薬箱と標本(1)

「ちっくしょおおおおぉぉぉ!!」


 目覚めた琴美の咆哮ほうこうに、春と奈由はびくりと身をのけぞらせた。


 杏季が連れ去られた後、寮に駆け戻った二人が発見したのは、玄関先で倒れている琴美であった。

 彼女に助けを乞おうとした二人は仰天し、更に慌てて琴美を部屋に運び込んだ。幸いにして琴美はすぐに目を醒ましたが、途端にこの激昂げっこうである。


 春が動揺したまま尋ねる。


「こ、ここここーちゃんどうしたの……ていうか何があったの」

「やられたんですよ! ただの素人だと思って侮っていたのがまずかった!! くっそちょこざいな術使いやがって、あんのガキんちょめがあああああ!!!」


 琴美は自分の不甲斐無さを嘆くように大仰に頭を抱える。


「ガキって……もしかしてワイト」

「皆まで言わないで下さい春さん、私だって予想外の想定外であいつ個人と共に自分の浅はかさと迂闊うかつさとに非常に腹が立ってるんですあんの音叉やろぉぉぉぉ!!」


 天を仰いでそう叫ぶと、琴美は肩でぜいぜいと息をしながら静かに手を下ろす。春と奈由は琴美と若干の距離を取りながら、引き気味で様子を見守っていた。


 話によると、琴美の足止めに送り込まれたワイトに、音属性の術で眠らされてしまったらしい。音属性は、霊属性に有効だ。実力は琴美の方が上の筈だが、相手に先手を取られてしまったようである。

 半ギレの状態で状況説明をした後、荒い呼吸がようやく元に戻った頃合いに、琴美はぽつりと呟く。


「その様子ですと、杏季さんはあいつらに連れ去られたんですね」

「ごめん。……うちらじゃ、対抗する余地もなかったよ」

「何を仰るんですか、春さんたちの所為ではありません。私の不手際です。そして何より絶対悪はあの音叉ヤローとその一味」


 琴美は不意に真顔になり、左手で空をかいた。途端、ぱっと彼女の左手に件の杖が現れる。彼女の杖を間近で見たのは初めてであったので、思わず春と奈由はそれをまじまじと観察した。

 杖の先端に付いた環には更に数個の環がじゃらじゃらとかけられており、それがどうしても錫杖を想起させる。しかし先端の環の中心には紫色をした球状の水晶が取り付けられているので、琴美の杖を錫杖のそれとは明らかに異なったものにしていた。

 琴美はとん、と杖を床について、一呼吸置いてから二人へ穏やかな表情で告げる。


「すみません、ちょっと出掛けてきますね」

「出掛けるって」


 どこへ、という言葉を春は飲み込んだ。探るような目線で春は言葉の続きを待つ。

 後ろ手に手を組み、にっこりと微笑んで琴美はきびすを返す。


「ちょっとあの野郎共をアジトもろとも壊滅させてきます」

「待て待て待って待って落ち着いてこーちゃん!!」


 春はがしりと琴美の肩を掴んで食い止めた。やはり笑顔のまま琴美は春へ向き直る。


「何を仰るんですか、私はこれまでにないくらい冷静ですよ」

「冷静な人間は敵地に単身乗り込んだりしないよ! 気持ちは分かるけど一旦落ち着こうこーちゃん!」

「知るか! 消しとばす!!」

「無茶苦茶だよこーちゃん!!」

「止めないでください、そして明日の新聞に何が載ろうとお気になさらないでくだ」

「何をしようとしているのこーちゃん!?」


 春と奈由は琴美を羽交い締めにして全力で止めた。しかし二人がかりで抑え込んでいるというのにずるずると引きずられ、玄関先まで連れてこられてしまう。やや小柄な琴美であるが、一体どこにそんな力があるというのだろうか。

 もはや彼女を止めるには強硬手段しかないのだろうか、といよいよ春が雷を呼び出そうか思案し始めたときである。


 三人の目の前で、ドアが乱暴に開いた。少しばかり疲弊の色をにじませてそこに佇んでいたのは、京也だ。

 そしてもう一人、彼と一緒に戻ってきたのは。


「つっきー!?」


 京也の背には、気を失った潤の姿があった。






「ごめん、僕のせいだ」


 俯いて、京也は唇を噛みしめた。


「僕が君たちと接触しなければこんなことにはならなかったのに」

「雨森くんまであっきーみたいなこと言ってんじゃないの」


 遣る瀬無い表情で、しかし春はきっぱりとした口調で即座に言い切った。


「遅かれ早かれ、いずれこうなるのは目に見えてたよ。むしろ早い段階で実態を教えてくれた分、感謝してる。それに、だよ。

 ……私たちからしてみれば、あっきーをさらって月谷を傷つけた、ビーに対して躊躇ちゅうちょする理由は完全に無くなった」


 春は眠っている潤に視線を移し、怒りを抑えた声色で呟いた。

 まだ潤は目を覚ます気配がない。幸い彼女に目立つ外傷はなかった。だが体力はかなり消耗しているようである。

 彼女たちは玄関先から潤の部屋に移動していた。ひとまず潤をそこに寝かせ、彼女の回復を待っているという状況だ。


「そうだね、それに」


 奈由はやや乱暴に冷えピタを潤の額へびしりと貼り付ける。


「一番馬鹿なのはこの人だからね。止めても止まらなかった馬鹿はこの人だからね。あなたが気にする必要はまったくもってないですからね」


 奈由は潤を睨み付けんばかりの勢いでじっと見つめながら、口調だけは穏やかに京也へ言った。その静かな剣幕に京也はもちろん、春もおののく。


「なっちゃんが、キレてる」


 ぼそりと春が言った。その言葉に京也は黙ったまま頷く。

 琴美は一階から持ってきた救急箱をひっくり返していたが、ぱっと見で治療すべき箇所が見当たらないので、薬瓶を掴んだまま難しい顔で唸っていた。だが結局、冷えピタを奈由に渡しただけでさじを投げた琴美は、腕を組んで思案する。


「しかし如何致しましょう。外傷はないようですが、念のため理術専門の治療師に見てもらった方がよいでしょうか。少し時間をいただければ知り合いの治療師を呼びますが」

「いや、……そうか。それなら大丈夫だ、ひとまずは」


 琴見の進言に、京也は気付いたように声を上げると。彼は一歩前に進み出てベッドの脇に膝をつき、横たわる潤の上に両手をかざした。

 一瞬の間をおいて、彼の手の平から橙の暖かい光があふれ出る。柔らかい光はやんわりと潤の全身を包み込んだ。

 琴美は目を見開く。


「京也さん。あなたは『光』属性でもあるんですね」

「ああ。言いそびれてたね。普段はあまり気にしないからさ」


 聞き慣れない言葉に春と奈由はきょとんとする。


「光って何?」

「一般にはあまり知られていませんが、十種類の属性の他にも『付加属性』と呼ばれる隠れた属性が存在します。それが『光』と『闇』の二種類の属性です。

 これら付加属性は、文字通り元の属性に加えて、後天的に発現する属性です。光と闇とは相反するものなのでこれらを同時に有することはありませんが、元の属性とこの付加属性と、二種類の術を使える人も中にはいるんですよ。

 もっとも普通に生活していたのでは、滅多に発現しないんですけどね」


 琴美はじっと京也の術を見つめた。心なしか先ほどより潤の顔色は良くなっているようだ。


「光属性が象徴するものは、『プラス』『現す』『速める』、など。

 大抵は光属性というと、闇属性の理術を打ち破るのに使ったり、術の速度を上げたり、或いは高速移動をするといった用途で使われることが多いのですが、中には対象者の免疫力をあげて怪我や病気の治癒を促したり、いわゆる回復の術を使うことが出来る人もいます」


 なるほど、と奈由は興味深そうに呟く。


「そっか。花火大会の時のもこれだったんだ」

「そういうこと。一般には知られてない属性だったから話せなかったけどね」


 京也は苦笑いした。

 直後に潤が水を浴びせたために有耶無耶になってしまったが、確かに奈由はその不可解な現象に覚えがあった。

 最初に奈由と京也が会った時、奈由はグレンの蔓が腕をかすめて負傷している。その時、彼女の怪我は京也の術によって治癒されているのだ。

 みみず腫れになった腕は、京也が手をかざすと瞬く間に腫れが引いた。そこには何事もなかったかのように元の白い肌があるのみだったのだ。

 加えて、杏季を連れ去った際などに彼の移動が極端に早かったのも、この光属性の術にるものだったのだろう。

 琴美は、感心したように京也をまじまじと見つめる。


「それにしても。貴方、そんなことまで出来るんですね」

「……まあ、一応。大したレベルじゃないけど」


 口ごもりながら京也が返事をした。

 感嘆と驚愕の入り混じったため息を吐き出しながら、春は額の汗をぬぐう。


「ほんっと、この数日でとんでもない事態ばっか目の当たりにしてるわ。ゲームか漫画かなんかの世界ですかコレ」

「理術の世界は奥が深いね。この調子で行くと、頑張れば巨大なキイロタマホコリカビを生やす事が出来るようになるかもしれない」

「グロイよなっちゃん!!」

「何言ってんのさ美しい光景じゃん」

「美……!?」


 想像してみて、やはりどう考えても生物工学に反旗をひるがえされた恐怖の世界にしか思えなかったが、春はこれ以上言及しないことにした。




 眠っている潤の瞼がぴくりと動く。それを確認して京也は術を止め、素早くベッドの側から離れた。代わりに奈由と春が近づいて彼女の顔を覗き込む。

 無表情のまま奈由は潤の顔に手を伸ばした。春が制止する間もなく、奈由はうにょんと潤の頬を引っ張る。それに驚いたのか、潤ははっと目を開けた。

 口元だけ笑みを浮かべ、奈由が単調に言う。


「おはようございます月谷さん」

「……おおおぉうおはようございます奈由さん」


 状況が把握しきれない様子で寝ぼけた潤が反射的に答えた。続いて間髪いれずに、がばりと春が抱きつく。


「ぐえぇ絞まる絞まるマジ絞まるやめれ変態! 鎖骨を触るな!!」

「黙れ馬鹿タラシ! 触らせろ! いい鎖骨しやがって! 素晴らしい!」

「待っていつも以上に手つきがいやらしい! ちょおま胸元に手を入れるなこの変態!!」

「こちらは小さい」

「やかましい!!!」


 潤はじたばたもがいた。気の済むまで潤を弄り倒してからようやく春が解放すると、二人の後ろに立っていた琴美がにっこりと微笑んで言い放つ。


「無事で何よりですタラシさん、私たちにかけた心配の分いっぺん死んだらいい」

「ねぇそれ無事喜んでる!? 呪ってる!? 発言が黒いけどどっちなの漆黒!?」

「私は漆黒ではなく紫ですが、それはさておきもちろん喜んでますよこの単純ボケ無鉄砲タラシいっぺん地獄に堕ちて下さい」

「ザ☆辛辣! 今日もこーちゃんは通常運行!!」


 潤はいつもの如く台詞を吐いてからゆっくり上半身を起こした。まだ体は少し怠そうだったが、痛みはないようだ。

 琴美は潤の体をもう一度見回してから念のため尋ねる。


「どこか異常のある部位はありませんか?」

「ん、とりあえずは大丈夫、ありがとうこーちゃん。……っていうか」


 潤はようやくはっきり目覚めたようで、遅ればせながら状況を理解したようだった。ひくりと口を引きつらせてから右の拳を力任せに握り、彼女は憎々しげに叫ぶ。


「あの冷凍カジキマグロ絶対ぶっとばす!! 地の果てまで追いつめて何が何でも絶対ぶちのめしてやる!!!」


 潤の激昂げっこうに、春と京也は首を傾げる。


「冷凍カジキマグロ?」

「……あぁビーか」

「あぁなるほどビーだね」

「なんという無茶苦茶な暴言」

「なぜマグロ」


 口々に言って二人は勝手に納得した。

 さっきまでの緊張感はどこへやら、目覚めてみればいつもと変わらぬ潤で、ほっとするやら拍子が抜けるやらで、どうにも脱力してしまった二人である。


「……ったく、無茶苦茶しやがって」


 ぼやいた京也の言葉に、存外潤は素直に謝る。


「ホントにすまん。結局、お前の正体までばれちまったな」

「別にそれは良い。どうせ僕もあそこから足を洗うつもりだったし。そうじゃなくてだな、僕が言いたいのは」

「分かってる。止められたことを強行して危険なことをやらかした私はとんだ無鉄砲で大馬鹿者ですよ。……けど、その分大いに収穫はあったぜ」


 潤は自分のポケットを探り、そこに入っていたものを取り出した。確認して、京也は目を見開く。

 潤の手に握られていたのは黒い手袋状のもの。彼女が羨望せんぼうしていた、四組分の補助装置だった。


「これで私たちはビーの野郎に対抗できる。……だろ?

 ツメが甘いのはどっちだっての。あの冷凍鬼畜マグロメガネ、絶対に見返してやる」


 してやったりという笑みで、潤はぎゅっと補助装置を握り締めた。




「そうか、それはとてもよかったねつっきー。とてもよかったですね。で」

「ん?」


 奈由は両手を腰に当てて潤を見下ろした。表情は至極穏やかだが、いつもと違い穏やか過ぎる。

 春にはこの表情に見覚えがあった。彼女たちは、それをしばしば『嵐の前の静けさ』と形容する。


「まずは私たちに改めて言うべきことがあるでしょう。はいそれはなんでしょうか?」

「えぇと、その、……どうもありがとうございました」

「それだけ?」

「……ご心配をおかけして大変申し訳ありませんでしたごめんなさい」

「それに加えて今後の方向性は?」

「もう二度とこんなことはしません肝に銘じます反省してます……」

「そうだね、よく出来ました。ハイじゃあつっきー」


 奈由は仁王立ちでもって右の手の平を差し出し、ベッドの上を指し示した。


「そこになおりなさい」

「えぇと……はい?」

「そこになおりなさい」


 有無言わせぬ口調で奈由が微笑む。ぴくりと口元を引きつらせ、潤はそそくさとベットの上に正座した。


「……外に出ましょう」


 静かな声で春が促した。琴美は既に察して、もう部屋の外に出ている。極力音を立てないようにドアを閉め、三人は足早に部屋の前を立ち去った。

 しばらく廊下を進んで部屋を離れてから京也が春を見遣ると、彼女は深刻な面持ちでぼそりと言う。


「今から、なっちゃんのとてつもないお説教タイムが始まります」

「とてつもない……」

「超怖いよ?」

「うん、すごく怖いんだろうなぁ……」


 そっと京也は後ろを振り返る。

 廊下の向こうはしんと静まり部屋からは何の声も聞こえてこなかったが、それがより一層、部屋の中での恐怖を物語っている気がした。

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