薬箱と標本(2)

 目を覚ました杏季は、まだ夢を見ているのではないかと錯覚した。

 なにせ視界に、男子の姿が、しかも二人も目に入ってきたのだから。


 ここ数年ずっと女子高で過ごしてきたため、同世代の男子と会う機会はほとんどなかった。電車通学すら嫌で寮生活をしていた節もあったくらいである。杏季の方から意図的に遠ざかっていたので、同世代の男子を近距離で目撃することなどほとんどなかったのだ。


 そんなことをぼんやりと考えているうちに意識がはっきりとしてきて、どうやらこれは夢ではなさそうだと分かり、杏季はそのまま思考を停止させた。

 その二人が見覚えのある顔であるのに気付くと、いよいよ杏季はこれが現実であると確信する。


「あ、目ぇ覚めた?」


 人懐こい調子で尋ねる声が聞こえた。

 杏季は心の中でのみ絶叫して、自分が寝ていたソファーの上から転がり落ち、物凄い勢いで後ずさった。どん、と背中に鈍い衝撃を受けたところでようやく彼女は動きを止める。壁に行き当たったらしい。地味な痛みに耐えつつ、杏季は二人を直視できずにうつむいた。

 転がり落ちた時の痛みで完全に目は覚め、同時にこれまでの経緯を思い出し、杏季は自分の置かれている状況を理解したのだった。


「そんなに勢いよく逃げずとも……」


 椅子から立ち上がり、困ったような表情で佇んでいるのはアルドだ。杏季の反応に向こうも向こうで驚いたらしい。


「なんだかちょっとデジャヴなんだけど」


 苦笑いしながら、隣に並ぶワイトが頬をかいた。彼とは以前にも似たような状況で顔を合わせたことがあるので、アルドより幾分、驚きは少ないようだ。


 呼吸を落ち着けひっそり辺りを見回せば、彼女が今いる場所は会議室のような部屋だった。窓際には折りたたまれた長机とパイプ椅子がぎっしりと並べられている。昼間だというのに厚いカーテンが引かれ、部屋には煌々こうこうと明かりが点いていた。

 部屋の端にはソファーがしつらえられており、ベッドの代用で杏季は先ほどまでそこに寝かされていたらしい。ドア側の壁際にはパイプ椅子が二脚置いてある。杏季を見張るようにして先程までそこに二人は座っていた。


「えっとあの……何もしないのでひとまずそこから戻ってきて頂けますか」

「…………」

「とりあえず、今置かれてる状況が訳分かんないと思うんスけど」

「…………」

「その辺りのこととか、一応説明しようかと思うんですが」

「…………」

「あの……別に危害とか加える気は毛頭ないんで……」

「…………」

「えっと……顔を上げていただけませんかね……」

「…………」


 アルドの問いかけに黙ったまま杏季はそこからぴくりとも動かない。視線すら合わせようとしなかった。

 彼女の脳内では先日の出来事がぐるぐると渦巻いていた。逃げる彼女を追い回し、あまつさえ呼び出した鳥たちを炎で攻撃した、その光景である。

 もっとも先日の経験がなかったとしても、杏季には同世代の男子高生であるという時点で返事をする余裕などなかったのだが。


「……どうしようワイト」

「まーこの状況で警戒するなってのが無理だろ」

「けど、少しは話しとかないと」

「見た感じ難しそうだけどな」


 言いながらワイトは杏季へ真っ直ぐ目を向ける。迂闊うかつにも視線を捕えられ、杏季は蛇に射すくめられた蛙のように身動きが取れなくなり、ヒッと喉の奥で悲鳴を上げた。

 彼女の反応に辟易へきえきしてワイトの方から目を反らすと、彼は腕組みしてアルドに振る。


「なぁ、お前ちょっと話してこいよ」

「今まさにガン無視されたの聞いてなかった?」

「俺も話しに行くのキツいからさぁ。頼むよ直彦」

「いやだからソレ本名だっての……」


 例によって彼の本名を口走ったワイトに、焦りというよりは諦めの境地でアルドがたしなめた。

 二人の思惑を余所に、杏季はその単語に自分でも驚くほど過敏に反応する。


「直彦?」


 気付いた時には口をついて言葉が出ていた。しまったと自分でも思ったが既に遅い。

 怯えきっていた杏季が突然口を開いたので、二人は目を見開き彼女を見つめた。その視線に一瞬、杏季はひるむ。

 しかし一度たがが外れた所為だろうか。目の前にいる人物が同世代男子だ、という事実が綺麗に消し飛び、代わりに心の中で静かにくすぶっていた感情がふつふつと湧き上がる。


「直彦なのになんであんなことしたの!」

「え、は……ぇえ?」


 突然、杏季が立ち上がって声を張り上げたのに加え、矛先ほこさきが突然自分に向いたことに驚いてアルドは狼狽ろうばいした。ワイトが二人を見比べながら訝しげに尋ねる。


「直彦、お前知り合い?」

「初対面……いや初対面じゃないけど会ったのはまだ二回目くらいのはずだけど」


 動揺しつつ、心当たりがない彼は首をひねった。

 それもそのはず、直彦は直彦でも杏季が思い浮かべたのは『カラス』の直彦なのである。


 先日、杏季が追いかけられた際に呼びだした鳥は、直彦の攻撃によって撃ち落されている。アルドからすれば意味不明の理屈だろうが、彼女が懇意にするカラスと同じ『直彦』の彼が、鳥を攻撃したのだという事実がどうにも許せなかったらしい。

 杏季は頭の片隅で自分でも現在の状況に困惑しつつ、一方で弾けてしまった感情に流されるがまま半ば涙目になって感情的にまくしたてる。


「鳥さんだって生きてるんだよ! 確かに私たちは肉を食べるしその辺の綺麗事まで言うつもりはないけど、でも、生きてる動物さんの命を面白半分に奪ったりしちゃいけないんだよ!? なんで直彦なのに分からないの!」

「えぇとあの、その……ごめんなさい……?」


 杏季の鬼気きき迫る主張に気圧されて、よく分からないままに直彦ことアルドは謝罪した。

 無論、彼は杏季の理屈を知るよしはないが、彼女の非難が先日のアルドの所業を指していることは分かったからだ。その怒りが何故真っ先に鳥へ向いているのかという疑問点はさておくとしても。


「もう絶対にあんなことしちゃダメだよ。次にこんなことしたら、今度こそ許さないんだから」

「実に申し訳ございませんでした……」


 うろたえながらも謝罪したアルドの言葉を聞くと、ようやく杏季は息をつき怒らせた肩を下げた。


「なんだ。ちゃんと喋ってくれるんじゃん」


 二人の会話を聞き安堵したワイトが、アルドの後ろから身を乗り出し朗らかに言った。

 が、彼の語気とは対照的に、杏季はぴしりと固まる。


「あ、えっと……その……」


 途端、杏季はうろたえて一歩後ろに下がった。

 勢いで口を開いたはいいが、あくまでそれは直彦単体への不満の爆発によるものだ。関係のないワイトへはどう対応していいか、相変わらず分からないようだった。


 再び凍りつきそうになった空気を敏感に感じ取って、ワイトは微かに眉をひそめる。一歩距離をつめようと試しに前へ踏み出してみると、案の定、杏季はその分後ろへ下がった。ワイトは足を元に戻す。

 彼は暫し逡巡しゅんじゅんしていたが、しかし杏季の酷く怯えた瞳の色を見て取り、不意に真顔になって開きかけた口を閉ざした。くるりと彼女に背を向け距離をとると、彼は後ろに置いてあった椅子へどさりと座り込む。


「なぁ直彦、お前が相手しろよ」

「え? けど」

「俺じゃ、無理だ。……いいからお前が話せよ」


 いつもより幾分そっけないワイトの言葉にアルドは困ったように頭を抱えた。杏季に向き直ったはいいものの何を話すべきか考えあぐねてアルドは黙り込む。

 口火を切ったのは、意外にも杏季の方だった。啖呵たんかを切り終わってから居た堪れない表情をしていた彼女は、怯え混じりにおずおずと告げる。


「その……あの、ごめんなさい」

「え?」

「いえそのごめんなさいすみません!」

「なんで謝るの!?」

「いえそのあの、私なんかが勝手なこと言ってごめんなさい偉そうなこと言いましたごめんなさいどうか怒らないでくださいすみません……」

「いやいやいや、ね? 別に怒ってないし、そもそも動物愛護精神に反したことをしたのは俺だからね? 世間一般の人が見ても君の方が正しいって言うと思うし、だからどうかもうこれ以上謝らないでくださいお願いします……!」

「分かりましたすみません!」

「分かってない! 謝罪以外の言葉を言ってみよう!」

「え、えと! ……こんにちは!」

「そうだねまずは挨拶だねこんにちは! 待ってなんだこの流れ! まあいいやなんとかなりそうだから!」


 ぎこちないながらも二人の会話は一応ぎくしゃく続いた。離れた場所でワイトはやり取りを黙って見ている。

 やがてワイトは無言のまま、ポケットから補助装置を取り出した。二人の会話を尻目にゆっくりとそれを手にはめる。彼の動きに二人が気づく様子は、ない。

 両手にしっかりとそれをつけ終えてから、ワイトはそっと顔を上げ。

 一瞬、僅かに躊躇ちゅうちょして、しかしワイトは口を開いた。


「……Guten Abend,gut Nacht,mit Rosen bedacht」


 流れ出てきたのは優しいメロディ。

 不意に聞こえてきたその音色に、杏季は顔を上げ思わずワイトへ視線を向けた。だが今度は彼の目が伏せ気味であるため、二人の目が合うことはない。

 彼の歌う唄はどこか聞き覚えのある旋律で、一体それは何だっただろうと杏季は内心で首を傾げる。しかしその思考を邪魔するかのように、急激な眠気が杏季を襲った。

 アルドはぎょっとして振り向き、彼の手の補助装置を確認するや、焦ったように制止する。


「待てよワイト、ここでやったら、……俺まで……」

「mit Naglein besteckt,schlupf' unter die Deck」


 構わずにワイトは淡々と歌い続けた。一方アルドの台詞は尻すぼみになり、制止のために差し出した右腕は力なくがくりと下がった。眠気に襲われているのは彼も同じようだ。

 杏季は堪え難い眠気に苛まれながら記憶を辿り、浮かびかけた答えを探そうとする。



 ――……子守、唄……? ……あぁそっか、この人は音属性で、だから、



 ようやくその単語を思い浮かべ、理解することが出来た矢先。

 杏季は、静かに崩れ落ちた。その直後にアルドもまた限界に達し、自分の腕を枕にして眠りに落ちる。


「――wirst du wieder geweckt.」


 最後のフレーズを歌い終えて、ワイトは口を閉ざした。

 部屋の中にいた二人はすっかり眠りに落ちていて、静まり返った部屋の中で目覚めているのはワイトだけだ。


「……Verdammt.」


 呟いて、彼は静かに立ち上がった。

 ワイトは二人の様子を一瞥してから、部屋に唯一ある扉へと向かう。ドアノブに手をかけ開く前に、もう一度彼は肩越しに後ろを振り返った。


「あー、あ」


 一人ぼやいて、ワイトは投げ遣りに息を吐き出した。



「……むかつく」

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