあーあー、まーだ気付かないのこの鈍感野郎が。そこんとこはぜんっぜん変わってないわね。そんなんでやってけてるの? ……ユキ」


 腰に当てた手を離し、杏季は腕を組むと。

 にやり、と勝ち誇った笑みを浮かべてみせた。


 杏季がするには、その表情は少々違和感を覚える。

 どちらかというと、それは潤に相応しいような。


「……ナツ姉さん?」


 疑いの眼差しで、だがどこか確信に満ちた声色でビーは呟いた。

 彼の答えを聞き、杏季は高らかに笑い声を立てる。


「あっはっは、よーやく気付いたか大正解ぴんぽん!

 ご明答ご明察模範解答その通り、久方ぶりにお目見えのみんなのアイドル千夏さんですよ!

 ひっさしぶりねぇ、ユキ。……ホントに。

 ……そういうわけで」


 彼女は身軽にひょいとジャンプし、そのままビーの頭を勢いよく叩いた。

 華麗に着地してから、彼女はぐっと拳を握る。


「一発殴らせろ」

「……先に殴ってから言わないでください」


 たいして痛くはないそれを形式上擦さすりながら、ビーはまだ信じられないような眼差しで杏季、もとい水橋千夏をまじまじと見つめた。


「……本当に、ナツ姉さんなんですか」

「なーによ、私みたいな素敵な姉貴がこの地球上に他にもいるっての?」

「二人もいたら大層困ります」


 そうじゃなくて、と言い淀みながらビーは彼女を上から下まで観察する。性格やテンションは明らかに別物だが、姿かたちはどこからどう見ても白原杏季そのものである。

 彼の言わんとすることを汲み、得意然と千夏は説明する。


「今は、依代よりしろとして彼女に身体を借りてるのよ。私の本体はいつもどおり裂け目の定位置。

 で、意識だけをこっちに飛ばして、この身体とこの口を借りて現在進行形でお喋りさせてもらってるってワケ。

 何せワタクシは優秀な霊属性、可愛い千花ちゃんの護衛者たる偉大な千夏さんですからな! これっくらいお茶の子さいさいって寸法ですよ」

「何でまた、……そんなことを」

「何で、……だぁ?」


 ずい、と一歩詰め寄り、千夏は険のある眼差しでビーを覗き込む。たじろいで、彼は逃げるように少し身を反らした。


「仮にも私のバカ弟がアホなことやらかしてるからでしょうが、このたわけ者が!

 何、私らの代わりにこの子を身代わりだぁ? バカ言ってんじゃないの。あれは私らの役目、そう簡単にほいほい人に譲り渡せるモンじゃないのよ」

「けど、ナツ姉さん。彼女は『白原』だ。本来なら、二人の代わりに人柱になるはずだったのが彼女なんです。

 本当の適格者は見つかった、そして彼女はもう覚醒している。だったらもう、姉さんたちと入れ替わったっていいでしょう!」

「んなこた分かってるわよ、彼女がその人だってくらいね。

 けどね。それをする為に、ここまで物事を持ってくるまでに、ユキは何をしたの? 聞かなくたってなんとなくは分かるわ、聞きたくもない」


 ビーから目線を外し、千夏は悲しそうな面持ちで顔を上げる。

 杏季の姿をした千夏の視線に戸惑い、裕希は気まずそうに視線を泳がせた。外見が同じであるといえ、違う。雰囲気が杏季のそれとは明らかに異なっていた。

 千夏は少し離れた場所にいる、潤や奈由たちも眺める。彼女たちは誰しもが疲弊し、あるいは傷を負っていた。


「『在るべき姿に戻れ』、……ね」


 ぽつりと漏らしてから、千夏は静かにまたビーを見上げる。


「全部を全部リセットして、それで全てをなかったことにするつもり?」

「だって本来ならば、それが正常だった。

 疾患も事故も人柱も、理術の弊害は元を辿れば異世界の仕業だ。

 異世界のものを向こうに送り返してしまえば、こっちの世界は平和になる。根本から厄介払いが出来るんだ。

 それにナツ姉さんたちは裂け目に居る。白原杏季がやるのは世界に対しての干渉だから、世界の間である『裂け目』にいる二人は巻き込まれない。もし万一があっても、姉さんは千花さんの力でこっちの世界に戻って来ら」

「生意気言ってんじゃないわよ」


 一言で切り捨て、千夏はビーの台詞を遮った。


「私らだけ助け出して、その他大勢の異世界人は強制送還?

 言語道断にも程がある。

 ユキ。あんたがしたかったことは、大勢の人間を大切な人やものから引き剥がして、一方的に全てを奪うに等しい行為だよ。

 これ以上、そんなことをさせない為に私は千花と世界を守ってる。

 ユキの言うそれは、今の私たちを全否定してるのと同じだ」


 有無言わせぬ彼女の口調に、ビーは気圧されて押し黙る。

 びっ、と千夏はビーへ人差し指を突きつけた。


「未熟なあんたにゃ、世界だのなんだの壮大なシロモノに手ぇ出すのはまだまだ到底及ばないわ。黙って私らが守り続けるのを見てなさい。

 今度また、似たようなことをやらかしてごらん。一生裂け目に居座って、悲劇のヒロインに成り果ててやる。二度とこっちの世界に戻って来てなんかやんないから」


 それは随分と滅茶苦茶な脅しだった。

 人柱の目的が強固で永続的な壁の構築である以上、人柱たる彼女たちは、別の手段を見つけることが出来なければそこから解放されない。

 だがその矛盾すら寄せ付ける隙をみせず、千夏は腰に手を当てビーを見据えるのだった。


「大体、人柱だなんてブッソー極まりない単語使ってんじゃないわよ。

 私たちは、世界の番人なの」


 千夏はまるで踊るような仕草で軽やかに身を翻し、「任せろ」とでも言うように広げた手を胸に当てる。


「一度引き受けた役目は、全うするわ。こっちだって矜持きょうじってもんがある。

 いくら彼女が白原家の娘で、今は千花に成り代われる力があるっていってもね。覚醒したてのあの子に世界を任せるわけにはいかないなぁ。

 私は千花を守り続けて、裂け目で壁の番を続ける。

 彼女にも言ってやったわ。『ぽっと湧いて出てきたあなたを身代わりにして戻る気はさらっさら無い! ていうか譲ってたまるか!!』ってね」

「なんで貴女は!」


 黙って彼女の言い分を聞いていたビーは、かっとなって声を張り上げる。


「なんで貴女は、いつもそうなんですか! たまには人がどうこうとかじゃなく、自分本位で、自分のことを考えたらどうなんですか!」

「私は自分のために生きてるわよ」


 平然と千夏は言ってのけた。


「自分本位に生きてるから、私は千花と一緒に裂け目に入った。

 あの子を一人にさせたくない、あの子の支えになりたい、あの子と一緒にいたい、だから私は裂け目にいるの。いつだって私は自分勝手に生きてるわ」


 ビーはまるで子供のように恨みがましい顔つきで唇を噛む。

 拳を握りながら、彼はじとっと千夏を睨んだ。


「……そうですね。ええそうです、いつだって姉さんは自分勝手だ。確かに、そうかもしれません。そうやっていつだって、一人で勝手に何でも決めてしまう。

 残される人間のことを、一瞬でも考えたことがあるんですか!」


 ビーがそう叫んだのと、ほぼ同時。

 千夏の右手が空を切り、またしてもビーの頬を打った。

 渾身の力を込めた、一撃だった。

 ぎりっと唇を引き結んでから、堰をきったように千夏はまくしたてる。


「ないわけが、ないでしょう!

 身代わりを用意してまで私と千花を裂け目から無理矢理引っ張り出してこようとするような、向こう見ずでそれこそ自分を省みない、こんなバカな弟を放っていくのに、迷わなかったワケがないでしょうが!」


 少しだけ泣きそうな瞳で、千夏は両手を強く握る。


「けど、千花は一人なのよ。放っておいたら、あの子は裂け目でたった一人ぼっち。びくびくおどおど不安で怯えて、泣き虫で弱虫なあの子が、裂け目の中であんな重圧に耐えられると思う?

 いいえ。私が、そんなこと耐えられない。

 迷わなかったはずがない、離れたいはずがない。けどそれは千花も同じ、でも彼女に選択権なんてなかったのよ!

 あの子が背負しょい込む運命だったら、私だって受けて立ってやろうじゃないの。

 だから私は選択してやった。千花のところに行くって」


 ため息をつき、呆れたような仕草でビーは左手を顔に押し当てる。それは表情を隠すためにした仕草なのかもしれなかった。


「――分かってますよ。姉さんがそういう人だってことくらい。並大抵じゃ、ないですから。姉さんは、器が大きすぎるんだ」

「冗談じゃない。私はただの人間よ、いくら偉大で可憐な千夏ねーさんといえどね。ただの世界を救うだけだったら、私は千花を連れてとっくの昔に逃げてるわ」


 千夏はビーの手を乱暴に掴み、力任せにそれを顔から引き剥がした。


「ユキたちがいる世界だから、私は千花とこの世界を守ってるのよ」


 手を掴んだまま、千夏はビーの目を覗き込む。


「忘れんじゃないわよ。

 あんたは、一人じゃない。

 たかだか私と千花の二人がいなくたって、あんたの周りには大勢の人たちがいるんだってこと、肝に銘じなさい」

「たかだか、だなんて言わないでください」


 悲痛に顔を歪めながら、ビーはほとんど叫ぶようにして言った。

 それでいて彼の声は、掠れて今にも消え入りそうで。


「姉さんは、……貴女たちは、僕らにとって自分たちがどれだけ、どれだけ大事で、大切な存在だったと思ってるんですか!」

「だから、こそ」


 千夏は優しい眼差しで、ビーの頭に手を置いた。


「あんたたちは、忘れないでいてくれるでしょう?

 私たちは帰ってくるわ。わざわざ人が裂け目にいなくてもいい、更に効率良い方法で壁を作れる、その手段がきっと見つかる。今はそれまでの繋ぎなのよ。

 だから。私らが戻ってくるまで、いい子にしてなさいな」

「……そんな、方法が。見つかるかも分からないのに」

「あるわよ」


 自信に満ち溢れたようすで千夏は胸を張る。


「お偉い方が見つけるのが遅けりゃ、千花と二人で考えるまでよ。

 千夏ねーさんに不可能はない! あたしにかかりゃ、その程度どうってことないわ!」


 大見得を切っているが、彼女の話に根拠はない。

 それでも。ビーは彼女を安心させる為に、哀しそうな眼差しで微かに笑みを浮かべた。


 千夏はビーから離れると、腕を組んで一同を見渡す。


「さて、と。私ばっかお喋りしてるのは申し訳ないわね。何も、この機会が願ったり叶ったりなのは私だけじゃないのよねぇ。

 間接的だからちょい時間が短くなるけど、折角だから千夏ねーさんの出血大サービス。ほらほらそこでぶっ倒れてるナオやん! さっさとこっち来なさいな!」

「……え」


 話し掛けられたアルドは驚いて顔を上げた。

 ちょいちょいと千夏はアルドを手招きする。それを見て慌ててアルドは起き上がったが、痛みで顔をしかめた。身は起こしたものの、立ち上がるのも大儀そうなアルドを見て、代わりに千夏の方が彼に近寄る。

 アルドの前まで来てしゃがみ込むと、ふっと千夏は表情を変えた。どこか心許無い、気弱な眼差し。まさか、といった風にアルドは目を見開く。


 と。

 ぐにょ、と千夏はアルドの頬を引っ張った。

 別の意味で意表を突かれ、アルドは面食らってびくりと身をすくめる。


「あっはっはっは。びっくりした?

 ごめんごめん、ついまた前みたく、おちょくってみたくってさー。いやぁしばらく見ない間に大人になったねぇナオやん!」

「ち、ちょ、いきなり何するんですか千夏さ」

「……ナオ?」


 不意に、千夏の声色ががらりと変わった。

 杏季に戻ったようにも感じられるが、それとも違う。

 相手が男子だという点を除いても、杏季にしては声があまりに細い。


「千花、姉?」


 アルドの声に、彼女は泣きそうな表情になりながら口元を手で覆った。千夏から入れ替わり、今度は千花が喋っているようだ。

 久しぶりの会話に何を言うべきかぱくぱくと口を動かした挙句、アルドの有様に遅ればせながら仰天して、千花は無意味に手を右往左往させながら困ったように眉を寄せた。


「ど、どどどどうしてこんな怪我、何でこんなことになってるの」

「いやあの、これはちょっと」


 慌ててアルドは取り繕おうとするが、理術の応酬でぼろぼろになった風体はとうてい誤魔化せそうにない。沈んだ口調で千花は呟く。


「わ、……分かってる。私の所為だね。ごめん、ごめんねナオ」

「や、……これは、俺が勝手にしたことだし、……その」


 アルドは目を伏せて口ごもった。

 そんなアルドを困ったように見つめ、しばらくの間を置いてから、千花は混乱した素振りで両手を頬に当てる。


「……どうしよう、何を話せばいいのか分からない」

「えぇ!?」


 おろおろと視線を泳がせながら、彼女は両手を祈るように組み合わせる。


「ほ、本当は元気そうでなによりとか言うつもりだったのに、だって全然元気そうじゃないんだもん。えっと……ナオ、ちゃんと食べてる? 勉強してる? 青春してる?」

「あ、ハイ……最後以外は概ね……」

「フミくんに虐められてない? 大丈夫?」

「……大丈夫デス」

「あっほらそこ駄目だ! どうしよう!」

「どうしようもなにも、いつものことだし」


 そこで二人は顔を見合わせ、「そうだったね」と千花はようやく微笑んだ。


「なんだろう……久しぶりのはずなのに、何を言ったらいいか分からない。時間ももうないみたいだし、まともなことが言えなくてごめんね。結局何も言えなかったけど、でも。

 話せて、よかった」


 ほっと息をつき、千花は陽だまりのような笑顔を浮かべた。


「あ、あとそれからあまりフミくんに振り回されないでね、ナオはナオなんだからね! フミくんのこと気にしてるけど、ナオは」

「分かってるよ。いいから自分のこと考えなよ千花姉。時間、ないんだろ?」


 突き放すような口調でアルドは千花を促す。

 はっとした顔つきになり、千花はぱっと立ち上がった。そして、恐る恐る後ろを振り返る。

 身をすくめた千花がじっと見つめたのは、立ち尽くすビーの姿だった。


「あの、……ユキくん」

「止めてください」


 明らかな拒絶を込めた声。

 ビーは素早くきびすを返して千花に背を向け、彼女から目を背けた。


「その姿で、その声で、喋らないでください。止めてくださいよ!

 また――どうしようもなく、ダブってしまう」

「ごめん、……なさい」


 よく分からないままに千花は呟いた。

 彼女の言葉をかき消すように、ビーは声のトーンを一段上げる。


「そして、どうせあなたがこれから言うのは僕への謝罪の言葉なのでしょう。もう耳にタコが出来るくらい聞き飽きた、ごめんなさいの連続なんでしょう。

 いりません。聞きません。喋らないでください。代わりに僕に言わせてください」


 一旦言葉を切り、万感の思いを込めてビーは言い放つ。



「千花さん、僕はあなたを許さない」



 俯いたままビーは拳を握り締める。


「……うん」


 覚悟した表情で、千花は静かに頷いた。


「あなたが世界を救ってるだなんて、どんなタチの悪い冗談か未だに理解できない。ですがこうなってしまったからには、精々人柱の役割くらいはちゃんと果たしてください。もしあなたが不安定になった所為で、姉さんに何かあったりしたら……僕は永遠にあなたを憎み続ける。

 僕に、あなたを憎ませないでください。恨ませないでください。僕はあなたを許さないだけで充分だ。僕は、――あなたを許さない。

 それから。……姉さんは、騒がしくて自分勝手でいっつも周りを振り回して、どうしようもない人だ。きっと向こうでもそれは変わらないんだと思います。手がかかってると思います、けど」


 最後に、ほんの少しだけ。

 ビーは感情を押し殺しながら、千花を振り返った。



「ナツ姉さんのこと……よろしくお願いします」

「……うん」



 千花は、弱々しく微笑み。

 しっかりと頷いてみせた。




 瞬きすると、次の瞬間そこに立っていたのは訝しげな表情の千夏だった。


「千花を虐めてないでしょうね」

「千花さんを虐めたら、姉さんに半殺しにされるじゃないですか」

「それもそっか。にしても、ユキを引っ叩いたのもひっさしぶりだわー」

「DVで訴えますよ」

「ひひひ、やれるもんならやってごらん。千夏ねーさんの愛のムチですからな、却下よ却下」


 冗談めかしてそう言ってから、千夏は頭の後ろで腕を組んだ。


「さて。私もそろそろタイムリミットだわ」


 千夏はにっと笑って歯を見せ、ビーへ挑戦的な眼差しを向ける。


「もし私が認めるに足るまであんたが立派に成長したら、そん時は、ユキの案を考えなくもない。次は今回のと違う、ちゃんとした名案を用意しときなさいよ?

 ただし、その時だってちゃんと私に相談しなさい。今度はきちんとお願いするなり何なりしてこの子に伝達をお願いしなさいな。そんじゃ、私も戻るわ」

「あ、あのナツ姉さん」


 ビーは千夏を呼び止め、少しだけ躊躇してから、おずおずと告げる。


「まだ、少し早いけど。……二十歳の誕生日、おめでとう」


 すっかり忘れていたのか、千夏は一瞬驚いた後で。


「サンキュっ」


 にこやかな笑顔を浮かべ、ブイサインをしてみせた。


「そうそう、言いそびれたけど。

 この子に託してた核とナイフ、あれ私が貰ったわ。すーっかり忘れてたけど、そういうことなら誕生日プレゼントってことで許してね。それじゃ」


 彼女は後ろに組んだ手を離す。

 穏やかな表情で、ビーを見つめてから。



「……また、ね」



 ひらひら、と千夏は手を振る。



 その手が下ろされると。

 きょとん、と呆けた表情の杏季が、その場に立ち尽くしていた。


「あ……」


 自分の手の平を見つめ、杏季は呟く。


「帰、ったんだ。二人とも」


 彼女の声に、安堵したようなため息が誰ともなしに吐き出された。声の調子、雰囲気からして、今の彼女は元の白原杏季その人のようである。


 杏季の帰還にそこはかとなく緩んだ空気を尻目に、ビーは一人、黙って数歩後ずさった。彼の背後には鳥居。即ち、扉が口を開いている。

 ビーは無表情のまま、悟られぬようそっと鳥居へと近付き。

 とん、と軽く地面を踏み切って、背中から扉へ身を投げた。


 彼の身体は、扉の向こうへと呆気なく吸い込まれる。


「なっ……!」


 誰かが声を挙げた。しかしビーは既に、裂け目と姿を消している。

 すぐ傍にいたはずのビーが消えていくのを視界の角で捉えた杏季は、驚愕の眼差しで彼を振り返った。だがその時には、既に遅い。手を伸ばす間もなく、彼はまるで落ちるように、こことは違う場所へと沈んでいった。


 杏季は、仲間たちを一瞬だけ振り返って。

 意を決し、杏季はビーを追って再度扉の中へ飛び込んだ。

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