4章:イニシエイション

兎に日陰は似合わない(1)

 足の早い雲はあっという間に過ぎ去り、舞橋市を襲った夕立は既に止んでいた。辺りはすっきりと晴れ渡り、西の空には紅々と夕焼けが広がっている。

 雨が収まってもなお、ワイトはその場所から動けずにいた。土砂降りの中もずっとそうしていたため、彼の全身は服から髪までびしょ濡れである。ワイシャツの袖を指先で持ち上げてみるが、水分を吸って重くなった布は指を離すとまたペたりと気味悪く彼の腕に張り付いた。

 辺りは静かで、離れた大通りから聞こえる車の音がかろうじて今は現実なのだと彼に惹起させた。夕立の後の清涼とした風が草を揺らす音を聞きながら、ワイトはじっとうずくまっている。


 長いこと彼はそうしていたが、近くから濡れそぼった草を掻き分ける音がして、ワイトはゆるゆると顔を上げた。


「よぉ」


 目が合い、いつもの調子でその人物はワイトに片手を挙げる。彼の前に、両手をポケットに突っ込んだ姿勢で葵が立っていた。

 湿った草を掻き分けた足元以外は濡れておらず、雨に打たれた様子はない。今までどこかで雨宿りをしていたのだろう。


「ひっでぇ有様だな」

「…………」


 答えず、ワイトは無言のまま空を見つめた。ワイトの隣に並んだ葵はすぐ近くの壁に寄りかかろうとして、だが壁が酷く濡れていることに気付き踏みとどまる。


「何してんだよ、こんなとこで」

「……頭を」


 葵の問いからしばらく間を置いて、ワイトはぼそりと口を開いた。

 ワイトは自分の膝に肘を乗せ、頬杖をつく。


「頭を、冷やしてた」

「その調子でずっとここにいちゃあ、相当冷えたんだろうな」

「……分っかんねぇ」


 ぐったりとワイトは上半身をもたげ、後ろの壁に寄りかかった。壁は雨に打たれ濡れていたが、ワイト自体がびしょ濡れであるため気にも留めない。

 葵は一旦黙り込み、迷ったように視線を泳がせる。


 躊躇しているのは、これから彼がワイトへ話そうとしていることについてであった。頼まれたとはいえ、仮にも個人の内面に深く関わる話だ。第三者たる葵がおいそれと話してしまうのは後ろめたいものがあったのだ。

 どこから説明したものか考えあぐね逡巡しゅんじゅんした挙句、ようやく葵は話し始める。


「白原杏季は、理術性疾患の持ち主なんだそうだ」


 それは見たとおりだけどな、と付け加えて葵は続ける。


「元から白原は結構な虐められっ子気質だったらしい。それでも小学生の頃は男子とも普通に話せたらしいんだけど。

 小学六年の時に男子に虐められて、さっきみたいに疾患が発症して兎の姿になった。

 そしてそのまま……飼育小屋に、閉じ込められた。

 閉じ込めた連中は満足したのかとっとと帰っちまって、白原を放置だ。飼育小屋は学校の外れで、おまけに下校時刻を過ぎた時間、誰にも見つけてもらえなかった。夜中になって助けが来るまでの間、ずっと。

 それ以来、白原は小学校は登校拒否気味になって、中学からはずっと女子高で過ごしてる。

 この出来事の所為で、白原はお前のみならず同世代の男子全般が苦手なんだよ。

 会話をするのも、目を合わせることすらままならない程度に」


 一息にそこまで話してしまってから、葵はちらりとワイトの横顔を窺った。だがその位置からではちょうど顔が影になってしまい、ワイトの表情を知ることは出来ない。


「俺もそこまでの事情を知ったのはついさっきなんだけどな。

 けど白原が男子が苦手だってのは聞いてたし、まともに喋ったことはねぇよ。今まで、俺や雨森……ヴィオは、間に他のみんながいたからかろうじて意思疎通できてたに過ぎない。そもそも白原と一対一で喋ったことだってないんだ」


 葵が言い切ると、彼はじっとワイトを見つめた。

 真顔で真正面を睨んだまましばらく微動だにしなかったワイトだが、葵の視線に気付くと不意に表情を歪めた。濡れた地面に膝が付くのもお構いなしに、ワイトはがしりと葵のスラックスの裾を掴む。


「アオ、どうしよう。俺……!」


 眉を下げ心底情けない表情で、ワイトはうろたえながら口走った。端から見ると今にも泣き出しそうな有様である。

 その言葉に、葵は心なしか安堵して頬を緩めてから。

 改めて表情を引き締め、突き放すような口調で言う。


「どう転ぶとしても、だ。まず真っ先にとるべき行動は古典的手段しかないだろうな」

「古典的、手段」


 力なく反芻はんすうしたワイトにグレンはシンプルに告げる。


「悪いと思うことをしたら謝るってことだよ」






 杏季たちは例によって京也の家に集合していた。

 用事があると一旦抜けた葵を待ちながら、窓の外から杏季はぼんやりと空を眺める。先ほどの土砂降りが嘘のように、空は爽やかで平和だった。


 あの後、杏季はみんなに全てのことを話した。即ち、理術性疾患のことと男子が苦手になったその経緯である。

 いざ話してしまえば、それは呆気ないほど一瞬で終わり。そしてあっさりと、みんなは事実を受け入れてくれた。悩んでいた自分が馬鹿馬鹿しいと思えるほどだった。


 勿論、万事が今回のようにこう上手くいくわけではないだろう。潤と違い、他の大多数の人間にはこれからも杏季は隠し通すつもりだった。世の中の人全てが理術性疾患に寛容な訳ではない。

 だが少なくとも、彼女たちは杏季を受け入れてくれた。それだけで杏季には十分だった。


 清々しい空気を吸い込んで、杏季は満足げに息を吐き出す。彼女の中で鬱積うっせきしていた課題が一つ取り払えた今なら、何が来たとしても立ち向かっていける気がしていた。ただし、それでも若干の気がかりはあったのだけれど。

 ワイトの言葉を思い返して、ちくりと胸が痛む。



 玄関で物音がし、人が入ってくる気配がした。葵を待つため鍵は開けっ放しにしておいたらしい。しばらくして静かな足音と共に彼女たちのいる部屋の扉が開く。

 見慣れた人影を見て誰かが声をかける前に、背後にもう一人の存在を認めて皆は目を見張った。

 葵の後ろには立っていたのは、先ほど杏季と交戦したばかりのワイトだ。


 がたん、と音を立てて杏季が立ち上がる。考えるより先に後ずさった体は、足をもつれさせながらほうほうの体で退却を開始する。そのまま杏季は、脱兎の如く奥の部屋へ逃げ込んでしまった。


「……何しに来たんですか」


 低い声で琴美がワイトを牽制けんせいした。彼女の凄みのある声に気圧されて、他のメンバーは口を閉ざさざるを得なかった。

 萎縮いしゅくしたワイトの代わりに、葵が一歩前に進み出る。


「さっきのケリをつけさせに来た。

 そうしないといけないと思うんだ。こいつにとっても、……白原にとっても」


 杏季が逃げ去った方を目で追いながら、葵は静かに言う。

 ワイトが葵の後ろから思い切ったように姿を現した。琴美の視線に気後れしながらも、彼は真面目に頼み込む。


「あのさ。……白原と話をさせてくれないかな。あいつと一対一で話がしたい。多分、他の人がいたんじゃ、上手く話すことも話せないと思うから」

「俺からも、頼む。気の迷いで済まされねぇレベルだったってのは分かってるけど、だからこそ、ちゃんとけじめをつけて白原に謝らせたいんだ」

「勝手な言いようだって分かってるけど、でも、……お願いします」


 ワイトは彼女たちへ向けて、深々と頭を下げた。


「まったくですね」


 琴美は立ち上がり流暢りゅうちょうな仕草で杖を呼び出して、その切っ先をワイトに突きつけた。琴美と彼との距離はテーブルを挟んで大分離れているというのに、彼女の迫力に彼は声を出せない。喉元にナイフでも突きつけられているかのような殺気がする。


「笑わせないでください。今更、何をしようというんです?

 あれだけのことを、しておいて――信用に足るとでも? あなたが杏季さんに害をなさないという証拠が一体どこにあるというんですか。

 葵さん、あなたもあなたです。どうせその男の口車に乗せられたんでしょう」

「違う」


 素早く否定したのは葵ではなく京也だった。


「葵くんにワイトを連れてくるよう頼んだのは僕だよ。事情を話してワイトに状況を理解してもらった。その上であいつを連れてきてもらったんだ」


 京也はワイトに視線を向けた。


「事情を聞いてお前も分かったろう。お前の単なる誤解なんだ。それにしたって度が過ぎるけどな。

 けど、だからこそ誤解が解けたなら――何とかなるはずなんだ。こういうのはさっさと済ませるのが一番だろ」

「京也さん、あなた……!」

「これは」


 琴美の台詞を遮って京也は続ける。


「ワイトと和解するのは杏季ちゃん本人の意思なんだよ」


 彼の言葉に琴美は動揺して口ごもった。すかさず京也は畳み掛ける。


「嘘だと思うなら本人に聞いてみてくれ。杏季ちゃんは自分で決めたんだよ、逃げずにちゃんと向き合うって。

 杏季ちゃんはあんな事をしたワイトに対してむしろ罪悪感を抱いてる。杏季ちゃんも杏季ちゃんで下手すりゃ間違った方向に行きかねないからな。話をしてこいよ、本人同士じゃなきゃ意味が無い。

 いいかい、琴美ちゃん。

 これは、紛れもない『杏季ちゃんの意思』だ」

「……分かりました」


 諦めてため息をつき、琴美は杖を下ろした。だが目は憎々しげにワイトを睨みつけながら、譲歩するように人差し指を突きつける。


「ただし。何か不審な様子があったらすぐに駆けつけて私は中に押し入ります。そしてもしそこでまた杏季さんに何か手を出したようであれば、今度こそ私はあなたを」

「分かってるよ」


 最後まで言わせずに断ち切り、ワイトは自らを律するように拳を握る。

 意を決したように、彼は唇を引き結んで部屋の奥へ向かった。

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