第2話~鬼と猫と~

 匀昧咲楽ひとまいさくらは繁華街を抜けた先にある公園のトイレに駆け込んでいた。さきほど見た信じがたい光景のせいで気が動転し、胃液が逆流したためだ。しかし個室に入り、しばらくえずいていても、出るものはなかった。

「どういうこと?」

 改めて咲楽はつぶやく。さきほどの光景、巨大な、豹のようなしかしあれは猫だった。直感で咲楽はそれがわかった。闇夜に金色に輝く瞳、よくしなる高い敏捷性を備えていると一目でわかる肢体、そして、二つに分かれた尻尾……。

 それが、二人の男を殺した。鋭い爪と、牙とで。自分に声をかけてきた二人の男は、憐れ、一瞬のうちに肉塊へと姿を変えた。あんなことが、現実に起こったというのか……。咲楽は恐怖の反面、夢見心地でもあった。

 ははは、と微苦笑する。

「すごい、すごい、すごい、すごいじゃん」

 退屈な日常に、刹那の爆発、信じたがい超現実が舞い込んだのだ。それを目の前で目撃した。男二人と遊べなかったのは惜しいが、まだまだこの若い美貌は残っているのだ、これからも充分楽しめるだろう。だが、あの超現実を目の当たりにする機会はもうないだろう。それが惜しく思う。

 もう大人だろうと言われつつ、子供扱いされる理不尽な社会、自分は他のものとは違うという特別性を希求する願望。すべてがすべて、同年代のものならば抱きうる思春期で経験する通過儀礼……、咲楽だってそんなことは百も承知している。自分は特別だと思い込みたい、そうすることで自分を確かめる行為。けれどそれは結局誰もが抱きうる凡百の思考。

「わかってる、わかってるんだよ」

 だから自分が特別であると認識したい、そのためにおしゃれに気を遣い、高いポテンシャルを持っているハイクラスな同性と交わり、異性に科を作り華麗な経験を掴もうとしている。若さゆえの特権をフルに活かして、自分の価値を確かめている最中なのだ。

 けれどどこかで無理をしている自分がいて、その自分が自分に訴えてくるのだ、もうやめて、もう限界だよ、休んでいいんだよ、自分らしくいていいんだよ……と。

「ふざけんな……私はまだまだやれるんだ」

さきほどの経験はそんな自分に喝を入れるかのように鮮烈な記憶として衝撃を与えてくれた。

鋭く一閃される爪が、牙が、しなる肢体が、輝く金色の瞳が、すべてがすべて、すごかった。普通の人間では経験できない、見ることもできないほど強烈で特別なショーだった。

 また見れるだろうか。そんな機会はもうないと戒める声なき声を跳ね除けて、咲楽はこれみよがしに疑問符を吐き捨てる。

 咲楽は歪に微笑む。

 恐怖と、期待とが綯交ぜになった、それは歪な笑顔だった。



「ラッキーだったね、あの猫ちゃん見つかって」

 満木沫夜みちるぎあわやはジャンボパフェを心底美味しそうに頬張りながら口にする。

「あぁ……でももう一つのお目当ては外したけどな」

 散地瑠希亜ちるちるきあはパスタを食べ終え、一息ついたところだ。

 深夜のファミレスに、青年と少女が二人、ボックス席に着いて語らっている。沫夜はいまはフードを外している。一応の礼儀は弁えているつもりだ。

 迷い猫を探して飼い主に送り届けた報酬で、今夜の食事にありつけた。猫は数時間前にとある路地裏で発見した。その路地裏では、もう一つのお目当てである絵門定経へと通じる堕鬼との戦闘を終えたもののそちらは無駄骨に終わった。

「でも猫って家につくっていうでしょ? 逃げ出したってことはよっぽどいたくなかった、ってことだと思う?」沫夜がバニラとフレークを一緒に食べて訊ねる。

「知らんわ」

「九回死ぬとも言うね、猫って身近にいるのにどこか神秘的で人になつきにくいし、犬に比べてもわかりにくいもんねー、それで昔の人は猫に関していろんな想像を加えて化け猫とか、猫又とか、そうそう、ケット・シーなんて幻想も作ったんだねー、パフェ、美味しいぜ」

「さよけ……それよりも、絵門定経に関しての手がかりがまた不発に終わったわけだが……、どうだこのあたりで、あるか?」

 瑠希亜は財布を取り出しつつ、沫夜に訊ねる。

「んー、っと、ちょっと待ってくれよ……」残りのパフェをグラスごと傾けて一気に流し込む沫夜。「んー、んー」ごっくんと嚥下して、満面の笑みで、「美味いぜ!」朗らかに宣言した。

「おい……」

「冗談だよ、冗談」

「いや違う」

おちゃらける沫夜を制する瑠希亜。

「んー?」

 瑠希亜が真剣な眼差しで見つめる方向へ、それとなく視線を転じる沫夜。

 そこには一人の少女がいた。少女といっても沫夜よりは年上で、着ている制服で中学生か高校生だということがわかる。

「何、あの娘がどうかしたん?」

「におうな」

「んー、匂いはしないと思うけど……。どうするの? ナンパ?」

「誰がするかよ」

「そうだよね、子持ちししゃもじゃあ締まりがない」

「誰が子持ちししゃもだ、お前は俺の子供じゃないだろう」

「そんなこと言ったら子供はグレます」

「勝手にグレてろ」

「こんちくしょーグレてやるぅー、特大パフェ、再・注・文!」

 沫夜は元気よく挙手した。



 匀昧咲楽は深夜のファミレスに入った。とりあえず落ち着く場所が欲しかった。数時間前に見たあの鮮烈の光景のために、一人でいるのが怖かったのだ。けれど家には帰れない、親と喧嘩して出てきてしまったためだ。家を飛び出してもう何日目だろう。既に数えることを止めてしまった。

 ファミレスに入ると「おひとりですか」と訊ねられたので、こくりと頷き、「お好きな席にどうぞ」と適当に言われる。直ぐ後ろにもう一人客が入ってきたがそちらは無視されていた。どういう接客態度なのだ、と思ったが、自分ではないのでこちらも無視を決め込んだ。

 奥のガラス張りの壁に沿って設えられたボックス席に腰を落ち着ける。後ろには二十歳くらいの男と、少女という組み合わせの客。少女は咲楽よりも年下であることは間違いない。どういう組み合わせだろうか。兄妹、には見えないし、恋人なのだとしたらちょっとどうか、まぁ自分には関係ない話だ、と、窓ガラスを見つつぼんやり考える。

 すると、窓ガラスの向こうに、不可思議な影の集団が映り込む。明かりのある店内に邪魔されつつも、咲楽にははっきりと見えた。甲冑を身にまとい、兜を締め、帯刀している、そう武士のような集団を。中には矢を突き立て、血糊をべったりとつけているものもいる。よく見ると、甲冑や兜も破損しているものが多い。

 そればかりではなく、それらの間に、ぬっと現れたものに目が釘付けになる。

 よくしなる肢体、黄金の瞳をぎらつかせ、二つに分たれた尻尾を持ち、いまは見えないけれど鋭い牙と爪を持つ、それはさきほど見た圧倒的な超現実。巨大な豹のような猫だった。

 咲楽は呆気に取られた。何なのだ。この異形の行列は。道行くものは誰も気に留めていないように見える。しかし咲楽は目が離せない。急いで立ち上がり、店内を駆けていく。閑散とした店内では誰も咲楽のことを気に留めない。ただ一組、咲楽の後ろに座っていた、青年と少女の組み合わせだけは、咲楽のことを、意識して見つめているように見えた。



 ファミレスを出て、咲楽は行列する集団を見つけ、尾行することにした。あの豹のような猫が気になった。あの猫についていけば、またあの非現実的な光景を拝むことができるのではないか、恐ろしさもあったがそれよりも好奇心の方が勝った。

 甲冑に兜という物々しい格好の行列はファミレスのある路地を突き進む。このあたりは通行人もさほどいないのだが、何人かは見かけた。しかしその誰も、この行列に対して何も言わないことが、咲楽は気になっていた。

 行列は無言で行進を続ける。まるで統制のとれた軍隊のように。それにしても、甲冑に穴が空き、血糊を塗した姿は、痛々しい。そんな行列に紛れているあの猫は、一体何者なのだろう? どうしてあれを豹ではなく、猫であると確信しているのか。豹もネコ科ではあるが、あれは間違いなく猫そのものであるという確信が、咲楽にはある。

 行列は進む。一糸乱れぬ調子で。

 やがて、森林公園へと一団は入っていく。繁華街の近くにある市民の憩いの場所として提供されている公園だった。

 遊具や砂場のある区画を抜け、芝生のある広場へ入ったところで、猫が一鳴きする。

 外見にそぐわぬ甲高い声だった。

 咲楽は木の陰に隠れて、事の成り行きを観察する。

 猫がまた鳴く。遠吠えするように、その後は何度もそれを繰り返す。

 何度目かの鳴き声が響いたあと、広場に異変が起きた。

 空間全体が脈打つように震えたかと思うと、今度は地面がボコボコと泡立つ。目を見張る咲楽。地面に亀裂が入り、腕が生える。腕は空間をさまよいもがき、もう一方の手を地面より生やしやがて顔、肩、胴体、下半身まで這い出してくる。着ているものは粗末な着物で、頭に血糊がついていた。

 咲楽は、猫の鳴き声に不思議な昂揚感を抱いていた。自分のやる気が鼓舞されるような、勇気をもらえるような、不思議な感覚。また二人の男を殺したような惨状を見ることができるのではないか、そう思っているためかもしれない。

 地面からはいまなお、沢山の手や足が突き出し、生えてきている。不明瞭な言葉が地面から聞こえてくる。まるで地獄の底から漏れ聞こえるような、それは不快さを伴う音色だったが、咲楽には耳心地の良いBGMだと感じられた。自分は壊れてしまったのだろうか、と咲楽は思う。

 突き出した手や足の持ち主は、主に甲冑に兜姿、他には質素な着物を着た男や女、子供だった。まるで時代劇のように、咲楽には思えた。時代劇とゾンビ映画とが不自然に重なったような違和感。とにかくすごいことが起こりそうな予感もまたひとしおだった。

 もう少し近づいて様子を見たい、そう思いおそるおそる一歩踏み出した咲楽だったが、巨大な猫が、咲楽のいる方を振り返ったことで背筋が凍る。

 バレてしまったか、と……。

 しかし猫が見ていたのは咲楽とは違う方向だった。思わず咲楽もそちらへ目を向けてしまう。

 そこには、Tシャツにスラックスというラフな格好をした男と、袖なしパーカーのフードを被った少女が立っていた。いつからそこにいたのだろうか、咲楽がいる場所からほぼ真横、数メートルくらいの位置に、彼らはいる。

「やぁ、化け猫さん、これはいったい、何の集会でございましょうか?」

 男が胡乱な態度で、豹のような巨大な猫に訊ねる。

「うわぁー化け猫って、僕、初めて見たよ、意外にフツーだね」

 少女は棒つきキャンディーを舐めながら楽しそうに感想を口にする。

 化け猫と呼ばれた豹のような猫は、二人の闖入者を鋭く冷たい黄金の眼で射抜き、舌なめずりする。まるで獲物がかかったとでもいうように。

「お前が本体か? 死者を操って何をするつもりだい?」男、散地瑠希亜は悠然と化け猫へと近づく。「ま、あんたの目的はいいわ……それより、絵門定経えもんさだけいって、知ってるかい?」

 えもんさだけい? いやそれよりもあんな丸腰で、化け猫に向かって言って大丈夫なのだろうか、咲楽は男性を心配する。

「それとも、そっち……」瑠希亜は咲楽へ目をやって、「あんたの方が本体かい?」

 ほんたい? さきほどから疑問符ばかりが頭につく咲楽。

「私は別に……」

 なんだというのだろう、自分でもよくわからない、そもそもこれは現実か、それとも夢なのか……。咲楽は困惑する。頭が痛くなる、まるで、何かを忘れているように感じるこの違和感は、なんだ?

「えもんさだけい……」その名前に、自分は聞き覚えがある。咲楽は頭を押さえる。「えもん……鬼……、堕鬼……、猫鬼……呪い……」自分の口から漏れる言葉が、しかし自分でわからない。一体全体、自分はどうしたというのだろう……咲楽は木の幹にふらつく半身を預ける。

「あんたが本体か……」

瑠希亜は鋭い目つきで咲楽へと近づこうとする。

 その瑠希亜の前に立ち塞がったのは、さきほどの位置から一瞬で跳躍移動した化け猫、猫鬼だった。よく見るとその猫の両目の上、眉のあたりには一対の角が生えているのが見えた。

「おぉ、ご主人様を守ろうとするなんて、立派に躾けられているじゃないか、お姉さん?」

「ご主人様?」咲楽は頭を抱えたまま、後退りする。「わけがわかんない……あんた、誰?」

 猫鬼と相対した瑠希亜は、相手を牽制しつつ、名乗りを上げる。

「俺は散地瑠希亜……、一介の鬼、やらせてもらってます」



 自らを鬼と堂々と名乗った男は、後ろに控えていた少女、満木沫夜に「頼む」と声をかける。沫夜は首筋にかけていたチェーンを胸元から引っ張り出す。年代物の懐中時計だった。「あんま無茶すんなよ」と年上に対して砕けた口調で言うと、懐中時計を瑠希亜の方へ放る。すると瑠希亜を包むほどに巨大化した文字盤の幻影が表出、瑠希亜はそこへ右手を、そして右足、最後に左足を通す。引っ込めた右手、両足は、紫色に変色し、瑠希亜本来のものよりも一回り大きく筋肉の発達したものとなっていた。鋭い爪は黒く鈍く、園内の常夜灯の光を反射する。心なしか、全身陽炎が立ち込めたように青白く歪んで見えた。

「ひっ」引き攣りを起こした咲楽は、その場に座り込んでしまう。

 気づけば空間に出現していた巨大な文字盤は消失し、いつの間にか少女の手元にもとの懐中時計として戻っていた。

「ありゃりゃ、だいぶ侵食されてるねー、特に右手と左足」

 沫夜が瑠希亜の変体を見て、顔をしかめる。

「酷使してるからな、でもまぁ、まだまだ制御はできるから……いまのうちはな」

 猫鬼は、相手の変化に上半身を沈めて臨戦態勢を取ることで対応する。喉を威嚇で唸らせ、全身の毛が逆立つ。

「さて、と……制御が利くうちに、聞きたいことも訊いておくか」

 瑠希亜の言葉に、ぷぷぷぅーと、空気を吹き出す沫夜。

「それ、さいっこー、マジグッド」

「うっさい」期せずしてギャグを言ってしまった照れ隠しにぞんざいな態度を取る瑠希亜。「さっさと始めるぞ……、あんた、フシューフシュー言ってる化け猫に隠れているあんたに訊くよ」

 ビクッと尻餅をついたままの咲楽が驚く。謎の青年は自分をご指名のようだ。

「な、何か?」

「さっきも言ったけど、あんた、絵門定経って、知ってるか?」

「えもん……さだけい……」

咲楽の頭がかち割れそうな痛みを発する。

「鬼譲りの白煙ってうそぶいているおっさんなんだが、あんた、そいつからこの化け猫を譲られたんじゃない? 化け猫っていうか、鬼を、さ」

 鬼……。咲楽は猫鬼の向こうに見え隠れしている男の右手と両足を見る。紫色に変色し、筋骨逞しいものへと変貌を遂げている。さらに全身を青白い燐光が覆っており、周囲にその余波を与えているのか、同色の鱗粉のようなものが幻想的に滞空している。

「あなた……鬼……」

「そう、俺、鬼……」

 咲楽のたどたどしい問いかけに、瑠希亜は準備体操しながら答える。

「さて、と……あんたの質問に答えたんだ、こっちの質問にも答えてくれ」

「質問……」鬼譲りのはくえん、えもんさだけい……自分は、知っているのか。咲楽はいまだ疼く頭痛を押さえつけるように掌で頭を掴む。「私は……、違う、知らない」

 声を荒らげて、「もううんざりなんだよ、こんな代わり映えのない現実が、毎日毎日同じことの繰り返し、大人になったと言ったおんなじ口でまだ子供だと言われる……どいつもこいつも……あれもこれも禁止して、親の同意がなきゃなんにもさしてくれねー」

 平凡で退屈で、半端な年齢の自分には、何にもできなくて……咲楽は、日頃溜め込んだ鬱憤を、目の前の男に吐き出す。咲楽の怒号に呼応するように、猫鬼は唸り声を強める。そしてその唸り声に反応し、その場に居合わせた武士や平民たちが、瑠希亜と咲楽の間に割って入る。

 やれ、やってしまえ、あの二人組の男のように。

 咲楽は心の底で、そう願った。

 目の前の鬼を名乗る、異形の腕と足を持つ男を、その腕と足ごと千切って殺してしまえ。

 集団は咲楽の無言の命令を聞き届けたように、一斉に瑠希亜へと襲いかかる。

 


 一振り、二振りと一閃される剣筋を、ギリギリまで引きつけて紙一重で躱していく瑠希亜。野武士然とした男の一閃をひらり、甲冑も兜もボロボロの武士の一閃をひらり。徒手の平民の攻撃はいわずもがな。そして、躱したそばから、右手、右足を振りかざす。すると、武士たちは呆気なく砕けて、砂になって消えてしまう。

「あんま持たないんじゃないの、こいつら?」

 瑠希亜は軽口を叩く。

 ひらりひらりと襲い来る武士たちの刀を、平民たちの徒手を、体捌きだけで躱す。

「そういやこの辺、昔、野戦場だったんじゃないっけ?」

 沫夜がキャンディーを舐めて誰にともなく訊ねる。

「なるほど? それでこうして死者の駒を揃えて回っている、ってわけね」

 駒? 野戦場? 死者?

 咲楽は、言われてみて初めて、ハッとする。

 目の前で乱舞する連中は誰も彼も、生気を感じない、落ち窪んだ眼に、痩けた頬、中には骨が剥き出しになったり木乃伊のようになったりしているものもいる。ついている血糊はじゃあ本物なのか、咲楽はいまさらながらにゾッとする。

 さきほど地面から這い出てきた武士や平民のような質素な着物姿の人間たちも、目玉が飛び出ていたり、頭がカチ割られていたり、腕がもげていたり……。

 歩く死体が、目の前にゴロゴロしている。

 何、これは、何?

 咲楽は頭痛など忘れて、目の前の狂乱に、ぼぅっと見入ってしまった。

 そのうちの一体が、咲楽の膝下に飛ばされてきた。

「う……うぅ、う……」

 何事かを訴えかけているように呻くそれは、両方の眼球が抜け落ちていた。プルプルと震える手を、咲楽に差し伸べる。呻き声が、咲楽を凍りつかせる。手が、咲楽の膝に触れようとしたとき、ボロボロと、ゾンビの身が崩れていく。砂で固めた泥人形が壊れるように、ボロボロと、人の形をした何かが、崩れていく。流されていく。小さな砂のような粒子となって。

 その間にもなお鬼の手足を持つ男と、生命なき乱舞する死体との戦闘は続く。

 瑠希亜が鬼の手を振るうごとに、青白い弓形の斬撃があとに残る。次から次へと生ける屍は自分を捨石のようにして瑠希亜へ特攻をかけていく。しかしそのどれもが、彼を止めることはできず、一撃の下、再び地へと還される。巨大な猫鬼はその様子をじっと観察しているように微動さえしない。

「ねぇ」

 突如、咲楽の耳元で、声がした。

「はい?」

 思わず返事をしてしまってから気づいた。

 座り込んだ咲楽の真横に、さきほどまで数メートルは離れていた少女がフードにぽっかりと覆われた顔を咲楽に近づけて、座り込んでいたのだ。口元にはキャンディーの棒。

「お姉さん、どこでこの怪異を手に入れたの?」

「怪異……、って、あの猫のこと?」

「うーん、まぁ正確にいえば、猫じゃなくて、鬼なんだけどね……さっき、瑠希亜が言ったように……絵門定経っていう、白煙の鬼譲りの通り名で知られている男が、方々で鬼を人に譲り渡して歩いているらしいのね。んで、僕たちはそいつを探しているってすんぽー」

「鬼を譲る……、えもん……、おっさん……」

 困惑気味に頭を抱える咲楽に、どうにもおかしいとその様を凝視する沫夜。

 ちらと、戦闘を続ける瑠希亜と、ゾンビたち、そして、猫鬼へと視線を向ける。

「……、あれは、運命奏者の猫鬼」

「はい?」

 咲楽は耳慣れぬ言葉に、思わず反射的に疑問を口にする。

「昔から猫は死を司るものとして神秘的な存在とされてきたんだけど、あれが司っているのは、人の持つ、運命なんだ」

「運命?」

 こくりと頷き沫夜は続ける。「対象者の持っている運命を操作して、その人の望む幸福をもたらすんだ」

「じゃあ、いいものなの?」

 フルフルと顔を左右に振る沫夜。

「その逆。あいつは対象者の持つ運命を好き勝手気ままに操作して本来なら分散されて存在している運命を一所に集めたり、好きな分量をネコババしたりするの……あいつを制御することはできない、勝手気ままな性質を持っているから。たとえばいまに幸運を集めてしまうと、本来なら小さな運に守られていたはずの事故に遭わないで通れる道で、大事故を引き起こしてしまうこともある、本来手に入るものが元からなかったことにされてしまうことだってあるんだ……」

「でも私はいまのところそんな幸福……」

 言いさして、咲楽はハッとする。二人組の男……彼らが豹のような化け猫に襲われたとき、スカッとした。超常的なものを目の当たりにした昂揚感、あれは、私にとって幸福が舞い降りたようなものといえる? そして、死者の群れを率いての行軍と、死者の蘇生という歪な現象……。咲楽の望む超現実的、非現実的なそれは、咲楽が分配して受け取るはずだった幸福を無理矢理いまに集結して得られているのか。

「心当たりがあるんだね……。あんまり驚かせてしまって申し訳ないんだけど、昔、あなたのように猫鬼に憑依された人がいたんだ。その人は、運命を使い果たしたと自覚して、自殺しちゃったんだよ」

 自殺。

 自分の死。

 咲楽は目を剥く。

 それでは非日常も日常も、一切感得できない、完全なる無。

 目の前に群れを成す死者を見ても、とても自分があぁはなりたいとは思わない。自分のことを単なる捨て石のように、いやそんなことさえ考えられずにただただ死に向かっていく、あんな存在に、自分は絶対になりたくない。

「どうすればいいの?」

咲楽は少女に縋りつく。「どうすれば、あの化け猫を自分から切り離せるの? あの人にやっつけてもらえばいいの?」

「んー、このまま瑠希亜が戦い続けると、猫鬼はあなたの持つ運命を燃料として次々に使ってしまう……」思案顔で咲楽とゾンビたちを交互に見る沫夜。「あのー、こんなときにあれだけど……、あなた、絵門定経、本当のところは知ってるよね?」

「絵門定経……うん、思い出した。どうして忘れていたのかわかんないけど、私、そいつから鬼を譲られた。いつものように繁華街をうろついてたら、そいつから話しかけられて、不満があるなら、鬼となって好き勝手すればいい、って……。最初は胡散臭い宗教みたいなもんだと思ったんだけど、その日はつまらなくて、つい出来心で了承して……」

ペラペラと呆気なく話し始める咲楽。

「それで?」

「それで、そのおっさんが手を翳したらそれでもう終わり……最後は、自分の名前は絵門定経だ、って言い残して去っていった」

「そっか、じゃあ、あいつの居場所は知らないんだ」

「は? ちょっと、それじゃあ私を見殺しにする気?」

 沫夜としては他意なく言ったつもりの言葉に、過剰に反応する咲楽。

「見殺し……」沫夜は意味深につぶやき、咲楽の全身を見渡す。「えぇっと、あなたの名前は?」

「私は、咲楽……匀昧咲楽」

「さくらさん……、あなた、自分の状態を把握してる?」

「状態? 状態、って……化け猫に取り憑かれて、私の運命を使って人を襲ったり、死人を復活させたりしてんでしょ?」

 沫夜は一瞬、言葉が詰まる。

「どういう意味?」咲楽はおそるおそる訊ねる。 

 沫夜は言いにくそうに、けれど意を決して真実を口にする。

「さくらさん、あなたは霊体……既に生きている状態ではないんだよ」



「霊……、ってじゃあ、私はもう死んでるってこと? は? だってこうして生きてるじゃん、あんたと会話してるし……。だって、ナンパもされたし、ファミレスで接客までされたじゃん?」

「んー、ナンパのほうはよくわかんないけど、ファミレスのときにあなたは誰にも認知されてなかったよ。あなたが入店するのを僕たち見てたけど、接客されたのはあなたじゃなくて、あなたの直ぐ後に入ってきた人。ひょっとしてナンパも別の人があなたと重なっていたか、直ぐ後ろにいて、その人がナンパされた、とか? もしくは、ナンパされる、されたあとにあなたの願いがあって、それを聞き届けた猫鬼が一時的にあなたの姿を人に見えるようにした、とか」

「何を言って……、死んでる? 私が?」

 あの、おぞましいゾンビたちのように? 咲楽は血の気が引くのを感じた。この感覚も、生きている実感も、すべて、偽物?

「運命奏者によって運命が操作されると、本来とは違う運命を辿ることになって、記憶の混濁をきたしたり、周りにも時間の歪みが現れたりすることもあるんだ……たぶん、さくらさんが絵門定経のことを思い出せないとか、自分が死んだことを忘れていたのは、そのせい」

「死んでる人間からでも、燃料……になる運命は取り出せるの?」

 咲楽は、その表現であっているのかわからないが、聞かずにはいられなかった。

「うん、人間が死んだあとにもその人の運が残っていることはざらなんだ。あのゾンビたちの運だって、まだ残っていて、それを補助燃料として使って操作している部分もある。いまの状態を含めて、さくらさんの願いだったのかもしれないね。少なくとも、あの猫鬼が暴走しているようには見えないから、ひょっとしたら……」

 沫夜は咲楽の肩に手を伸ばす。

 すっ、と、手は咲楽の身体を擦りぬける。

 息を呑む咲楽。

「まさか……」

「さくらさん、猫鬼に、いますぐにあのゾンビたちの動きを止めるように命令してみてくれる?」

「え?」

「さくらさんが、自分が亡くなったあとにも生前のように振る舞えるように願っていて、それを猫鬼が聞き入れていたのだとしたら、まだあなたのいうことを聞くかもしれないね」

 呆然と少女を眺める咲楽だったが、意を決して、化け猫を睨む。

すぅーっと息を吸い込み、全身全霊で絶叫する。

「もう止めてぇー!」

 しんと、辺りが静寂に包まれる。

 巨大な猫が、後ろを振り返る。

 ゾンビたちが一時停止する。

「もう、止めて……」

 涙声で、咲楽はお願いをする。

「止まった?」

戦闘していた瑠希亜もまた、ゾンビたちの群れに囲まれながら、動きを止めた。臨戦態勢を解除まではせずに。

 猫鬼が二又の尾をくねらせる。まるで蛇のように。

 それから、身を翻し、咲楽と向き合う。

 直後、異変に気づき、咲楽は目を細め、それを凝視した。

 沫夜も直ぐにそれに気づく。

 黒い猫の、それは斑のように見えた。猫の首筋から横腹にかけて、肌色のものが露出して見える。少なくとも少し前まではなかった、斑が。

 咲楽も、沫夜も、目を見開く。

 斑だと思ったものは、人の顔だったのだ。

 それも、どこか咲楽とよく似た面差しの、人の顔。

「なんだ、どうした?」

 位置的に見えない瑠希亜だけが、場違いな声を上げた。



「お母さん?」

 咲楽はたどたどしく言葉にする。

 化け猫の側面から顔を出しているのは、母親ではないか、咲楽はそう認識した。目の前の状況が素直に把握できずにフリーズしてしまった。

「え、お母さん?」

 沫夜も面食らったように咲楽に訊ねる。

「どういうこと?」

 沫夜も咲楽も、同時にお互いに確認を求める。

「んー、えぇっと……」口に咥えていた棒つきキャンディーを取り出して、宙で動かしてから、「うーんと、いま考えられる可能性としては、そもそも鬼に憑依されたのはさくらさんのお母さんだった。あとは、憑依されたのはやっぱりさくらさんで、あの状態になったのはお母さんに対して何らかの願いをして聞き届けられた結果……あとはなんだろう? そもそも、憑依された人と憑依したものが分離されているのもすっごく珍しいんだ……その点から行くと、憑依された人はさくらさんのお母さん、ってことになるけど、その場合、どうしてさくらさんに絵門定経の記憶があるのかが不思議だよね……」

「そんなことより、ねぇ、早くお母さんを助けてよ! あの化け猫から……」

 沫夜にしがみつく咲楽。

 がっしりと、沫夜の肩を掴める。

「ねぇ……お願い……」

 沫夜は不審顔になった。どうしていまは掴める。あるいは自分からなら物理現象に介入することができるのだろうか。いま、沫夜に対して懇願するために届けられた願いによるものだとしたら、やはり憑依されているのはさくらということになる。そもそもどうしてさきほどのお願いでゾンビも猫鬼も動きを止めたのだろうか。娘の絶叫に対して、親心が働いたため? 判然としない状態ながらも、沫夜は瑠希亜へ呼びかける。

「瑠希亜、いまのうち」

 一人、蚊帳の外に置かれて釈然としないが、沫夜のゴーサインに健気に従う瑠希亜。どんな事情があるにせよ、堕鬼や鬼は祓わなければならないのだ。そして、目指す目的、絵門定経へと至るために。

 動きを止めたゾンビの群れを、次々と薙ぎ倒していく瑠希亜。触れる必要さえない、鬼の手が鋭い斬撃を生み出し、その青白く閃く刃によりゾンビを切り刻んでいく。

 一体、また一体と、ゾンビは砂状の粒子となり、空気に溶けるように消えていく。

「すごい……」

 圧倒的現実を目の当たりにして、咲楽は昂揚感を抱いた。二人組の男が、目の前の巨大な豹のような猫に殺されたときのように。

「だめだよ!」

 突如、沫夜が咲楽に叫ぶ。

「え?」

「さくらさんが願えば、それに見合うだけの運を消費させられて、ほら」

 沫夜に促されて見ると、ゾンビの群れが互いに抱き付き合い、噛み付き合い、あらゆる手を使ってしがみつく。そして、数体からなる巨大な体躯となり、瑠希亜を取り囲む布陣をとる。

「私の、願いで?」

 いま、自分は何を願ったのだろう、と咲楽は述懐する。そうだ、この非現実的、圧倒的超現実がまだ見たい、もっと見たい、そう自分の欲望を貪るように考えたのだ。

「さくらさん、あなたの本当の願いは、何?」

「私の、本当の願い?」

「そう、あなたがこの場を何事もなく収めたいんだったら、そうできるんだよ? このままじゃあ、古戦場の亡霊だけじゃなくて、あなたの運が尽き果てるまで猫鬼は、亡霊を使役し続けちゃう……あなたの、一番強い望みは、何? それを強く願って、僕がそれを猫鬼に伝えるアシストをするよ」

 そう言われても……、咲楽は頭が停止していたようにぼんやりとしている。いきなり本当の願いと言われても……お金? 異性? 将来の仕事? 

「さくらさん?」

 目の前で暴徒と化した巨大なゾンビ、臨戦態勢を留めおく化け猫、自分に迫る少女、鬼だと名乗る青年……。

「あ」

 不意に、咲楽は思い出す。

「お母さん……」

 咲楽は両親と喧嘩していたのだ。正確に言えば、母親と。喧嘩の理由は思い出せない、些細なことだったという僅かに残る記憶。もともとむかついていたけれど、そのときになり爆発して、そして家を飛び出したんだ。大人だと言うわりに、あれもこれもやらせてくれない、夜のバイトが入ればまだ子供なんだからと言われ、彼氏といるところを見咎めて無理矢理別れさせられて……、どれが直接的な原因でもない。けれど、日々鬱憤が溜まり、そうして、いつかのあのとき、遂に爆発したのだ。

「どうして、忘れてたんだろう……」

 咲楽は、ぼそりとつぶやく。

 そんな年上の女性を、少女である沫夜はじっと待つ。咲楽自身が口を開くときを。それは状況を思えば最善の手とは言い難い、情を取った次善の策といえる。

「私、親と喧嘩したの……」母の激高した、しかしどこか物悲しそうな顔が頭によぎる。「それから、もうずっと会ってない……どのくらいだろう……」咲楽は身を屈めて、涙を溢れさせる。

 それから、顔を上げて、沫夜を見つめる。

「母に会いたい、会って、謝りたい」

 沫夜はうん、と言うように、頷く。

 沫夜はそっと自分の手を、咲楽の手へと伸ばす。

 あ、っと、咲楽が言いさしたが、沫夜は「大丈夫」と柔らかく告げる。

覚悟を決めて、咲楽も信じる。

触れられると。

 そっと、手と手が合わさる。

 触れられた。

 合わさる二人の手。

「さくらさん、いまからお母さんのこと、そしてお母さんに謝りたいと、強く願って。僕はその思いをダイレクトに、そして一番強い願いであると猫鬼に伝えるアシストを魔法でするから」

 魔法? 少女にどうしてそんなことができるのか、疑問に思ったが直ぐにそれを打ち消す咲楽。

「わかった、お願い」

「任せてよ! 僕、持ってるんだよ」

 運をね、と、ニヒルに笑って伝える沫夜。特徴的な八重歯がはっきりと見えた。

 この状況下でよく言えるなと思ったが、それは咲楽を励ますためのジョークなのだろう。

「私にも、あるんだね、運ってやつ」

 沫夜は咲楽の言葉にきょとんとするが、直ぐにわかる。運命奏者に出遭い、自分が持ちうる運命を遣い、自分の願望を成就させられる、それは本来自分が分配して授かるはずだった幸運を一つの願望のために消費するため往々にして何事もない一日が危険に晒され、やがて命を落とすことにもなりかねない。けれど同時に、運命奏者によって、誰にでも程度の差異こそあれ、運命があるのだ、と知ることができる。反面教師ともいえる。そうやって知ってしまったものほど、自分の運を過信して身を滅ぼす。ギャンブルと同じだ。

「もちろん……、運は誰にでもあるんだよ」

 にっこりと微笑む沫夜。「さぁ、願いに没入して、自分が願いになったつもりになって」

 目を閉じた沫夜に合わせ、咲楽も目を瞑る。

 いつかのあのとき、母が激高した瞬間、そして家を飛び出した苦い思い出を反芻したあと、謝りたい、感謝したい、そう、強く願う。

 散漫になりかける意識を、そっと願いに押し留める、気持ちいい感触が自分を包むのを、咲楽は感じる。これは現実で目の前にいる少女のものなのか……大丈夫だよ、大丈夫だよ、と、繰り返し、繰り返し、願いが横道にそれかける咲楽を手引きする。

 謝って許してもらえるの、自分は本当に悪いことをしたの、家に帰るよりも外にいるほうが楽しいじゃん、もっと非現実的な経験をしたいと思うでしょ?

 様々な咲楽が、咲楽をして咲楽を責め苛む。

 だめだよ、自分の願いを、しっかりと意識するんだ!

 少女の声が轟く。

 意識の中に、外界の不穏な空気が押し寄せる。底冷えするような不快感、これは、ゾンビの咆哮、そしてそれに応戦する青白いオーラ、さらにそれらの動きを悉に見極めている鋭い視線の靄……。その鋭い視線の靄の中に、一瞬だけ光る何かが見えた。

 いつもとは違う自分の意識の内側に、咲楽はいた。

 それはきっと、あの少女の意識と共にいるためだろう、どういう状態か、咲楽には言い難い感覚だが、どこかの空間に、自分とあの少女の意識が同時に存在している、といえばいいのだろうか。

 意識はなぜか、鋭い視線の靄に向かってしまう。その靄の向こうから、誰かが自分を見ているような……これは……、自分が薄らぐ感覚、咲楽は恐慌に来される。

 鋭い視線の靄が、自分へと襲いかかってきたからだ。止めて、意識の中で暴走する咲楽、沫夜の意識がそれを宥めるがしかし、咲楽は四方八方へと意識の絶叫を吐き散らす。止めて、来ないで、と。

 沫夜の意識が、咲楽の意識を抱くように重なる。

 咲楽はそれを必死になり引き剥がそうとする。

 押し合いへし合いしているうちに、お互いの意識が、混線した。

 咲楽はその瞬間、自分の死を覚悟する。

 鬼、だった。

 青白く透き通るような長髪、紫色の皮膚に、目の上から生える一対の角……、目を縁取るのは髪の毛と同じ色の青白いラインで眼窩には眼光のみが光っている、鋭く尖った犬歯、筋骨逞しい全身には漲るほどの生命力と、怒気。全身の輪郭を、青白いオーラが覆い、圧迫感に押しつぶされそうだった。

 自分がこれまでに見た、経験したどれとも違う、誰とも違う、圧倒的存在感、そして圧迫感……超現実、非現実の極みのようなそれは、鬼、と呼ぶに相応しい全形だった。両手両足は甲殻類を思わせる無骨な装飾に包まれている、その両手両足で、完膚なきまでに自分は打ちのめされているのだ。

 咲楽の上に跨り、ひたすらに両手を振り上げ、思い切り組み敷いた自分に打ち下ろす、それに飽きたのか今度はあらゆる角度から蹴り付け、押さえつけ、滅茶苦茶に破壊せんと暴力の限りを尽くす。

 鬼は白煙を口から漏らす。降りしきる雨のせいで、涙も唾液も血液も、何もかもが煙って曖昧になる。

 咲楽はけれど、自嘲気味に笑う。自分が死ぬことを望むように、最高の死に場所を見つけたとばかりに。いや、これは咲楽の記憶ではない、咲楽はいま、沫夜の意識、記憶を追体験しているのだ。ではこの鬼は、さきほど右手と両足を鬼のそれへと変化させた、あの男性だろうか、咲楽はそうあたりをつける。

 鬼が鷹揚に右手をたかだかと上げる。

 咲楽は、沫夜の意識に入った咲楽は、死を覚悟する。

 もう……ダメだ……お母さん、ごめんね……。

 もはや沫夜の追体験であるなどと思えず、ただただ死を待つ現実として咲楽の意識は認識していた。

 だが、振り上げられた右手は、一向に振り下ろされない。

 見ると、鬼は、哭いていた。

 おんおんと、大音響で。

 咲楽も、そして、沫夜も、泣いていた。



 時を同じくして、沫夜の意識は、咲楽の記憶を追体験していた。

 夜のバイトをして母親に怒鳴られ、うだつの上がらないけれど楽しい彼氏との間を見咎めた母親に無理矢理別れさせられ、理由もなく学校に行かずに反抗して……、大人扱いしてくれない親、その日は部屋の掃除をしていないと小言を言われたのがきっかけで、家から飛び出した。きっかけなんてどうでもいい、ただただ、親が面倒だった……日頃から溜め込んだ鬱憤を晴らすべく、歓楽街へ繰り出す。刹那の衝動に身を任せて、遊びに遊んだ。

 しかしその後も追体験していくうちに、沫夜は戦慄した。

 これは……どういうことだろう、と。

 夜のバイトを本格的に始め、前とは違う彼氏を作り、自分の中で満たされぬ部分を抱えてはいたが、それなりに楽しい日々を過ごしていた。高校は辞めたつもりだったがどうなったのかは知らない。満たされえぬ残りの部分、快楽に身をやつしても埋められない心の空洞を意識しないでもなかった。

 それが、あるとき、一件の着信が電話にあったことで一変する。

 父からの電話だった。

 出ずにいると、留守電が吹き込まれており、それを聞いたとき、沫夜は、いや、咲楽は愕然とする。母親が危篤状態だ、と。

(どういうことだ? それに、この人の年齢……)

 沫夜はしかし、分かり始めていた。

 そもそも、勘違いしているのだ、と。

 追体験の中で、咲楽は、吹き込まれていた病院の前まで行ったものの、あと一歩、勇気が出ずに結局、その日は一人で住むアパートに帰ってしまった。それが翌日、母は還らぬ人となった。咲楽は自分を呪った。どうしていいのかわからないから、とりあえず身近にいる自分を呪った、どうすれば良かったのだ、と。

 そんなとき、一人の中年とばったり遭遇した。

「よぉ」中年は軽い調子で手を振る。知り合いかと、記憶の中の咲楽は思う。けれど知らない人だ。「その晴らしようのない鬱憤晴らし、手伝ってやろうか? もうどうしようもない鬱憤なんだ、どうしようもない圧倒的な怪異に見舞われたら、ちっとはすっきりすんだろう? こっちもいい鬼分だから、プレゼントしちゃる」

 よくわからないが、もうどうでもよかった、けれどどうにかはしたかった。

 だから、記憶の中の咲楽は、その中年男の申し出を受諾した。鬼譲りの白煙と名乗ったその男は、自分は鬼に百遍行き当たり、憑依されたのだと嘯く、飄々としてとらえどころのない雰囲気だった。

 沫夜は意識体となりながらも、歯切しりするイメージで堪えた。目の前にいる、ずっと探し続けてきた男が、手を伸ばせば届きそうなほど近くに。けれどこれは記憶の追体験、さらにいえば、自分の記憶でさえない。何もできない、ただ映画を観るように、記憶を見るだけの、ちっぽけな存在に過ぎない。

 覚えてろよ、と、毒づく沫夜。

 目の前で肩を竦めてどこかへ消えていく男を見送りながら。

「もう終わったよん」とだけ言い残して、軽薄な男、絵門定経は去っていった。

 終わった? 咲楽は思う。

 思いもまた、沫夜に筒抜けになっている。

 視界を横切る細長いもの。フォーカスを合わせると、それは尻尾だった。二つに分かれた尻尾を持つ、仔猫。

 これが、あの巨大になる猫か、と沫夜は思う。

 こちらの思いは記憶の中の咲楽には通じない。

 一方通行の思念。

 それからの咲楽は、運を操作して博打に走り、欲しいものを手にし、ほとんど自分は動かずに他人を動かして優雅な生活を送るようになる。時折、衝動的に自分に擦り寄ってくるもの、危険性のあるものを、猫鬼の手にかけて非日常感を味わう日々。

 けれど、猫鬼に憑依される前に抱いていた、心のどこかの空洞だけは、いかに贅を尽くそうとも、消えてはくれなかった。

 そのうちに、これから分配されるはずだった運を使いすぎたことによる反動により、記憶に齟齬が生じ始める。

本来歩むはずだった未来が改変され、歩んだはずの過去の使っていなかった運までも消費せんと猫鬼が暴走を来したのだ。

やがて咲楽は、自分を見失い始める。その落しどころとなったのが、今現在の咲楽なのだ、と、沫夜は思い至る。

 咲楽は若々しい化粧を施し、格好をする。

 全身鏡でそんな自分を見つめて、若さはいまだけのものだと考える。

 しかしその鏡に映る咲楽は、咲楽自身が見ている姿、年齢とはかけ離れていることに、別人である沫夜は気づいていた。



 ハッとして、咲楽と沫夜は目を見開く。お互いがお互いを見合い、そして、どちらからともなく視線は猫鬼たちの方へ注がれる。

 いままさに、巨大なゾンビが横に真っ二つに切り裂かれたところだった。

 分裂した上下半身は、地に落ちるよりも前に、塵となって消え去る。

 その向こうで右手を払った状態で立っていたのは、自称仮の鬼、散地瑠希亜だ。

 瑠希亜を囲んでいた巨大なゾンビはすべて消え去っていた。残るは、巨大な猫鬼のみ。

「よう、戻ってきたか?」

 瑠希亜が声を張り上げて沫夜に訊ねる。

「おひさ」沫夜も軽い調子で応える。

 茫然として座り込んだまま、ただじっと、瑠希亜を見ている咲楽。

「鬼……」嫌悪感を抱かせる言い方を、咲楽はした。

 瑠希亜は沫夜へ「どうしたんだ?」と表情で示す。

「咲楽さん……、あいつは分離型の怪異じゃなかったんだね」沫夜が咲楽へと視線を戻して言う。

 咲楽は意味がわからず首を捻る。

「咲楽さん、あなたもまた、本体である匀昧咲楽さんによって作られた存在だったんだね」



「私が、私に作られた存在? どういう意味?」

 咲楽が沫夜に詰め寄ろうとする。しかしどういうわけか、今度は触ろうとしたのに触れず、指し伸ばした手は沫夜をすり抜けてしまう。

「あれ、どうして……さっきは触れたのに……」

「あなたが僕に触ることを、というより、真相に行き着くことを、猫鬼、ひいては本体の匀昧咲楽さんが望んでないから」

「私は望んでいるよ? 私が主人で、私の望みを聞いてくれる怪異っていうんでしょう?」

「そうだよ、猫鬼は主の望みを、主が持っている運命を操作して聞き届ける……でも咲楽さん、あなたは、猫鬼の主じゃないんだよ」

「どういうこと?」

「猫鬼の主は匀昧咲楽、それは間違いない」沫夜がゆっくりと確かめるように口にする。「でも、あなたは匀昧咲楽さんじゃない」

 咲楽は、自分が咲楽だと思っている咲楽は、困惑する。

「私が、匀昧咲楽じゃない? ってちょっとまって、いくらなんでもそれは……」

 そんなことはない。いくら記憶が曖昧になっているとはいえ、自分が自分であることさえ間違っているなどと、さすがにあるはずもないではないか。

「ううん、ごめんね、正確に言えば、あなたは匀昧咲楽さんだけど、匀昧咲楽さんの過去の幻影、みたいなものなんだと思う」

「過去の幻影? 私が……? 私の?」

 こくりと頷き沫夜は猫鬼の方を向き、「そうでしょう、今現在、本物の匀昧咲楽さん?」

 臨戦態勢を取り続けていた猫鬼はそこで身を弛緩させる。それから首筋から生える人間の顔を、沫夜と咲楽へと向ける。

 猫の側面に張り付いているのは、咲楽の母親の顔と瓜二つだった。

「あーぁ、バレちゃった」

 猫の顔の横に生える人の顔が、そう言葉を吐いた。

「本物の、私? お母さんが?」

 自分を咲楽だと思っていた存在が、わなわなと口を震わせる。

「私はあなた、正確にいえば、あなたの成れの果て……年を取ったあなたってわけ」

 自嘲気味に、人面は吐き捨てる。

「は? は? ちょっと待って、あれが、私の未来?」

「あれってひどくない? ってまぁ、しょーがないけどね……それから訂正すっけど、未来じゃなくて、いま、現在、匀昧咲楽は私一人、あんたはそっちのお嬢ちゃんが言うように、昔の私の幻影つぅやつなのよ、ぺっ、やべ、口に猫の毛が入った、っぺ」

 猫の顔の横から人面が生えている、というシュールな絵面。吐き捨てられる言葉と唾に幻滅させられる自分こそが幻影……、咲楽だと自認していた存在は、思考停止していた。

「あなたの記憶を追体験させてもらったよ」

沫夜が感情を込めずに語りかける。

「あぁ、そう」つまらなそうにつぶやく匀昧咲楽。

「あなたは大人扱いされず物事を徹底的に管理する母親と喧嘩別れをし、むしゃくしゃしていたとき、鬼譲りの白煙、絵門定経と出遭って、鬼を譲られた。あなたは鬼と適合できず、堕鬼状態になり猫鬼となった」

 つらつらと語る沫夜。咲楽だった存在は何も言えない、考えられない。匀昧咲楽は嘲るように笑った表情を固定させている。唇には猫の毛が張り付いたまま。

「猫鬼となったあなたは猫鬼の特性である、自分の運命を操作して任意の時に幸運を受け取ることを繰り返して放蕩三昧の生活を送っていたみたいだけど、心のどこかで空虚な寂しさを抱いてもいた」

「空虚な寂しさ、はっ」

鼻で笑う匀昧咲楽。おかげで口元の猫の毛が剥がれ落ちた。

 隣の猫の顔は、瞳を怪しく光らせ、沫夜だけでなく瑠希亜への警戒も怠らない。

「言ったでしょ? 僕はあなたの記憶を追体験した、あなたの時々の心情も読み取ることができたんだ、いくらいまのあなたが嘲笑おうとも、そのときの気持ちは確かに寂しさだった……でもそんなあるとき、お父さんからの電話があって、お母さんが危篤状態だと知った、病院までは行けたけどそこから先に足を進ませることはできず、結局、お母さんは還らぬ人となった。あなたはその後、溢れんばかりの幸運に溺れて、もう一生埋められないと思った空虚から目を背けて生きてきた……そうこうしているうちにあなたは歳を取ってしまった」咲楽だと思っていた存在へ視線を向ける沫夜。「そして、猫鬼のもう一つの特性である死者の念を嗅ぎ分ける能力とそれを蘇生させるために運命を使って、昔の、あなたという幻影を作り出した」

「それが、私?」

 咲楽だと自認していた存在が、呆然としてつぶやく。

「在りし日の自分を、死んだ自分として固定させて使役していたんだ、さっきのゾンビの群れみたいにして」

「どうして、そんなことを?」

「男をひっかけて、殺すための餌としてだよ」匀昧咲楽はなおも吐き捨てる。「あんたも私ならわかるだろう? 男を骨の髄まで味わう快楽、文字通りね……その非日常感の得も言われぬあの快楽、なぁ? わかるだろう?」

 おぞましいものを見る眼で、咲楽だった存在は、いまの自分を見る。同時に、わかってしまう自分を自分でおぞましいものだと認識する。

「あ、でも、これも匀昧咲楽なんだ……」

 咲楽だったものは、ぽつりとつぶやく。

「そうだよ、あんたを含めて、私なんだ……それがなんだい、幻影のくせして、自分だけ若くて綺麗なんて許せない」

「は? あんた、何言ってんの、あんたにだって、こういうときを過ごしたんだろう? それを何もしないで怪異だか意味不明なもんに頼って、結局、そんな惨めったらしい姿に落ちぶれやがって」

咲楽だったものが、猫の側面から生える顔だけのいまの匀昧咲楽に怒りをぶつける。

「その惨めったらしい姿が、あんたの成れの果てなんだよ」

 同じ一人が二又に分かれた尻尾のように二人に分離して、言い争いをする。

「あーちょいすんません」飛び交う汚らしい言葉に割って入った瑠希亜。「そちらの用事の前に、こちらの用事を済ませてもいいですかね?」鬼と化した右手の指の関節を鳴らす。

「それで? 結局あんたは、怪異そのものとなって、いまの年老いた自分、すかっすかになった運勢丸ごと怪異に身をやつして、死体とおままごとして、傍らには若くて美しい頃の自分を置いて、現実逃避してたってわけ?」

 瑠希亜の言葉を受けて、喉を鳴らして威嚇する猫鬼。

「噛み殺せ!」

 血走った眼を瑠希亜の方に向ける顔だけ生えた匀昧咲楽だったが、角度的に、見ることはできない。しかし、いまの匀昧咲楽は、怪異である猫鬼と一心同体である。猫の眼が瑠希亜を捉えていれば、咲楽の眼が見ずとも構わないのだ。

 瑠希亜の全身がざわつく。数十メートル離れた場所にいる沫夜と、咲楽だったものにまでその波動が押し寄せ、ピリピリと皮膚を刺激させる。

 青白く瑠希亜の全身を包んでいたオーラが不穏な空気を放ち、瑠希亜の右腕と両足に漲る活力を与える。

 猫鬼は瑠希亜の変化を意に介さず、低く身構えた姿勢から、その巨体に似合わぬ跳躍をして、一気に瑠希亜へと迫った。

「あんた、どっちが自分なのか、はっきりしろ」

 瑠希亜は上空から迫る襲撃に、一言、ぼそりと漏らす。

「全部で私なんだよぉー」

 側面から顔だけ生えた匀昧咲楽の絶叫が、猫の鳴き声と混じり、森林公園全域に轟いた。

「そりゃそうだ」

 ふっと息を漏らす瑠希亜。

 猫鬼、そして匀昧咲楽は、驚愕に目を見開く。

 一瞬の攻防、衝突の刹那。

 瑠希亜の立っているアスファルトの地面に亀裂が入り、全身が沈む。握りこぶしを固めた右手が脈打つところまで、猫鬼と匀昧咲楽は見切った。

 しかし、次の瞬間には、猫鬼の巨大な豹を思わせる肉体は首元から背中にかけて、鋭い刃物で切り取ったように裂かれて宙を舞い、瑠希亜の頭上を通り過ぎたあとで、地面に叩きつけられた。

「な……にが?」

 わけがわからない、自分は確かに見ていたはずなのに、相手の動作を見切ったと思ったはずなのに……匀昧咲楽は、匀昧咲楽だった怪異は、地面に突っ伏す自分の状況に困惑する。自分の頭がごっそりと切り取られていることに気づかぬままに。

「終わりだよ」

 瑠希亜が後ろを振り返る。

「止せ、来るな、来るんじゃねーよ!」

 頭と切り離された胴体が、ジタバタともがくが、しかし立ち上がることができず、無様に前後の足が空を切るだけだった。

「何だよ、これ……、ちくしょー」

 猫鬼の方の顔は、ぴくりとも動かず、もう終焉だということは一目でわかる。

「残念だけど、あんたはもうバッドエンドまっしぐらだよ」

 運を使いすぎたな、と、瑠希亜は宣告を下す。

「くっそ、くっそ、何だったんだ、私の人生は」

 瑠希亜が鬼の右手を振りかぶる。

「待って!」

 瑠希亜は声が聞こえた方を振り返る。

「待って、お願い」

 過去の亡霊、幻影である咲楽が立ち上がるところだった。

「咲楽さん?」

 沫夜も一緒に立ち上がり、声をかける。

「うん……そうだよね、私も匀昧咲楽だもんね……自分のしたことは、自分で責任を取らないと……たとえ、未来の自分のしでかしたことでも……全部で一人の、匀昧咲楽だもん」

 開陳する幻影の匀昧咲楽はしかし、まごう事なき匀昧咲楽その人であり、いまの匀昧咲楽が感傷に浸る過去の確かにいた若さを持ち、現実に影響を及ぼす生身の幻影だ。

 沫夜の返事も待たず、匀昧咲楽は現在地べたでジタバタともがいている匀昧咲楽の成れの果てへと歩を進める。

「そうだ、お前だよ、お前がこいつを殺せ、お前も私の一部、私が死ねばお前ももろとも死んじまうんだ、殺れ」

 地べたからがなる猫鬼。

「私は、自分の運を不当に利用して、その実自分では何もしようとせずに怪異なんて意味不明なものに頼って、将来使うはずだった運を使い果たしてしまった、ちょっと非現実的な経験がしたくて、いまの現実から目をそらして……」園内の森から持ってきた両手で抱え込むくらいの石を持つ咲楽。

「ちょっと、あんた?」またジタバタともがく咲楽。「私! おい、止めろ……ちくしょう、何で消えないんだ。どうして聞き届けられないんだよ、私の願いが」

 若く美しかった頃の自分を現実に定着させるために、一程度以上の運命を分譲したがために、本体である猫鬼になった匀昧咲楽の願いでもすぐには消えてくれないのだろう、沫夜はそれがわかった。

「ううん、殺るよ……一緒に逝こう、もう十分だよ……」消えかかる咲楽。

「止めてくれ……」涙混じりに嘆願する咲楽。

「向こうできっと、ママが待ってるよ、咲楽」

 咲楽が、咲楽へと、石を思い切り叩きつける。

 鈍い音がしたあと、咲楽は怪異ごと絶命した。

「……私の本来の未来って、どんなだったんだろう……ちゃんと高校を卒業して、大学に行って、普通に就職して、運命の男性と出会って、結婚して、子供ができて……それから……」咲楽が涙を零す。幻影の、幻影ではない、心情の吐露。「沫夜ちゃん、瑠希亜さん……」咲楽は振り返り、二人へと向き合う。名前は沫夜と混線したときに知った。名前だけでなく、二人の素性と経歴もまた……。

「お二人が願いを聞き届けられ、目的を果たすことを……祈ってます」

「運命奏者の猫鬼様に祈ってもらえるとはね」

皮肉めいた口調で、瑠希亜が笑う。

「そうか、あのとき、私の記憶を追体験したんだね」沫夜は寂しさを醸して笑う。「天国で、お母さんに会えるといいね」

「うん……謝って、それから、きっちりと話し合いたい」

 半透明、そして霧のようになり、消えていく匀昧咲楽。猫鬼もまた、さらさらと風に流されるように細かい粒子となり、どこかへ消えてなくなっていった。

「運命が枯渇した、って言っても、運命の総量ってあるんだろうか?」瑠希亜が独り言のようにつぶやく。「さも運命なんてものがあるように思わせて、実際は生命エネルギーっていうか、そういう活力みたいなものを奪い取っていたのだとしたら、それこそ運命奏者だよな」

「……どうして、匀昧咲楽さんは、自分の過去の幻影を作り出していたんだろう?」

「うん? それはあれじゃないの、在りし日の自分に現実逃避するのと同時に、殺す人をおびき出すための餌だろう? 現にそう本人が言ってたし」

「うーん、それもあるとは思うけど……なんていうか、咲楽さんの記憶を咲楽さんとして追体験してみると、なんか違うような……そもそもそれだったら、あの年齢じゃなくてもいいわけじゃない?」

「じゃあなんだっての?」

「ひょっとしたら、だけどさ、あの年齢のときに会いたかったのに会いに行けなかったお母さんに、最後自分を会わせて上げたかったんじゃないか、って思うんだ。本当の匀昧咲楽さんはもう年を取ってしまったけど、幻影の過去の自分を作り出して、記憶を部分的に失わせて出会わせることで、いつかを空想の中だけでもやり直したかったのかも」

 自分を母親と思わせ、幻想の自分と出会わせる。その空虚さは果たして、もともとあった空虚さを埋め合わせることができるものだったのだろうか。沫夜もまた、虚しさを抱いた。

「遊びで人を殺していたような人間が?」

瑠希亜はつれない調子で言う。

「うん……、匀昧咲楽さんが言ってたじゃん?」

「あん?」

「人は全部でその人だ、ってね」

 ポケットからキャンディーを取り出すと、それを箒くらいに大きくして、魔女よろしく跨りふわりと飛び立った。

「っておい、また置いてけぼりかよ?」

 そう言って走り追いかける瑠希亜の右手と両足は、もとの人間のものに戻っていた。

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