白原杏季という十歳児

「蜘蛛さんの巣に引っかかって宙吊りになっちゃった。へるぷ」

「あっきー、そういう重要な事案ははにかまないでもっと早く言おう? 食われるよ!?」


 奈由は珍しく大きな声を上げた。

 見れば、杏季の足首と手首に半透明の糸が絡みつき、彼女は逆さにしただるま浮きのような体勢で固まっている。どうやら足首にかかった糸を自力で外そうとして、ドツボにはまったらしい。

 杏季は背が小さく、吹けば飛びそうな頼りない体躯をしている。それも手伝ってか、糸に引っ張られほとんど宙に浮いていた。


 慌てて三人がかりで救出を図る。杏季の二の舞いを避けるため手では触れず、手近にあったパイプ椅子を振り回して巣につながる糸を切り離し、どうにか粘性のある糸を引き剥がした。


「いやあ。一人でなんとかしようと思ったんだけど、駄目だったよー。皆にこれ言ったら蜘蛛さんに不利かなーと思って」

「裁判の証言とかじゃないからね!? 種族も言語も違う以上、和解の道は難しいと思うよ!? これ放っとくと捕食されるとこだよ!?」


 春に叱られながらも、杏季は暢気に笑った。


 杏季を手伝って残った糸の残骸を取り除きながら、奈由はちらりと天井を見上げた。

 蜘蛛は巣にかかった獲物の振動に反応する。しかし蜘蛛は入口付近からほとんど動いた形跡がない。こちらとしては幸いではあるが、気付いていないのだろうか、と奈由は首を傾げた。


 杏季を解放した後、潤は天井の蜘蛛を見据えて腕組みする。


「やりたかねーけど仕方ないな。放っとくとこっちが危ない」

「そうだね。さっさとしないと薬の効き目だっていつまで保つか分からないしさ」


 潤と春の会話で奈由は意識をこちらに戻し、今度はじっと自分の手の平を眺める。


「薬、……ねぇ」

「どうしたの、なっちゃん?」

「……いや、今はとりあえずいいや。そうだね、早く片付けないと」


 奈由は首を振って、話を戻した。

 しばらく四人で方策を思案していたが、ふと春は杏季へ提案する。


「そうだ、あっきー。なんか蜘蛛の天敵とか呼び出せない?」

「なるほど! 了解なのです!」


 腕まくりして杏季は張り切る。


「頑張るよ! モニター料二千円分働く!」

「あっきー即物的な台詞は控えよう君のイメージじゃない!」

「今日のクレープ代と今度出るN先生の小説の新刊代!」

「具体的ぃ!」


 モニター料二千円に惹かれて承諾したところの杏季は、早速両手を広げ、手の平を上空に向ける。


「かもーん、蜘蛛さんの天敵!」


 ぽん、という音がして杏季の頭上から煙が上がった。煙の中から、杏季に呼び出された生き物が姿を現す。

 巨大蜘蛛と対抗してか、普通よりはかなり大きめサイズの美しい色をした、



 蝶だった。



「待て待て待て待てチョウチョって! 蝶って!」

「でっかいクモさんに対抗して、でっかいちょーちょさん!」

「対抗できねぇぇぇ! やられる! 確実に蜘蛛に喰われるわ!」


 潤の言葉にあどけなく答えた杏季へ、春が彼女の誤りを的確に指摘する。


「あっきーソレ蜘蛛『の』天敵じゃない! 蜘蛛『が』天敵だ!」

「……ああ!」

「『ああ』じゃねぇよこんの十歳児がァァァ!」


 頭を抱えて潤が叫んだ。

 杏季は両の拳を握りながら必死に言い訳する。


「十歳じゃないもん!

 だって蜘蛛といったら蝶でセットなイメージが!」

「確かに分かるけど力関係が逆! 無理!

 いいからあっきー戻して! このままじゃ目の前で蜘蛛が蝶を食べるとこアップで目撃するグロいことになっちゃうから! 昆虫学者もびっくりな展開だから!」


 春に促され、慌てて杏季は蝶を引っ込めた。

 丁寧に春は彼女へ言い含める。


「今度は天敵を間違えないで出してね。ハブとマングースでいうマングースの方だからね」

「うん、分かった!」


 杏季は笑顔でまた両手を掲げる。やけに自信たっぷりの彼女の口調に、春はどことなく嫌な予感がした。


「ていっ!」


 またあのポンという軽快な音がして煙と共に出てきたのは、体長30センチほどのマングースだった。

 春の予感は的中した。


「戻しなさい!」

「貴様何も考えてないだろ十歳児!?」

「十歳じゃないもん!」

「いいや貴様は十歳児だこんの十歳児が!!!」

「うわあああああああん!」


 潤は杏季の頭を押さえ込んでぐりぐりと彼女の髪の毛をかき乱した。




 頭が悪い、というほどではない。ただ、杏季はしばしば思考が猪突猛進で、非常に単純極まりない発言・行動をしてしまう傾向があった。

 天然、というよりは子どもじみた言動が多いことから、そして彼女があどけない童顔であることも手伝って、よく友人からは子ども扱いされる。

 故に『十歳児』。

 なお古属性であることも関係してか、彼女は動物全般に愛着を抱いている。奈由に代わり、脊椎せきつい動物を愛でるのはもっぱら杏季の担当である。




 潤に解放された後、杏季は仰々しく腕組みして今度はきちんと考え込む。やがて不意に舞台から飛び降りると、両手を前に突き出してまた生き物を召喚した。

 現れたのは鷹。杏季は二言三言、鷹に囁き、天井に向けて放つ。


「とりあえず、巣を小さくすれば逃げるところが少なくなるかなって思ったんだけど」

「地味だけど効果的だぜでかしたあっきー」

「地味じゃないよー! あと十歳児じゃないもん!」


 潤が指を鳴らした。

 一飛びで天井に辿り着いた鷹は早速、巣を破壊しにかかっていた。足場が減り、必然的に蜘蛛の動けるスペースは狭くなる。

 巣を張り直すには時間がかかる。時間は稼げるだろう。


「じゃあ、次は詰めで」


 やる気を出した奈由も舞台から飛び降りると、右手をすっと伸ばして、下から上にすくい上げるように手を動かす。

 彼女の手の動きに合わせるように、窓の近くの床から細い蔓がにょきりと生え、壁伝いに成長し始めた。

 春が冷や汗をかきながら呟く。


「また床から蔓が……」

「大丈夫、はじっこだから誤魔化せばなんとかなる」


 涼しい顔で奈由はうそぶいた。

 春はひとまず今の事実を忘れることにする。


 奈由の伸ばした蔓はやがて天井まで達すると、蜘蛛を捕らえ脚の一本一本に絡みつき、相手の動きを止めた。


「はい、拘束しました」

「うおっしゃ! 得意げな君も可愛いぞなっちゃん!」


 潤が快哉かいさいを上げて拳を握った。


「じゃあ、あーとーはー私が蜘蛛に止めを刺すだけ、っと。……ってうわっ!」


 勇んで前へ進み出ようとした潤の首根っこを春が掴んだ。潤は含みある笑顔で春の方を振り向く。


「……何かなあ、はったん?」

「いやあ。つっきーよりも私が行った方がいいかな、と思いまして」


 春は潤の肩にぽんと手を置き、取って付けたような笑顔で言う。


「ほら、水だと下に落ちてきちゃうし、水かかるとつっきー大変じゃん? だけど電撃だったら後腐れないし床濡れないし」

「いや大丈夫だよこれしき。はったんの手を煩わせるまでもないさ!」

「何言ってるんだい、今までの虫退治で疲れてるだろう? つっきーは休んでなよ、私がやっとくからさ!」

「大丈夫、潤さんは疲れ知らずだから。それにほら、さっきのはただの余興だろ? 本番はこれからじゃねーか」


 二人はふっと真顔になり、本性を出してまくし立てはじめた。


「お前、私の出番盗るんじゃねーよ! いくら雷が派手で格好いいからってなめんじゃねーぞ! そんなに私が活躍するのが憎いか!? 潤さんの勇姿が憎いのか貴様!?」

「自惚れてんじゃねぇよ! 雷だったら確実に仕留められるじゃん! 水じゃ弱らせるだけ! つうかそれだけじゃないし! これ以上、学校の設備を痛めるんじゃあない!」

「虫は水に弱いんだよ! 水ン中で生きてられるのは魚ぐらいだろ! それに水だし汚れるわけじゃないしちゃっと掃除すりゃいいじゃんか別に!」

「誰が掃除すると思ってんだようちら三人もやる羽目になるだろうが! それにじわじわ水でいたぶって殺すなんて、この変態!」

「正真正銘の変態に言われたかねーよこの変態が!」

「うるさいよこの変態腐れピエロタラシが!」

「だから変態はてめーだろうがよ変態メガネ!!」


 潤と春は殺気だった目で睨み合いながら、じりじりと舞台端ににじり寄る。


「月谷に」

「春に」


 二人は幕を押しのけて舞台から飛び降りると、天井に向けて同時に攻撃を放った。



「見せ場を取られてたまるかぁぁっ!」



 派手な音を立て、二人の攻撃が天井の蜘蛛に炸裂さくれつする。

 天井に向かって伸びる水流と電流。標的の巨大蜘蛛をしかととらえ、絡み合って攻撃している。だが攻撃が激しすぎて、蜘蛛本体がどうなっているのかは視認できない。


「馬鹿が二人いる……」


 自分の言動は棚に上げ、呆れた表情で奈由はぼんやりと二人を眺めた。

 杏季は心配そうに視線の先を天井に定めたまま、すすすと奈由の側に近寄る。


「ねえ、なっちゃん。確か水って、電気分解で水素と酸素に分かれるんだよね」

「そうだよ」

「……あの蜘蛛さんがいる辺り照明があるけど、爆発とかしないかな? 理系だし、二人とも考えてるとは思うけ」


 杏季がまだ言い切らないうち。

 派手な爆発音がし、体育館中に鈍い音が反響した。衝撃で、びりりと足下にはまった窓ガラスが震える。

 体育館という場所柄、広い空間であったのが幸いであった。壁は無事であり、窓ガラスも割れてはいない。

 照明がいくつかと、天井付近が煤けてしまったのを除けば、であるが。


「考えてないから爆発したのではないでしょうか」


 静まりかえってから、遅れて奈由がそう呟いた。

 唖然として硬直する彼女たちの側に、からんと乾いた音を立てて金属片が落ちた。

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