愚者のシンドローム(2)

 一人で考えたいとの理由をつけて、グレンはアパートを出た。

 もう夕方とはいえ、まだ昼の暑さが残留した空気がむわっと彼に吹き付ける。

 京也のアパートから死角になるところまで来ると、車通りの多い大通りに出る手前でグレンは立ち止まった。電信柱に寄りかかり、ポケットの中の携帯電話をするりと取り出す。

 呼び出したのは、京也の電話番号だった。数秒のコールの後に京也が電話に応じる。


『どうした。何かあったのか』

「いや。少し、聞きたいことがあってな」


 電話口から彼の声と共に聞こえる風の音からして、どうやら京也もアパートの外に出ているらしかった。

 抑えた声音で、グレンは尋ねる。


「お前さ。彼女たちが言う案を認めたのか?」

『認めるわけないだろう、押し切られたんだよ。いくら言ったって五対一じゃ敵わない』

「そうか、……そうだよな」


 半ば予想していた返答に、グレンはため息をついた。

 数秒、沈黙をしてから。独り言のように訥々とつとつと京也に告げる。


「結局。俺は、ビーとたいして変わらなかった。

 元より悪いのは俺たちで、向こうには何の否もないんだ。なのに、彼女たちにあんなことを言わせるようじゃ駄目だろ。

 彼女の話が一段落した時点で、もう俺の心は決まってるんだよ。俺はそっちに付くことにする」


 言い切ってから、グレンは一人、納得したように頷いた。

 京也に話しながら、自分でも自分の決意を改めて整理したようだった。


『じゃあ、なんでわざわざ外に出たんだ』

「少し、一人になりたかったのは本当だ。せっかくだし、ついでに手土産でも買ってから帰るさ。

 それに、……今まで俺がしてきたことを、考えてもみろよ」


 言いながら、自分で数日前からの出来事を思い返し、グレンは頭を抱える。

 彼なりの理由と目的があっての行動だった。ビーからの指示は、極力、大ごとにならないよう配慮したつもりではいた。

 けれども彼女たちを傷つけようとしたという事実は変わらない。

 心は決まっていても、あの場でそう宣言することに、まだ心の準備が出来ていなかったのだ。


「俺は協力するよ、けど見返りは求めないことにする。元から叶う見込みの薄い一縷いちるの望みだったんだ」

『いいのか。お前が大嫌いなビーのところに居座ってでも叶えたかった願いだぞ。それを曲げてまでこっち側に来て、後悔はしないのか』

「もう決めたんだ。今更、考えを改める気はねぇよ。

 それに後悔ならとっくにしてる。一時でもビーにくみして馬鹿なことをやらかしちまったって点でな。

 声をかけられなければ、今だって最初だって俺は何も出来なかったんだ。

 ……でも、もう迷わねぇ」


 確固としたグレンの口調に、京也が電話の向こうで安心したように息を吐き出す気配がした。

 そうか、と呟いて、京也は冗談交じりに言う。


『なら、本日をもって紅一点ならぬ男一点な状況は終了って訳だな。少々惜しいが、お前の加入には代えられない。

 そうだ、折角だからここでグレンは誰狙いなのかはっきりしてもらおうか』

「お前……真面目な話の直後でそういう方向に思考を持ってくんじゃねぇよ」

『いいだろ、もう味方同士なんだから。それに見解を共有しなかった所為で、こっち方面で仲間割れしたら事だぞ。特に奈由ちゃん狙いだとしたら下手に動くと深刻な紛争が起こるからな』

「草間? 別に、そんな気はねぇよ。あの中なら、断トツは」


 言いかけてグレンは、はっと口を閉ざす。しまったというような表情を浮かべ、グレンは携帯電話を握りしめた。

 耳元で、含み笑いの声音が聞こえる。


『断トツなのは、誰だって?』

「何でもねぇよ! とにかく買ったらすぐ戻る。じゃあな」


 慌てた口調でグレンは一方的に電話を切る。そしてグレンは、直前のやり取りを忘れようとするかのように、心なしか小走りで駅の方に向かっていった。






+++++



 グレンが戻ってきたのは約十五分後。

 最初と同じように、チャイムの音で京也は鍵を開けに行く。彼の帰還に、全員が否応なしに緊張で身を固めた。悠然と麦茶をすすっているのは琴美だけだ。

 グレンは部屋の入り口に立ったまま、毅然とした態度で言い放つ。


「まず始めにこれだけは言っておく。

 俺はあんたたちに自分の願いを叶えてもらうつもりはない」


 春は目を伏せ、無意識のうちに唇を噛んだ。もっとましな説得はなかったのかと春が早くも自省し始めていると、グレンはつかつかと部屋の中へ入り、テーブルの上へ細長い箱を置いた。


 彼が手にしていたのは、この近所にあるドーナツ店のものだった。奈由と杏季とは瞬間的にぎらっと瞳を輝かせるが、しかし一応は場の雰囲気を感じ取り、黙ってそのまま動かずにいる。


「これが、俺の答えだ」


 意味が理解できず、春は呆けた表情でグレンを見上げた。

 今度は春を正面から真っ直ぐ見据え、彼はきっぱりと宣言する。



「グレン、もとい本名『染沢そめざわあおい』。今からあんたたちの仲間になりたい」



 先ほどよりも数段驚いて、春は思わず立ち上がる。言いたいことは色々とあったが、驚きと喜びとで上手く言葉が出てこない。仕方なしに春は満面の笑みを浮かべてグレン、染沢葵に右手を差し出した。目を見開いてから、彼ははにかんだ笑みを浮かべてその手をとる。

 握手の後で遅れて春は歓声を上げると、先ほどからドーナツに気をとられてばかりいる奈由と杏季とに抱きついた。次いでその輪に潤も加わりハイタッチする。冷静にしているのは琴美だけだ。


 騒がしいその様子を眺めながらつられて葵も控えめに笑った。

 その後でふと彼は右手に視線を落とすと、顔を赤らめ慌てて目を背けるのだった。




 やがてざわめきが少し収まった頃。


「……その、だな」


 静かになった部屋で、葵が再度、掠れた声をあげた。

 視線を泳がせ、少しだけ躊躇してから彼は思い切ったように告げる。


「本当に、申し訳なかった」


 葵は姿勢を正し、彼女たちへ正座のまま頭を下げた。


「今まで俺がやってきたことは許してもらえるようなもんじゃない。それでも、けじめとして謝らせて欲しい。ごめん」

「え」


 驚いて誰にともなく声を漏らした。頭を下げたままで葵は続ける。


「俺は躍起になってた。ビーのやり方じゃ裏では誰かが被害を受けることを判っていて、それでも止めようとはしなかったんだ。

 心のどこかではいつもビーの所為にして自分を正当化して、けど結局はただの自分勝手だった。もし俺が自己防衛本能のことを馬鹿正直にビーへ伝えていなければ、白原がここまで狙われることもなかったのに。

 俺をどんな風に使ってもらっても構わない。あまり使い物にはならないかもしれねぇけど、無茶なことでも危険なことでもなんでもいい、役に立たせてくれ」


 言い終わって葵が口を閉ざすと、動揺して潤がぶんぶんと手を振った。


「ややや、もうこっち側なんだし、あのそのドウゾおもてを上げてクダサイ」

「そ、そそそんな別に大丈夫だよ大丈夫だから! だから大丈夫!」


 杏季まで思わず一緒になって言ったが、しかし彼が顔を上げる気配は無い。慣れない謝罪で完全に混乱しまった二人を余所に、落ち着いた声色で奈由が宥める。


「いいんじゃない。実際、君は反省してこっちに来てくれたわけだし。向こう側にいる時にリーダーに報告するのだってそりゃ仕方ないでしょうよ。

 別にうちらは今更、前のことを責める気なんてないよ。そもそも勧誘したのは私たちなんだし、そこまで思いつめないでもっと気楽に構えてくれていいのだけど」

「……俺の気が済みません」


 絞り出すような声で葵は呟いた。

 と、不意に何かが頭に当たったのを感じ、葵は驚いてそれを横目で確認する。

 視界の隅に入ったのは、空になったミスドの箱とそれを手に持った春の姿。


「馬鹿なこと言わないで。いい加減にしないと怒るよ?」


 軽く頭を叩かれたことに気付いたのと、不意打ちのように降ってきた言葉とで、葵はようやく顔を上げた。


「昔より今でしょ。大事なのはこれからどうするか。なっちゃんも言ったように今はもう私たちの仲間なんだから、気負うほうがおかしいでしょ。

 だからその分、仲間として同程度にきりきり働いてもらいますからね」


 何かを言おうとして、しかし有無言わせぬ春の言葉に、葵はそれを飲み込む。


「……よろしく、お願いします」

「それでよろしい」


 春はにっと微笑む。それにつられて、葵も弱々しく微笑んだ。

 二人の様子を黙って見守ってから、ちらりと京也が琴美へ視線を向ける。


「琴美ちゃんとしてはどうなんだい。あ、因みにもちろん僕個人は、葵のことは大歓迎なんだけどね」


 話を振られた琴美は眉を上げ、悪戯めいた笑みを浮かべる。


「どういう意味ですか? 私は常に杏季さんと同意見ですけど」

「意見は同じだとしても、琴美ちゃん個人の感情は別だろ。そこが噛み合ってないと、後々彼がいびられるんじゃないかと思ってね」


 京也の眼差しを巧みにかわし、琴美は黙ってお茶を一口飲んだ。その後で、至極緩慢な仕草で彼女は髪をかきあげる。


「そうですね。しかし実際、比較的信頼していますよ。あくまで比較的、ですけど」


 うっすらと琴美は紅い唇を引き伸ばす。


「いわば無条件で葵さんはこちらへ来てくれました。潜入の意図があるなら、それこそ疑われぬように成功後の報酬をもれなく要求するはずですよ。

 見たところ裏表はなさそうですし、巧みに立ち回って裏切るような小細工が出来るとも思えませんしね。その意味だと安心でしょう」

「裏切らないですよ。俺にそんな度胸があったなら、とっくに俺はこっち側に来てます」


 琴美の言葉に葵はゆるゆると首を振る。


「俺がここに来たこと、それに理由付けをするなら。

 雨森にとってそれが幼馴染への懸念と正義感なら、俺にとっちゃ罪滅ぼしだよ。……みっともないけど」

「しないよりするほうがマシ、そして動かないよりは動くほうがマシだろう。比べるようなもんじゃない」


 さらりと京也が言って、彼は葵にずいと麦茶の入ったコップを突きつける。葵の喉はいつの間にやらからからに渇いていた。京也から受け取り、葵は静かにそれを一気に飲み干した。

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