草の影、影の波(1)

――2005年8月20日。




 机の上に広げられた問題集を眺めながら、葵は盛大にため息をついた。彼は十数分前から同じ姿勢のままで、シャープペンを握った手が進む気配はない。だがその原因は目の前の問題集に因るものではなかった。

 昨日のワイトの様子を思い出し、葵は浮かない顔つきで肩を落とす。


 あの後、結局ワイトとはろくに話をすることが出来なかった。直後にワイトが部屋を出て行ってしまった所為だ。葵とてあそこまではっきりと拒絶されたのでは、後を追い話し合う気になれなかったのだ。

 今日の夕方は京也の家に集まることになっていたが、それも葵の気を重くする一因だった。ワイトを引き入れるのは余裕だと豪語したにも関わらず、この有様だ。

 しかも拒否された理由が理由である。どう説明したものかと思案して、彼は本日何度目か知れないため息を吐き出した。



 悶々もんもんと考え込んでいると、ふと前の席に誰かが座る気配を感じ、葵は何気なく顔を上げる。その相手を確認して、彼は目を丸くした。

 葵の視線に気付き目を合わせると、奈由は小さく手を振る。


「やあ、少年」

「そ……!」


 思わず声をあげそうになるが、ここが図書館だということを思い出し、慌ててトーンを落とした。


「草間、なんでこんなところにいんだよ」

「見たとおり、本を借りに来たんだよ」


 奈由は右手に借りた数冊の本を掲げて示した。けど、と葵は不思議そうに首を捻る。

 奈由の実家は舞橋市内ではないと聞いていた。県立図書館はその名に負けず県内随一の蔵書を誇っていたが、駅からはそれなりに遠いのだ。バスは通っているが、それでも他の市に住む人間が利用するには不便なのである。


「わざわざここまで来るのは面倒だろ」

「ちょっと調べ物があってね。専門書なら市立図書館より蔵書が多いでしょ。

 それに私はもう今日は寮に戻ってるんだよ。自転車ならたいした時間はかからない」


 彼女の説明に、なるほどと葵は納得する。

 奈由は葵の手元にちらりと目線をやった。数秒間、黙り込んでから、奈由は目線をそのままにぼそりと呟く。


「c・d・d」

「は?」

「答え」


 奈由の指差す先には生物の問題集がある。巻末の解答を確認すれば、答えはすべて奈由の言ったとおりで正解だ。


「一瞬、ですか」

「生物だけは十八番だからね。見たところ、さっきから全く進んでいないみたいだけど」


 ずばり切り込まれて口ごもり、葵は言葉を濁す。


「それはまあ、ちょっと、……裕希の件で」

「裕希?」

「あ。……あれだ、ワイトだよ。あいつの本名」


 一瞬しまったと思ったが、チームCを抜けた以上は別に隠す必要はない。素直に言うと、奈由は「あぁ」と頷きじっと葵の目を覗き込む。どうにも全てを見透かされそうで、葵は居心地悪く視線を反らした。

 やがて彼女は持っていた本を揃え、葵に提案する。


「もし時間があるなら少し外で話しません? ちょっと聞きたいことがあるんだけど」


 どちらにせよ勉強など手につかなかった葵は、即座に頷いて席を立った。




 図書館の外に出ると、二人は自販機で飲み物を買いベンチに腰掛けた。ベンチは日陰のため涼しく、そよぐ風が心地いい。鬱屈うっくつした気分が晴れるような気がして、葵はファンタを勢いよく喉に流しこんだ。

 一口、紅茶を飲み込んだ奈由がおもむろに呟く。


「残念だったねぇ、はったんじゃなくて」


 葵は盛大にむせ返った。

 苦しげに咳き込んで目に涙をにじませながら、奈由を睨む。


「どうしてそこで春さんの……畠中さんの話が出て来るんだ」

「どうしてでしょうねぇ」


 にやりと笑んで、奈由はゆっくりと隣の葵へ顔を向ける。


「そしたら君は、なんではったんにだけ敬語なんですかねぇ」

「それはその。……俺は男子校だしさ。ここんとこ同年代の女子と話す機会ってなかったから、ついそうなっちまうというか」

「だったら他のみんなにもそうなっていいはずでしょ」

「いや、月谷はテンションが男みたいなモンだからそのままいけるし、白原はそもそも直で話さねぇし」

「私は?」

「……ほら、佐竹サンに対しても俺は敬語だし」

「こっちゃんは特殊でしょ。敬語の相手にはつられて敬語で話しそうになるもの」

「そりゃあそうだけど」


 狼狽ろうばいしながら弁明していたが、葵は追い込まれて逃げ場をなくした。

 仕方なしに彼はやんわりと否定を試みる。


「別にそんなんじゃない。確かにいい人だと思うし、メンバーの中では話しやすいってのはあるけど、会ったばかりだし。何がどうとかじゃなく、つまりその、まだそういう段階じゃないだろ」

「あーなるほど発展途上ねー、うわー楽しみー」


 しかしどうにも逆効果だったようだ。楽しそうに奈由は頬に手を当て、にやつくばかりだ。葵は自分の弁論能力を恨みつつ唇を引きつらせる。


「てっめぇ草間……」

「いいじゃん、あのメンバーだとこういう色めき立つような話題が皆無で、ときめき分がなかなか供給されないんだもん。別に何を立ち回るでも裏工作するでもなく、こっそり楽しませてもらうだけだからご心配なく」


 悪びれずに奈由は言った。淡々とした口ぶりでありながら、語気はそこはかとなく踊っている。

 完全に奈由のペースにもっていかれて面白くない葵は、ならばと反撃に出る。


「そういうお前はどうなんだよ?」

「私は心に決めた相手がいるから」


 あまりにさらっと言い返されたので、またしても葵はむせ返りそうになる。


「っは、……え、あ、彼氏持ち?」

「いや、いないけど。

 でもはったんとか他の皆に聞いても一様に同じ返事が返ってくると思うよ。そこここで主張してるから」

「……何を?」

「恋人はキイロタマホコリカビだって」

「は?」


 今度は拍子抜けしてペットボトルを落としそうになった葵である。

 キイロタマホコリカビ。葵の記憶が正しければ、確か粘菌の一種だ。


「キイロ……生物の図表に出てくるアレか?」

「あ、よく知ってるねー。さすが理系」

「まあ理系は理系だけど。なんでそれを知ってるんスか」

「文系は高三のこの時期に生物と化学の参考書を両方持ち歩いたりしないでしょ」

「ああ、そりゃそうだな。……って、そうじゃなくキイロタマホコリカビってお前……」

「粘菌類大好きです」


 はぐらかされた感が否めなかったが、しかしこれ以上言及しても無駄だと悟り、葵は黙って残ったファンタの残りを飲み干した。

 それを見届けた上で、奈由はぼそっと付け加える。


「まあ少なくとも、嫌だと思う相手に対してはったんは下の名前呼びを許可したりはしないと思うけどね」

「ぶっ!?」


 今度こそ完全に飲み物が器官に入った。げほごほと派手にむせながら、葵は必死の形相で奈由に問いかける。


「草間、お前……まさか昨日、俺たちの後をつけてたのか!?」

「へぇ。まさか何かそれ以外にもあったの?」

「何もねぇよ! お前、昨日は白原を送った後に実家に帰ったんじゃなかったのかよ。もう寮に戻ってたのか!?」

「何を今更」


 奈由はふっと微笑し、やや機械的な口調で続けた。


「あっきーも、私が帰ったのを知ったのは皆と別れた後。コンビニに行って来たって言い訳して、皆と別れてからしばらく後に寮に戻りました」

「……それで俺たちの後をついてきたって訳か。どういうことだよ」

「そうだねぇ。一つ、面白いことを教えてあげようか」


 奈由は手の平に収まった缶を弄びながら訥々とつとつと語る。その様子は、どこか楽しげだ。


「腹黒さに関しては、私もこっちゃんになかなかどうして負けないつもり、なんだよ。

 こっちゃんは誰に対してもその黒さを隠さない。けど私は、親しいごく一部の人に対してしかそれを見せない。

 私の毒はただ表に出さないだけであって、ほとんどの人に隠している毒なんだよ。だから敵は近寄ると毒にやられるけど、仲間は毒を避けることが出来る。

 自分の意図で武器としては使えない、ただ不用意にやってきた人間を返り討ちにするだけの、こっちゃんのと違って無邪気な毒」


 そこまで言ってから、落としていた視線をあげ奈由は葵を見つめた。

 いつものようなポーカーフェイスで、葵は彼女の感情を読み解くことは出来ない。それは付き合いが浅いからなのか、奈由が意図して隠しているからなのかは分からなかった。


「くどくど言ったけどつまり、昨日の時点で私は君を信用していなかったということ」


 静かな奈由の言葉に、葵は何も言うことが出来ない。

 奈由は尚も喋り続ける。


「はったんだってうちらだって、人質として利用することくらいは出来る。友達が連れ去られたとなればあっきーも黙っちゃいないし、そうしたらきっと逆上して彼女も本気で立ち向かうでしょう。

 その結果、目論見もくろみ通りあっきーの力を最大限に引き出すことが可能となる。……そんなシナリオを描いていても何らおかしくはない。

 前に戦った時、事実として、はったんは君に負けてるんだ。経験はずっと上の相手、しかも絶好の環境である夜に戦って、はったんが勝てるわけがない」


 言われて葵は密かに舌を巻いた。

 確かに奈由の言う通りである。もし葵が内心でビーの味方だとしたら、きっとそのたぐいの計画を持ちかけられていただろう。

 杞憂といえばそれまでだが、今までのビーの所業を考えれば、この程度の警戒をしても決して過剰ではない。葵は、春たちの言葉があったとはいえ、自分の立場を鑑みてあまりに暢気であったのだ。


 不意に昨日、密かに琴美から言われたことを思い出して葵は顔をしかめた。彼女たちは楽観的な人間が多い一方で、慎重な人物も確かにいる。そういう面で彼女たちはバランスが取れていると思えた。

 葵が神妙な顔つきになった側で、しかし奈由はふっと表情を緩め、背もたれに寄りかかった。


「ま、幸いにして葵少年は本気でただのお人よし。純粋で純情で純朴な、うっかりはったんにときめいたヘタレだった訳なんだけど」

「放っとけ! 一言も二言も余計だ!」

「因みにその会話以降、あまりに青春過ぎて私は砂糖を吐きつつ幸せに寮に戻ったんですが、それから何か別のトキメキな出来事はなかったんですか?」

「残念ながらすぐに分かれ道だったよ何もねぇよ!」

「残念なんだ?」

「うっせぇな!!」


 やぶれかぶれになって葵は言い返した。言葉の応酬では奈由に敵う気がしない。

 再び楽しそうな笑みを浮かべていた奈由だったが、またふっと真顔に戻る。


「悪く思わないでね。私はこっちゃんみたいに力がないから、余計にそうなんだと思う」

「いや、それは仕方ねぇよ。俺の方が気楽に構え過ぎた。この状況じゃ疑われたってしょうがねぇ。それに佐竹にも脅されたよ、重々な」


 昨夜のことを思い返して、僅かに葵は身震いする。


「昨日、白原の分の補助装置を渡されるのと同時に言われた。

 白原が仲間と見做みなした以上それを受け入れるけど、この補助装置には特殊なものが仕込んであって、万一俺が裏切った場合にはそれが作動して自爆するだとか、地の果てまで追いかけて子々孫々の先々まで呪いつくすだとかなんとかを延々と。

 ホントかどうかはともかく、怖すぎだろあいつ」


 こっちゃんが怖いのはまぁ仕方ないね、と肯定してから、奈由は昨夜の出来事を思い返し。ふと、もしや琴美が昨日来なかったのは葵を試すためではなかったのだろうか、という考えに思い当たる。

 もし葵が不審な動きをすれば、その場で彼を切り捨てることが出来る。まだ心に迷いがあった場合とて、相手にこちら側へいることを見せ付ければ彼の迷いは完全に断ち切れただろう。


 だがその辺りのことは口に出さない方がいいような気がして奈由は黙った。葵が気付いているにせよいないにせよ、琴美との了解があったにせよ、葵は相応の働きを見せてくれたのだし、その点で琴美も葵に一定の評価はしているだろう。

 奈由とて。


「『信じない方が良い』」

「……え?」

「君を仲間に引き入れるかどうか議論をした時に、誰かさんがはったんに言った言葉だよ。さっき喋ったような策略でもあるんじゃないかって、ね。

 それに対してはったんは何て答えたでしょうか?」


 葵の顔を覗き込みながら、奈由は答えを待たずに回答を告げる。


「『あの人はきっと、そんなことしないって、信じてる』」

「…………」


 楽しそうに彼の反応を待つ奈由に、葵はただ無言で顔を背けるしかなかった。

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