薬箱と標本(3)

 ぼんやりと目を開けると、視界には灰色の天井が広がっていた。

 見慣れないその景色に、一体ここはどこだったろう、と杏季は寝起きの頭で考える。そして先刻までの出来事を思い出した途端、彼女はがばりと起き上がった。

 そこは先ほど杏季がいたのと同じ部屋だった。違っていたのは、部屋の中にいる人物だけだ。


「あら、目が覚めた?」


 明るい声の主は、先ほど杏季を連れ去ってきた少女。聖憐せいれん学院の制服を着た快活そうな女の子だ。危惧きぐすべき人物たちの姿が見当たらなかったので、杏季は無意識に安堵のため息をついた。

 杏季はちょこんと正座して背筋を伸ばし、彼女に尋ねる。


「えっと。あなたがベリーさんでしたっけ?」

「ええそうよ、ってやだもうベリーさんだなんて何この子可愛い」


 ベリーは破顔して椅子から立ち上がると、杏季の座り込むソファーに近寄る。すると、ベリーはおもむろに杏季の髪に触れた。横になっていたためか、だいぶ髪の毛が乱れている。

 ちょっと待っててね、と言い置き、ベリーはブラシを取り出して杏季の髪をかし始めた。別段抵抗せず、杏季はされるがままになっている。


「えっと、あの。よく事情が分からないんですけど、ここに連れてこられたって事は何かしら私がしなきゃならないことがあったり、するんですよね? 私は何をすればいいんですか?」


 杏季の質問にベリーは髪を結う手を一旦止め、不思議そうな声色で聞き返す。


「あなた、無理矢理勝手に連れてこられたのに私たちに協力してくれるつもりなの? いやこっちとしてはありがたいんだけどね……?」

「モノにもよりますけど、一応聞くだけ聞かないとどんなことか分からないし。それに、大丈夫そうなことだったら、早く終わらせたらすぐ帰してもらえるのかなぁと」

「そっか。……そうよね。実は、もう概ねのチェックは済ませたの。一つだけやってもらいたいことがあるんだけど、簡単に終わるからすぐ帰れるわ。ごめんね怖い思いさせて」

「いえ大丈夫です、ごめんなさい」

「……なんであなたが謝るの?」

「あ、いえなんとなく」


 ベリーの言葉に、杏季は安心して表情を更に緩めた。どうやらとんでもないことを無理強いされる訳ではないらしい。

 髪を梳かし終えたベリーが元通り杏季の髪の毛を丁寧に結い上げた。ちょいちょいと髪の具合を確認し礼を言ってから、改めて杏季はベリーに向き直る。


「それで、私は何をすればいいんですか?」

「敬語はよしてよ、同い年でしょ。

 えっとね、妙なお願いではあるんだけど。ちょっとここに、普通じゃ呼び出せないものを召還してもらえないかしら?

 たとえばそうね。イリオモテヤマネコとかトキとかヤンバルクイナとか、そんなものを。何だったら龍とか妖精とかユニコーンとかそんなんでもいいわ」


 意外なことを言われて杏季は口ごもった。彼女の発言に度肝を抜かれつつ、しかし杏季は慎重に言う。


「えっと……無理だと思うよ? だって古っていっても、現実の動物じゃないと呼べないし、遠くにいる貴重な動物とかもできないもの」

「試してみるだけでいいのよ。呼び出せても呼び出せなくてもあなたをきちんと帰すことには変わりないし、ただ試してもらうだけでいいから」


 戸惑う杏季を余所に、彼女は至って真面目な口調で続けた。

 釈然としないまま、杏季はおずおずと首を縦に振る。

 杏季はいつものように両手を前に突き出すと、難しい表情で対象を頭に思い浮かべ、目の前に呼び寄せようとした。


 が、何も起こらない。

 イリオモテヤマネコもヤンバルクイナも、まして妖精や龍といった生き物も、一通り試してはみたがその場に何かが出現する気配はなかった。


「……無理みたい」

「そっか、ダメだったか」

「これ、だけ?」

「だけ。だから今日のところはこれで終わり。迷惑かけてごめんなさいね」


 ベリーはただ静かに呟いた。穏やかな彼女の表情からは何も見て取ることは出来ない。

 拍子抜けするほどあっさりした顛末てんまつに、杏季の脳内で疑問符が次々に湧いた。怪訝な声音で彼女は矢継ぎ早に疑問をぶつける。


「私が連れてこられた理由ってなんだったの? 適合者って何? 結局、私はどうだったの? それに、もし何か理術絡みのことをやろうとしてるなら、私よりもっと良い人がいっぱいいると思うんだけど」

「ごめんなさいね、その辺は秘密なの」

「だよね、じゃなきゃもっといろいろ話してくれてるよね。変なこと聞いてごめんね」

「いや話せないのはその通りなんだけど、どうしようこの子物分りが良すぎる……」


 逆にベリーが当惑し、彼女は苦笑いした。気負いなくつられて笑いながら、杏季は楽な姿勢に座りなおす。元々返答が返ってくるともさして期待はしていなかったようだ。

 代わりに杏季は、何気なく尋ねる。


「みんなは大丈夫? 私よく覚えてないんだけど、別に怪我とかしてないよね?」


 杏季の問いに、ベリーは口篭くちごもった。

 一瞬だけ視線を泳がせてから、早口で答える。


「……えぇ無事なはずよ、だから早くみんなのところに戻って元気な顔を見せてあげなさいな心配してるだろうし。って私がこんなことを言っていい立場じゃないわね。

 ともかく、もう少ししたらヴィオたんが迎えに来るから安心しなさい」

「え」


 つい杏季は言葉を漏らした。

 ヴィオのことは嫌いではない。だがまだ男子に対する先だっての苦手意識が素直に出てしまうのだ。

 彼女の反応をすかさずとらえ、ベリーは敏感に聞き返す。


「どうしたの? もしかしてヴィオのこと苦手?」

「ううん、そういうんじゃないの。

 その、実を言えば男の子全般とあまり話したことがなくて、どうしたらいいか分からないというか、……男の子が苦手なの」


 慌てて杏季は手を横に振り弁解した。ベリーは京也と幼馴染で親しいとの話だ。京也の事を好いていないと誤解されて、下手に彼女に悪感情を抱かれては堪らない。まだ杏季は敵の手の内にいるのだから。

 だがその不安は杞憂きゆうだったようで、ベリーは「なるほど」とばかりに頷く。


「あーあなたもそうなのね女子高にいるとそうなる子多いわよね私の友達にも結構いるわそういう子、やだもうこの子本当可愛い」


 言って、ベリーはぎゅっと杏季に抱きついた。二人とも女子高なので、こういったじゃれ合いはさほど珍しいことではない。一応は敵のはずの彼女とこんなに和んでいいのか疑問が湧かなくもなかったが、殺伐としているよりは気が楽だったので、甘んじて杏季は緊張感のない状況を受け入れることにした。


「でもね、一つだけ言っておくわ」


 ベリーは杏季の頭にぽんと手の平を乗せ、ごく小さな声で囁く。


「今の段階であなたが私たちの求める段階に達しているかどうかは怪しいところ。けど確実にこれからそうなる人であることは間違いないわ。

 ビーはあなたを諦めない。今はこうしていられるけど、次に会ったときは私もあなたに攻撃しないといけないかもしれない。……もしそのときは手加減しないで躊躇ちゅうちょせずに私にかかってきてね。お願いだから全力で私を倒そうとしてね」


 驚いて杏季はベリーを見上げた。しかし彼女は悲しげな表情を浮かべたまま口を閉ざし、それ以上は語ろうとしない。何事か尋ねようか悩んだが、結局は杏季も黙ったまま視線を逸らす。

 言ったところできっと教えてはくれないだろうし、今の杏季が言葉の意味を考えても分からない以上、一人で熟考したとて答えは出ないように思えた。




 かちゃりとドアノブの回る音がして、二人はそちらに目線をやった。静かに開いたドアの向こうから、そっとワイトが姿を現す。びくりとして杏季は身をよじらせた。

 ワイトは視線だけ動かして杏季を捉えたが、しかし彼女は素早くベリーの影に隠れてしまう。微かに目を細めて、ワイトは口からゆっくり息を吐き出した。


「あ、ワイトこっちは全部終わったわよ。もしかしてもうヴィオたん来たの?」

「まだだけど」

「そっか。じゃあもうちょっと杏季ちゃんといちゃついてよーっと。どうだうらやましいだろう少年」

「別に」


 嬉々として再度、杏季に抱きついたベリーに、低い声でワイトは答えた。彼の登場で若干固くなっていたが、視界が塞がれほっとしたように杏季の表情が緩む。じっとその様子を見つめたままワイトは無表情でその場に立ち尽くしたままだ。

 入り口で止まったまま入ってこようとしないワイトに、訝しんでベリーは尋ねる。


「どうしたの? 忘れ物?」

「……別に、なんでもない」


 彼はきびすを返し、右手で押さえていたドアノブを離す。無機質な音を立てて扉は乱暴に閉まった。


「どうしたのかしら普段はもっと愛想がいい奴なのに」


 杏季は普段のワイトをよく知らない。だがそう言われて考えてみれば、今までに杏季が接触した彼と今の彼とではどことなく印象が異なるような気はした。

 控え目に首を傾げて、杏季もまた不思議そうに閉まったドアを見つめた。






 ビルの外に出ると容赦ない日差しがワイトを突き刺した。そろそろ日は傾く頃合だが、まだまだ太陽の勢いは収まる気配がない。

 口元を固く引き絞ったまま、左手に握った缶を額に当てる。冷えたジュースはじんわりと彼の頭を冷やしたが、もやもやと鬱屈うっくつした思考までは晴れやかにしてはくれなかった。

 ふと人の気配に顔を上げれば、見慣れた人物が自転車でやってくるのが目に入った。ビル前の駐車場で自転車を停めたグレンの姿に、ワイトは目を瞬かせる。


「お前、どうしたんだよ」

「……忘れ物した」


 ばつの悪そうな表情でグレンが呟いた。


「お前、メール見なかったのかよ。持ってきてもらおうと思ったのに」

「え」


 ポケットから携帯電話を取り出すと、確かにそこにはメールの受信を知らせるランプが点灯している。それも一件だけではない。電話の着信もあったようである。


「悪ィ、気付かなかった。それどころじゃなかったんだ」

「何かあったのか?」

「……ちょっといろいろな。詳細は中にいる誰かに聞いてよ。やることはもうないと思うけど」


 グレンへの説明を放棄し、ワイトはその場を立ち去ろうとする。が、グレンは彼の肩を掴み彼を引き戻した。

 普段より更に輪をかけてやる気のないワイトの表情は、どちらかといえば冷淡にも近いものがあり、彼のことを良く知るグレンからしても異様に映った。


「お前、どうしたんだ?」

「なんでもねぇよ」


 短く答え、ワイトはゆっくりとグレンの手を引き剥がした。立ち去ろうとした矢先に「あ、そうだ。やるよ」と思い出したように振り返り、彼は手にしていたジュースの片方をグレンに放って投げた。意図が分からぬままにグレンはそれを受け取る。


「なんだよ、これ」

「もういらなくなったから」


 答えになっていない返答をして、ワイトはそのまま身を翻すと、自転車に飛び乗り瞬く間にその場を去っていった。






 じりじりと日差しに焦がれながら自転車を飛ばしたワイトは、ビルから大分離れた場所にある公園で自転車を停めた。ともすれば見落としてしまいそうな小さい公園で、遊ぶ子供の姿はない。

 暑さを逃れようと木陰に入り、大樹に寄りかかりながらワイトは缶を開けた。ブドウ味の炭酸飲料は、自転車の振動の所為で少しばかり泡を吐き出す。零れるのを防ぐように口を付け、そのまま缶の中身を勢いよく飲み干した。

 手で口元をぬぐい、ワイトは僅かに缶に残ったジュースを下の乾いた地面に零した。水分を含んで地面は暗く変色する。


「……バッカみてぇ」


 ワイトは自分の心情と対照的に、至極澄み切った青空を見上げた。

 睨み付けるように目を細め、ワイトは空き缶を握り潰す。まるでそれが仇であるかのように念入りに小さく潰してしまってから、それを数メートル先にあるゴミ箱へ乱暴に放り投げた。

 弧を描いて飛んだ缶はあいにくとフレームに弾かれ、間抜けな音を立てて地面に転がった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る