兎に日陰は似合わない(2)

 部屋を入ってすぐの所でへたり込んでいた杏季は、背後でがちゃりとドアが開いたのに飛び上がり、部屋の奥まで転がるように移動した。

 振り返って、息を飲む。

 入ってきたのは、先程彼女と対峙していたワイトその人だ。後から他の人間が来る気配はない。


 またしても、身体がぴしりと固まる。

 が、必死で気を奮い立たせ、杏季は彼に向き直ろうとした。しかし気持ちとは裏腹に頭はまともな思考を展開してはくれず、動悸どうきは早まるばかりである。

 体は動かない。腰が抜けてしまったのかもしれなかった。生身の腕にぞわりと鳥肌が立った。



 ――やっぱり、でも……怖い。



 この部屋にはクーラーが効いていない。それまで閉め切ってあった部屋は蒸しているが、杏季は背筋が凍るような思いだった。せめて震え出さないよう、強く腕を押さえつける。

 ちゃんと会話をしようと思うのに、出来ない。

 混乱した頭のままでぎゅっと目を閉じ、しかしそれから再び無理矢理、目を開けた。すぐ目の前までワイトが歩み寄ってきている。


 彼は杏季から座布団一枚、離れた位置に正座で座り込んだ。そっと杏季の顔を覗き込んだが、彼女の表情は硬いままである。顔を歪め、ワイトは無意識に下唇を噛み締めた。

 そしてそのままワイトは両手をつき、頭を下げた。頭が床についている。普通の礼にしてはあまりに深い、土下座だった。まだ乾ききらない彼の髪の毛からぽたりと床に雫が落ちる。


「本当に、すみませんでした」


 杏季は目を丸く見開いた。自分の腕をつかんだ手が緩み、滑り落ちる。目を瞬かせ、杏季はゆっくり、恐る恐る顔を上げた。

 ワイトはその体勢のまま続ける。


「その……なんて言ったらいいか分からないけど、本当にごめん。お前のこと、何も知らなかった。

 知らなかったにしても何の言い訳にもならないくらい、酷いことしたよな。調子に乗って好き勝手言って、本当、ばかみたいだ。

 ごめん、本当にごめん。無神経だったのは俺の方だ」


 続く言葉を捻り出すことが出来ず、そこでワイトは押し黙った。

 もっと言わなければならないことはあるはずなのに、肝心な時にちっとも言葉が出せない自分に、彼は内心で苛立ちを覚える。

 だが今更どんなことを言ったところで、結局それは言い訳と白々しい言葉の羅列られつにしか思えず、ワイトは言うべき言葉が見つからないのだった。


「……こ」


 しばらく沈黙が流れた後に、蚊の鳴くような声が杏季の口から漏れた。微かな声を捉え、ワイトは面を上げる。


「こ、こ、怖かったんだからっ……!」

 

 杏季は怯えながらも彼に必死に視線を向け、振り絞るように声を上げた。

 相変わらずおどおどした調子は変わらない。高ぶった感情の所為か、涙目だ。

 だが、それでも杏季の目は真っ直ぐワイトを捉えていた。たまに視線を泳がせそうになりながらも、目を反らすまいと堪える。

 彼女は途切れ途切れになりながらも、言葉を懸命に紡いだ。


「最初に、会ったときも、……転んだの。助けて、かき氷くれたし。

 帰り道だって、最初はちょっとあったけど、その後は攻撃、しないでいてくれたし。

 あ、あのメンバーの中だと、きっと一番、やさしいひとだと、思ってたのに。

 なのに、なのに、怖かったんだからっ……!」


 杏季の必死さが嫌でも分かって、ワイトは思わず泣きたくなった。


「……ごめん」


 だがやはり言うべき言葉が思い浮かばずに、ただ彼はそう呟いた。罪悪感で胸の奥底がずきりと痛む。

 しかし悲痛なワイトの表情に杏季はびくりと身を震わせると、今度は彼女が床に両手をついた。


「ごめんなさい! わ、私の所為なのにごめんなさい……っ!」


 彼女の行動に仰天して、ワイトはうろたえる。


「なんでお前が謝るんだよ!」

「だって、私の所為だもの。私が、いけないんだもん。ぜんぶ、全部本当の事だもの……い、言われた、こと。さっき、きみに」


 動転して杏季はクッションを抱きしめながら、たどたどしく喋り続ける。


「わ、悪いと思わないで、私が悪いんだもの。だから、謝らないでそんな顔、しないで。ずっと、ずっと逃げてたし、何も見てなかった、私は。私が、だめなの」

「そうじゃないだろ、お前は事情があったんだし」

「あ。あれ、聞いたんだね。あれくらいで、弱虫だよね、あんなこと、くらいで。けど、でも、どうしても駄目だったの。だから、ごめんなさ」


 口を塞がれて、むぐ、と杏季は言葉を詰まらせた。

 驚いて視線を上げれば、左手で杏季の口を塞ぎ、半分呆れ顔で彼女を見つめるワイトの顔がある。

 杏季はまた目を丸くした。


「あのな。……俺が言える立場じゃないんだけどさ。別の意味で怒りそう。あ、でもこれ以上謝んなよ」


 そう言いつつワイトは手を離さなかったので、どちらにせよ杏季は何も言うことができなかった。あまりに近いワイトとの距離と、困惑する気持ちとで、杏季はただぽかんと彼の顔を見つめるばかりだ。


「それとこれとは別問題だろ。俺がお前にしでかした事実は変わらない。さっきの件に関して悪いのはどう考えたって俺なんだ。お前がどうのこうのは関係ない。

 だから、もうそういうこと言うな。悲しくなるし苛々する、全部を全部自分一人で抱え込んでんじゃねーよ」


 そこまで言ってから、ようやくワイトは杏季の口から手を離す。


「分かった?」

「……ハイ」


 唖然としたままで、杏季は素直に頷く。

 溜め込んでいた息を静かに吐き出すと、ワイトは正座を崩し胡坐あぐらになった。足が限界に来たらしい。


「あー。なんかもうややこしくなってきたから、滅茶苦茶おこがましいこと言っていい?」

「い、いいよ?」


 やや身構えながら杏季は答えた。

 彼は頬をかきながら伏し目がちに言う。


「俺のしたことはさ。魔が差したにせよなんにせよ、いくらなんでも常軌を逸してた。何を言ったってそうそう許してもらえるようなもんじゃない」

「べ、別にもう、怒ってたりしてないよ? そもそも怒ってたというか怖かっただけだし、私も悪いとこあったんだし、きちんと謝ってくれたんだし」

「それじゃ駄目なんだよ、俺が駄目なんだ」


 何が駄目なのかよく分からなかったが、きっぱりとそう言われたので杏季は口を閉ざす。


「俺は責任を取るよ。そうさせて欲しい。俺の気がすまないし、このまま放っといたらまたお前は変な方向に行きそうだしからさ。……だから」


 ワイトはややあって真っ直ぐ杏季を見つめ、彼女の頭にぽんと手の平を置いた。


「だから、お前は俺が守るよ」


 思いがけない言葉に杏季は一層ぽかんとする。


「……えと、あの、その」


 杏季の脳内では、さっき京也と繰り広げた会話が再生されていた。ついさっき、杏季は自分で頑張っていくと決めたばかりなのだ。

 だが今までのそれと、今ワイトが言っていることとはまた別物であるような気がした。そもそも彼こそが、結果だけを見るならば杏季がそう決意するように仕向けた要因なのである。

 彼ならば、また杏季がうじうじと縮こまるようであれば、理屈抜きにそれを前へ向かせてくれる気がした。今のような調子で。

 しばらく躊躇した挙句、おずおずと杏季は頭を下げる。


「よ、……よろしく、お願いします」


 それを見てワイトも慌てて頭を下げる。しばらくして同時に頭を上げ、どちらともなしに二人はようやく表情を緩めた。

 そしていつの間にかワイトと普通に話せている自分に気付き、杏季は盛大に微笑んだ。理由が分からないまま、しかしワイトもつられて笑った。

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