虚偽の海に沈む佳日(5)

「……参ったな」


 潤は途方に暮れて、小さく息を吐き出した。

 あらかた周囲を見て回ったが、入ってきた扉以外に別の出入口はない。扉は思いのほか頑丈で、簡単に壊せそうにはなかった。

 天井にはめ込まれた明り取りの窓には、開閉機能が付いていない。無理矢理壊すにしても、使えそうな道具は辺りに見当たらなかった。


 あいにくここもブレーカーが落ちているようで、明かりすら点かない。蒸した室内は、潤の頬から汗をしたたれ落とす。窓があるため完全な暗闇ではないが、薄暗い室内に取り残され少しばかり心細さを覚える。


「暗闇だと、幾分、威勢も削がれますか?」


 潤の背後から、冷たい声が響き渡った。

 はっと振り向くと、暗がりから姿を現したのは片手に携帯電話を持ち静かな微笑を湛えたビーである。


「ならば、明かりは点けずこのままにしておきましょうか、ディー。

 いいえ、……月谷潤さん」


 潤は自分でも驚くほど冷静なままで、にやりとビーへ笑ってみせた。


「参考までに、いつから気付いていたのか聞かせてもらってもかまわねーか?」

「疑わない方が無理というものでしょう。

 しかし。貴方が月谷恵だという事には疑問を抱いていませんでした。僕が疑っていたのは、月谷恵がスパイとしてここに来たのではないか、という事です」


 ビーは愉悦を込めた微笑を浮かべながら話を続ける。


「貴女の演技は完璧でしたよ。正直なところ、すっかり騙されてしまうところでした。そもそも実際に『月谷恵』は存在するのだから。普通はこんな長時間、男の姿を保つことなど不可能ですからね。

 僕が知ったのは、貴女とヴィオとの会話内容を知ったからです」

「どこでだよ。お前らの前ではバレるような会話、一言もしてなかった」

「貴女は気付かなかったと思いますが、このビルに入ってから僕らは常に貴女のことを見張っていました。月谷恵が本気で僕らの仲間になろうとしているのか、それとも月谷潤のスパイとして送り込まれたのかを見極めるためにね。

 まさか、本人が乗り込んで来ただなんて夢にも思わなかった」

「……趣味の悪い野郎だ」


 呟き、油断なく潤はビーを見据えた。

 ビーは手にしていた携帯電話を耳に付ける。


「そういう訳です、アルド。迂闊うかつに彼女に動き回られないよう、電気は点けずに。念のため扉は施錠してください」

『了解だよ』


 かちゃりと、鍵のかかる音がする。再び潤は密室に閉じ込められた。ただし、今度はビーと一緒に。

 携帯電話を切ると、ビーは真っ直ぐ潤に向き直った。


「さて、貴女の処遇ですが。

 勇敢にも、……いえ。無謀、ですか。単身、敵陣に乗り込んできたその覚悟はあるんでしょう?

 ……消えてもらいますよ」


 すっと真顔になり、ビーは冷やかな眼差しで潤を見つめる。彼の言葉に口を引くつかせ、潤はばきりと指を鳴らした。


「はん。いい度胸じゃねーか。消せるモンなら」


 ぐっと足に力を込め、潤は床を蹴る。


「消してみやがれ!」


 言いながら、潤はビーに向けて飛び出し、思い切り右の拳を振りかぶった。

 ガンと音を立てて彼女の拳が炸裂するが、潤が殴ったのはビーではない。彼女の手はビーに届かず、透明な壁のようなものに遮られている。



 ――……氷の壁!



 ビーは潤が飛び掛かって来ても顔色一つ変えていない。氷を殴って逆にダメージを受けた右手を掴み、潤は悪態を吐きながら飛び退る。

 と、飛び退いた先で背中がばんと壁に当たった。何事かと振り返れば、潤のすぐ背後にも同様に氷の壁がそびえ立っている。


「なんつー小賢こざかしい……」


 潤は顔をしかめて辺りを見回す。

 気付けば、いつの間にか彼女の四方は厚い氷の壁に囲まれていた。


氷牢ひょうろう。……もう逃げられませんよ?」


 周囲のみならず、天井も既に氷で塞がっている。さながら氷山の中にでも閉じ込められているよで、その状態は確かに氷牢と呼ぶに相応しかった。

 うだるような暑さの室内だったのに、今は氷から発せられる冷気でぞくりとする。先ほどかいた汗もあだになっているようだった。


「ご安心ください。さっきのアレはただの挑発。時間稼ぎですよ。貴女を其処に閉じ込めるための……ね。貴女は大事な人質ですから」

「人質?」

「ヴィオに僕はこう言いました。『白原杏季を連れて帰れば、月谷潤は助けてやる』とね」


 ビーの言葉に潤は舌打ちして顔をしかめた。彼女は歯を食いしばり、何とか壊せないものかとドンドンと氷を叩く。しかし氷の壁はびくともせず、ヒビすら入る様子はない。


「僕が一番困るのは、貴方が其処から逃げおおせる事です。貴女は重要な取引材料ですからね。そこで大人しくしていてください」


 だが大人しくする気の毛頭ない潤は、懲りずに氷を叩き続けている。そんな潤を眺めてビーはたしなめるように言った。


「よしなさい。その壁は頑丈ですよ? 素手で、ましてたかが女子高生の腕力では破壊など到底」


 言った矢先、潤は思い切り氷を殴りつける。

 派手に音が鳴り響き、みしりと氷が揺れるが、残念ながら壊すまでには至らない。

 一瞬、呆気にとられた後、ビーはふっと口元を緩めた。


「全く。気迫だけは敵いませんね。ですが、無駄です。

 威勢だけでは何もできない」


 言い捨てると、ビーはアルドと連絡を取り、扉を開けて外に出ていった。

 一人、氷牢の中に閉じ込められた潤は、扉を睨みつけながらぼやく。


「あんの野郎、行っちまいやがった。閉じ込めて安心ってか? ナメやがって」


 潤は眉間に皺を寄せたまま腕をぐるりと回す。流石に何度も氷を殴りつけたので、手が疲れ切っていた。

 一つ深呼吸して、潤は自分を閉じ込めた氷を見回す。壁の厚さはどこもほぼ均一であり、薄い箇所は見当たらない。天井もすっかり閉じられている。呼吸ができるくらいの配慮はされているのだろうが、抜け道はなさそうだった。


「……となりゃ、やっぱり」


 潤はポケットの中に手を入れ、を握りしめる。


「ブッ壊すしかねぇな」




 階段を上りかけていたビーは、不意にぴたりと立ち止まった。

 電話でビーからの指示を受けていたアルドは、急に止んだ声を不審に思って尋ねる。


『どうしたの、ビー?』

「アルド、すみませんがもう一度扉を開けてもらえますか?」

『……何かトラブった?』

「戻って様子を確認します。僕が室内に入ったら再び施錠し、こちらから連絡するまで扉は開けないように」


 そう告げて、ビーはきびすを返した。




 急ぎ足で戻り地下室の扉を開け、ビーは括目かつもくする。

 部屋の中心にあったはずの氷牢が崩れていた。壊された氷の破片が、あちこち室内に転がっている。

 一体どうやって、と驚愕したビーが室内に足を踏み入れると、彼の足首までが、とぷり、と水に浸かった。見れば、地下室の床はいつの間にか大量の水で満たされている。


 と、氷の影から水流が飛び出し、ビーに向けて襲い掛かった。突然のことで避けられず、水流はビーの腹部へもろに当たり、彼は体勢を崩す。けほっと咳をしながら顔を上げたビーは、彼女の姿を認め、合点したように笑みを浮かべた。


「いつの間に補助装置を盗み出したんです?」

「閉じ込められて、すぐだ」


 荒く呼吸をしながら、潤が答える。彼女の手には、指先のない黒い手袋――『補助装置』がはめられていた。

 見れば、全身がずぶ濡れの状態である。


「この大量の水……なるほど。牢に容量以上の水を内側に発生させ、内圧で突破した。そんなところですか。

 貴女、正気ですか? 『圧死』『溺死』……失敗すれば命の保証はありませんよ」


 彼の台詞には答えず、潤は呼吸を整えながらぽつりと言う。


「氷の壁か。……あっきーから聞いてるぜ。無抵抗の女子高生と遊ぶには随分なおもちゃじゃねぇか」


 きっとビーを睨みつけ、ただならぬ気迫をまとった潤は強く拳を握り締める。


「お前は絶対、ブン殴る!」

「勝つつもりですか? 僕に」


 彼は余裕の表情で挑発した。不意に潤の手元に視線をやったビーは、素早く距離を詰め彼女の左腕をじり上げる。


「成る程。……僕の知ってるものとは少し違いますが、貴女を今の状態たらしめているのは、コレが原因ですか」

「ッ……!」


 潤の腕の先にはめられている抑制具ジュールをビーは目の前に掲げた。更に彼はぐいと潤の左手を強く引く。潤は空いている右手で振りほどこうとしたが、ビーの空いた手が伸びてきてそちらを食い止めるのに使ってしまった。

 互いに互いを牽制けんせいした状態で二人の動きが止まる。


「これは貴女のところにいる護衛者さん辺りの入れ知恵ですか」

「お前に言う必要はねぇよ」


 ビーはにやりと笑みを浮かべ、手に力を込める。両手がふさがったビーは潤の左手を自分のほうへ引き寄せると、口でもってブレスレットを噛み切った。テクズが切れ、赤いビーズが音を立ててぱらぱらと床に散らばる。


 途端、白い煙が潤を取り巻いた。煙に惑わされ互いに手を離し、その隙にビーは二、三歩下がって彼女との間合いを取る。

 煙が収まり視界が開ければ、そこには元の姿に戻った月谷潤が立っていた。潤は目を細めながら、左手の抑制具があった場所をさすりつつビーを見据えている。


「これで貴女は本来の貴女に戻ったわけだ。

 知らないようだから親切にお教え致しますが、疾患発症時は通常より理術の力を発揮できません。後で知られて、それを理由に負けたと言い訳られるのも癪ですからね。貴女の全力が出せる状態でお相手してあげましょう。

 もっともさっきのような力技は、どうしても女の状態では劣ってしまうと思いますが」

「ぺらぺらぺらぺらとよく喋る野郎だな」


 女の姿に戻った潤は、それでも気迫は男の時と変わらぬままに、低い声でビーを睨みつけた。


御託ごたくはいいからさっさとかかってこいよ。犯罪者まがいの鬼畜メガネがよ」

「あなたは馬鹿ですね。ですが、……面白い」


 ビーはくっと口角を上げる。


「いいでしょう。受けて立ちますよ。

 果たして僕の『氷』と貴方の『水』、一体どちらが強い存在なのか。二度と忘れることが出来ないくらい、貴方のその身にたたき込んであげますよ」


 ごく静かに言い放って、ビーは左手を潤に向けて広げた。

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