虚偽の海に沈む佳日(6)

 肩で荒く息をつきながら壁に手を付け、潤が立ち上がる。外傷はほとんどないが、彼女の表情には明らかな疲弊が見て取れた。

 彼女の方へ数歩、歩み寄って、それからビーは小さく息を吐き出した。


「もう、止めませんか」


 広げた左手を下げ、ビーは落ち着いた声音で潤へ告げる。


「実力の差は明確です。補助装置を使ったとて、僕には勝てない……それは、他ならぬ貴女が一番よく判ったでしょう」


 話すビーの顔にも疲労の色が見えてはいるが、潤のそれと比べると消耗具合はさしたるものではない。根本的な体力の差もあったが、理術の実力も二人の間には圧倒的な差が存在した。

 渾身の力を込めてビーに立ち向かった潤に対し、ほとんどビーは力を使ってはいない。ただ潤の攻撃に対し防戦をしていたのみなのである。彼は全力すら出してはいなかった。


「……るっせぇ」


 一つ咳き込んで、潤は鋭い眼差しで顔を上げる。


「足手まといになってる現状で、引き下がれるかってんだよ。

 今回の件は、私から言い出したことなんだ。そんであっきーのかせになってるんじゃザマぁねぇ」

「現状はそうかもしれないですが、貴女が来ようが来まいが僕らは白原杏季を追っている。多少時期が早まったかもしれないが貴女の行動は大して結果を動かした訳じゃない。

 そもそも。貴女は、ただ白原杏季の周囲にいただけで、無関係でしょう。どうしてそこまで体を張る必要があるんです」

「無関係なもんか」


 口元を拭いながら、潤はぴんと背筋を伸ばした。


「あっきーはうちらの友達だ。私の身内に手を出すヤローに報復すんのは当然だろ」

「……狙われてるのが、貴女自身という訳でもないのに?

 友人が厄介事に巻き込まれて不快感を感じるのは理解できますが、ここまで首を突っ込んでくるのはお節介が過ぎる。

 いや、……お節介より、度が過ぎる」

「上等だろ」


 潤は舌を出してせせら笑うように言う。


「私はただ、あっきーがこれ以上傷付かないよう中からこの組織をブッ壊したいだけだ。んでもって卑劣なやり方であっきーに手ぇ出しやがったお前を一発ぶん殴れれば上々だろうよ」

「……意味が分からない」


 眉間に皺を寄せ、ビーは低い声で唸る。


「どうして、何故そこまでする必要があるんです。貴女には何の関係もないでしょう!?」

「関係なくねーっつってんだろ。お前らがあっきーを狙って来るからこっちも対抗してるだけだろうが」

「どういう話が貴女達の中であったか知らないが、勝手に首を突っ込んできて傷ついてるのは貴女の方だ。当の本人は、白原杏季は何もしちゃいないくせに!」

「狙われてる本人は当然、かくまっとくだろ。前面に出してどうすんだよ。それに私はあっきーに頼まれた訳でもすがられた訳でも、まして借りがある訳でもない。私が好きで勝手にやってることなんだ、どうだっていいだろ」

「……止めろ」


 ビーは潤に駆け寄り、彼女の胸倉を掴んだ。


「自分の事でもないくせに、巻き込まれてどうしてそう平然としていられるんだ! 確かに最初はその場に居合せたかもしれない、けど昨日だって今日だって、あんたは関わらずにいられたはずだろう!! どうしてわざわざ火の粉を被りに来てんだよ!?

 それでいて当人は何にもしちゃいない、貴女は彼女に振り回されてるだけなんだ!」

「馬鹿だろうお前」


 潤は彼の剣幕に臆することなく、ふっと不敵に笑んでみせる。



「妙にあっきーを敵視して、何がやりたいんだか知らねぇけどな。

 あっきーに振り回されてるのは、他ならぬお前じゃねーか。

 ……私にもな」

「ッ……!」



 彼は表情を歪めた。歯を食いしばりながら彼は無言で何かを堪えている様子だった。

 やがて真顔に戻ると、ビーはその冷たい眼差しで潤の瞳を覗き込む。


「……だったら僕が理由を作ってやるよ、月谷潤。

 あんたは『月谷潤』だろう」


 言い捨てると、彼は乱暴に潤の胸倉を引き寄せ、潤の唇に口付けた。


 一瞬、何が起きたか分からず潤は目を見開く。

 が、遅れて気付くと彼女は全身の毛を逆立たせ、反射的にビーの顔面を殴った。


「なッ……にしやがんだ貴様!!」


 怒りと羞恥心とで顔を赤らめた潤が、拳を握りしめてわなわなと震わせた。左手には、ごぽごぽと音を立てながら大量の水を呼び出している。


「てっめぇ……本気でただじゃおかねぇぞ。一発二発じゃ済まねえ、二度とその減らず口たたけねーように叩きのめしてやる!!!」

「そう。……それでいい」


 殴られた箇所を手で拭い、ビーは満足げに呟いた。



「貴女は、二度とこんな真似ができないよう。

 僕が、叩きのめしてあげます」



 言って、彼もまた左手を構えた。

 二人の理術が、部屋の真ん中で激突し弾ける。







 がちゃん、と勢いよく地下室の扉が開く。息を切らして立っていたのは、先ほど戻ったばかりの京也だ。


「何、してんだよ。……あんた」

「あぁ、ようやくの到着ですか。お帰りなさい、ヴィオ」

「何やってんだよ、お前!」


 京也はビーへ怒鳴った。無意識のうちに彼は件の刀を呼び出している。左手にその鞘の硬さを感じ、彼は力任せにそれを握り締めた。


 がらんとした地下室の練習場。その中心には、物憂げな表情で座り込んでいるビー、そして傍らに力尽き倒れ込んでいる潤がいた。

 ビーは京也へゆるゆると視線を向けると、何を分かり切ったことを、とでも言わんばかりに気怠げに答える。


「何って。御覧の通り、侵入者に制裁を加えていただけですが」

「そうじゃない、あんたはさっきなんて言った? 僕が杏季ちゃんを連れて来さえすれば、月谷は無事に帰すって約束だっただろうが!」

「一片たりとも傷つけず、などとは言っていませんよ。ただ『無事に解放する』と言ったまでのこと。まぁ、無事という定義の差異により見解の違いはあるかもしれませんが。彼女はちゃんと『無事に生きて』います。

 それに大体、僕がいい加減止めようとしたのにそれでも食いかかってきたのは彼女の方だ。僕だってこんなに力を浪費するつもりはなかった」

「……あんたは。やっぱり、そういう奴だよ」


 京也はぎり、と歯を食いしばりながら彼を睨めつけた。

 緩慢な仕草でビーは立ち上がると、隣に倒れる潤をじっと見下ろした。その後でまたゆっくりと背筋を伸ばしてから、ビーはいつも以上に事務的で平坦な口調でもって告げる。


「今日の夕方には白原杏季を解放します。その時になったら連絡致しますので、彼女を連れ帰ってください。その際にこちらから攻撃は仕掛けませんからご安心を。ヴィオが僕らと関わるのはそれで最後ですね。

 あなたを失うことになったのは非常に残念ですが、こうなってしまった以上は仕方ありませんね」


 京也の横をすり抜け、ビーは出口へ歩いていく。京也はビーに斬りかかりたい衝動に駆られたが、感情の高ぶりを抑え込み刀を持つ手に意識を集中させて必死に耐えた。

 もしここで自分が何かすれば、それこそ潤と杏季がどうなるか分かったものではない。具現化した刀は彼の心情を理解したかのようにかちゃりと静かな音を立てた。


「彼女のことをお願いしますね。寝て起きればいつものように威勢の良い彼女に戻ると思いますから。もっとも、起きるまでに多少の時間はかかるかもしれませんけど」

「ビー」


 立ち去ろうとするビーを呼び止め、険しい表情のまま京也は問いかける。


「お前は、こんなことまでして一体何がしたい。月谷や杏季ちゃんを、無関係の奴らを巻き込んで傷つけてまで、お前は願いを叶えたいのか」

「無関係、……ね」


 ビーは振り向き、疲れ切った表情を取り繕おうともせず、諦めたような口調で告げる。


「貴方には分からないでしょう。僕に貴方たちの事が理解できないのと同じように、貴方に僕が理解できるとは思わない。理解してもらおうとも思わない。

 ……ただ、そうですね」


 一瞬の間をおいて、ビーはぽつりと付け加える。


「当事者のくせいつまでも弱いままを許しているのも、無関係の人間が自分事として勝手に首を突っ込んでくるのも。

 僕は、どうしようもなく無性に苛々するんですよ」


 そこまで言うと、ビーは再びきびすを返した。


「……彼女のこと、よろしくお願いします」


 独り言のように呟いて、ビーはそのまま部屋を後にする。

 地下室には、京也と眠っている潤だけが残された。

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