第47話
「そう、先輩があたしを優しくぎゅってしてくれたら、鬼代わってあげます」
寒空の中、しばし僕らは黙って向き合っていた。女子生徒の笑い声や体育館でバスケ部が練習する音が、かすかに絶え間なく聞こえてくる。
こんな状況で木下を?誰かに見られたら?
バトンを握りしめたまま、思考が追い付かず動けない。
「どうなんです?ハグ、してくれます?」
「えっと、それは・・・」
木下がゆっくりと立ち上がり、僕をじっと見据えたまま近づいてくる。
照れたような、拗ねたような、女の子独特の表情をした木下の顔がどんどん迫ってくる。
どうしよう、口からなんか出てきそう。
「なーんてね!」
ほんの二十センチ先にあった顔が、シャンプーの香りだけを残して大きく一歩離れた。さっきまで僕の心をかき乱したあの表情が嘘のように、いつものいたずらっ子に戻ってしてやったりと言わんばかりに笑っていた。
「初心でピュアな先輩にそんなレベルの高いこと言いませんよ~」
「ちょ、ピュアって・・・」
「そういえば」
「ん?」
僕の言葉を遮るように木下が言った。
「そういえば先輩、彼女できたんですね!」
「彼女?いつ?」
「こないだ彼女から応援のメール来たって、大会の時」
「あれは・・・」
「大事にしてあげなきゃダメですよ?じゃっ!」
早口にそれだけ言うと、べぇっと舌を出して脱兎のごとく走り去ってしまった。またしてもバトンを持ったまま突っ立って、木下を見送るしかできなかった。
その日は結局ずっと鬼から抜け出せずに練習を終え、胸のどこかにもやもやしたものも居座り続けた。
週末。
松木駅の改札前ではるかさんを待っていた。正直、少し寝不足気味だ。
お昼を十二時ではなく少し後ろにずらして食べる計画で十時に待ち合わせをした。昨日はいつもより入念に髪を洗って歯も磨いて早めに布団に入ったのに頭の中が騒がしくて寝付けずに、用心して早めにセットした目覚ましに叩き起こされた。家にいるのも落ち着かなくて一本早い電車で来てみたけれど、はるかさんとのデートが現実味を帯びて押し寄せてきてますます落ち着かない。
そして待つこと一時間。
遅々として進まないケータイの時計と睨めっこしながら、ひたすらアプリを開いては閉じ、開いては閉じて時間を潰した。
「はるか」からメッセージが届いています
ケータイが震え、画面の上に通知が現れる。名前を見て、心臓が跳ね上がる。
はるか:隣の駅まで来たよ!同じ電車だと思ったんだけど、晴人くんどこにいる?もしかしてもう着いてる?
見栄を張ってしまった。正直に言おうかとも思ったけど、やっぱここはカッコつけさせて。シューズ見たいのは本当だから、自分にそんな言い訳をしてみたけどそんなことより、もうすぐはるかさんがここに来る。僕の隣に。
ざわざわと人の波がホームのある階段を通って押し寄せてきた。皆足早に自分の目的地に向かって改札を抜けていく。その中に、僕の目を釘付けにする人が一人。はるかさんはこちらをまだ見つけられずに、きょろきょろしながらゆっくり進んでくる。薄いベージュのダッフルコートにワインレッドというのか落ち着いた赤のチェックのスカート、靴は短めのブーツを履いている。なんだあの人、むちゃくちゃドストライク、僕的に。マフラーはしてないみたいだ。もしかしてタートルネックとか。やばいな。
「
「は、はるかさん!」
「こっち見てたから気づいてるんだと思って手振ったのに」
「いや、すみません、その」
「頑張った甲斐があったかしら?」
そう言って不機嫌そうな顔が幸せそうな笑顔に変わる。
それはつまり、そういうこと?
戻ってこい、僕の語彙力。
まだ待ち合わせ場所で合流しただけなのにもうどうにかなりそうだ。
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