真夏の歌迷走(3)

 真っ直ぐに伸ばした左手。その手の平を一杯に広げながら、杏季は毅然きぜんとワイトを見つめた。

 限界を振り切ったのか、目に恐怖の色はない。全ての感情を凌駕りょうがし、無に近かった。

 自分でその意識はない。

 ただ彼女は本能のようなものに突き動かされるまま動いていた。


 ワイトは杏季の眼差しを捉え。

 思わず微かに口を開き、その動きを止めた。


 次の瞬間、ワイトは異変に気付く。

 彼女の左手、その先端に、白い煙のようなもやが渦巻いていた。やがて、靄の中からすっと影が差し、細長い形状のものが姿を現す。


 現れたのは、長さが一メートルほどもある茶色い木の杖であった。


 表面にはごつごつとした木の肌をそのまま残しており、杖の先端は渦を巻いている。物語に登場する魔法使いや賢者が手にしていそうな、そのものずばりの杖だった。

 それをぱしりと、杏季は左手でしっかり掴んだ。


「な……」


 突然の事態に状況が飲み込めず、ワイトは困惑の声を漏らす。だが杏季はワイトの思考の整理を待つことなく、杖を斜めに地面へ振り下ろした。


 同時に、ざあっと強い『風』が杏季を取り巻く。


 杏季を中心にして渦巻いた強風は、そのまま輪を広げワイトに直撃し、彼はバランスを崩して尻餅をついた。


「……ま、」


 琴美が呆けたような声を挙げた。


「ま、さか」


 呟きは、『地』のうなる音にかき消される。

 大地が揺れていた。轟音と共に激しく体が揺さぶられ、彼女たちはバランスを崩し地に膝をつく。

 だが、先ほどまで取り巻いていた見えない茨の痛みはない。

 はっとして京也が顔を上げる。


「音に対抗できるのは、唯一『音』のみ。つまり、そういうことか」

「……そうでしょうね。音属性の術を根本から打破する方法は、同じ音で上書きすることだけ。

 けれど、原因たる音を上塗りする強力な『音』でさえあれば。どんな手段であれ、効力を失います。

 ……閉鎖空間全体を無効化する規模となると、なるほど一帯に地震でも起こすしかありませんから、滅多にできませんけれど」


 琴美は何故か曇った表情で答えた。


 杏季はちらりと振り返ってメンバーの無事を確認すると、左手をすっと伸ばしワイトへ向き直る。

 途端、ワイトの背後には退却を阻むように火柱が立ち上った。杏季の脇からもまるで鞭のようにしなった火柱があがり、彼へ狙いを定める。


 しかしワイトは、座り込んだまま逃げようとしなかった。目の前の光景を、ただただ茫然と眺めている。

 彼の顔には怖れも焦りもなく、少しの驚きを湛えた色だけが浮かんでいた。


 その表情に、杏季は動きを止める。


 彼女の目に迷いが生じ、杏季は術をそのままの状態で止めた。思案するように両手で杖をつかみ、ぎゅっと胸の前で抱きしめる。

 その時である。



 杏季の髪飾りがふつりと切れ、弾け飛んだ。



 はらりと彼女の髪の毛が肩に流れ落ちる。色素が薄い杏季の髪の毛がしだれ落ちるのを、やはりぼうっとしたままワイトは眺めた。


 その直後。


 ぼん、と軽快な音を立て、白い煙が杏季を取り巻いた。今度は杖の時より量が多く、杏季の体全体を飲み込み彼女の姿は見えなくなる。

 一瞬、辺りは無音になった。その後で、


「きゃあああああああぁぁぁぁっ!!」


 杏季はかん高い叫び声をあげた。

 その声に我に返り、潤たちは一斉に駆け出す。だが、杏季のいる場所まであと少しというところで煙が引き――彼女たちは足を止めた。


「……み、ないで」


 泣きそうな声で杏季は呟いた。

 杏季、の声だった。


 煙が消え失せた後、そこに現れたのは一羽の兎。

 褐色に白の混じった毛色をした、小さな兎であった。


 小さくうずくまり微かに震えた兎は、前足に埋めた頭を恐る恐るもたげた。黒くくりくりとした瞳が怯えたように彼女たちをじっと見つめ、兎はじりっと後ずさる。



「見ないでえぇぇぇぇっ!!!」



 杏季の絶叫が木霊した。

 そのまま杏季はばっと駆け出し、角の方へ逃げて行く。公園の茂みに隠れ、小さ過ぎる体躯は既に見えない。

 後には、茫然しきってしまった彼女たちが残された。






 時が止まったかのように、公園では交わされる言葉も人の動きも静止している。その沈黙をようやく破り、最初に動いたのは潤だった。

 身をひるがえし、潤は杏季を追いかけようとする。しかし京也が肩を掴み潤を止めた。

 潤はきっと鋭い眼差しで睨みつけるが、先んじて京也は素早く告げる。


「僕が行く」

「お前なんかにゃ任せらんねーし、あんたが行ってもあっきーは怖がるだけだろが!」

「状況が状況だ、んなこと言ってる場合か。

 それに、僕は杏季ちゃんと同種の理術性疾患なんだよ。僕が行ったほうがいい」


 目を見開いて潤は京也を見上げた。何かを言おうと口を開くが、上手く言葉は出てこない。

 それを黙認と見做みなしたのか、京也は潤の肩から手を離すと、彼女の代わりに杏季が消えた方角へ歩いていった。


 しばらくの間、心配そうにそちらを眺めていた潤だったが、不意にばちばちという不穏な音を耳にして彼女は顔を上げる。


「あんた……何してくれてんのさ」


 春が無表情で、両手に雷を立ち上らせていた。その目はしかとワイトを見据えている。稲妻は威勢よく春の手の上で踊り、一瞬、公園にある大樹と同じ高さにまで跳ねた。

 いつもの術よりも数段迫力のある雷に、まずい、と本能的に潤は察する。

 立ち上る雷を見る限り、春が手加減しているとは思えない。怒りで理性が吹っ飛んでしまっているようだった。


 補助装置を使用している今、本気の術で雷をくらえばワイトはただでは済まないだろう。彼はまだ座り込んだままであったが、春の雷を目の当たりにしてようやく表情らしい表情が戻る。彼は戦慄し、座ったまま後ずさった。

 潤は慌てて止めようとするが、渾身こんしんの力を込めた雷はあまりに眩しく、思わず目を閉じてしまう。

 そのまま春は雷を勢いよくワイトへ向けて放った。腕で顔をかばい、ワイトもまた強く目を閉じる。


 が。

 雷は彼まで届かず、途中で障害物にぶち当たった。


 春とワイトとの間には、葵が立ちふさがっていた。

 草のバリケードを生やし、どうにか春の雷を防いでいる。しかし余程威力が強かったのか、バリケードは一瞬でほとんど焼け落ちしまっていた。


「ごめん、春さん。……けど、どうか止めてください」

「なんで、だってこいつは!」

「そうだけど! でも、今あなたがそれをやったら、春さんもこいつと同じです。本気でやれば、ユウはただじゃ済まない。

 こいつには後でちゃんとケリを付けさせる。ちょっとやそっとじゃ足りないかもしれねぇけど、俺が責任をもって何が何でも白原につぐなわせる。

 勢いに任せての仕返しじゃただの私怨だ、さっきこいつが白原にやってたことと何も変わらない。

 俺はユウだけを擁護ようごしてんじゃねぇ、春さんが心配なんだ。ここで止めておかないと、絶対に後で後悔する。

 ユウがやらかしたのがどんだけのことだってのかも、春さんが怒って当然のことだってのも分かる。でも、だからこそ……春さんは冷静でいてください」


 葵の説得を聞き、春はその唇を引き結ぶ。

 しばらく間、春はじっと黙り込んでいたが、やがて右手を自分の顔の前に持ってきた。指を鳴らし、春は自分の周囲を取り巻くように雷を呼び出す。

 そのまま、加減した雷でもって春は自分自身に電撃を加えた。


 仰天して葵は近寄ろうとするが、しかし他ならぬ春に手で制止され立ち止まる。どうやら自分に渇を入れたかったらしい。僅かに顔をしかめて、しばらく彼女はそれに耐えた。

 雷が止んでから、春は何かを振り払おうとするかのようにぶんぶんと首を振る。その後で、春は気まずそうに葵を見つめた。


「……ごめん、ありがとう」


 消え入りそうな声で言って、春はその手を下ろす。ほっとしたように葵は表情を和らげた。


 その時。

 ふと、春は手に違和感を感じた。


 視線を自分の手に向ければ、補助装置の黒い布が裂け、肌色の皮膚が露出しているのが目に入った。


 春の補助装置が、破けている。


 両手の補助装置にはワイトの時と同様、じぐざぐに亀裂が入っていた。見ているうちにもびりりと音をたてて更に亀裂は深くなり、指先に近い布の一部が本体から切り離されて地面に落ちる。

 更に右手の甲を覆っていた部分も完全にはがれ、それに少し遅れて手首に巻きついていた布もするりと春の手からすべり落ちた。


 一瞬、事態が飲み込めずに硬直し、そして。


「ふわあぁああぁあっ!?」


 遅れて春は奇声をあげた。


「ちょっ……!? ななな何これ何コレどういうこと!?」

「え、どどどどういうことも何もコレ、えっマジでか!?」

「……うっそ」


 潤と奈由が口々に言う。三人は救いを求めるような目線で葵を見遣るが、彼もまた驚いたように春の手を凝視するばかりだ。

 葵の表情は紛うことなく、春が確かに鍵を外してしまったのだという事実を肯定していた。


「……は」


 わなわなと春の手を指差しながら、潤は叫んだ。


「はったんが一瞬で鍵外しやがったぁぁぁっ!!」

「うおあぁぁぁぁぁっ!?」


 本人が一番驚きおののきながら、春は両手を上げた。その弾みで左手にかろうじて残っていた補助装置も全て地面に落ちる。


「……な」


 わなわなと唇を震わせて、琴美は二、三歩よろめいた。


「なんてことしてくれたんですか!!」


 彼女にしては声を荒げ、感情をむき出しにして叫んだ。

 思わず潤と春は「すみません」と謝りそうになったが、しかし琴美の視線の先を見て口を閉ざす。

 彼女の怒りは明らかにワイトに向いていたからだ。

 春のそれより些か遅れて発せられた琴美の怒りは、たった一言だけであったが、周りの者を畏怖いふさせる迫力があった。


「杏季さんどころじゃなく春さんまで、……あぁもう、どうしてこんなことに」


 頭を抱え、ひどく狼狽しきって琴美はへたり込んだ。

 うずくまったまま琴美は何かを怖れるように呟く。



「杏季さんはもう、――!」



 彼女の言葉に、潤と春は一様に首を傾げ。


「……へ」

「は?」


 その後で、奈由は慎重に尋ねる。


「……どういう、こと?」


 しかし琴美は答えず、彼女はただ静かに頭を振る。


「もう手遅れです。……私は、守れなかった」


 手の平に視線を落とし。

 自分の不甲斐なさを嘆くように怒るように、琴美は力の限りぎりりと拳を握った。

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