白の街(2)

 白原杏季は憔悴しょうすいしていた。


 荷物を胸に抱え、炎天下の道路をひた走る。額からは玉のように汗が流れ落ちるが、拭う余裕はない。

 疲れてきた足がアスファルトの小さな出っ張りにつまずき、少しだけもつれる。

 そのすぐ横を、ひゅっと炎の玉がかすめた。


「いつまで追いかけっこを続けるおつもりですか?」


 至近距離に熱を感じて、杏季は喉の奥からかすれた叫びを上げた。同時に、冷淡なその声が思ったよりも近くから響いたことに、全身の血の気が引くのを感じる。


「無駄だということくらい、いい加減に分かっているでしょう。

 もっとも。貴方が必死に足掻あがこうとする気持ちも理解はできます。どうせまだ日は高い。僕がきるまでは付き合って差し上げましょう」


 声の中に交じる、彼女を嘲笑あざわらうような色。杏季を追って彼もまた道を急いでいるはずだが、その口調はどこまでも余裕だ。

 一寸たりとも余裕などない杏季は、決して後ろは振り向かず、ただただ必死に前へと進んだ。




 この日、杏季は本屋に行くため一人で街に出ていた。

 その帰り道に、人通りが少ない路地に入ったところで、彼女の前に二人の男子高校生が立ちはだかったのだ。

 その顔に見覚えはない。だが、


「――白原杏季、さん。ですね」


 眼鏡を掛けた男子高生は、ほとんど断定型で尋ねた。

 突然に男子から話しかけられたこと、そして見知らぬ人物に自分の名前を告げられたことで、二重に怯えてびくりと肩が跳ねる。


 見慣れた潤の背丈より更に高いところにある彼の顔を見上げると、冷ややかな視線が杏季に降り注いだ。


「少々、貴方の身柄をお借りしてもよろしいですか?

 無駄な抵抗は止めた方が無難です。痛い目に遭わずに済みますよ」


 不穏な言葉を言い放ち、彼はすっと左手を向けた。

 夏の日差しに上がった体温が一気に冷め、さあっと血の気が引く。


 次の瞬間、考えるよりも早く杏季は背を向けて逃げ出していた。


「……逃げる、か。そうでしょうね。

 しかし無駄です。アルド」


 眼鏡の男子高生の呼びかけに、傍らに無言でたたずんでいた男子高生が手を広げる。

 途端、アルドと呼ばれた男子高生の手から放たれたのは、人の頭ほどもある炎の塊。それは逃げる杏季の髪すれすれを、あおるように通り過ぎた。


 それから杏季は状況が飲み込めぬままに、背後から攻め来る攻撃をかわしつつ、路地裏を駆け続けている。




 混乱する頭で、杏季はこの二日間のことを断片的に思い返した。昨日の一件で彼らは引き下がったはずではなかったのか、と考えながら、杏季はとある単語を思い出す。



 ――『適合者』。そういえば、あの言葉が何なのかは、結局分からないままだ。



 その単語は春へではなく、杏季に向けて放たれていた。途中で聖精晶石に話が移ってしまったものの、事の発端はそちらだったのだ。

 何か別の目的があるのだろうか、と思案するも、逃げ延びながらでは思考はまとまらない。


 すると。

 突然、地面からぬっと白い壁が生えた。

 仰天し、慌てて止まろうとしたが間に合わず、したたかに体をぶつける。


 額をこすり、痛みを堪えながら杏季は体勢を整え、方向転換する。少しでも足止めになれば、と一昨日のように何十羽という鳥を呼び出して彼らにけしかけ、また彼女は別の道を走り出した。


 しかし。その先に広がっていたのは、杏季のよく知る路地ではなかった。


 道の両脇は先ほど杏季が激突した白い壁で覆われ、辺り一面が白の城壁で囲われたようになっている。白い通路がかもし出す威圧感とひんやりとした空気に、杏季はぞくりと身震いした。


 閉じ込められた訳ではない。だが、曲がり角があるはずの場所は随所で塞がれ、白い道はただ一方向にのみ伸びていた。


 彼らの意図に気付いて、杏季は唇を噛む。

 おそらくこの道は、彼らの本拠地かどこかへ繋がっているのだろう。だから彼らは全力で追っては来ないのだ。

 このままでは逃げたところで詰んでしまう。壁を壊さない限りは逃げ出せないが、杏季に壁を壊すすべはなかった。時間を掛ければ突破できるかもしれないが、彼らに追い付かれてしまう。



 ――私じゃ無理だ。けど、外側からなら――!



 考えるが早いか、杏季は一羽のカラスを呼び出す。彼女は自分のハンカチを取り出し、それをカラスの足に結び付ける。


「直彦。こっちゃんのところに行って、私のところまで連れて来てくれないかな。寮か学校近辺にいるはずだから。

 お願い、直彦!」


 言って、彼女はカラスを送り出した。その後で杏季は携帯電話を取りだし、一か八か震える手で通話ボタンを押した。数回のコール音の後に、電話が繋がる。


「もしもし、はったんですか?」






 動物を呼び出して度々足止めをしながら、杏季はひたすら逃げ惑う。

 だが、それも限界が来てしまった。


 行き止まり、である。


 ぜえ、と荒い息をついて杏季は呆然と目の前の壁を見上げた。辺りを見回しても続く道はどこにも見当たらない。

 白い壁の向こう側には何の変哲もないビルが建っているのが見える。しかし彼女の身長より二倍以上もある壁を乗り越えるすべはなく、向こう側の建物に助けを呼べそうな人影も見当たらない。

 背後から聞こえた足音に、青褪あおざめた顔で杏季は振り返った。


「お疲れのようですね。だから僕は忠告したのですよ。無駄だ、と。

 大人しく、来ていただけますね?」


 追いついて追跡者はそう告げて、左手を杏季の方へ向けた。

 思わず杏季は目を閉じる。



 ――あんな属性。初めて見たけど、あれは間違いなく……!




 覚悟した次の瞬間。



 感じたのは、暖かい水の飛沫ひまつと、目を閉じていても分かる閃光せんこう



 無意識に笑みがこみ上げ、杏季は半泣き半笑いで、行き止まりだったはずの壁を振り返った。

 そこに立っていたのは。


「ったく、天下の公道たる道路にこんなもん作りやがって。憲法でうんちゃらかんちゃら言われる公共の福祉に反するぞてめーら!」


 潤が壁の欠片を蹴飛ばした。春は壁の残骸をまたいで杏季の元へ歩み寄り、助け起こす。

 春は杏季をなだめるように撫でてから、真顔で彼らを睨め付ける。


「あんたたち、グレンとかヴィオだとか言ってた連中の仲間だね」

「存外に早いお着きですね。あと少しだったのですが」


 潤と春の登場に、眼鏡の少年は左手を下ろした。少しばかり残念そうな顔色で、しかし彼は両手を広げにこやかな口調で告げる。


「互いを知らないのも不便ですしね。ここらで名乗りでも挙げておきましょうか。

 僕はビー。こちらの相方はアルド。どうぞ、お見知りおきを。

 ああ、お二人は名乗らずとも構いませんよ。既に存じておりますので。

 ――畠中春さん、月谷潤さん」


 名を呼ばれ、二人の背からぞくりと冷たい汗が吹き出した。その狼狽ろうばいを見逃さずに笑んでみせてから、更にビーは続ける。


「貴方からご指摘を受けたとおり。昨日接触した彼らと、僕ら二人が所属する組織は同一のものです。

 そしてこの組織における現在の名目上のリーダー。それが、この僕です」


 ぴくりと三人は反応する。

 つまりは彼、ビーこそが、黒幕その人だ。


 春は先日グレンと話した内容を思い返す。組織の目的を知らない、と言っていた彼の表情は、嘘を付いているようには見えなかった。

 だが今、目の前にはその理由を確実に握る張本人がいる。


「あんたたちの目的は一体何? 目当ての聖精晶石はなくなった、あっきーを狙う意味なんてないでしょう」

「僕たちの狙いは聖精晶石だけではありません。

 いえ。そもそも一番の狙いは晶石ではなかった。僕が最も探し求めているのは『古の適合者』。それがおそらく彼女――白原杏季だ」


 ビーの言葉に杏季は身をすくめる。春は杏季をかばうように前へ出た。潤も春の隣に並ぶ。


「あっきーに何をしようっていうの。適合者ってどういうこと?」

「貴女たちが知る必要はありません。……しかし、そうですね。差し障りのない範囲で率直に申し上げますと。

 つまり、僕らの目的遂行に適合しうる素材であるかどうか確認し。適合した場合には、白原杏季を実験台として貸して頂きたい」

「は?」


 ビーの言葉に春は硬直する。それはもちろん潤も、当事者たる杏季も同様だった。耳を疑う台詞に、咄嗟とっさに反応すら出来ない。

 唇を歪めてビーは付け加える。


「不適合だった場合には、熨斗のしをつけてすぐにでもお返ししますよ。ただ、適合者だったなら。その時は彼女を当面の間お借りすることになりますが」

「……野郎」


 潤が無意識に拳を握りしめる。

 口より先に出たのは理術の方だった。潤と春、同時に二人が手を前に突き出す。

 雷と水とが絡み合って渦を成し、ビーとアルドとに襲いかかった。視界一面が理術で埋まる。


「はったん。あいつら、ぶっ潰すぞ!」

「当たり前でしょ! こちとら、まだ今日は晶石の効力が残ってんのよ!!」


 春は理術の勢いに負けじと叫んだ。

 不意打ちである最初の一撃、雷と水との集中砲火が止む。しかし彼らの前にはまたしても白い壁が出現しており、ビーに攻撃は届いていない。潤は舌打ちする。


「穏やかではありませんね。僕としては、もう少しお喋りをするのもやぶさかではなかったのですが。……仕方ありません」


 ビーは左手の指をパチンと鳴らす。

 彼の合図で、物陰からまた一人、少年が現れた。いつの間に、と言いたくなるほど静かに速やかに姿を現したその人物を見、潤は思わず息を止める。


 長髪にブレザーのあまり見ない風貌をした彼は、見紛うことなく昨日彼女らとまみえたヴィオその人だった。

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