夜は短し走れよ乙女(5)

 寮に辿り着くまであと僅か。もう数歩で寮の敷地内に逃げ込める、というところで。

 杏季は、びたんと音を立てて一人盛大に転んだ。


 それを見て、びくりと肩を震わせた人物が一人。


「お……俺じゃないよな? 今の、俺の所為じゃないよね?」

「…………」


 寮の敷地の門前にて待ち受けていたワイトは、口を少しばかり引きつらせて尋ねた。しかし杏季からは何も返答がない。

 本人の進言したように、ワイトは現時点で特に何も攻撃などはしてはいなかった。だがあまりのタイミングの良さに、思わず自分を疑ったらしい。


 杏季は涙目で顔を上げるが、立ち上がるまでの気力はないようだった。上半身だけかろうじて起こし、だがワイトのことは直視せずに目を逸らしたまま固まる。その目にはあからさまな怯えが見て取れた。


「何か、前にもこの状況見たことがあるような……」


 頬をかいて、ワイトは独りごちた。花火大会での邂逅かいこうが彼の頭をよぎるが、生憎と彼女の方にはその偶然を驚く余裕すらないらしい。そもそも二人の置かれた立場からして、暢気のんきに再会の挨拶ができる状況ではない。

 気を取り直して、ワイトはまた口を開く。


「さっきも思ったんだけどさ。音に対する耐性がほとんどないだろ」

「…………」

「他の三人に比べて君が弱いのは仕方ないけど、それにしても弱すぎだろ。理術だけじゃなく日常でも音に影響受けやすいんじゃないの?」

「…………」

「大して力使ってないってゆーか、ここまで引きずるほど術の出力あげてないんだけど」

「…………」

「ほら、花火大会ん時だってアレ花火の音とかで驚いて転んだとか」

「…………」

「いやあの、うん。俺のこと覚えてない?」

「…………」

「怒ってる?」

「…………」

「あの、何かゴメンナサイ」

「…………」

「…………」

「…………」

「頼むから何か喋って下さい……!」

「…………」


 相変わらず杏季は黙りこくったまま視線を伏せ、子犬のようにびくついた眼差しを浮かべるばかりだった。塀に寄りかかりながら、ワイトは参ったように額に手をやる。


「何か、すっごい罪悪感……」


 その左手には、グレンと同様に黒い手袋がはめられている。彼は眉間に皺を寄せてそれに視線をやると、自分の手と杏季とを交互に見比べてから、そっと手袋を外し懐にしまった。


 彼はしばらく黙って杏季を眺めていたが、やがて彼女に近付き、少し離れた位置でしゃがみ込んだ。びくりと杏季は身を強張こわばらせる。


「ねぇ、喋って」

「…………」

「会話しようよ」

「…………」

「あの、心と心のキャッチボールが一方通行なんだけど」

「…………」

「このままじゃ俺、一人で勝手にスポーツテストのボール投げになっちゃうから」

「…………」

「構図的にコレ俺がいじめてるみたいじゃん。……いや、確かに状況的にそれに近い感じになっちゃってるけどさ」

「…………」

「あれ、不安になってきた。俺、日本語喋ってるよね?」

「…………」

「ハロー、ボンジュール、ニィハオ、ボンジョルノ、……えー、アニョハセヨ、グーテンターク、モルジブジャマイカベラルーシ」

「…………」

「……大丈夫?」


 耐えかねてワイトは杏季の顔を覗き込んだ。彼女は「ヒッ」と喉まで出かかった悲鳴を必死で飲み込む。視線を逸らすが、この至近距離ではほとんど意味をなさない。後退あとずさりをしたかったが、腰が抜けてしまい動くことすらできなかった。


 彼女はしばらく口を引きつらせ、ぱくぱくと声にならない声を発していたが。

 やがて、もう耐えられない、とばかりに目を閉じてうつむいた。

 そのまま彼女は、胸元で小さく両手を広げる。


「――!?」


 不意を突かれ、ワイトは言葉を失う。

 杏季の周囲を取り囲むようにあちらこちらから煙が立ち上り、動物の召喚される軽快な音が夜の路地に鳴り響いた――。






「……何があったの」


 ヴィオとグレンも一緒に引き連れ、ようやく杏季の元に辿り着いた三人は、目の前の光景に目を疑う。


「いや、ホント」


 春がうわ言のように呟いた。

 潤は目をこすってから、それがやはり現実のものであると認識して怪訝に眉を寄せる。

 グレンも引き気味に表情を強張らせて。


「どういうことだよっ!?」

「何があったあっきー!?」


 グレンと春は同時に叫んで、思わず顔を見合わせた。


 寮の前に鎮座していたのは、みっしりと密集して固まる数十匹もの猫たち。

 巨大な猫団子の中心に埋まる杏季の姿だった。


「さっきの坊やといい、カメラ持ってくればよかったな……あぁでも夜だからキツいか」

「うん全くもってそういう状況じゃないけど、そんな君も可愛いぞなっちゃん!」


 動じない奈由におののきつつも、潤は拳を握って頷いた。


「何これ? 何? ツッコんでいいところ? どういうこと!?」

「どうもこうも、かれこれ数分はこの状態でして」


 混乱した春の言に、猫団子の隅で猫じゃらしを振っていたワイトが立ち上がった。

 思わず春は彼に噛み付く。


「いやいやいや、つぅかあなたもなんなの! 別に攻撃して欲しかないけど、あっきーを追ってたんじゃなかったの!? 何でねこじゃらし振ってんだよ!」

「そりゃ追ってたよ。でも、俺だって出来んのは足止めぐらいだしさ。俺は俺で、寮の中に逃げ込まれないよう見張りつつ、グレンを待つしかできなかったんだよ」


 ワイトはぴょこぴょこと猫じゃらしを振りながら飄々ひょうひょうと言ってのけた。

 ため息を吐き出して、春は疲れたように肩を落とす。




 しばらく後ろで様子を窺っていたヴィオは、おずおずと杏季へ近寄った。


「君が、白原杏季ちゃんか」


 傍目はために見て分かる程度に、杏季の肩がぴくりと動く。その衝撃で猫たちは一斉に飛び上がり、ほうぼうに逃げ出した。むき出しになってしまった杏季もまた驚いて振り返る。その拍子にヴィオと目が合ってしまい、彼女はまた固まった。


「怖い思いをさせて申し訳ない。突然な事ばかりで戸惑ってるだろうけど、話をさせてくれないか」

「……ひっ」


 杏季は息を飲んだ。

 目を逸らすことも出来ぬまま、座った状態でずりずり後ずさり。

 そのまま、拒絶するように両手を前へ突き出す。



「と……とりさーん!!!」



 弾かれたように杏季は叫んだ。

 彼女の高い声が辺り一帯にこだまする。



「は?」

「え?」

「ん?」

「あ」

「うわ」

「……聞こえるね」



 彼女たちの耳に届いたのは、ギャアギャアという耳障みみざわりな鳴き声。そして幾羽もの鳥の羽音であった。一羽や二羽ではない。


「鳥って、夜は駄目なのではなかったでしたっけ」

「甘いねつっきー。鳥目とは言うけれども、夜に目が見える鳥は多いし、夜行性の鳥だって珍しくはないよ」

「ほほおう、流石なっちゃん」


 周囲は闇に包まれておりはっきりとは見えない。しかし彼女たちもずっと暗がりに居るため、目は慣れている。

 上空では、無数の影が飛び交っているのが分かった。闇に紛れる黒い羽に、大きめの体躯。この場の誰しもが見知った鳥類、カラスである。


 そのカラスたちが、一斉に地面に向け降下する。


「ぎょええええええええええっ!?」


 誰にともなく彼女たちは逃げ惑い、散った。走りながらふと潤はひらめき、声を挙げる。


「そ、そうだこの隙に! でかしたあっきー、今のうちに寮に撤退しろお前ら!」

「りょ、りょうかいいいっ!」


 走り回りながら彼女たちは寮に飛び込んだ。出遅れたとみえ、グレンたちの妨害はない。後から気付かれはしたが、流石に女子寮の中にまでは立ち入れないとみえた。


「覚えてやがれ、このド三流ども!!」


 潤は捨て台詞を彼らに投げ付け、そのままがちゃりと鍵を閉めた。




 しばらくすると、術を使った杏季がいなくなったためか鳥たちは散り散りになって去っていった。

 ようやく足を止め、ヴィオは息を整えて額をぬぐう。


「しゃーない。今日のところは退散するしかないな」

「どうする気なんだよ」

「交渉するさ。他に何があるんだい」

「本当だったとして、易々とあいつらが渡すとでも思うのか」

「様子を見る限りじゃ、彼女たちも自覚しちゃいない。自分に不要と分かったら、渡してくれる可能性だってゼロじゃないと思うけどね」

「それでも。……白原が適合者じゃないと確定したわけじゃねぇからな」

「くどいぞ、グレン。彼女は適合者じゃない。これ以上、無関係な人間を追い回すなよ」

「…………」


 唇を噛み締め、グレンは黙り込んだ。



 時計の針は既にだいぶ遅い時間帯を示していた。夜空に浮かんだ夏の大三角は天井を通過し、西へと下がり始めている。今日という日も終わりに近い。




 だが。

 彼女たちの長きにわたる物語は、この日からようやく幕を開けたのだった。

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