きみとぼくの狂った世界(3)

 真っ白な、空間。

 けれども中に入ってみると、決してそこはただ白いだけの空間ではない、ということが分かる。


 白という色から受ける印象とは、また違う。

 白にしては、眩しくなく。

 白にしては、空虚でない。

 そもそも色彩で表現するのが間違いだと気付く。

 だがその色以外に、形容のしようがないのだ。

 混じりけのない空間で、他に相応しい色彩は見当たらなかった。


 どこか暖かい。

 心地のいい、暖かさだった。

 ずっとそのままふわふわと漂っていたくなるような、そんな空間。

 世界と世界との間は、どこか懐かしい空気に満ち溢れていた。

 それは、杏季が古だったから受ける印象なのかもしれないけれども。


 ふわり、と杏季は歩を踏み出す。


 上か下か、前か後ろか、右か左か。

 そんな概念すら、馬鹿馬鹿しく感じられるような場所。

 重力というものが存在するかも怪しかったが、しかし不思議ときちんと前に進めた。

 まるで夢の中を闊歩かっぽしているような。そんな、感触。


 裂け目の中で、杏季は自分でも驚くほどに落ち着いていた。

 見知らぬ場所、しかも自分が住む世界ではない、とんでもない場所であるにも関わらず。

 落ち着き、過ぎていた。

 昔暮らしていた街を歩くように、一抹の郷愁きょうしゅうを抱え。

 迷わず、杏季は裂け目を進んだ。


 これがビーの言っていた意味だろうか。

 古は裂け目に適合する。地図と方位磁石を持っているようなもの。

 その証拠に、早くも彼女は目的の場所を探り当てていた。

 時間の概念すらあやふやな場所だったので、早くも、という表現は適切でないかもしれない。


 ともあれ。

 杏季は、件の核を持つ人物の場所に辿り着いていた。




 彼女の目の前には、二人の女性が揺蕩たゆたっていた。

 二人は向き合い、互いの両手を組み合わせながら静かに目を閉じている。年齢は二人とも杏季と大差ない。揃って同じ制服を着ているところをみると、どうやら高校生のようである。杏季はその制服に見覚えがなかったので、舞橋市の高校ではないらしい。


 片方の女性は、肩より短いくらいのボブカットの髪で、その顔立ちからはどこか勝気そうな様子が窺える。

 もう片方の女性は対して気弱そうな印象で、腰まで届くかという長く柔らかい髪を揺らしていた。そして彼女の首に掛けられた紐の先に、杏季が持っているのと同じ、制御装置の核が付いている。

 核は、二人が手を繋いだ輪の中心で、ふわふわと漂うように浮いていた。

 息を呑んで、杏季は手に持った杖と核とを強く握り締める。




 核には抑制装置と同じく、そのままの状態にしておく機能がある。

 彼女たちの核を壊す意味。

 杏季に核を持たせた意味。

 そして『在るべき姿に戻れ』という言葉が意味すること。



 杏季は彼女たちの姿を見た時、ビーの意図を感覚的に理解していた。

 『そのままの状態を保つ』核の力で裂け目に留まっている、その彼女の核を壊し。

 代わりに、別の核を杏季に持たせている。

 即ち。



 ――それはつまり、私に彼女たちと成り代われということ。



 哀しい気持ちで杏季は二人を眺めた。

 ビーは杏季が気付くことを想定していたのだろうか。高をくくっていた可能性は多いにありうる。

 しかし杏季は、それでももう一つの可能性を信じたかった。


 彼女たちの状態が何を意味するのかまでは分からない。だが杏季を身代りとして彼女たちを解放する、と捉えるのなら、そのまま杏季は戻れないとみるべきだろう。別の身代わりでも現れない限りは。


 勿論、杏季はそう易々と成り代わるつもりはない。

 けれども人質を取られている以上、このまま地上に戻るわけにもいかなかった。

 杏季は難しい顔で腕を組みながら二人を見つめる。



 ――どうして、何故この場所にいるのか分からない。だけれどもそれは、きっと誰かにとって不本意な事柄で。だからきっと、あの人は私をここに送り込んだんだ。



 成り代わるつもりはない、けれども。


 杏季は、彼女たちと一緒に元の世界に帰りたかった。

 みんなで、三人揃って。



 どうしたものかと思案しながら、ほとんど無意識にそっと杏季は彼女の核に手を伸ばした。


 その瞬間、である。


『はいそこちょっとストーップ』


 がしり、と手首を掴まれ、杏季は仰天した。


『はいはいはい、お嬢さん誰に許可を得てそんな事をしようとしてるのかな? うん?』

「えっ、ちょ、あの」


 面食らって、杏季はどもった。

 眠るように静かに漂っていたため、まさか彼女たちに意識があり、突然声を掛けられるなどとは思ってもみなかったのである。

 話しかけたのはボブカットの少女だ。彼女は杏季の首元にぶら下がったナイフをちらりと一瞥してまくしたてる。


『何そんな物騒なものもってくれちゃってんの? アブナイったらないじゃない。

 そういうことされると、当方としてはちょーっと困るんだよねぇ。いや、ちょっとどころじゃなく大分困る。かなり困る。相当困る』

「すすすすみませんごめんなさいっ!」


 杏季は恐縮しながら派手に飛び退った。そんな杏季を見て、からからと彼女は腹を抱えて笑う。

 見れば、いつの間にかもう一人の髪の長い少女も目を開き、じっと杏季を見つめていた。益々臆して杏季は更に後ろに下がる。


『わははは、そんなに怯えなくていいよ。取って食やしないからこっちおいで。

 悪意がなさそうなのは、うん、雰囲気で分かる。ちょっと驚かしただけ、本気で怒ったわけじゃないから。何せこっちからしてみたら久方ぶりのお客サマだからさー。

 で、何? どうして核を壊そうとしたの?』


 まだ杏季はナイフに手をかけてはいなかったが、状況からそう判断したのだろう。人の良さそうな笑顔を浮かべながら聞くが、目の光には油断がない。これは質問に見せかけた詰問だった。

 そろそろと近付いてから、杏季は生唾なまつばを飲み込んで正直に答える。


「えと、まだ壊すつもりはなくていろいろ悩んでたんですけど。

 そうするよう、人から頼まれたんです。状況から考えて、多分私をあなたたちの身代わりにする、……つもりなんだと思います」

『身代わり?』


 胸の前で拳を握り、杏季は熱を込めて彼女たちに告げる。


「あなた方の核を壊してくるように言う一方で、代わりに私に核を持たせた。つまり、私があなたたちと入れ替われってことじゃないかと思って。

 あ、あとその時に『在るべき姿に戻れ』と願えとも。これはどういうことか分からないんですけど。

 私は別の方法でどうにか出来ないか考えてたんです。ちゃんと私も、あなたたちも帰れるような。

 けど、どうしたらいいか分からなくて」


 一息に話してから、杏季は疲弊して息を吐き出した。

 目を細め、髪の短い少女は組んだ腕から指を突き立てる。


『……成る程ね。つまりあれか、あなたも古ってわけね。ま、ここに辿り着けるんだから高確率でそうなんだろうけどさ。

 でもまぁ――気になるのは、そこじゃないんだ』


 背の高い彼女は、やや体勢を屈めて杏季を覗き込むようにして尋ねる。


『あなたの名前は?』

「え、と。白原杏季、です」

『……白原』


 髪の長い少女が呟いた。初めて彼女の声を聞いたが、か細くどこか儚い印象のする声だった。

 畳みかけるように、髪の短い少女が問いかける。


『お母さんの名前は?』

「母の名前は、……愛理」


 二人は顔を見合わせた。


『『間違いない』』


 視線を交わしてから、短い髪の少女は杏季に向き直る。


『まず最初にだけど。多分あなたの予測は正しい。きっと彼奴きゃつは、あなたをうちらと引き換えに、ここへ居させるつもりだ。

 次にここから帰る方法だけど。三人で帰ることそれ自体は簡単だよ。それこそ、そのまま帰ればいいんだ。核をブッ壊してね』


 傍らの少女が慌てて彼女に取り縋った。

 ひらひらとなだめるように手を振り笑顔であしらってから、髪の短い少女は続ける。


『けどそれじゃ障りがある。私らには役目があるからね、ここを離れるわけにはいかない。だからこそ身代わりとしてあなたを寄越したんだろうけど。

 んでもって、役目を果たした上で三人揃って帰る方法は、残念ながらないなぁ。少なくとも私らは知らないよ、てゆーか知ってたら、ソレやってるからさ。

 うーんしかしそうか成る程。読めたわこりゃ、どうしたもんか』


 ふむ、と思案する顔をして、その直後に彼女はぽんと手の平を打った。


『ねえ、提案があるんだけど』


 言いながら彼女はにやりと笑みを浮かべる。

 きょとんとした杏季の肩を、彼女は勢いよくがしりと掴んだ。


『少しの間、貸してくれない?』

「……何を、ですか?」

『言わずもがな』


 にっ、と彼女は悪戯めいた笑顔を浮かべ。



 杏季を指差した。

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