1章:来訪者とウーパールーパー

夏と花火と私の刺客(1)

――2005年8月15日、夕刻。




「もう疲れたよーあっきぃいー」

「つっきー、しゃんと立ってよー! 着付けできないじゃん!」

「だからぁ、私は浴衣じゃなく甚平でいいって言ってるじゃん」

「駄目! あれ元々は男性用なんだからね。浴衣着るの! ほらここちょっと押さえてて」

「ちぇーケチー」


 頬を膨らませながら潤がぼやくが、背筋を伸ばして言われるがまま浴衣を押さえる。すかさず杏季は彼女の胴に手を回し、手際よく腰紐を締めた。


 制服だった四人は、花火大会に備え浴衣に着替えているところだった。白地に牡丹柄の浴衣へ早々とに着替え終えた杏季が、潤に着付を行っている。

 最初は自前の浴衣がないからと渋っていた潤だが、寮母の計らいで一式準備されてしまい観念したようだ。今は大人しく紺の万寿菊柄の浴衣に袖を通していた。


 杏季と同様に手際よく紫の麻の葉模様の浴衣を着た春は、奈由の着付をしている。

 そして、奈由はといえば。


「ぷーちゃんはどこへ消えた。この夏最大のミステリーですよこれは!!!」

「なっちゃんもう諦めろ。そして落ち着け」


 奈由に赤い帯を巻き付けながら春がたしなめた。自分の羽織った浴衣に咲く白い椿を睨みつけながら、奈由は尚も言い募る。


「だって、うちらが目を離したのって蜘蛛を退治してたほんのちょっとじゃん。なのに、いなくなっちゃうなんておかしいよ」

「確かにそうだけどね。見つからなかった分にはどうしようもないからさ」

「うー……!」


 呻き声を上げ、悔しげに奈由は拳を握った。


 蜘蛛を退治した後、奈由が浮き足立ちながら舞台に戻ると、プラナリアの姿は忽然こつぜんと消えていた。辺りを捜索したがどこにも姿は見当たらず、寮に戻ってからも彼女は未練がましく繰り返しえているのだった。


「さて、できたっと」


 奈由の帯を整え終えた春は満足そうに頷いた。残るは潤一人だ。

 広げた風呂敷を片付けながら、春は杏季に尋ねる。


「あっきー、そろそろ終わりそう?」

「もう終わるよー」

「よし。じゃあ終わったら悪代官ごっこするから、つっきーをこっち寄越してね」

「分かったー」

「おい待て何を言ってんだお前ら」


 されるがままになっている潤だったが、聞き捨てならないやりとりに思わず目をいた。春はきょとんとした表情で、わざとらしく口元に手を添える。


「え? やらないの?」

「何驚いてんだよ! やらねぇよ! せっかく着たのに何考えてんだ貴様!」

「だって浴衣や着物を着たら悪代官ごっこは鉄板じゃないか」

「鉄板なのはお前だけだよ!」


 帯を整えながら、杏季が余計なことを言う。


「大丈夫だよつっきー。解かれてもまた着付けてあげるから」

「そしてまた解いてあげるから」

「貴様は黙れ変態メガネ」


 潤に凄まれるが、春がめげる様子はない。彼女は携帯電話を手に掴むと、素早く潤の背後に回り、パシャリとシャッターを音をさせた。

 怪訝けげんな顔で潤は春を睨む。


「おい何やってんだお前」

「写真を撮りましたが、なにか?」

「『なにか』じゃねぇ! 何撮ってんだよ!?」

「タラシの美しいうなじですが、なにか」

「『なにか』じゃねぇぇぇ!!!」


 叫んでいる側から、別のシャッター音が聞こえる。

 音のした方を振り向くと、奈由が一眼レフのカメラを構えているところだった。


「……奈由さん何を?」

「写真を撮りましたがなにか」

「『なにか』じゃなくてね!?」

「因みに襟元からチラっと見えている鎖骨ですがなにか」

「『なにか』じゃなくてねぇぇぇ!? なっちゃああああん!?」

「だってほら、タラシの写真なら売れるかと思って」


 奈由はポーカーフェイスのままぐっと親指を立てた。

 タラシと呼ばれるだけあって、潤は同輩後輩問わず女子からの人気が高い。以前にも奈由は彼女の好物であるチョコと引き換えに潤の写真を取引きした前科があった。

 春は思わずガッツポーズをする。


「なっちゃんグッジョブ! 後で写真ください!」

「コアラのマーチかアルフォート一箱で送る」

「了解した!」

「当人の前で何取引きしてんの!?

 そして! あっきー! さっきから帯ずっとごそごそ調整してるけど、わざと作業遅らせてるだろ!」

「あ、バレた?」

「バレないでかこんの十歳児ィィィ!!!」


 動けないのをいいことに、遊ばれ放題の潤だった。




 潤をからかって一通り満足したらしき春は、彼女の支度が終わるのを待ちながら、ぼんやりと窓の外を眺めた。夏の日はまだ高く外は十分明るかったが、夕暮れ時の太陽は影法師を長く伸ばし始めている。


 寮があるのは裏通りの為、人通りはほとんどない。だが視線を上げて少し遠くの道路を眺めれば、浴衣を来た人たちがそぞろ歩いているのが二階の窓からよく見える。彼女たちと同じく、花火大会に向かうのだろう。


 しばらく人々の流れを観察した後で、ふと視線をまた窓の下へ落とすと。先ほどまでは誰もいなかった裏通りを一人の男性が歩いているのが見えた。

 春は、目を瞬かせる。


「……何? あの人」


 思わず、そう呟いた。


 三十度を超えるという真夏日だというのに、上から下まで全身黒のスーツ。クールビズが提唱される昨今ながら、ネクタイはおろか上着まできっちりと着込んでいる。上着の下に来ているシャツも黒なら帽子も黒、革靴も黒だったが、ネクタイの色だけは毒々しいまでに鮮やかな赤だった。


 黒いサングラスをかけているのは夏だから分かるとしても、それが余計に怪しさを際だたせている。耳にはヘッドホンを付け、楽しそうに鼻歌を歌っているのが微かに彼女のところまで聞こえてきた。


「どうしたのはったん?」


 着付けが終わった潤含め、彼女の声に反応した三人が窓辺までやってくると、やはり男性の異様さに目を見開いた。

 春を盾に半分身を隠すようにしながら窓を覗き込んでいた潤は、低い声で唸る。


「怪しい……。これはきっと、尋常でない陰謀とか作戦とか闇の組織的な何かが絡んでいるに違いない!」

「組織! かっこいい!」


 悪乗りに便乗した杏季が目を輝かせた。

 調子に乗った潤は拳を握りながら更に続ける。


「きっとあのヘッドホンからはボスからの指令が聞こえてくるんだ」

「ボス! かっこいい! 何の指令?」

「それは、あれだ。敵の組織に潜入的な!」


 二人で盛り上がり、奈由は呆れてそれを眺める。

 春一人が男から目を離せずにいると、不意に彼は顔を上げた。


 そして彼女たちが覗く窓に視線を移し、春と目が合う。


 ぎょっとして春は身をすくめた。だが突然のことで、今更隠れることもできずにそのままの体勢で固まる。


 男はふっと微かに口を動かした。

 何事かを喋っているように見えるが、声までは聞こえない。

 やがて男はきびすを返すと、何事もなかったかのようにその場を立ち去った。


 春は弾かれたように飛びすさり、窓と反対側の壁際まで退避する。


「何事はったん!?」

「い、いや……。なんか、こっち見て喋ってた……」


 潤の問いに、上擦った声で春が訴えた。三人は一斉に視線を窓に戻す。

 だが既に、そこに男の姿ははなかった。


「何て言ってたの?」

「そこまでは。口パクじゃなく、何かしら喋ってたのは確かなんだけどなぁ……」


 いぶかしげに春もまた窓まで近付いた。

 しかし窓の外にはいつも通り、何の変哲もない見慣れた風景が広がるばかりだった。






「何て言ったかって?」


 寮の前を通り過ぎてから、男は彼女たちから死角となる場所で立ち止まる。

 周りには、男以外に誰もいない。

 帽子のつばをつまみ、誰にともなく男は語りかける。



「嫌だなぁ。それくらい察してくれなければ困るじゃないか、マイフェアレイディ。

 俺は、『ようこそ。そして、ご愁傷様』……って、言ったんだよ」



 やおら振り返り、彼は空を仰ぐ。

 視線の先にあるのは、四人の住まう舞橋女子高校の寮。



「乱れ舞い給えよ、諸君。盛大に壮大に豪快に痛快に派手に踊手になってくれ給え。

 そうして、精々目を眩ましておくれ」



 帽子の下から、彼は不気味な笑みを浮かべた。

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